世界に一つだけの私であるための貴方


『使えない個性は、要らない個性。』 - シロクマの屑籠


反論とかではまったくなく、勝手に思ったことをつらつらと。


世界に一つだけの花』をマイノリティ・ソングと私は思っていた。「ナンバーワンにならなくてもいい もともと特別なオンリーワン」と、名実ともにナンバーワンのSMAPが歌ったことが大ヒットの秘訣と私は考えていた。「ナンバーワンにならなくてもいい もともと特別なオンリーワン」であることを謳い上げる曳かれ者の小唄は、名実ともにナンバーワンであり圧倒的にマジョリティの側にいるSMAPが歌うことによって、普遍性、と言って言い過ぎなら一般性を獲得した。


あの歌は曳かれ者の小唄じゃないか、という指摘は当然あるし至極妥当な指摘と思う。しかし槇原敬之は、そのすぐれてポップなメロディメーカーとしての才能をもって、曳かれ者の小唄を歌い続けている音楽家である。


たとえば、槇原敬之美輪明宏へのリスペクトを公言している。しかし彼は美輪明宏のように「マイノリティの栄光」を謳い上げることが決してなく、あくまで曳かれ者の小唄に留まるところが、私にとっては面白い。美輪明宏においては、マイノリティは真に強く気高く美しく真実であって、マジョリティこそが贋物である。マジョリティの俗物性を軽蔑して、マイノリティの強さ気高さ美しさ真実を美輪は謳い上げた。


たとえば、槇原同様に美輪へのリスペクトを公言する及川光博は、美輪明宏から受けたそのような影響についても隠さない。最近はどうか知らんが、かつて及川はマイノリティであることの強さ気高さ美しさ真実について、マジョリティへの軽蔑と同時に再三公言していた。だから彼は音楽的にはポップミュージシャンにはなりえなかった。


しかし槇原敬之は美輪へのリスペクトを公言しながら、彼自身が歌う歌は一貫して曳かれ者の小唄であって、彼が謳い上げるのは曳かれ者の曳かれ者であることに対する自己肯定だった。そのことは、美輪明宏及川光博の音楽にはない圧倒的なポピュラリティを、メロディメーカーとしての資質と共に、槇原の作品において獲得させた要因だった。


美輪明宏においては、あるいは及川光博においては、オンリーワンであることはすなわちナンバーワンであることを意味した。簡単に言ってしまえば、審美的な芸術至上主義者ということだが。念の為に書いておくと、第一義的には性的な指向性の問題ではない。


ひと山幾らで処理場へと運ばれるドナドナな牛であることへの自己肯定を、槇原敬之というミュージシャンは高らかに、そして切実に謳い上げてきた。「世界に一つだけの花」とは「もともと特別なオンリーワン」とはそういうことと私は思ってきた。つまり、私たちがひと山幾らで処理場へと運ばれるドナドナな牛であることは遍く共有される自明の真理であって、しかし私たちは世界に一つだけの花であり、もともと特別なオンリーワンである、と。

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先日、古い友人から彼女の入院に際して「いかに自分とその病気がスペシャルであるか」を延々と電話で力説されて「先日ALSで死んだ知人がおりましてね」と返事した。気管切開を拒否したそうです、と。先方のお気に召すレスポンスではなかったらしい。もちろん私も嫌味で言ったわけだが――貴方の御病気とどちらがスペシャルですかね、という意味で。


ALSだって別にスペシャルな病気ではないし、ALSで死ねばスペシャルな死というわけでもない。ガンで死ぬことはまったくスペシャルではなく末期ガンであることは平々凡々の極みであるが、もちろん末期ガン患者と近親者にとっての問題はそういうことではない。スペシャルの問題ではないにもかかわらず「難病」をスペシャルと言い換える差異化ゲームには流石に付き合えなかった。彼女はスペシャルと言ったのではなく「特別」と言ったのだが。


難病患者にとっての問題は差異化ゲームの問題ではない。そのことは私より彼女の方がよほど知っているはずで、だから10年来の持病について事情を知り尽くしている私に対して再三その特別を主張する。個人的な苦痛と喪失感の主張に対して個人的に頷いてほしいから。つまり、それがプライベートな間柄におけるコミュニケーションということ。


社会保障の問題として指定される難病と、個人的な苦痛/喪失感の問題は違う。私に対して前者を主張してその実後者を主張している。友人であるなら、後者の主張に対して頷く以外のレスポンスはない。それがコミュニケーションということであって、そのようなコミュニケーションは家族恋人友人以外の手には余るだろう。つまり、マルクス言うところの諸関係の外部にある。カウンセラーは承認を担保しない。カウンセリングを承認のアウトソーシングと勘違いできない、つまり転移しない人もいる。


なぜ彼女が友人に対して前者の主張を介して後者を主張するか。後者の直截な主張が却下されることを懸念するからだ。「苦しいのはお前だけじゃない」と。心がないのは私の性格だが、しかしそのようなことを他意なく言うほど馬鹿でも故意に言うほど意地悪でもないので、ALSで死んだ知人が頭をよぎるような物言いは勘弁していただきたかった。


個人的な苦痛の主張に対して「苦しいのはお前だけじゃない」と返すならそれは少なくとも友人ではない。hashigotanのときそうであったように、公開されたブログに対してはありうるレスポンスであっても。人は友人に承認を、つまり自身の実存の肯定を求めるのだろう。直接的にせよ間接的にせよ。私も間接的には求める。


プライベートなコミュニケーションにおいて取引される個人的な苦痛と喪失感。個人的な苦痛と喪失感に裏打された実存。それは踏み絵であって、踏み絵の別名を承認と言う。私的なコミュニケーションにおいて、個人的な苦痛/喪失感を取引材料として差し出してくる人はいて、そのとき要求しているものは決して一般論ではなく、実存の肯定であり、つまり承認である。


痰壷であることに甘んじることは友情であるか、とは私同様に心ない別の友人の言であるが、個人的な苦痛/喪失感の主張が本人にとって痰でしかないならね、と私は反論する。たぶん、そうではない。友人であることを確認したいのだとは思う。


だから、ということではないが、ブログは知らず私的なコミュニケーションにおいて、私は他人に対して個人的な苦痛を苦痛として語る気がなく、個人的な喪失感を個人的なものとして語る気がなく、そもそも個人的なことをあまり語りたくはない。踏み絵を差し出したくはないし、自身を一般論に属する存在として、人前では自分を笑っておきたい、ということではある。

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私的なコミュニケーションは、時に個人的な苦痛や喪失感の取引として交わされる。恋愛沙汰なら尚更だ。The Systemによる人間疎外の中で、個人的な苦痛や喪失感はコミュニケーション以外に持って行く場がない。そのことに対してNOを突きつけたのが村上春樹で、彼の文学においては個人的な苦痛や喪失感が個対個のコミュニケーションを介することなく世界を流通して、疎外された人間性がネガを介してネガとして回復される。それを癒しと言うのだが、しかし対幻想ではないが私的なコミュニケーションとはどこまで行っても個対個であって、個人的な苦痛と喪失感が個人のサインにおいて取引される。


社会が個人的な苦痛や喪失感を一般論へと溶かしてスルーするとき(だからアイデンティティ・ポリティックスが定義された)、そしてインターネットにおいて同様であるとき、コミュニケーションへの負荷は倍加する。承認という莫大な負荷が。その負荷をコミュニケーションの主体たる個人ははたして負いうるか。


結果は、コミュニケーションにおける主体間の足切りラインの著しい上昇として現れた。個人的な苦痛や喪失感を取引の俎上に乗せないコミュニケーションを暗黙に合意するか、あるいはその約束事を守れない「痛い」「重い」奴を端から足切りする。貴方の実存には付き合えないし付き合う義理も筋合もないよ、と。


かくて個人的な苦痛や喪失感は持って行く場をなくして、個人的な苦痛や喪失感を自分ひとりで処理することが成熟の証とされる。つまり大人は質問に答えない。「個人的な苦痛や喪失感を自分ひとりで処理することが成熟の証」ってのは、刺された怪我を自ら縫い合わせるのが真の男、みたいなもので、要するに無茶。


とらドラ!』楽しく見ていて思うことは、登場人物がみなその無茶を敢行している姿に私たちは痛々しさを覚えると同時に切実に感情移入するのだろうか、という。無茶を敢行することがゼロ年代の私たちのデフォルトであり、承認という莫大な負荷の個々人における内なる足切りの結果として最適なコミュニケーションが実現される。ごく私的にも。つまり友情や恋愛においても。


私たちは、友だちになるために、友だちでいるために、相手に対して自身の個人的な苦痛や喪失感を自ら足切りしなくてはならない。そのような無茶な克己心を『とらドラ!』の登場人物たちはまるで矜持のように持ち合わせている。結果、痩我慢合戦の挙句の陰惨な心理戦と相成るわけであるが。


相手に合わせて自身の個人的な苦痛を自ら足切りして実現される友情が、美人投票に等しい相互的な痩我慢でしかないとき、陰惨な心理戦へと帰結することは、なにもアニメの中だけの話ではない。むろん、その友情が欺瞞であるということではない、友情が自らに言い聞かせるべき欺瞞を要請する。だから『とらドラ!』は無類に面白いと私は思っている。

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世界に一つだけの花』は、出口なきコミュニケーションの閉塞に対して一般論へと承認問題を解き放った歌だと、私は勝手に思っている。もちろん、一般論へと解き放たれる承認問題とは、結局まやかしに過ぎない。私たちの存在が個別に稀有であることは、そのことに対してYESと言う具体的な他者を必要とする。皆とYESを合唱することは成程まやかしでしかない。


具体的な他者から存在の稀有を個別性においてYESと言ってもらうために、私たちは差異化ゲームに励む。当然差異化ゲームは概ねハムスターの回し車の類なので、コミュニケーションに対する負荷は増す一方で、結果コミュニケーションにおける承認の足切りが要請されて、肯定される場所をなくした私たちの個人的な苦痛と喪失感は、村上春樹の文学によって、その他諸々のフィクションという幻想によって癒される。よくできている。その構造分析として宇野常寛の議論は滅法クリアだった。提示された処方箋に対しては同意しかねるが。


そして歌の力を、つまりYESと皆で合唱することの意味を信じるミュージシャン槇原敬之による状況に対する介入は、差異化ゲームに対するNOとして為された。――美輪明宏及川光博のような発想に対するNOとしても。だからあの歌は、皆で合唱されることが必要だった。差異化ゲームに励む必要なく、私たちの存在の個別な稀有を私たちが肯定するために。私たちが処理場へと引かれる牛であることと、しかしそのような私たちの存在の個別な稀有を、同時に肯定するために。むろん、それは曳かれ者の小唄であって、皆で合唱する私たちの存在の個別な稀有に対するYESは、まやかしでしかなく、それもまたハムスターの回し車の類に過ぎない。相田みつをのような。


ドラマの『白夜行』を見て思ったのは、人は自分を許してくれる存在が絶対に必要で、そして神なき娑婆において許してくれるたったひとりの「貴方」がいれば「私」は何だってやれるしどこまででも行ける。それが、あのふたりにとっての白夜行であったという話であるが。世界に一つだけの私であるための世界に一つだけの貴方に、花屋の店先が介入する余地はない。『MONSTER』もそういう話であったか。


とらドラ! Scene1 (通常版) [DVD]

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