知的誠実という真理はない、そして、リベラルというドグマについて


否定神学と左翼 - 地を這う難破船


id:CrowClawさん、お返事ありがとうございます。引越しされるとのことで、新生活がgoodなものであることを。放置していたのではなく、まとまった時間が取れたらお返事したく思って、結局新年度になりました。忙しい最中でも書けるエントリというのはあって、余所見と言えば余所見ですが、そちらをアップしていたのでした。申し訳ありません。


またしても順不同の引用になってしまいますが。以下、特に断りなき場合、CrowClawさんのコメントからの引用。

今回の応答で、sk-44さんははっきりと「否定神学の立場から基本的人権の自明を掲げる議論を批判するなら、それは簡単でしょう。安易の極みです」と書かれていますが、これは勿論(地下に眠るMさんも言われてますが)レトリックな訳ですよね。修辞としては確かに「的確」だとは思いましたが、正確ではないと思います。


ブレヒトのもう半分としての真善美への志向と人類社会の再構築の意識がMidasさんの他者批判にはない」と書かれていますが、Midasさんは自分を美学者だと自称しているし(http://b.hatena.ne.jp/Midas/20081119#bookmark-10890782)、同じコメントから引用するなら「物事が本当に変わったのだと社会に示したければ不可能を可能にし何が善かを定義し直す必要がある」と書いています。私はそれが彼の行動スタンスだと認識しているのですが、sk-44さんはそれに対して「右翼テロが肉体を賭けることの意味は、社会の約束事を「言葉で」解体する「言論」が無力で「話にならない」から成立します」と考えられているんでしょうか。以前コメントした私の尊敬している人は全く同じことをおっしゃっていましたが、その人の政治的立場がどんなものだったかはご存知ですよね。


Midasさんについては――3月16日付エントリに付されたコメントを拝見して、些か印象が変わりました。あぁ、単純に「エセインテリ」を唾棄する人なのだな、と。たとえば、私は叶美香中森明菜も掛け値なしに素晴らしいと思っているので、それは全然私自身や私の言説に対する痛痒にならない。要するに「インテリ」とか「エセインテリ」とか、ソ連が崩壊して20年、「はてなサヨク」含めて誰も問題にしていない。叶美香中森明菜の言うことがエスタブリッシュな言論と等価である社会、それはグローバルにw現代の自明であって、150年前にフローベールが絵解きして見せた、近代以降の世界における「凡庸化」ということでしょう。


1974年、佐藤栄作が「日本人で初めて」ノーベル平和賞を受賞したときのことです。左翼インテリであるところの平和運動家諸氏はこのニュースに対してまことに批判の歯切れが悪かった。彼らの批判はノーベル平和賞を授与されてえびす顔の佐藤栄作に対してなんら痛痒を与えなかった。


そのとき、芸能記者からマイクを向けられこの件についてのコメントを求められて、「青い性」路線で人気爆発した当時15歳の山口百恵は笑顔で言った。素晴らしいことと思います、私も昨年レコード大賞新人賞を頂いたときとても嬉しかったですし。――佐藤栄作にとってこれほど痛烈な批判はあったろうか、山口百恵おそるべし、と言ったのは呉智英で、彼がこの話を紹介したのは四半世紀前です。


その呉智英が「はてなサヨク」において概ね評判が悪いことは私にとって残念至極ですが、しかしゆえなきことではない。日本において前衛が薩長的なエスタブリッシュメントの産物であること、その点で彼らが目の敵とするところの佐藤栄作の合わせ鏡であり歴史を前進させるための補完装置でしかないこと(あたかも『華麗なる一族』における万俵鉄平のように)、しかし、だからこそ私たちは知的に誠実であらねばならない――そう呉智英は指摘し主張してきました。そして、その結果がこれだよ、という光景を私は最近も目にしました。


http://hisamatomoki.blog112.fc2.com/blog-entry-446.html


知的誠実という真理はありません。知的誠実とは「真理」に対する態度の問題なので、真理を阻害するイデオロギーに対抗する旗幟として知的誠実があるのではない。イデオロギーに対して知的誠実の旗幟を立てる、それは、かつて呉智英の掲げた旗でした。真に知的な態度とは何か――と。インテリゲンチャの機能不全(万俵鉄平は留学経験を有する工学技術者でした)、言い換えるなら社会における前衛の不可能を前提としてその言論活動は展開されました――知的誠実の旗と共に。


久間知毅さんのスタンスから実践を一切排除すると、以下になります。tari-Gさんと、tari-Gさんが擁護している人のことですが。知的誠実という旗を立てるためだけに言明される知的誠実。言行不一致と指摘するまでもない。


知的誠実を他者に要求するtari-Gクンへ(追記アリ - 地下生活者の手遊び


前衛が駄目。それは自明です。言い換えるなら、道徳と一致する政治の不可能は。それがスターリン・マオを生んだことは言うに及ばず、善悪として駄目以前に、現実に駄目、ということです。然りて現在の問題は、道徳を顧慮しない政治です。「自己責任論」とは、まさにそのことだったし、医療崩壊は、炊き出し中止は、その前線としてあります。その点では、これはまったくイデオロギーの問題ではない。


道徳を顧慮しない政治が実現するのは、多様な構成員の利害の調停に注力する政治です。もちろん、下部構造における利害の調停に注力するために、政治は上部構造としての理念を掲げ、道徳を掲げます。陽動作戦であって、小泉はその達人だったし、オバマもまた麻生も同様です。政権交代論者の私が現在民主党に投票する気が起きないのは、ネオコンに対して批判的だったことと同様に、そういうことです。道徳と一致する政治の不可能を、まさか知らないで本気でそのカマトト言ってるんじゃないよね、と。小沢の愚直なまでの理念性は一点買いしているのですが。

ブレヒトのもう半分としての真善美への志向と人類社会の再構築の意識がMidasさんの他者批判にはない」と書かれていますが、Midasさんは自分を美学者だと自称しているし(http://b.hatena.ne.jp/Midas/20081119#bookmark-10890782)、同じコメントから引用するなら「物事が本当に変わったのだと社会に示したければ不可能を可能にし何が善かを定義し直す必要がある」と書いています。私はそれが彼の行動スタンスだと認識しているのですが、sk-44さんはそれに対して「右翼テロが肉体を賭けることの意味は、社会の約束事を「言葉で」解体する「言論」が無力で「話にならない」から成立します」と考えられているんでしょうか。(後略)


考えています。なぜなら、真善美の不可能のうえに政治は存在するからです――少なくとも民主政は。「戦後民主主義」とは真善美としての政治の再興を企図した言説です。マッカーシー委員会に喚問されたブレヒトの顛末はあまりに有名です。あれが政治と、その泣き所です。ブレヒトが政治的に「無能」だったことは言うまでもありません――素晴らしい芸術家ですが。そして「素晴らしい芸術家」というエスタブリッシュな規定をこそ糞と見なしたのがブレヒトの、その世界観であり、芸術でした。それは、正しい。――問題は、そういうことです。


美学が倫理とは、私は文字通りのものとしては考えないのです。こういうことです。先日『嫌われ松子の一生』が地上波で放送されていたのでふと思い出したのですが、『下妻物語』における深田恭子演じるロリータ少女、言うなれば、彼女は絵に描いたような「美学」の人なのですが、決して倫理的ではない。土屋アンナ演じるヤンキー少女がきわめてモラリスティックでありながら、決して倫理的ではないように(ヤンキーが道徳的であって倫理的ではない、というのは自明ですが)。


はたして、彼女たちの友情は、倫理的なものだったか――。日本社会における倫理の困難を『嫌われ松子の一生』でも中島哲也は追求していましたが、『下妻物語』における深田恭子土屋アンナの友情を、倫理的なものと考えるなら、CrowClawさんのwiselerさんに対する友情も、倫理的なものでしょう。「美学」の人であるところの深田恭子は、この閉塞した(そしてその閉塞がティーンエイジャーにも手に取るようにわかる)日本社会で土屋アンナと出会うまでは、倫理という概念を知らなかった。そして、深田恭子と出会った土屋アンナが、道徳的な世界の規範に背いて罰されているとき、深田恭子が駆けつける――たったひとりで。


倫理は、ひとり美学的に生きることからも、群れて道徳的な世界に生きることからも、生まれない。倫理は個人における与件ではない。各々にとっての「他者」との関わり合いにおいて、彼女たちに倫理の概念が育まれて、彼女達はその概念を生きる――友情という関係性を通して。その背景には、日本社会において倫理を生きることの困難がある。あの映画は、文化クラスタの相違を前提する異文化接触と相互理解の話ではまるでない。実際、ロリータ少女とヤンキー少女は最後までまるで「相互理解」していないし、たぶんこの先もしない。友情という倫理を生きるだけです。それすらも、この日本社会では素晴らしいことです。


で、文字通り美学が倫理でも構わないのですが、孤高を演じたところで傍からは土屋アンナと出会う前の深田恭子にしか見えません。もちろんそれは「美しい」のですが。傍からどれほど滑稽で醜悪に見えようと美しい主観的な生があり、それは真実美しい――絢爛な映像技巧を縦横に駆使して映画作家中島哲也が描いてきたのは、まさにそのことなので。ただしそれは倫理ではない。


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Midas  飴玉, 自称「肯定」w神学, ポジティブシンキング, ライフハック  「高い発展を目指す普遍的本能など絶対ない(原則の彼岸)」国家で解決できなかった物が「人類」で何とかなるという考えは、甘いw真理を目指すという科学信仰こそ自爆テロを生んでる。祈って済んでれば地球は既に平和

はてなブックマーク - 「羊」をめぐる冒険 - 地を這う難破船


Midasさんは私の別のエントリに対してこのようにコメントしているのですが、「祈って済んでれば地球は既に平和」地球が平和であろうがなかろうが祈ることは尊い――川尻松子的な意味で――という話ですよ。祈ることと地球の平和は連関しないどころか祈りが殺し合いの円環の一端を担っている、などという自明は反論として「話にならない」。自明とは、もちろん、祈りとは他力本願の別名でしかないからです。


人はよりよい明日を目指すことをやめるべき、という話なら仰る通りですが、『グレート・ギャツビー』の皮肉な結末にある通り「だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも。」もちろん、ヒトラーとその支持者もよりよい明日を皆で目指しました。他力本願の最悪の結末を人類は経験しました。


「だから」祈ることはやめて此岸のことは此岸で片を付けるために私は社会学を志した、とかつて上野千鶴子は言いました。此岸のことを此岸で片付けることとは、真理の不在を受け入れて人死にを減らすことです。人死にを減らすためなら、何だって言うということ。上部構造において、真理があるかのように振舞うことも。ポジティブシンキングで飴玉でライフハックなのはその通りですが。ところで下部構造を生きる私たちは私腹を肥やすためにビジネスしているわけではない。スコセッシやソダーバーグの映画の登場人物は違うかも知れませんが、あれはやくざの中でも最悪のやくざなので。

リベラリズムとは、「社会の約束事」とは、先人たちの膨大な「言葉での」議論と、政治の積み重ねの結果でしょう。それに対して「政治」一切抜きで「解体」を試みるなら、なるほど蟷螂の斧と見なされてもおかしくはない。ただ、Midasさんにそこまでやる気はないでしょうし、「政治」しかないのが右翼テロなら、そちらの方こそ論外ですと言わなければいけないのではないですか。無力な「言論」に力を与えるのは政治の話でしょう。


「物事が本当に変わったのだと社会に示」すことよりも世界の存続に私は投企する、ということです。それは投機だろ、というのもその通りですが、賭けは身銭を切るもので、身銭がない者は腎臓売ったり娘を売ったり肉体を賭けてテロしたりします。厚生省の元高官を殺害した男も同様でしょう。そして、身銭を切らない言論に対する不信として、たとえば「はてサ」批判がある。正しいがゆえに投企の伴わない言論であると。しかし、それは違います。正しかろうと正しくなかろうと、等しく、言論とは、賭けることです。


以前に古本屋で川内康範の壮年期の時評集を何冊も購入しました。一読、内容的には本当につまらなかった。剣がペンより強いと考える人のペンには力がない、と思いました。川内氏を批判しているのではない。剣がペンより強いことは自明です。その前提のうえで、川内氏は自らの信じるところのために半世紀にわたって活動してきました――多くは政治的に。戦地における遺骨収集もそのひとつです。


しかし、そのうえで、ペンが剣より強いと、少なくとも書いているときには考えないと、ペンには力がこもらない。たとえばスーザン・ソンタグが典型的にそうであったように。「ジャーナリスト宣言」を掲げる新聞社は勘違いしているかも知れませんが、ベンが剣より強いのは、まったく影響力の問題ではないのです。


そうでなければどうなるか。たとえば、イスラエルロビー云々と国際政治の強固な権力関係をダシにして「知的誠実」という旗を個人に対して振るばかり、ということになる。「正しいことをしたければ、偉くなれ」はほぼFAです。FAだから、「正しいこと」を口にするとき、私たちは葛藤する。国際政治の強固な権力関係を知り抜いたうえで、少なくとも呉智英は自身の掲げる「知的誠実」について実践しました。宮崎哲弥がTV出まくっているのもそういうことです。「正しいことを口にすること」それ自体は、私たちの正しさをなんら保証しない。


物事が本当に変わったのだと社会に示すなんてぇのは、北の「人工衛星」の破片が万一日本に落下して人的被害が出れば一発です。だから私たちは国家主義的な煽りに対するスルー力を涵養し、また他に説いているのだと思っていましたが――それが無力であるとしても。


物事が本当に変わったのだとこの日本社会が知ったときどうなるか。物事が本当に変わったのだと社会が知ったとき、真っ先に反応するのは政治です。日米開戦時に在米日系人がたどった運命について、忘却したわけでもあるまいに。9.11の直後に米国のムスリムについて「忘れないでほしい、彼らは俺たちの仲間だ」と放送を通じて言ったDJがいました。一方ルワンダでは略。


「無力な「言論」に力を与えるのは政治の話でしょう。」に対して私の見解を述べるなら、民主政は最終的に言論を裏切り、究極には顧みないからこそ、言論は無力であり、その無力な言論において言論を発信する者の矜持が問われる、ということです。その意味で、私はMidasさんの「矜持」を(上から目線で申し訳ありませんが)認めています。「ファン」云々とおちゃらけて言いましたが、それはそういうことです。


政治的な権力関係において個人の言論は無力だからこそ、言論を発信する者は、その無力に対する「矜持」を問われます。「矜持」を暴落させることは容易く、己次第です――tari-Gさんのように。赤尾敏の辻説法に「矜持」はありました。Midasさんの一連のブックマークコメントもそうだと思っています。


無力だから、無力を知るから、「矜持」なる概念が生じます。個人の無力と等しいがゆえに「矜持」は個人に付随する概念です。無力な個人の言論を発信する者にとって「矜持」は大前提と私は思います。CrowClawさんはもちろん、wiselerさんにもそれはありました。ただ、矜持は倫理とイコールではないし、必ずしも矜持から倫理が導き出されはしない。大前提を踏まえたうえで、「真理」に対する態度としての「知的誠実」においては、倫理が問われるのだと私は思います。その無力を知るがゆえの、他者の言論に対する「矜持」を顧みない知的誠実などない。

Midasさん関連の話について、私が「Midas氏のような批判」と書いたのは、一番最初に書いた(http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20090304/1236148569#c1236180493)ように、「「社会の約束事」の外で言論を展開している人物」からの批判、という意味合いでした。


そもそも最近の私は(ブクマなどを読んでいてくださったならわかっていただいているとは思いますが)、「そのこと自体が行き詰っており唯物論的にはDQN大勝利の現在においてまったく机上でありインテレクチュアルの自同律的運動である」ところの「リベラリズム」について、「膨大な議論に基づく約束事」の力が持たなくなってきている、それが批判されている、ではどうするのか?という問題意識に基づいて発言しているのですが(wiselerさん関連の議論は、ご指摘通り単なる政治だったのでまた別の話ですけども)、そうコメントに書いたら、sk-44さんは「エクスキューズに担保される批判を人は割り引いて聞きます」と書かれた。私がsk-44さんの「態度」を問題にしたのは、ご指摘を受けたような政治的目的も半分ありましたけれど、最初にMidasさんの「態度」を問題にしたのがsk-44さんだと思ったからです。


今回の応答で、sk-44さんははっきりと「否定神学の立場から基本的人権の自明を掲げる議論を批判するなら、それは簡単でしょう。安易の極みです」と書かれていますが、これは勿論(地下に眠るMさんも言われてますが)レトリックな訳ですよね。修辞としては確かに「的確」だとは思いましたが、正確ではないと思います。


リベラリズムというドグマ、という一見言語矛盾については私も思うことがあります。CrowClawさんが指摘しておられるような、Midasさんの「リベラル」批判について述べるなら――たとえば「原理主義化している」ことについては。CrowClawさんのコメントを再掲します。

ついでに書くと、最近のMidas氏は「はてなサヨク」の一部を「原理主義化している」と批判していますが、tmsigmundさんや金光翔さんにしろ、恐らくは無意識でしょうが、従来の「リベラリスト」的な態度ではMidasさんのような「敵」に対抗できないから戦略的にああいう主張をされている面はあると思います。金さんはMidas氏にブコメで「その考え方はアルカイダと一緒」と腐されていましたが、リベラルの限界を突っつく「政敵」への対抗手段として、アルカイダ的な原理主義に(全面的にではないにせよ)接近せざるを得なかった、と言う事情があるのでは。

誰が為に鐘は鳴る? - 地を這う難破船


簡単に言って、広義の自由主義は他者の「良心」に対する信頼を前提します。NHK白洲次郎ドラマで、英国で開戦論批判をぶつ白洲次郎が「日本人としてのyou」を英国人に問われて「私の良心に賭けて」と言ったのは、そういうことで、だから白洲次郎は反共のためならえぐいことも散々した断固たる自由主義者でした。もちろん、この場合の良心とは普遍概念です。余談ですが、タケルンバさんもその意味で「自由主義者」です。だから、非道い手口の殺人者に対して死を望む。普遍概念を信頼する者は、そこからの逸脱者をこの世から排除する。アカを地上から掃討しようとしたように。


もちろん、グローバルなw多文化主義の世界を生きる私たちは他者の「良心」を信頼できないどころか到底見込めないことをよく知っているので、不信の時代は自由主義のためのサイバネティックスな監視社会を要請しました。他者に対してその良心を信頼するほど危険な博打はない――なぜなら良心を期待できないがゆえに「他者」なのだから。要するに、この時点でリベラルとか保守とかgdgdになっているわけです。普遍とは、システムの別名でしかないのだから。


結果――結果とは社会主義の敗北の結果でもありますが――現在のリベラルはシステムに簒奪されない普遍について、すなわち個人に帰納しうる良心の在処について敏感になりました。それは糾弾と紙一重です。紙一重の自覚について、昨今の村上春樹に発したイスラエル批判問題が議論されていると私は理解しています。


「殺すな!」の空虚さについて - キリンが逆立ちしたピアス


CrowClawさんが言挙げるMidasさんが指摘するところの「原理主義化」とはそのことかと私の問題関心からは愚考します。しかしながら、「そのこと自体が行き詰っており唯物論的にはDQN大勝利の現在においてまったく机上でありインテレクチュアルの自同律的運動である」にせよ、良心の在処について相互的な議論を通じてその普遍性について確認することはまったく原理主義的ではないし、「リベラル」を名乗る者にとってこのうえなく誠実な態度と思います。tari-Gさんの顛末を確認して、ミソとクソの区別ははっきりさせておいたほうがいいと思った次第です。


ちなみに、「殺すな!」について私が思うのは、殺す者はCrowClawさんが言われるところの「運命」として殺しているので、そのことに対する抵抗軸として倫理は可能か、と問うなら不可能です。そして小田実は個人の「良心」とその普遍を信じていた。だから――「殺すな!」とは個人の「良心」とその普遍性に対する賭けとして意味があり、意義があります。しかし、個人の「良心」とその普遍性を信じることなくして連帯は可能でしょうか。連帯とは、党派的行動の別名ではないはずです。


もちろん、それが殺す者に通じるか知らん。しかし個別的な利害を超えた連帯の契機はそこにしかない。私自身がそうだからわかるのですが――残念ながら、倫理を理由に連帯を拒む者は多い。実際、倫理とはそういうことで、だから『下妻物語』は友情を倫理の可能性として提示し、その可能性を説きました。


普遍を目指した良心の在処をめぐる、相互的な確認の先鋭化。それを原理主義化と言ってしまえば、あるいはその通りですし、山岳ベースキャンプと何が違うとも言いうるでしょう。Midasさんのように、連帯は不可能であり、良心は不可能であり、ひいては普遍は不可能である、と言いきるなら話は早いし「原理主義化」も避けられるでしょう。


ところで私は思うのですが、人間は、他者に対して利他的な行動を強制できません。しかし利他的に行動する人間に事欠かなかったのが人類の歴史です。あるいは、一神教の歴史です。その結果が人間存在において「私たち」の範囲を拡大してきました、そして、それは同時にリベラリズムの範囲の拡大を意味しました。白洲次郎の時代ではない、つまり反共という軸を持たない現在のリベラリズムは、人類社会における利己性と利他性の最適解として問われるものでしょう。故意か知らずにか、それを他者に対する自己犠牲の強要と誤読する人もいますが。もちろん、それは普遍を目指すこととも峻別されるべきことですが。


人類社会における功利主義的実践の最適解が、「私たち」の範囲の拡大とパラレルだったから、リベラリズムは普遍を目指して良心の在処を追求する。たとえば山形浩生のように、それは神学である、という意見はあります。「ネオリベ」の元祖ハイエクは良心を普遍へと演繹されないものとして観察の対象としました。そしてドラッカーは普遍へと演繹されない良心を前提して組織というアナログなシステムとその重要を論じました。良心の普遍をスコラ神学のごとく追及する議論が現在のリベラリズムであるなら――「そのこと自体が行き詰っており唯物論的にはDQN大勝利の現在においてまったく机上でありインテレクチュアルの自同律的運動である」ことは間違いありません。


そして、人類社会における功利主義的実践の最適解が「私たち」の範囲の拡大とパラレルだったその結果が、ドラッカー的なフォーディズムを破綻させたこの素晴らしきグローバリズムであり、要するにその「私たち」とは労働力としての「私たち」でしかなかった。人間としての「私たち」はサイバネティックスな監視社会が範囲を決める――その背景には国家と資本という、元祖ネオリベが敵視した二大権力がある。はたしてシンガポールやドバイはこの世の天国、というSFな話と相成ったのでした。


で、その顛末に対する反省から良心の在処に対する先鋭な追求がリベラリズムの条件としてある、ということと理解していますが。つまり、普遍を目指すことなく功利主義的実践の最適解を追求した結果「功利主義的に考えて」些か失敗した、と。神学とは、普遍は可能か、ということです。もちろんフロイトにおいては不可能です。


スーパー・カンヌ

スーパー・カンヌ

もちろん、「リベラル」を自称するような人間がそれをやるのは無理があるし、この場合の「シニカルな立場」の根拠などもちろんありません。「お前にそんな才能ない」という指摘なら甘んじて受けます。ただ、今の私としては「無理」を承知でそれをやっていきたいと思っているので、やめろと言われても困る、ということです(他者を嘲笑することとはまったく別の話ですが)。


かける眼鏡の選び方 - U´Å`U


こちらのエントリを拝見して考えたことなのですが、考えたというのは上記エントリの言及先のことですが、第二次世界大戦終結から60年、その間の一切を括弧に入れて四字熟語としての「知的誠実」を代入すると、とんでもないことが言えるのだな、と。括弧に入れる口実が「無知」とのことなので、たとえばhokusyuさんが「その間の一切」についてトピックごとに丁寧な解説を述べている。それを「リベラルの訓話学」と――現在進行形の殺戮を引き合いにして――棄却することも可能です。


当たり前ですが、無知は罪です。訳知り顔の操作的な言説を真に受けるからです。呉智英だってそれで批判されてきました。もちろん、言説とはなべて操作的なのであって、だからこそ私たちはその操作性について自ら検討し時に批判する力を持たないと「話にならない」。「進歩主義者」の言説の操作性について批判してきた呉智英が現在批判されているように、先人の言説的な屍は乗り越えないと――滑稽ではある。


gkmondさんに対する批判ということではまったくないのですが、「括弧に入れる」こと自体は致し方ないこととされているのか――という感慨はありました。括弧に入れて代入されるのが「倫理性」には異論ありません。「私は私のドクサを自覚している」という言説は、極端には愛・蔵太さんのような「知的誠実」を看板とする言説を補完しかねない。愛・蔵太さんは全部知って看板掲げているのですが、知的誠実もまたドクサであることについて、指摘しなければならないのでしょう。


WW2終結以後60年間の一切を括弧に入れて四字熟語としての「知的誠実」を代入して陰謀論が出力されるなら、入力としての「WW2終結以後の60年間」についてそれこそ誠実に検討することをお勧めします、としか言えない。「無知なのでこれから勉強します」というのはそういう話でないと困るわけですが。そんな単純な計算式はありえないから。


そして、これは久間知毅さんの主張とも連関するのですが、娑婆世界の現在進行形の事象をめぐる、それが現在進行形であるがゆえにすぐれて政治的な文脈に基づく議論に法理を代入して「陰謀論ダメ絶対」は駄目なのです。一般に、事象の類推に政治を掛け算すると明後日の方向を指しかねず挙句党派で割り算したときとんでもない結論が出る、政治的な文脈の議論に法理を代入して「知的誠実」を掲げることが、敵対性の顕現たる政治に対する抵抗軸たりうる。それはその通りです。


しかし、娑婆世界における現在進行形の事象の類推を足し算と引き算で暫定解出して「納得」することも、現在進行形ゆえの政治的な文脈に基づく議論に法理を代入して敵対性を排除することも、結果検察が万歳するだけで、危ういのです。現在進行形の事象について万人が法理に限定された暫定解に納得していたら、冤罪は永遠に繰り返されるし、同様に、裁かれて然るべき悪も裁かれません。


法治主義とは法に則って公明正大に敵対することなので、法治主義と政治的な党派概念はなんら対立するものでなく、だからこそナチスの政権獲得は民主政のアポリアとしてあって、そして検察や警察はその使命ゆえに「公明正大に敵対すること」をそもそも嫌うものです。検察や警察の使命は掛値なく結構なことです。しかし市民社会は公明正大な敵対という政治性を歓迎しなければならない――ナチスアポリアを抱えたまま。


公明正大な敵対という政治性を歓迎する前提には「私たち」に対する信頼がありました。ナチスはドイツの市民社会におけるそれを簒奪し破壊して台頭したのです。そして現在、その前提は不信へと取って代わられた。結果、「歴史を繰り返さないために」官憲が幅を利かせることに対しては、掣肘的でありたいと思います。ナチスの台頭を、あるいは森田健作の当選を、引き受けるのは「私たち」だから。信頼とは、共同体の一蓮托生のことでもあるのです。だから賢明な誰しもが共同体を脱出して、そして市民社会はない。


共同体の一蓮托生に規定される信頼とは「良心」の有無を、問題とはしない。もっとも、ナチスこそ典型的にそうであったわけですが――その共同体が特異なまでに理念的であったがゆえにMein Führerを要請したにせよ。知的誠実は、不信の時代における良心の別名たりえません。だから、偽科学の問題がかくも深刻化する。信頼が失われたとき「私たち」を振り返る必要も失われて、言論はいっそう無力です。「私たち」の別名としてある言論を、本来的に倫理的な人間である私は、志向するのです。それが、共同体の一蓮托生を呼び戻す呪いであるとしても。インターネットにおいて日本語で文章を書くとは、たぶん、そういうことです。


ひとつ言えることは――「はてなサヨク」の原理主義化があるとして、それは「Midas氏のような批判」への対抗軸としてではありません。「はてなサヨク」とMidasさんの「敵」は本来同じくするものと、私は勝手に思っています。なぜなら、冷戦終結後20年、不信の世界において前衛の不可能は自明だからです。要するに、hokusyuさんの言葉ですが「Midasさんは、ある問題系にたいしてとりうるスタンスの中で、一番つまらないものを選び続ける才能において稀有だと思う。」


そのつまらなさは、私の先のエントリに対するコメントならびにブコメに顕著なように、思想的なアナクロニズムの問題であって、党派性の問題ではない。いやフランスや南米の事情は詳しく存じ上げませんが――それを日本語圏のはてなブックマークで日本語で言っていることに疑問は覚えないものか、というのが私の不可解です。スノビズムとは「社会の約束事」の最たるものであって凡庸化した世界の象徴ではないかと、スノッブの私はプルーストというよりはオメーを思い返しつつ思うわけです。ま、敢えて言っているのでしょうが、唯物論的というか党序列的な意味で私は些かもインテリではないので。


ガリレイの生涯 (岩波文庫)

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