無徴と民族性


「個人に依拠する」ということ - モジモジ君のブログ。みたいな。


一連の議論を拝見していて、mojimojiさんが言っておられることと、かつて福田恒存が言っていたことと、どう違うのだろうと考えていた。保守は近代主義個人主義で、近代の問題としてあった民族「主義」に対して批判的だった。どう違うかというと、保守は存在論的に「個人」を規定しはしない。


たとえば実存主義においては、個人はそれを取り巻く関係性を「括弧に入れて」規定される。サルトルが括弧に入れたもの、あるいは切り捨てたものについて、たとえば福田恒存は批判した。実存がありうるとして、実存と関係性は切り離せない、と。「その人」を取り巻く関係性が、その実存を囲い込む。囲い込みを切り捨てるためにこそ、実存という概念をサルトルは掲げた。切り捨てるための概念であって、その切断には意義があった。


問題は、切断の理由と意味に気が付かないままその概念を掲げることで、それを本末転倒と言う。動員の時代において、関係性から切断された主体性として人間の所以を定義するためにサルトルが「自由の刑」としての実存を掲げたのは、大戦を経て危機に瀕していた人間性を擁護するためだった。そして、レヴィ=ストロースが言ったように、自由の刑とはヘーゲル的な弁証法の産物であり、西欧中心主義の発想であり、傲慢でもあった。政治的な動員を否定するために、マイノリティの「民族主義」を批判することには、私は賛成できない。


存在論的には、民族性は実存の問題として変奏される。関係性を切断して民族性がありえないこと、そして関係性を切断して問われる民族性がグロテスクなものであることは、周知の事柄と考えていた。関係性を切断して大文字の「民族性」を問うから、マイノリティが「主義」としての動員に誘引される。そのわかりきった順序を承知のうえで民族性を実存の問題として変奏するのは、「民族性」を介して関係性を求めることそれ自体を動員と、あるいは動員の入り口と、mojimojiさんが考えておられるからではないか。


もちろん、ヒトラーが見せた夢は、そしてハイデガーが乗った魅惑的なその夢は、「民族性」を通して人々が関係し、繋がることでした。Mein Führerを求めたその夢は、その魅惑性ゆえに、「民族性」において人々が一体となることを要請した。そのことに気が付いてハイデガーが降りたときはとっくに遅かった。


「主義」は民族性を担保するための関係性の、人工的な紐帯としてある。だから「民族主義」は近代の問題としてある。そのことに対して、ヘーゲル的に歴史段階を云々し原理的地平を説くことは近代主義の模範解答でしょうが――その模範解答に中指立てることが、民族のプライドというものではないか、と極東の黄色い猿は思う。中指立ててジンバブエは避けたい。しかし、ジンバブエの惨状を、ルワンダでの虐殺を、あるいは旧ユーゴで繰り広げられた悲劇を、民族のプライドという美名を建前に利害と憎悪を本音としたその動員について、誘蛾灯に集う蛾のようだ、とサルトルポストモダニズムゼロ年代の想像力も通過した賢明なる近代市民が笑うことは簡単であるけれど。


さよなら妖精 (創元推理文庫)

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デスティニー・ディーコンというオーストラリアの先住民出身のアーティストがいる。


東京都写真美術館


2006年に東京都写真美術館で個展が開催されて私は足を運んだ。滅法面白かったので図録も購入したのだけど――皆さんもああいうものは丁寧に保管するように。再入手も難しい。

(前略)ディーコンの創作活動は、テレビ、新聞、インターネット、DVD、ビデオ、書籍など、日常的なメディアを通じて展開されています。彼女は、 「クーリ・キッチュ」(クーリ族のキッチュ)と呼ばれるキッチンクロス、人形、その他の観光土産品など、 先住民に対する白豪主義的な見方が表れた消費者市場向け商品をモチーフとしています。対象に隠されている歴史や現実の歪みを、拡大・縮小したり、静と動を配することで、 一般的な見方を破壊し、部分から全体への考察を促しているのです。ディーコンの作品は、人間のアイデンティティに対する解釈に内在する、哀感、ユーモア、悲劇を表しています。 視覚的にアピールし魅了するのはもちろんですが、一方で、オーストラリアの都市部で生活する先住民が直面する社会的問題という、深刻な側面を浮き彫りにしているのです。


その行方不明になった図録に掲載されていたインタビューで、ディーコンはこう述べている。私(彼女は「私たち」とは決して言わない)にとって、先住民であることの文化的な徴は最初から失われていた。ありとあらゆるキッチュな西欧の文化が氾濫する環境で私は「ポップに」育った。それは慶賀すべきことだったか、いいえ。長じて、「先住民」の文化的なアイデンティティを白人に対して売り物にする大量生産のキッチュな日用品や観光土産品や子供向けの人形に、私は憐れみに似たどうしようもない愛着を覚えるようになった。――私の、最初からデリート&リロードされて失われた「先住民」というアイデンティティを、その贋物性や、キッチュさを含めて、標しているようで。まるで墓標のように。


だから私は、その「先住民性」を文化的な差異として市場に流通させる記号としてのキッチュな大量生産品を、私自身のアイデンティティとしての「先住民性」の徴として、改めて愛し、息を吹き込み蘇らせてやる。「先住民性」の商業化された死体を、醜く滑稽でキッチュなままに、私自身の「先住民性」というアイデンティティの徴として、蘇生させる。――むろん、皮肉な話をジョーク交じりに述べている。その表現同様に。そしてその表現同様に、彼女は大真面目に話している。


西欧的な教育を受け、アーティストとしての活動を始める以前はアクティヴィストとして先住民問題に関わってきたディーコンは、「先住民性」などという内実が求むべくもないことを知っている。都市生活においてそのようなものを担保しうる紐帯としての関係性が求むべくもないことを、そしてそもそもそれが最初から彼女において失われていた以上、求めようにも何であるか知らないことについても。「先住民性」を文化的な差異として市場に流通させる記号としてのキッチュな大量生産品を――そのキッチュさゆえに――贋物のままに愛してやることによってしか、それが叶わないことも。


そして、彼女の自称する「愛」が狙い定める対象は、オーストラリアのマジョリティとしての白人の、「先住民性」を文化的な差異として消費して恥じないその無自覚と「非政治的」な消費者根性です。「お前たち」が「私たち」の「先住民性」をズタズタに破壊した、とは彼女は決して言わない。1957年に生まれメルボルンで育った――つまりあらゆる文化的な差異を市場に流通させてキッチュに消費して誰も恥じない都市消費社会に慣れ親しんできた――自らがそれを言うべくもないことを知っているから。


ただ、彼女が「まるで自分のような」キッチュな大量生産品としての子供向けの人形をモチーフにした映像作品によって暴き出しているのは、「先住民性」を文化的な差異として市場に流通させて消費することが塗り潰す歴史と政治と、そのことに気が付かない、都市消費文化に隠れたマジョリティの無自覚です。


そして、市場に流通するキッチュな大量生産品に過ぎない、「先住民」のイメージを搾取同然に表象した子供向けの人形に、憐れみに似たどうしようもない愛着を覚えてしまった自分自身について、「先住民出身」の彼女は、そのような複雑な感情と無縁の、褐色に過ぎる肌の色をした幼子の人形を平気で自分の子供に買い与えるマジョリティに対して、自身の感情とその在処について、歴史と政治を参照して、強烈なアイロニーと共に、主張している。


それを、その感情を――「痛み」と言う。市場に流通する大量生産品としての褐色に過ぎる肌の色をした幼子の人形の、そのキッチュさに、醜さと滑稽さに、憐れみに似たどうしようもない愛着を覚えてしまう自身の「痛み」を知り、伝えるために、彼女は学び、歴史と政治を参照する。「痛み」が、歴史に依拠した政治へと吸引されるのではない。そのことに疑問を覚えたから、アクティヴィストだった彼女は、映像等を用いた個人的な表現活動へと舵を切った。もちろん、彼女は一貫してアクティヴィストであって、政治を切り捨てたのではない。


グローバルな消費社会における「民族性」の痛みとは、市場に流通する大量生産品としての褐色に過ぎる肌の色をした幼子の人形に、そのキッチュさに、憐れみに似たどうしようもない愛着を覚えることであって、その人形を自分の子供に買い与える――肌の色を問わない――マジョリティのその無自覚に、どうしようもない憤りを覚えることです。


それを「自己憐憫」と言ってしまうことは、ブラインドにも程があり、最大限穏当に言って、繊細さに欠けすぎている。もっとも、アイヌ問題をめぐるネットの反応を目にして頭痛がするのは今にはじまったことではない。ナコルルに尽きることだけはわかった。


そして――そのような「痛み」として主張される「民族性」に対して、「民族性」なる概念の贋物性について指摘することは、意味がない。「主義」としての民族はその内実において疑わしいが個人において実存は尊重されるべき、などという正論を披露することも。mojimojiさんに対して私が言っているのは、民族性と民族主義は区別し難い、この世界はそのような状況にある、ということです。



一切の差異を記号として消費する都市生活にあって「民族性」それ自体がキッチュとしてしかありえないからこそ、民族性はその内実として関係性を要請します。民族性という概念の容器は、関係性に即した内容物によって満たさない限り、市場にあふれる空虚な人形でしかない。そしてそれさえも困難なのが、現代の都市生活です。民族性の徴として関係性を求めることを規範の強制として棄却し、民族性それ自体を近代のキッチュとして棄却し、しかし個人において実存は尊重されるべき、とのたまうのは、結局は「個人」においてその人のアイデンティティを抹殺して初期化する暴力に等しい。


文化とは、歴史と政治に規定される概念です。文化と歴史と政治のトライアングルが「民族性」というアイデンティティと深く結びついた差異の概念を構成する。歴史と政治からその固有性において切り離されたとき、文化という差異は記号として流通し消費される。カルチュラル・スタディーズという学問が存在するくらいです。だから、文化と歴史と政治のトライアングルとしての固有性が、「民族性」として規定される。そのことに対して、問題は差異とその強調ではない、「個人に依拠する」=「「私が在る」に依拠する」ことだ、というのは、ズレているか、あるいはちゃぶ台をひっくり返している。


差異が常に記号として流通し消費され、差異の強調が『嫌韓流』に登場する「在日」のようなキッチュとしてしかありえないことが、その暴力が、「「私が在る」に依拠して」問われている。暴力とは、文化と歴史と政治のトライアングルが切り離された挙句否定されることです。文化と歴史と政治のトライアングルにおいて「民族」を規定することが、そもそも近代の宿痾である――その通りです。福田恒存もそう言いました。が、「「私が在る」に依拠する」ことにおいて、民族性の徴として関係性を求めることを切り捨てるなら、それは、暴力的と言わないにせよ、残酷です。


デスティニー・ディーコンは、映像の制作に際して、被写体の意向を常に最優先する、私が神様であっては意味がないのだから、と言いました。「個人に依拠する」=「「私が在る」に依拠する」とは、そういうことです。つまり、関係性を切り捨てないことです。mojimojiさんは、神様のようなことを言っている。私たちは神様でありえないからこそ、文化が歴史が政治があるのだから。そのトライアングルにおいて「民族」を規定することには、当然異議があって然るべきだし、事実散々提出されている。しかしそれは、弁証法が措定するFAではない。


私たちは帰らなければならない、しかしどこへ?――それが、近代における民族性の問題です。帰る場所を間違えた結果引き起こされた殺戮の犠牲者で20世紀の目録は埋め尽くされています。そして、正しい、帰るべき場所など、ない。だから、私たちはそもそも帰ることを諦めるべき、と言いうるのは――そしてmojimojiさんは事実上そう言っているのですが――ヘーゲリアンです。そしてヘーゲルを克服しようとしたのがハイデガーであって、それは20世紀はじめのことで、つまり振り出しに戻る。民族性がただ存在の問題なら、それはまったく民族主義を克服しない。だから福田恒存は、ひいては保守は、無力だった。そして新しい歴史教科書が配布された。


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ところで、私も先日『わが谷は緑なりき』を10年振りに観直して盛大に涙ぐんでトシを取ったことを実感していたので、それに絡めて他にも書きたいことはあるけど、ひとまず。