家はあれども帰るを得ず


徴なき民族のために - モジモジ君のブログ。みたいな。


毎度、丁寧な応答エントリをありがとうございます。


そして、やはり、mojimojiさんは神様のようなことを言っている、という感想は変わりません。呪われた生などない、というmojimojiさんの言葉は、原理的地平の確認、ということでしかありません。呪われた生などない、という原理的地平は、確認するまでもなくこのようなことに問題関心を持ち合わせる者にとっては共有されていると考えます。


呪われた生などない、という原理的地平を殊更に確認するのは、「呪い」がこの世界に存在することを私たちが知っているからです。「呪い」とは世界の構造的問題でありそのことに対する無自覚は批判されるべきだしそうすべきだが、そのことは「呪い」において他者の生の在りようを規定するようなものであってはならない。mojimojiさんが民族性と民族主義の区別として言っておられることはそういうことと理解しますが、それは、妥当しません。「呪い」とはそういうものではないからです。

不正と暴力から生まれてきた子どもは呪われているのでしょうか?そんなことはない。断じて。もちろん、自らの誕生の原因にあった不正と暴力を問うことは可能ですし、むしろ、誰かがやらなければならないことです。しかし、どんな経緯によるのであれ、生きて在ることは、その経緯によらず、同じくらいに良いあるいは悪いことです。その意味で、呪われた生などない。


もちろん、不正と暴力から生まれてきた子どもは、少なくともそのことを知れば、それについて悩むと思います。誰だったか忘れてしまいましたが、米軍基地の存在を批判することとアメラジアンの友人に対する「ともにいたい」という感情を矛盾するものとして捉えた話をした人がありました。その友人の父は米兵であり、米軍基地がなければ沖縄にいることはなく、母と出会うこともなく、ゆえに、彼も生まれていなかったであろうから、ということです。


一読して、根本的にまちがっている、と思いました。こんなグロテスクな結論を引き出さねばならないということ自体が、その前提を拒否すべき理由です。出生における因果と生まれ出た命をこんなやり方でつなげるべきではない。批判するにせよ擁護するにせよ、生まれた命と不正と暴力をひとまとめに扱うようなやり方自体が拒否されるべきです。心情的に、簡単に拒否できる、ということではありません。しかし、拒否してみるならば、そのような前提を採用すべきいかなる理由もない、最初からなかった、ということに気づくはずです。


皮肉でなく申し上げるのですが、mojimojiさんは私同様に「無神論」ですよね。つまり「承認」という問題について、mojimojiさんはどう考えておられるのか。ヘーゲルにおいては存在しない問題です。mojimojiさんが仰っておられるのは神の愛の話ですか。人の愛は、分け隔てることから始まります。人間存在における生の肯定は、承認において、つまり分け隔てることにおいて規定される。それが、初期のハイデガーが指し示したひとつの結論でした。それを政治化したとき、ナチズムが生まれた。愛の話ではない、原理的地平を確認している、ということなら、申し上げますが、呪われた生などないことを示すことは原理的地平を確認することではありません。愛の話であり、つまり承認の問題です。


呪われた生があろうがなかろうが、親に祝福されなかった子供の存在を私たちは知っています。そして親に祝福された子供の存在を私たちは知っています。現首相について、彼は銀のスプーンをくわえて生まれてきた人、と評したのはデヴィ・スカルノ氏でしたが、あのときmojimojiさんは「中世かよ。」とコメントしておられたと記憶しています。もちろん世界は未だ暗黒の中世です。そのことに対して、呪われた生などない、と原理的地平を確認することは、もちろんそうすべきことですが、親に祝福されなかった子供の欠落感は原理的地平の確認によって贖われるものではありません。神はとっくに死にました。


個人の自律を尊ぶことは、親に祝福されなかった子供の欠落感を贖うことではない。多くは――私を含めて――親に祝福された子供の手前勝手です。親に祝福された子供のことを、マジョリティと言います。親に祝福されなかった子供の欠落感を贖いうるものは何か。承認です。贖った結果がジンバブエでありルワンダでありユーゴであった以上、殊更に贖う必要はない、ディアスポラこそ、倫理の条件なのだから、とmojimojiさんは仰るでしょうか。私自身についてはそのことに同意しますが、繰り返しますが、それは親に祝福された子供の手前勝手です。それをして無自覚と言います。

「慶賀すべきことだったか」──問いがそもそもおかしい。先住民であることの文化的な徴が最初から失われている状況、それをもたらしたところの不正と暴力に対しては、「慶賀」もなにも、真っ向から批判されるべきです。ただし、私がその中に生まれ落ち、そこで育った。それについても、「慶賀」もなにも、単に「私に与えられた世界がそういうものであった」という事実に過ぎません。いいも悪いもない。そして、生まれ落ちることは、どこにどんな風に生まれ落ちることに比べても、同じように良いあるいは悪い。呪われた生など、どこにもない。僕はそう言い切ります。


「慶賀すべきことだったか」という皮肉な問いは(もちろんディーコンの言葉そのままではなく私のパラフレーズですが)、伝統的な先住民の生活の中で育っていればよかったか、ということです。現に、オーストラリア政府の「政治的配慮のもとに」そのように暮らしている先住民もいます。もちろん、そうではないし、そういうことではないことをディーコンは知っており、そのことを言っています。しかし、彼女はその肌の色においてオーストラリアにおける自身の出自を否応なく知る。オーストラリアの先住民問題において「肌の色」がとりわけ決定的な事項であったことは言うまでもありません。


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肌の色などなんら問題ではない、は原理的地平です。言い換えるなら、神様の視点です。私が在るように、他者の在りようを肯定する、ということが人間存在においては不可能である、とハイデガーは煎じ詰めればそのことを言いました。なぜなら私の在りようは、私をめぐる歴史、私をめぐる政治において規定されるからです。その認識を、言うなれば白紙の、未来に対する投企として故意に逆転させて論じたのが、サルトルとその実存主義でした。肌の色が問題である、を科学的に展開したのがナチスイデオロギーであり、現代の科学主義をめぐる課題ではありますが、それはまた別の話です。


帰る家、という言い方は観念的ですが、人は自身のルーツを求めます。オバマを選出した多民族国家アメリカにおいてそれが顕著であるように、父や祖父の物語として。母や祖母の物語として。父や祖父や母や祖母の、その愛の物語として。オバマ含めて、自身のルーツを求めることを現在の政治課題としてはならない、とmojimojiさんは仰るでしょうか。しかし私の在りようは、私をめぐる歴史、私をめぐる政治において規定されます。そのことが大文字の「歴史」「政治」であってはならないことは同意です。なればこそ、自身のルーツを求めることを現在の政治課題とすることを退けてはならない。


なぜなら、アメリカでもロシアでも中国でもないこの「多民族国家」であったことがない近代国家日本では、マジョリティの無自覚は、歴史や政治の忘却とイコールだからです。そしてマイノリティの自覚は、マイノリティであるがゆえに否応なく涵養される。肌の色として、選挙権の有無として、そしてディアスポラゆえの迫害の歴史として。マイノリティのその自覚が、私をめぐる歴史、私をめぐる政治を、マジョリティに対して要求することが、必ずしも民族主義と言いうるでしょうか。つまり――ジンバブエルワンダやユーゴへの道と。


ジンバブエには英雄的な指導者が存在し、ルワンダには多数派としてのフツ族が存在し、ユーゴには権力を求めた扇動家が存在しました。「在日」においてそれが存在するか。mojimojiさんにとっては、シオニズム批判と同一の問題としてこのことはあるのだと思いますが。多数派の扇動は少数派においても存在する――それはその通りです。民族主義が扇動に基づく動員の問題であるなら、扇動に基づく動員を批判すればよいのであって、「「私が在る」に依拠する」必要はない。

「墓標のように」──そうでしょう。しかし、それは「墓標のような文化」であって、「墓標」ではありません。それは資本制の暴力の中を生き延びんとする人々の営みが生み出した文化でもあります。家がないのでダンボールを被って生きている人がありますが、そこにも文化があります。当然、ダンボールを被って生きる羽目に陥らせるところの社会構造は批判されるべきです。しかし、そこに生きられている人々の営為は肯定される。もちろん、墓に暮らしている人がいれば、そのような人の営為も肯定される。こうして見ると、「墓」と「暮」という字はよく似てます。どうでもいいことですが。


僕は、墓標のようであることから、否定的なものしか取り出せないとは思いません。当然のことです。同時に、その背後にある資本制の暴力について批判的に考えることは可能です。僕の考えからすれば、生きられている現実を肯定できるからこそ、そこに含まれる一筋縄ではいかないものともきちんと戦える、という類のことだと思います。

「蘇らせてやる」──やりたければやったらいいんじゃないでしょうか。止めはしません。というようなことは、マジョリティの無自覚・無関心からのみ言われることではありません。


hokusyuさんが「マイノリティのアイデンティティが、「回復」されるべきものであり「選択」されるべきものではない」というような考え方を紹介していましたね。僕はこれを重苦しいものと思います。「回復」される「べき」もの。誰が回復するのか。マイノリティ自身です。たとえば、僕です。なんか、最初から負債を負わされているかのような感じがします。「回復」される「べき」は余分です。「回復」しない私を罪人にするからです。むしろ、取り戻すべきと言うならば、あんたがやってよ、と言いたくなる。実際、いろんな人がマイノリティ文化からいろんなものを好き勝手に切り取って持って行くじゃないですか。あれはあれでいいと思います。悪いとして、悪いと言う筋合いもないのですけど。


文化というのは、生活の様式ですから、作られたり、生きられたり、失われたりすることはあるでしょう。しかし、そのことは、取り戻さなければならない、ということを導きません。失われた経緯はもちろん問題です。不正と暴力によって失われた文化があるならば、その失われた経緯は問題にするべきでしょう。しかし、そうして失われた文化が「取り戻されなければならない」かどうかは、私たちが自分で考えるべきことです。自らが生きている生活の様式をまず肯定し、そこに「取り戻されるべき」と感じるその文化を取り戻して付け加えることが自分にとって何を意味するのか、それを考えて「選択」されるしかないことです。


以上のようなことを踏まえて、マジョリティの無自覚に憤ることはできます。再三述べたように、そこにあった経緯を問うことはできるからです。そこにあった不正と暴力を問うことはできるからです。ただし、その中に生まれ落ちた者が呪われているわけではありません。だから、そこで生きられた現実=文化を貶める必要もありません。貶めるのは「余分」です。

それでは事態の半分以下しか捉えていません。文化とは、生きられる現実そのものです。生きられる現実は、歴史と政治に制約されるとしても、決定されるのではない。第一義的には、生きられる現実として作られるものです。一瞬一瞬において。そして、生きられる現実を基盤として政治は行われるのだし、それが歴史を作ります。


もちろん、ダンボールを被って暮らすところに文化はありません。文化とは、市民社会の市民生活において、共同性を涵養する概念だからです。その共同性を歴史的存在としての「民族」において指し示したのが福田恒存でした。その意味で歴史的存在としての「民族」が不可能になっているのが現在ですが、しかしその発想は別にブルジョワの御託ではない。湯浅学だって都築響一だって大竹伸朗だって、同じことを言うでしょう。彼らだってブルジョワであるし、そもそも文化人類学がそうであったように、文化とはブルジョワの概念ですが。ダンボールを被って暮らすことが「健康で文化的な最低限度の生活」に抵触する、ということは自明と考えていました。憲法の文面の問題ではない、と仰るならこう言いましょう。市民社会の市民生活に参画しえない、ということです。事実と思います。事実に対する是非を問うなら非ですが。


生きられている現実を肯定することには同意しますが、生きられている現実を肯定するために「文化」という規範的概念を持ち出すべきではない。サルトルは構いませんが、サルトルは一流の規範的戯曲家で、そしてそのことで受賞したノーベル賞を拒否しました。このアンビバレンスがサルトルという哲学者でした。そして、文化とは規範的概念なので、個人の選択の問題ではないし、だから「「私が在る」に依拠して」歴史と政治が問われます。たとえば、私において回復されるべき文化は存在しません。それは、私が「在日」に対する「日本人」というマジョリティだからではない。高度経済成長期以後の東京の公団で生まれ育った私の生きる現実に規範的概念としての文化はそもそも存在しないし、存在しなかったからです――ファッションを除いて。


私たちはチマチョゴリに「徴」を見る。「ファッション」において「徴」が刻印されることは、アイデンティティと、それが要求する民族性の問題です。そして繰り返しますが、民族性は規範を要求するし、それは文化が規範的概念であって、個人の選択の問題ではないからです。そのような発想それ自体に対してmojimojiさんは批判的と思いますが――mojimojiさんは民族性を擁護すると仰る。端から見ていてまったくそのように見えないのは、そういうことです。


当たり前ですが、たとえ「自発的」にせよダンボールを被って暮らすことと、チマチョゴリを「自発的に」着ることは違います。後者が上等ということではない。後者は言うなれば(フランスの文学的伝統に基づき)戯曲を書いたサルトルのような規範としての文化的投企であるが、前者はそうではない、ということです。もちろん、規範としての文化的投企が上等ということではない――「飢えた子の前で文学は可能か」と言ったサルトルがそのことにアンビバレンスを覚えていたことは事実です――生きられている現実としては等価ですが、ただ様相が相違する。


そして、ダンボールを被って暮らすことに対してもチマチョゴリを「自発的に」着ることに対しても、「等しく」否定的な視線が日本社会で投げかけられてきました。その、規範としての文化的投企に対する区別さえ問わないのが、マジョリティの無自覚ということの、その意味です。デスティニー・ディーコンは、文化的投企としての私の生きられている現実を主張しているのではもちろんない。生きられている現実における文化的投企の困難について主張しています。


生きられている現実を規範化する概念としての文化に、mojimojiさんが異議を唱えておられることは分かりますが、自発的に文化という規範を「選択」することは、「回復」の問題でもなければ、mojimojiさんが言われるような自由の刑に基づく「選択」でもない。選択肢の限定性の自明が、文化という言葉のその意味だから。「問題はリアルで重層的で複雑です」とは、私の考えでは、そういうことです。そしておそらくmojimojiさんは、わかっておられない。

 複数の文明が接触すると、そのどちらも、変化を蒙ります。例に挙げたのは個々の人間の外側を取り巻く世界の変化ですが、その変化は否応なしに、一人一人の内側に食い込み、取り除くことのできない一部になります。
 原理主義は、自分の内側に何か異質なものがあるのではないか、その異質なものの為に、本来の自分が損なわれつつあるのではないか、自分が自分ではないものになってしまうのではないか、と言う不安から始まります。或いは、はじめに漠然たる不安や不満があって、その後で自分の中に異物を発見するのかもしれません。原理主義が多くの場合、社会的に挫折していたり、じり貧な状態にあったり、出口なしに陥っていたりする人々の間で説得力を持つ理由です。ただし、少し冷静に考えればすぐに判ることですが、この異物は我々の一部を形成しているので、外科手術的に取り除くことができるものではありません。
 ただし、取り除くことが可能であるかのように考えることはできます。それには二通りの方法があります。
 ひとつは、自分のコアを作っていると見做した部分を強調することであり、もうひとつは、自分の中の異質な部分を外の世界に投影することです。宗教上の原理主義が前者に当て嵌まります。実際には宗教を、「本来の自分」ないし「自分たち」を強調する為に利用しているだけだと思いますが、教義を厳格に守ることで、内なる異質さから逃れられると考えてみる訳です。進化論を学校で教えないように訴訟を起こす連中とか、チャドルを着ずにテレビに出る歌手を脅迫する連中とかが、この範疇に入ります。チャドルを着て学校に通う女子学生は政教分離の原則を侵しているんではないかと大騒ぎをした人々と言うのも、或いは原理主義世俗主義者と言っていいかもしれません。
 もうひとつは、異質な部分を外に投影し、攻撃する方法です。ドイツのネオナチやフランスの国民戦線アメリカのミリシアなどを考えていただけばわかりやすいでしょう。移民や外国の影響を排除すれば本来の自分たちに戻れる、と夢想する訳です。
 二つの方法のどちらかひとつ、と言う訳ではありません。多くの原理主義運動は二つの方法を併用しています。内にあっては国柄と伝統に立ち返り、外にあっては純血の為に戦う、と言う訳です。

新大蟻食の生活と意見


mojimojiさんが言っておられるのはこういうことと理解しますが、そして10年前の佐藤亜紀氏の見解に私は今でも全面的に同意するのですが、しかしmojimojiさんの議論には乗れないのは――

ジンバブエルワンダもユーゴも知らない先達たちは、過ちを犯しました。私たちはジンバブエルワンダもユーゴも知っています。知ってなお、過ちを繰り返すならば、それは先達たちが犯したより一層大きな過ちを犯すことになるでしょう。「じっちゃんを守れ」とか言っている場合ではありません。そもそも、過ちを過ちであると言うことは、「じっちゃん」を笑うためにやることではありません。


ところで、私たちは、植民地支配を批判されるべきものとして理解しています(sk-44さんがどうかは知りませんが、とりあえず)。それは、当時の日本に植民地支配ではないまともな道が可能であったかどうかが確認されて初めて、批判可能なものなのでしょうか?そうではないでしょう。当時の植民地の人々に与えられた差別的待遇の数々を見るとき、そこから直接に、それは過っていた、と結論するはずです。倫理とは、何をやるべきであったかを教えるものではありません。何に取り組むべきであったかを考えるためにあるものです。私たちが植民地支配に対する日本の責任を考えるときには、そういう風に考えているはずです。何が可能であったかに関係なく、それはまちがっていた。そのように言うはずです。


ですから、これは歴史段階の問題ではありません。最初からできたことでありえます。少なくとも、幼いときに朝鮮から日本に渡ってきて、差別と侮蔑にさらされ、学校にも行けず、朝鮮民族の文化や歴史を知らず、文字すらも読めなかったというような人でも、そこには多大な困難があったにせよ、できたことです。そこに倣えばいいのです。帰るもなにも、ここが私の家です。もちろん、少し離れた向こうにも、私の家はありますが。


mojimojiさんは単独性の話をしておられるのだと思いますが、それがズレている、という話なのだと思いますが。「ここが私の家です。」は結構ですが「ここが貴方の家です」は「家」を用意する人が言う台詞です。承認とは「家」を用意することです。「家」を用意して「ここが貴方の家です」が、煎じ詰めれば「家」を用意することそれ自体が、ジンバブエルワンダやユーゴへの道だから、ディアスポラであることをこそ「生きられている現実」としてmojimojiさんは肯定しておられるのでしょうけど。


家がないことを確認することが原理的地平を確認することであるなら、つまり家がないことが原理的地平なら、それは――比喩ですが――愛された子供の手前勝手としか私には映らない。つまり、過干渉な我が家をうっとおしがって反抗することのできる子供の。原理的地平において家などないことは、周知です。で――そんな話を改めてしておられたのですか。私のことではないですが、他人の言葉を(A)(B)(C)と切り刻んで。人は、ダンボールを被っては暮らせないから、そのことを辛いと思うから、家を求め、歴史的存在としての私たちの文化的な規範に自発的に投企するのです。そのことに対して、倫理の条件としてディアスポラを説き、単独性を説くことは、確かに一貫した見識ではありますが――ズレた話に終始することは致し方ない。


ところで、私は、植民地支配を批判されるべきものとして理解していますが、それは20世紀後半に生まれた私が下部構造としての経済に関与してグローバルな人権蹂躙を目の当たりにしてきた中で、権利の概念としての基本的人権と、それを擁護する存在としてあるべき国家について――つまり国家のあるべき姿について――考えてきたからです。私は、それが共同性に基づく幻想の依り代であろうとも、ひいてはそれが幻想としての共同性の外部に対する暴力を行使しようとも、国家の解体にまったく賛成しないので。


私が思うに、倫理とは、過去の批判ではなく、現在進行形の実践の問題です。グローバリズムに対して国家の看板立てて行う商売と外貨獲得には乗り気でも、金を産まない国民は平気で遺棄する国家の未だ多いこと多いこと。100年前と変わらない――国際的な権利概念の発展と、そのことにコミットする人々の存在以外は。プーチンが舵を切った、ロシアのような国家資本主義も致し方ないとは思います。グローバルな人身売買には国家が積極的な関与を行った方がよいと仕事柄私は思うときがあります。それは摘発ではなく、ということです。原理的地平においては論外の話ですが、実際的問題としては。そして過去の話ではなく、現在進行形の話です。


慰安婦の問題とは、第一に、RAAも同様ですが、国家による性的動員の問題です。性的動員を行う国家が植民地支配を行う国家であり、それは戦争のためにある近代国家とその動員のいわば象徴としてあったから、近代国家の問題としてそのことは問われる。そして現在の問題とは、政府が資本制に基づく性的搾取に不介入であることで、権利の観点からも、警察マターでない介入について、私は考えることがあります。下部構造における搾取に対する介入は行っても、かつての性的動員に対する反省を教訓に国家は性的搾取に対しては警察マターに限定しているので、それゆえに経済の範疇として規定された身体はいっそう買い叩かれているというのが実情です。


というか、近代国家の性的動員の問題がなぜじっちゃんの名誉に関わるのか私にはさっぱり分からない。じっちゃんも何も、権利概念の発展以外、グローバルには100年前とさして変わらないというのに。中国人を買うことに誰が躊躇しているだろう。権利とその普遍的価値を実現するものとして国家がありうる、という、新憲法の公布に伴う国家観の変容それ自体は慶賀すべきことです。しかしそれは、原理の問題でしょうか。


植民地支配がじっちゃんの問題ではないように、ジンバブエルワンダもユーゴも過ちを知らなかったことの問題ではない。歴史的・政治的な条件の限定性において、人が何を選び取るかということです。ただ、人はサルトルが言ったようには、物事を選び取るのではない。過去が規定する関係性において、物事を選び取る。過去が規定する関係性とは歴史的・政治的な条件の限定性そのものです。その循環性において物事を選び取ることは、正誤の問題ではなく、まさに生きられている現実としてあることです。民族主義は、生きられている現実と無縁のものとしてありはしない。人は、分け隔てることにおいて、差異を自己規定するその過程において、生きているのだから。


原理的地平の確認は掛け値なく結構なことです。誤りの指摘が人格批判を意味しないことは当然です。ところでmojimojiさんにおいては、民族性と民族主義の区別とは、誤りの指摘が人格批判を意味しない、という原理的地平の変奏ですか。原理的地平には同意しますが、そのような変奏は誤っています。民族主義の問題とは、人格批判を意味しない誤りの指摘ではないからです。何から何まで、人格をめぐる問題です。mojimojiさんが単独性の話をしておられるのなら、それは構わないのですが、ズレるに決まっている。

どうしてこんなにまで「区別は困難」ということが、論証されるまでもない前提として流通しているのか、不思議に思います。というのも、「墓標のような文化」を、生きられる現実として肯定するとしても、それを殊更に良いものと言うのはコントでしかないからです。「いじめられるオマエはいっこも悪くない」は言えますが、「いじめられるからこそオマエはチョー偉い」と言うのはコントでしかないのと同じです。……まぁ、最近は真顔でコントやってる人も出てきたんで、「えー」って感じなんですけどね。


いずれにせよ、こういうことなので、区別は明瞭だと思います。ただ、今まで区別していなかった人が区別しようとするときに痛みがある、ということならそうでしょう。ジンバブエルワンダやユーゴ以前なら、痛みを前に立ちすくんだかもしれません。しかし、ジンバブエルワンダやユーゴも知っている私たちは、この痛みを、ジンバブエルワンダやユーゴと比較してみるべきです。私はどっちを望むのか、と。


それを残酷と言えば言えますが、それなら残酷でない解を示していただければ、というだけの話です。


殊更にも何も、良いものとか少なくともディーコンはまったく言っていませんが、それはさておき。「ジンバブエルワンダやユーゴも知っている私たちは、この痛みを、ジンバブエルワンダやユーゴと比較してみるべきです。私はどっちを望むのか、と。」その通りですが、「どっちを望むのか」でジンバブエルワンダやユーゴは克服されないでしょう。原理的地平の確認に過ぎないからです。「どっちを望むのか」をmojimojiさんは原理的地平の場所からしか言っていない。


文化とは規範的概念です。その規範性は、市民社会の市民生活において共同性を涵養するためにあります。そして、そのことに対して自発的に投企することが私たちの「生きられている現実」の条件としてあります。この日本社会で公共の空間にチマチョゴリを着ていくとは、そういうことです。そして、そのことを「余分」としてmojimojiさんは貶めているようにしか、私には映らない。


私たちは「日本人」の徴が刻印された服を着ません。それが私たちの「生きられている現実」です。そのことと、たとえば公共の空間にチマチョゴリを着ていくこととの優劣は付けられない。優劣は付けられないからこそ、そのことを「生きられている現実」として相互に尊重するよりほかないと、「日本人」であるところの私は思います。誰に対してであれ、公共の空間にチマチョゴリを着ていくことを強制すべきではない、着ていくことを禁じるべきでもないように――その通りです。それが、市民社会の市民生活ということです。ジンバブエルワンダやユーゴのようには、幸か不幸かなりえないだろう社会のことです。それは、原則の確認であって、原理的地平の確認でしかない。


mojimojiさんは、徴なき民族において徴という規範性を求めることそれ自体を「余分」として退けているように、私には映る。もちろん「日本人」もまた徴なき民族であって、だから新しい歴史教科書のような原理主義が生じる。象徴天皇ある限りそんなもんは「余分」と私は言い切りますが。しかし、徴なき民族において徴という規範性を求めることに自発的に投企することさえもmojimojiさんは退けていると思えるし、そうであるなら、それはサルトルにおいてはそうでしょうが、ハイデガーにおいては違います、と応じるよりほかない。そもそも共同性という規範的概念それ自体をmojimojiさんは退けておられる。それならダンボールを被って暮らすところにも文化が存在するでしょう。生きられている現実を肯定することには同意しますが、それは「文化」の話ではない。


文化とは、共同性という規範的観念を育む装置であり、そのことに対して自発的に投企する「生きられている現実」としての営為です。いわゆる「留保のない生の肯定」に私は同意します、しかし、ダンボールを被って暮らすことは、市民社会の市民生活ではありません。福祉という概念は、金と食糧で生存させればいいということではありません。言い換えるならこういうことです。規範のない場所で、人が生きることを肯定することと、規範のない場所で、人が生きえないことは、別の話です。


生きえないわけではない、私が生きているのだから――と「「私が在る」に依拠して」mojimojiさんは言いますか。原理的地平の確認ではない実践としての「「私が在る」に依拠する」とは、私の在りようを他者に主張して、他者の在りようを規定することではありませんよね。それは「民族主義」と同じことです。ディアスポラが倫理の条件であることは、その通りです。倫理を人に主張して私たちのディアスポラを言説において指し示すことは、倫理的ですか。原理主義が台頭したのは、そのような啓蒙に対するカウンターとしてです。


あるいは、比喩として、群れを作るな、とそういう話なら、簡単です。グローバリズムへの抵抗軸として群れは作られるべき、というのが私の見解です。私個人は苦手ですが。「どっちを望むのか」と問うならこうです。グローバリズムの暴力と、民族主義の暴力と、どっちを望むのか。もちろん私は船上パーティであろうが規範的な市民生活によって成立する市民社会を望むし、市民社会の一員であることから「在日」が遺棄されている現状こそ最大の問題と考えます。「民族」において群れることそれ自体が必ずしもジンバブエルワンダやユーゴへの道ではない、と私は考えます。あらゆる蓋然は排除すべき、とそういう話でないなら。


「民族」において群れることと連帯することは違います。しかし連帯するために「民族」の不可能を説き「民族」において群れることを言説のレベルで解体するなら、話はわかりますが、そういう発想には乗れない。小林秀雄があるいは三島由紀夫が示したように「民族」とは言説とその妥当の問題ではないからです。mojimojiさんは民族性を擁護していると仰る。mojimojiさんが擁護しておられるのは「「私が在る」に依拠する」ことだけです。民族性とは文化の問題であり、もちろん――それが最初から失われているにせよ――共同性の問題なのですが、規範性において共同性を涵養する文化への自発的投企としての民族性さえ「余分」と退けるなら、mojimojiさんが擁護しているのは「「私が在る」に依拠する」こと「だけ」であって、まったく民族性を擁護してなどいないか、あるいは民族性のことを理解しておられない。


市民社会と民族性は整合しない概念ではまったくありません。整合させるべく、市民生活において共同性を涵養するための概念として「文化」が存在する。こと日本においてはサブカルチャーという階級横断的な「文化」が。mojimojiさんは文化を「生きられている現実」を肯定することとしてしか捉えておられない。繰り返しになりますが、生きられている現実を肯定することには同意しますが、それは文化の話ではない。民族性を擁護することとは、共同性を擁護することです。民族主義を批判することとは、共同性の政治化を批判することです。


歴史に依拠して共同性を政治化することが近代の虚構の最たるものである――その通りです。そして、mojimojiさんはひとえにその話をしておられるのですか。そもそも共同性に批判的なmojimojiさんが民族性を擁護すると言ったところで、おためごかしにしか私には聞こえません。「「私が在る」に依拠する」ことが共同性の問題とハイデガーは言ったし、サルトルはそれに対する批判として、自由の刑を説きました。私は共同性を余分とは考えません。共同性と政治化された共同性を区別すべきと考えます。共同性がそもそも政治概念である、という話なら、市民社会の市民生活において文化という概念それ自体が不要、ということになります。もちろん、人は文化を求めます。オタク文化であれ何であれ。共同性とは何か。ルーツの問題であり、わが谷は緑なりき、ということです。


Triangle

Triangle


SMAPに『Triangle』という歌があります。作詞作曲は名曲『オレンジ』の市川喜康。2005年大晦日紅白歌合戦の大トリを飾ったこの曲は、イラク戦争を意識した内容で、先日カラオケで熱唱したところドンビキされたというのはさておき。――私は、SMAPが紅白のトリで歌ったことを含めて、いい詞だと思っているのです。


http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND35281/index.html


「無口な祖父の想いが父へと時代を跨ぎ」「一途に登り続けたひどく過酷な道」について「わずかな苦しみも知らぬまま後に生まれ生きる僕ら」が「受け継ごうその想い声の限りに伝えるんだ」そして、その後に続くサビの歌詞は、mojimojiさんが繰り返し主張されていることと同義ですね。「それぞれ重さの同じ尊ぶべき命だから」――私が言いたいことは、mojimojiさんが両立しないものと主張しておられる両者は両立するし、後者において前者は「余分」ではない、ということです。


「残酷でない解」を、みな示していると思います。共同性の幻想は必ずしもジンバブエルワンダをユーゴを引き起こしはしない。共同性の幻想において、人は融和/宥和し相互の「生きられている現実」を尊重しうる。なぜなら、人が融和/宥和することこそ、共同性がもたらす幻想以外の何物でもないからです。だから融和/宥和は、原理主義の別名としての民族主義からもっとも遠いけれど、共同性なくしてありえない。


ディアスポラにおいてもたらされる倫理は、mojimojiさんが主張しておられるような結論を示す。私はそれを否定しません。ただ、共同性に基づく融和/宥和は、mojimojiさんが再三確認しておられる原理的地平からは棄却されるものです。その棄却は、誰が得するのか、ということです。


「受け継ごうその想い声の限りに伝えるんだ」は余分でしょうか。「「私が在る」に依拠する」ことは共同性の問題です。つまり、祖父と父の問題です。祖母と母の問題です。あるいは、祖父と祖母の、父と母の、愛の物語の問題です。比喩としても、また実際問題としても、親に祝福されなかった子供を肯定するために共同性を退けている――と、私はmojimojiさんのスタンスについて受け止めています。共同性は、親に祝福されなかった子供を排除し抑圧する。それはその通りです。たとえば死刑問題について、私は今でもその筋道から考えてはいます。


ところで、この世界でもっとも祝福されない者の側に立つことを正義の条件と考える世界観があります。この世界でもっとも祝福されない者に比べて貴方は祝福されている、という言説は無意味と私は考えますが、mojimojiさんが仰っている「呪われた生などない」は、裏返すとそういうことです。裏返すことを意図しておられないなら、原理原則の確認に過ぎません。


ジョン・メリックの前で祖父と父の想いを声の限りに伝えることは残酷だ――もちろん残酷きわまりないことですが、しかしながら、ジョン・メリックさえ最後には共同性に馴致され、その結果として幾許かの「人間らしい暮らし」を得た。むろん、本人の内心は知るべくもありませんが。市民社会の市民生活への馴致は、共同性の幻想が喚起する概念です。そして、私の谷が緑であったことが、その谷で知った祖父と父の想いが、祖母と母の想いが、「私」において同胞愛を育む。


よく言われる通り、同胞愛とは博愛ではありません。mojimojiさんは一貫して博愛の話をしておられる。同胞愛の話です。同胞愛が同胞ならざる者をギロチンにかけてきたことはもちろん「過ち」ですが、だからフランスの市民社会は死刑制度を廃止したのだと思います。市民社会の市民生活における同胞愛が余分とは、まったく私には思えません。なぜなら、同胞愛なくして、つまり共同性の幻想なくして、市民社会の市民生活は成り立たないし、ありえないからです。法原理主義者と薄情な政府からカルデロンのり子ちゃんをまがりなりにも守ったものは、正義ではなく、共同性の幻想です。日本社会において同胞愛を喚起するために少女を前面に出して何がまずいのか私はさっぱりわからない。もちろん、少女には酷なことと思います。


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「残酷でない解」それは共同性の幻想に基づく融和/宥和です。グローバリズムは共同性を破壊しています。だから、SMAPの歌のように、あるいは『プロジェクトX』のように、共同性の再興が謳い上げられるのでしょう。それを、必ずしも地獄への道と、私は考えていないし、「美しい国」と批判する気にもならない。


ことに「田舎者」においては、言葉の問題から始まって、自分のことを「中国人」と思っている中国人は少ない。そして日本で話すと「わが谷」の話になる。「わが谷は緑なりき」と。それは別に映画のようなヒューマンな話ではまったくないが、わが谷が緑であることは「中国人」の徴ではないし、たとえば山西人の徴であるわけでもない。ただ、わが谷は緑であった、と。その緑であったわが谷に、彼らにとっての祖父と父の物語が、あるいは祖母と母の物語が、彼らなりに刻まれている。そして問題は、ジャ・ジャンクーの映画がよく描いているように、グローバル化する中国において、わが谷は緑でなくなっていること――現実にも比喩としても。だから彼らは海を渡って出稼ぎに来ている。いや、いた、と言うべきか。


共同性が失われることが、倫理の条件か。そのことには私は同意します。しかし、緑だったわが谷を失った人が、ナショナリズムの動員に嵌る光景を、私たちは隣の大国に現在進行形で見ています。もちろん、それは他人事ではまったくない。希望は戦争、と言った人がいました。大義のために俺を動員してくれ、と。わが谷が緑でなくなっていることの事実性を述べることは、端的に、資本制の暴力の肯定でしかない。資本制の暴力に対して批判的な人が、なぜ「わが谷は緑なりき」という個人の「想い」としての言葉を、(A)(B)(C)と切り刻んだ挙句、民族主義として退けるのか。


近代の問題としてある民族主義とは、最初に、わが谷が緑でなくなっていることから始まりました。わが谷は緑だったことに投企することを、ハイデガーは指し示しました――共同性の再興として。なぜなら、「私が在る」に依拠することとは、わが谷は緑だったことだからです。私同様「都会人」だったディーコンにおいてそれは最初から失われていた。しかしそうではない人たちが世界には幾らもある。この日本にも。


民族主義とは原理主義です。そして、原理主義を批判することと、わが谷が緑であったことを剥奪する資本制の暴力を批判することは、両立します。「わが谷は緑なりき」を「余分」として退けないこととも。博愛において、同胞愛の観念を批判するなら、市民社会の市民生活も船上パーティになる。それは、神様の発想と私は思います。誰も救わない神様の。もちろん救わないことは構わないのですが、なら原理原則の確認に過ぎない、と前提するべきです。承認とは「わが谷の緑」において、人を受け容れることです。それは「歓待」とは違うし、そのような承認こそ諸悪の根源である、ということも、一理以上はありますが。


家はあれども帰るを得ず (文春文庫)

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