天気晴朗ナレドモ浪高シ


http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200904060078.html


北の体制が国際的に非難されているのは、国益第一で他国の国民の命を顧慮しないから。なので「ほら人工衛星が打ちあがったではないか」は違うと私は思うが、しかし、北朝鮮国益第一で他国の国民の命を顧慮しないことは、自国の国民を抑圧していることと同一の様相としてある。


たとえばダルフールに鑑みて「国益第一で他国の国民の命を顧慮しない」のはアメリカも日本も同様ではないか、とは言いうる。NPT以前に、主体思想において国民主権を事実上批准していないのが北朝鮮で、だから自国民が多少飢えても困らない体制が、自国民が死ぬと困る国家の国益を損ねてどこ吹く風なのは、当然のことだろう。国益観の相違に由来して。もちろん、それでは済まないから国連があって、北朝鮮は非難されている。


だから「国益」という発想を脱構築しないことには北の体制に対する原理的批判は難しい。finalventさんの言葉を借りれば、それは民衆に視座を置くことなのだから。「国益」において、民衆の生活と、そのethnicityを抑圧している国家主義の問題として、北の体制批判は、ひいては総連批判は、為されるべきであって、「北の体制を批判しない在日は云々」という物言いは、国家主義の問題を、ひいては自由の何であるかを、理解していない。


http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/20090406/p1


今でも覚えているが、イラク戦争開戦秒読みの時点で、毎日新聞バグダッド特派員が自紙の「記者の目」で署名記事を書いていた。開戦批判を説くその結部で記者はこう述べていた。あるバグダッド市民が自宅でそっと、しかし懇願するように私(=記者)に訴えた。フセインの圧政から解放されるにはこれしかないんだ、と。しかし私は彼に言いたい、どのような理由であれ戦争を望むことは間違っている、体制打破は自分たちの手で行うべきだ。その結語は署名記事のタイトルになっていた。『体制打破は自分たちの手で』。


記者は、彼にそう訴えたバグダッド市民に対して直接同じことを言ったのだろうか。「酷と思って」その場では言わなかったか、あるいは日本の読者に対するアピールだったか。私はそのとき、開戦の是非と別に、その署名記事を論外と思ったし、今も思っている。『体制打破は自分たちの手で』――その言葉を、今度は北朝鮮絡みで聞くことになるとは思わなかったし、つまり論外な言説とはイデオロギーの問題ではない。記者は開戦までにバグダッドを去っただろう。


苛酷な警察国家に対して民衆が――死の危険と自身の暮らす街が戦場となることを承知してなお米軍の先制攻撃を望むほどに――自由を希求して悲鳴を上げているとき「体制打破は自分たちの手で」と安全な場所からのたまうことに、何の意味があるだろうか。もちろん、日本はかつてミリタリズムに基づく総動員体制をアメリカ様に打破してもらったし、同じことをネオコンイラクに対してトライアルして、現在に至る。戦争反対はまことに結構、ましてそれが大義なき戦争なら。その正義のために、何でも言えばいいというものではない。


合衆国が、あるいはイスラエルが、今でも動員とその機動力において最強なのは、国家に対する自発性を国民においてよく涵養しているから。パトリオティズムに基づくヨコの紐帯が、国家に対するタテの忠誠として機能するべく、動員体制として見事に整除されている。


イスラエルにおけるシオニズムとは、そして合衆国における大統領の存在とは、パトリオティズムに基づくヨコの紐帯を国家に対するタテの忠誠として機能させるための装置であって、だからブッシュを経て混迷の中にある合衆国は褐色の肌のオバマを必要とした。国家に対するタテの忠誠を、パトリオティズムの中で再生させるために。


それは、国益と民衆の利益を国家において一致させている、という幻影において成立するので、幻影の映写装置は迫害の歴史とホロコーストに基づくユダヤ性というネガのそのポジを、あるいは移民国家において「we」を改めて可能にする国民統合の属人的象徴としての褐色の肌を持つ大統領という役者を、必要とする。


それを国家幻想と言い、オバマにおいては典型的にボナパルティズムなのだが、中国もロシアも、近代国家の完成を目指して前に習えして、パトリオティズムに基づくヨコの紐帯を涵養し、国家に対するタテの忠誠として磐石に機能させるべく、強固な動員体制を築き上げんと日夜試行錯誤している。民衆の死体を現在進行形で積み上げつつも。


動員は一朝一夕では成らない。そして動員の第一の要諦は、国民を適度に食わせて満足を与えること(あくまで「適度」であること)であって、近代国家は責務として国民を食わせているのではなく動員のために食わせているし、食わせると同時に徴兵している。


近代国家は戦争のためにあるので、明治維新だって帝国主義時代に黒船と戦争するために成ったのであって、現に日清日露の戦争を経て、帝国主義の覇権をめぐって戦争のためにある近代国家の動員体制は昭和の日本においてミリタリズムとして完成され、そして近代市民社会は失われて昭和20年の総決算へと至った。司馬遼太郎が、あるいは丸山眞男山田風太郎が、何を生涯問い続けたか、ということです。


そして、だからこそ自由主義としてのリベラリズムは、国家を公共財と見なして、国家主義的な動員を否定する。近代日本のたどった道筋に対して「国家」を民衆の手へと取り戻すべく。それはスターリニズムではないし、国家の縮小を掲げる「ネオリベ」と「大きい国家」のままにそれを民衆の手へと取り戻さんとするリベラリズムは違う。現在進行形で問われているのは「国家」が必然的に国家主義を要請して、正義や倫理と結託する、という認識をめぐって。


新装版 戦中派不戦日記 (講談社文庫)

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で、適度どころか完全に飢えさせていることをわかっているから、バカではないだろう北の体制は、インターネット含めて外部の情報を遮断して、イデオロギーで国民を縛り付けている。もちろん、イデオロギーで飯は食えないし外部の情報は遮断しきれるものではないので、後継問題を控えて体制は民衆蜂起に戦々恐々ということになって、いっそう飢えさせてイデオロギー的な抑圧を強めるということになる。そして蜂起されて困ることでは関係国の利害は一致している、


ということで北朝鮮は、動員体制としての近代国家として非難されて致し方ない完全な失敗国家なので――そしてその失敗を「動員体制としての近代国家を克服した」民衆のためにある「成功国家」と見なして礼賛したのがかつての日本の一部左派であったので(スターリンとか日共とかその辺の背景は略)――失敗国家におけるザルな動員の証明としてある現在の「在日」を、批判するその視座は、動員体制としての近代国家を留保なく肯定しているのか、ということになる。


動員体制としての近代国家からこぼれ落ちた存在として「在日」があり、こぼれ落ちたがゆえに彼らの基本的人権は遺棄されているにもかかわらず。つまり典型的に「壁と卵」の問題であるにもかかわらず。民衆に対する視座がないことだけはわかる。


九条教が跋扈する日本国だって、小林よしのりが散々憂えた程度には、アメリカやイスラエルはおろか中露にも到底及ばない動員のザルな失敗した近代国家なので、北朝鮮がけしからんように、まっかくけしからんことです――ではなくて、そのことは、慶賀すべきではないか。それが、国民を飢えさせ抑圧することによってしか成立しない北朝鮮の国家的失敗とは相違して、市民社会の成熟と、それゆえの、動員体制としての近代国家の失敗ということだから。


もちろん、近代国家の動員体制を拒否したとき、市民は銃を取ることをあらゆる意味でアウトソーシングしてはならない。そして、たとえば社民党が言っているのは「アウトソーシングしてはならない」ということであって、彼らの反軍主義とはそういうことであるはず(穢れを祓っているように見えるときがあることを否定しない)。「アウトソーシングしてはならない」と「市民よ銃を取れ」はそのままイコールではない。そしてもちろん実際には、アウトソーシングなくして成り立たないのが現代の戦争で、そこに一切の捩れがあるので、その点でイスラエルは首尾一貫しているし、志願兵制度がアウトソーシングの意味であってはならないし、そうではない。


テポドンを憂えることと同程度には、九条に基づく、戦争のための動員体制としての日本国家の失敗を小林よしのりのように憂えるべきだし、安保に基づく、米国の戦争のための動員体制に日本国が組み込まれることを宮台真司小沢一郎のように憂えるべきだし、もちろんそれはアメリカ様にキンタマ抜かれたからであって――しかしながら、国家における戦争のための動員の失敗を憂えることは、テポドンを憂えることと同程度に、杞憂の類と私は思っている。つまり、杞憂であればよいという意を込めて。


新装版 坂の上の雲 (1) (文春文庫)

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