だいたいで、いいじゃない。


胎児はいつからニンゲンとなるのか? - 地下生活者の手遊び

2009-04-03


吉本隆明大塚英志の対談集に『だいたいで、いいじゃない。』というのがある。


だいたいで、いいじゃない。 (文春文庫)

だいたいで、いいじゃない。 (文春文庫)


だいたいで、いいじゃない。」とは現在生きている人間を見なさい、ということで、生きている人間の原器は「だいたい」なのだから、と。人間存在とはルーズなもので、そのルーズが生きるということなのだから、未知生焉知死でなく今そこにある人間のルーズな生を見て、生きなさい――というのが吉本隆明の説いた「大衆の原像」の意味だった。それは、単なる日共批判でも前衛批判でも知識人批判でもない。


何の話かというと――私たちの生は無数の恣意的な決定によって現在ある。その理由を愛とそのリレーとして見ることもできるが(「中絶を考えたけど思いとどまって貴方を生んだのよ」ネタが本邦のフィクションには多すぎる)、大事なことはそれを摂理と見なさず、決定の恣意がルーズで「だいたい」であることが、私たちの生の本質としてあるということ。それは、現在生きている人間を見ればわかること。


それが、吉本思想の、ひとつの要諦だった。決定の恣意を排除する真理や摂理の追究をこそ、吉本氏は人間のルーズな生に対する否定と見なし、強く批判した。吉本氏の徹底したスターリニズム批判は、その場所から発している。


私が言う倫理は俺定義に過ぎると、先日uumin3さんに指摘された。考えるに、私にとって脳死・臓器移植の問題は大きい。端的に言って、日本では、脳死はその家族にとって死ではない。つまり共同体の意向の問題で、だから本人の意志表明が脳死判定に伴う臓器移植に際して必須となった。ドナーカードには、その意味があった。「私個人については」脳死どころか植物状態で死である、ここに宣言しておく、とかつて養老先生が書いていた。家族の負担になる気はない、と。


共同体が脳死者の生死を決定する社会において、「個人」とは共同体に対して自身の死を自身が前もって決定することで、だから日本においては、倫理とは共同体に対する個人の問題として問われる。別の言い方をするなら、倫理問題としてしか個人の生死を決定することができないのが、この日本社会である。


養老氏は当時、そのことをずっと言っていた。個人の生死をめぐる原理的決定が、日本社会において、いやそもそもあらゆる社会において、それが社会である限り、可能だろうか? たとえば医師が、誰にも留保されない場所で使命感からその裁量を行使し責任を負うことによってまがりなりにも決定されてきたのが、この国の生命倫理ではなかったか、と。


養老氏にとって、共同体が生死を決定する機構として社会はあった。そのことを養老氏は肯定した。だからこそ、共同体に対する個人の倫理を、死生観に即して論じ、同時に肯定した。決定の恣意性は、共同体が生死を決定することと、同じこととしてあった。「だから」日本では中絶をめぐる議論が欧米のようには盛り上がらない。それで結構と私は思う。いや、思ってきた、と言うべきか。


信徒でない私の理解では、カトリックとは許す宗教です。許しすぎる、とルターは切れました。許す対象は、人間の不完全であり、それを指して罪とカトリックは呼んできた。そして、人間のいかんともしがたいルーズさを許してきた教会は、ヨーロッパ、というかバチカンのお膝元においては生死を決定する共同体の機構そのものだった。だから――そこに主義としての原理主義を見ることは難しい。罪を許すこととは、便宜であり、融通です。


便宜と融通のゆえに、科学の台頭と平行してバチカンにおいて原理的決定の色彩が濃くなっていったことは、その通りです。ただしそれは必ずしもバチカンの問題ではない。科学の台頭とは、人間主義の変容とイコールであり、時に人間の尊厳の剥奪とイコールでした。科学哲学の変奏として、生命倫理はあります。ルーズさを、人間存在のいかんともしがたい本質として、神の名において許してしまうからこそ、発展性がないと、弱者の道徳であると、ニーチェはおかんむりだったし、ヒトラーは唾棄しました。ニーチェヒトラーをいっしょくたにしているのではない。


罪を許すためにある教会が、人間の罪に対して神の名のもとに上意下達めいた原理的決定を発揮していると見るなら、それは違います。共産党とローマカトリックは機構において似ている、とうまいことを言ったのは林達夫ですが、それはあまりに党員の発想であって、人間のルーズさを許すためにある共同体的機構と、人間のルーズさを克服すべき対象と見なして綱領を布告する機構は、違う。ルーズさを愚かしさと言い換える発想に対して、吉本隆明は「大衆の原像」を持ち出しました。


生死を決定する共同体の機構そのものとしての教会が19世紀以降の科学主義的な社会観(そこにはナチスも含まれます)の台頭にさらされた結果として原理的決定の色彩を濃くしていったことは、必ずしもローマカトリックの問題ではなく、生死を決定する機構としての共同体の瓦解と連関している。グローバリズム云々とコラボで、そのことを世界の選択と考えるとしても、共同体的に決定されない生死が導く生命倫理は、クローン人間を否定できない。


しかし私たちは、クローン人間の、あるいは代理出産で誕生した子の、その幸福とその困難について考える、そして幸福を願う。それは、共同体的発想です。そして素晴らしいことです。そのとき、共同体に対する倫理が、個人の個人としての幸福のために問い直される。恣意的な決定が、愛とそのリレーに由来するがゆえに。そして大事なことは、両者が連関するものとしてあり、両者は両立することです。――原理主義を排するなら。


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コッポラの『ゴッドファーザーPart3』はバチカンの陰謀ネタですがそれはどうでもいいとして、面白いのは、年老いたマイケル・コルレオーネがひたすらに許されたがること。許しを欲すること。彼はかつて妹の夫を殺し、実の兄を殺した。そのことを告白して、心ある枢機卿に許され、あるいは告白せずともそのことを知る、妹に許され、かつての妻に許される。彼は自覚していないが、傍からは許されたくて仕方がないように見える。


そして、もちろん彼が許されることはないし彼もそのことはわかっていたというオチが最後に付くのだけど、手を散々血で染めてきた文字通りの人殺しだってその罪を神は許す。中絶が認められないのは、人は許されるために生まれてくるので、生まれてこなければ許されることさえないからです。だから、カトリックの教義から「胎児の権利」という概念を導き出すことは、難しいでしょう。どんな人であれ、あの偉い発明家も凶悪な犯罪者も、人は生まれてくるために生まれてくる――神の子として――それは「胎児の権利」という概念と必ずしも整合するものではありません。


神は、ヒトラーだって許す。そのことを真っ平御免とヒトラーは――あるいはレーニンスターリンは――退けて、人間の人間による人間のための社会を構想し設計し実現しました。それが、科学的な社会観の台頭と共にある啓蒙的な社会の、現在も続くアポリアです。それは、tikani_nemuru_Mさんの問題関心でもあるだろうし、ナチの人種主義と偽科学については周知されています。


権利とは、罪を許されることではありません。近代的に考えて当然のことです。それは結構なのですが、許される罪という発想がないから、つまり神は死んだから、理性的な合理主義者による人類史上最悪の殺戮を経て、妊婦の権利と胎児の権利が、衝突しています。自己責任が言祝がれ、私たちは他者を容易く断罪します。啓蒙思想とは、人間のいかんともしがたいルーズさを、ひいては共同体における便宜と融通を、つまりマイケルの罪を許す彼の妹と元妻と枢機卿を、蒙昧ゆえの暗黒として排斥する発想でもあったから。もちろん、この罪とは法的な概念ではない。「寛容」とは、何であったか。


最後の親鸞 (ちくま学芸文庫)

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