江東区女性殺害事件地裁判決、雑感


http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/090218/trl0902181002005-n1.htm


上級審の判断を待つべきことではあるが、妥当な量刑と思う。判決の認定では、また検察の立証においても、殺害と死体損壊は性的な意図に基づくものではなかった。強姦を目的とした略取ならびに発覚を恐れての殺害。証拠隠滅のための死体損壊。報道を意図した検察の立証方法が妥当だったとは思えない。しかし判決は、裁判員制度の格好のPRにはなっただろう。一貫して言っているが、私は裁判員制度には賛成。だから、このような検察の立証には反対する。


強姦事件においてこのような報道を意図した立証を検察は行わない。強姦目的の略取の挙句の殺人事件だから、つまり被害者は亡くなっているから、そして遺族の了解があるから、報道を意図した立証を行う。もちろん遺族は被害者本人ではない。「死者の尊厳」という概念に意味があると考えているなら、冒涜と言う以外にない。被害者の氏名ならびに写真は報道されている。裁判報道が公衆の劣情に訴求することを懸念しないのは、暴行傷害略取殺害死体損壊に訴求される劣情など存在しない、といういかにも検察の発想か。


繰り返すが、殺された人間の殺された状況と殺された後の状況について報道を意図して立証することが遺族の了解をアリバイに為されるなら、そして被告に対する極刑適用を目的として為されるなら、それは社会正義の名を借りた司法のポピュリズムと言うほかなく、もちろん裁判員制度はそのような背景において導入されるべきものではない。私は裁判員制度に賛成なので、このような検察の立証についてははっきりと釘を刺したいし、それが裁判員制度導入を前提に為されていることなら論外と書いておく。


ところで、先日、有村悠さんのエントリを拝見して思うことがあった。


http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20090213/1234501769

 qma5・guldeen・toronei各氏が死刑存置論者であること(すでに調べがついている)を考えれば、彼らは4000年近くも前のハンムラビ法典にすら嗤われるアンバランス極まりない罪刑感覚の持ち主であるとしか言いようがない。「肯定派が多くて引いた。みんな諸手あげて帰り待ってん」と言い募るqma5氏に至っては、ぼくやNORMAN氏が一体何を「肯定」しているというのか、ぜひ答えていただきたい。適当な言葉遣いは墓穴を掘るだけだ。


 まあ、あんたらのは「厳罰主義」ですらない単なる感情的な暴言だ、と一言で済ませられるんだけれども。感情論に対してであっても、マジレスは大事だ。


私ははてなブックマークの「性犯罪」タグでたまに記事検索する。すると、ブックマークコメントに、有村さんが仰るところの「ハンムラビ法典に嗤われる感情的超厳罰主義」が散見されるどころか出る出る。「一生出すな」「去勢せよ」が二大主張。


そして、qma5さんのことはわからないが、id:guldeenさんとid:toroneiさんについては「性犯罪」タグに分類された記事のブックマークコメントで、有村さんが仰るところの「ハンムラビ法典に嗤われる感情的超厳罰主義」を主張しておられるところを目にする。guldeenさんについては頻繁に見かけるし、去勢の主張も再三見かける。


ところで私がそれに不同意か、というと、微妙なので難しい。そして有村さんに申し上げたいことは、guldeenさんとtoroneiさんについては、そうした文脈に基づく当該のコメントなのであって、つまり性犯罪処罰に対する再三の言及の延長に当該の発言があるのであって、対してハンムラビ法典を持ち出すことは煽りでしかない。


ハンムラビ法典が「罪刑法定主義そのもの」であるなら、そのような罪刑法定主義がクソでありうる、という話が前提としてある。言い換えるなら、性犯罪の処罰に際してハンムラビ法典がそのものであるような罪刑法定主義の運用に無理がある、という観点が存在する。イスラム国ではない私たちの社会はハンムラビ法典を導入する社会ではない。近代以降の自由な社会において性犯罪の処罰に対して私たちはどのように合意するか、という話。

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はてなブックマークの「性犯罪」タグで記事検索すると、ある(私は好きな)ブックマーカーが使用する『獣は檻に入れとけ』タグがよく目に入る。付されたコメントも多くが苛烈である。さて、この『獣は檻に入れとけ』タグは「ただの感情論」か。私はそう思わない。当該ブックマーカーの『獣は檻に入れとけ』タグが付された記事を辿ると『獣』が『檻に入れとけ』が何を意味するか見当が付くからだ。


星島被告に対して特に思うことはない。ただこういうことは言える。自身の私的な欲望から他人を殺す、というのは論理的にない。倫理的にないことは言うまでもない。与太で言うのではなく、私は変態は要約でよいのでカントを頭に入れておいた方がよいと思う。「変態」であることそれ自体はいかなる問題でもないのだから。むろん、自身の私的な欲望から他人の自由を奪うことも論理的にない。


自由な社会は他者危害の禁止を構成員間の相互的な原則とすることにおいてその自由であることが保障される。倫理の問題でなく論理の問題である、とはそういうこと。他者危害の禁止を、自身の私的な欲望から他人を殺したりその自由を奪ったりすることのNGを、倫理の問題として前提する人はよい。私にとっても第一に倫理問題である。しかし。そのような、カント的な倫理の問題をまるで前提しない人がいる。そういうのを普通はDQNという。先の『獣は檻に入れとけ』タグは概ねDQN絡みの暴力/性暴力事件に付されており、その中に性犯罪がある。


倫理は人に強制できない。だから、他者危害の禁止原則は自由な社会の至上命令としてあり、構成員間においてそれが相互原則であることは倫理の問題でなく第一に論理の問題としてある。そして困ったことに、というか当たり前のことだが、DQNとは論理の問題としてさえそのことを理解しない人のことを指す。


「自分がムラムラ/イライラしたから女性/男性/子供襲っちゃいました」というのがありえないのは倫理的に、だけではなく論理的にもありえないのであって、自由な社会を自由な社会たらしめるための他者危害禁止原則を理解していないし、了解していないものと見なされる。そのとき「自由な社会」の価値に合意する者はどのように臨んだらよいか。


病理学用語や法廷用語としてどうかは知らんが「反社会性人格」は暫定的にせよ規定しうると私は思う。他者危害禁止原則を顧慮しない行動により自由な社会の価値を毀損する者はある。それを俗にDQNと言うのだろう。もちろん、DQNとは社会階層的な「底辺」と等号の関係にはなく、ウォール街のヤッピーにだってDQNはいて、現在「公共」や「社会」の名のもとに絞られているらしいが。


再犯する性犯罪者が、つまり他者危害禁止原則を端から顧慮しない者が、まさにPublic Enemyであることは違いない。その意味では、有村さんが取り上げた当該の記事における被告の行為に対して、guldeenさんやtoroneiさんが、再犯する性犯罪者の処罰に対するそれと同様の問題意識に基づいて発言したことは、妥当と私は思う。


有村さんは、知ってか知らずか、そのような文脈と論点の存在をバッサリとネグって、guldeenさんとtoroneiさんの当該事件に対する当該発言だけを切り出して「罪刑法定主義」に論点を限定してハンムラビ法典まで持ち出して論難している。そもそもが社会の在り方に対する認識の問題であるとき、現代日本の事件に対してハンムラビ法典を持ち出すことはまるで意味がない。煽る以外の意味は。


むろん「一匹と九十九匹と」という問題意識もあって、有村さんが常に「一匹」の側に立つ人であることはよく存じ上げているが。自由な社会という命題の応用問題について、「九十九匹」の側に立つ意見に対して罪刑法定主義の観点から感情論を指摘することは、論理として間違っている。

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自由な社会に対する構成員間の相互的な信頼(=trust)が御破産したとき、DQNとその犯罪の問題はリスクとそれに対する対処、言い換えるなら不確実性の減免の問題になる。自由な社会の価値に対する合意について「犯罪者」を信頼する、相互性に基づく判断のその不確実性から、人間としてではなく獣として扱う、ということ。


他者危害禁止原則を破棄した者に対して、自由な社会の価値に対する合意を改めて見込み、信頼すること。その不確実性を、自由な社会を危うくするリスクと見なして、自由な社会から隔離して檻に入れておくことが、あるいはフィジカルに他者危害の蓋然をデリートすることが、すなわち去勢が、最善解にして最適解と見なされる。動物化するポストモダンというか、まさにポストヒューマンとはこのことだが。信頼とは、不確実性に対するあまりに人間的な解だった。不確実性を減免するために、私たちはすべての人間を人間として信頼することをやめて、獣は檻に入れておくことにした。


自身の私的な理由から他者危害のリテイクを法廷で被害者に対して公言する、あるいは自身の私的な欲望から他者危害に躊躇ない「犯罪者」に対して、自由な社会を自由な社会たらしめるために終身刑を去勢を主張することを「ただの感情論」とは必ずしも言えない。むろん私はそのことにすべては同意しない、が。


後日改めて記事を書くかも知れないが、エルサレム賞受賞スピーチにおいて村上春樹が使用した巧みな隠喩を拝借するなら。なるほど私たちは壊れやすい卵であるかも知れないが、しかし卵は高く堅固な壁にぶつけられて壊れるばかりではない。壊れやすい卵が壊れやすい卵をその欲望から壊すとき、高く堅固な壁は残ったひとつの卵を野蛮な暴力から守りさえする。


私は、壁はあらゆる壊れやすい卵をくるむための繭たりうるために作為されたと思うし、そのために高く堅固であることを致し方ないと思うが、そしてもちろん完璧な絶望が存在しないように完璧な壁などといったものは存在しないのだが、しかし壁が私たち壊れやすい卵の本源的な自由のために要請された作為であるとき、その致命的な逆説において、私たちが作為するThe Systemは、その私的な欲望から他の卵を容易に壊す卵を、野蛮な暴力から守るだろうか。守るべきなのだろうか。欲望から他の卵を壊してしまったその卵もまた、壊れやすい、そしてその尊厳を守られるべき個人であるなら。


私は被告より余程殺伐荒涼たる性的嗜好の持主だが、そのことに葛藤したことはない。むろん、他人との関わりでは葛藤もしたが。必ずしも「一匹」に肩入れできない私の結論は、そういうことになる。被告の発言や異性関係の有無から「非モテ」が云々されてもいたが、他人との関わりにおいて葛藤する経緯がなかった人なら、そのことに対して私は、被告の自身の欲望に対する葛藤と、他人に対する無葛藤を、残念に思う。そして私は、被告の残念に対して『獣は檻に入れとけ』とタグを付する気にはなれない。信頼を知らない人に対して、私たちは信頼を与えうるだろうか。罪刑法定主義に限らず、このような観点からも、量刑は妥当と、私は思う。


The Wall

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