エルサレムと表現


立命館大学におけるセクハラ写真の撤去を支持する - あままこのブログ

性は「社会的」なもの。だからこそそれは「社会的」に表現されなければならない - あままこのブログ


思ったのだが。私は現物を現場で直接目にしたわけではない。とはいえ筋論として「写真の展示」は「主張」ではなく「表現」ではないのか。表現に主張が付随することと表現それ自体は別です。そして「表現」が「撤去」されることは問題です。「主張」と別の問題ならなおのこと。「自由な社会」において「不快感」が「猥褻」概念を構成するか、ということに議論が存在するとき、「不快感」において「表現」の「撤去」を支持することは、筋としても悪い。


性はもちろん個人的であって、個人的なものが公共に提示され問われるから「表現」なんです。個人的なものを公共に提示することが問いを意味する社会である限り。表現としての出来不出来や巧拙はあるしまた表現として問われる水準の事柄も存在する、そしてそのことについては現物を現場で見ていない私は判断できないが、それを理由に公共からの「撤去」が表現に対して許容されるなら「自由な社会」はおためごかしでしかない。おためごかしでも構わないが、なら「自由な社会」とか嘯くべきでもない。「自由な社会」とは相対的な程度問題ではないのだから。


表現の自由」とは「素晴らしい表現だから自由」ということではない。「最低最悪の表現であっても自由」が「表現の自由」ということ。だから、その能書きが能書きであることを指摘することはあってよい。が、能書きと踏まえずに筋論を通そうとすると、つまり逆説のつもりでカマトトを論駁に用いると、無理が生じる。


たとえば、石内都という写真家がいる。


http://www.mmat.jp/event/ishiuchi/press.html


彼女は、女性の身体の傷痕を撮影した写真で知られる。フェミニズムの問題意識から撮影してきたのではなくまったく個人的な理由であったと写真家は述べている。「不快感」においてその写真が「撤去」されることがけしからんのは「素晴らしい表現だから」ではないし、公立美術館で回顧展が開かれるようなアーティストだから、でもない。


石内都はまったく個人的な理由から女性の身体の傷痕を撮影し始めた。撮影し続けてきた。そして発表を重ねた。私は彼女を素晴らしいアーティストと思っている。しかし彼女の写真が「不快感」において「撤去」さるべきでないのは「素晴らしい表現だから」ではない。

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だから。「そういうことは公立美術館でやれ」ということなのだろう。商業を介さない表現行為は「公立美術館」という特区に限定される。私立大学の学生ラウンジとか論外。現代において「表現」が存在し表現行為においてその存在を規定される「公共圏」は「公立美術館」という経済活動に一義的に規定されない特区にしかない。その意味では、インターネットさえとうに「公共圏」たりえない。


グローバル資本主義の席巻する世界において「公共圏」が「公立美術館」という経済行為を一義的に排除した特区においてのみ存在するなら、私立大学の学生ラウンジにそれが存在しないことも致し方ない。そして、表現に付随する政治的主張はインターネットという偽りの公共圏においてのみ通用する。表現が顧客の不快感において撤去される事態をなんら守らない。確かに「公立美術館」がカノンを収蔵展示する以外に現代において存在する理由はさしてないだろう。


逆立している、しかしそれがポストモダンということかも知れない、と最近何でもポストモダンということで納得している私は思う。しかし反動的に言うなら、表現が表現行為として為されることを守るために公共圏は要請され、公共圏のために主張は百家争鳴として起こるべき。つまり、それが政治ということで、表現が表現行為として為されることを守るために政治的な主張が政治的に為されることは要請される。表現が表現行為として貫徹されるために政治的主張は要請される――たとえばフェミニズムという。両者は車の両輪であって「片っぽだけじゃトべません」。


別の言い方をすれば、表現が表現行為として為されることを阻害するために為される政治的主張は、マッカーシズムの類でしかない。約めて言うなら、文学のために政治は存在し、文学を疎外する政治は政治主義でしかない。私は政治主義を好かないし、間違っていると思っている。


自由主義における「政治」の原理は「一人一票」の平等を保障し、それを発言という「声」や言論においても保障する。デモクラシーの容器はかく規定され、内容物に「自由な社会」の構成員は責務を負う。


一方「文学」とは原理において、また歴史的にも「一人」が「一票」に還元されないがゆえに本質的に「政治」と対立する。しかし「一票」に還元されない「一人」を守るために「一人一票」のデモクラシーは百家争鳴という内容物として要請される。それは「自由な社会」の根幹としてある。


「個人的なもの」が公共に提示され問われる、その、文学という営為の場所は、デモクラシーという立場の相違に基づく議論の百家争鳴が保障する場所である。デモクラシーを多数決と解する見解を某所で見かけたが、それは全然違う。何の話をしているか、むろん村上春樹

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私も紹介するが、ソンタグはいつもの通りとても正しいことを言っている。私はエルサレム賞の件と講演の要旨を彼女の生前に耳にして、まったくソンタグらしいと思ったが、改めて話題にされるとは思わなかった――それも村上春樹の受賞によって。現在ソンタグがどのくらい日本で読まれているか私は知らない。村上春樹と比してよほど読まれていないと思う。むろん、読まれること/読まれないことは文学的価値とはなんら関係ない。本当は全文引用したい。


http://www.melma.com/backnumber_26258_1844231/

http://www.melma.com/backnumber_26258_1844232/

作家の最初の仕事は、自分の意見をもつことではなく、真理を語ること、そして虚偽や誤解の共犯になることを拒むことです。文学というものは単純化を求める声に抗して、ニュアンスや矛盾する事柄を表現することです。作家の仕事は、世界をありのままに眺めるために手助けをすること、すなわち世界には多くの異なった要求や経験があるのを理解できるようにすることです。


現実を、現実のつまらなさを、熱狂の現実を描写することです。文学によって生まれる叡智の本質は、文学がもたらしてくれる複数性にあります。これこそが、なにが起ころうとも、つねにそれとは違うなにかが起きていることを理解させてくれるのです。わたしはこの「それとは違うなにか」が大切なのだと思います。


わたしは、自分が大切に思う権利と価値の対立に強い関心をもっています。たとえば、真理を語ることが正義にならないこともあります。正義を推進することが、真理のかなりの部分を抑圧することもあります。


二〇世紀の多くの著名な作家たちは、公的な意見を表明しながら、公正な大義と信じるもの(多くの場合は、かつて公正な大義であったにすぎないもの)を推進するために、真理の抑圧の共犯となりました。そしてわたしは、真理を語るか、正義を推進するかを選ばざるをえなくなれば(もちろんそうならないように願っていますが)、真理を語ることを選ぶでしょう。


もちろんわたしは正義の行動というものを信じています。しかしこれを実行するのは作家のつとめなのでしょうか。三つのことを分けて考えるべきだと、わたしは思います。話すこと、書くこと、存在することです。わたしは今話していますし、今回の賞をいただくためには、わたしは書くことに従事してきました。そして存在することとは、正義の行動と、他者との連帯を信じる人間であることです。これらは異なる次元のあり方なのです。

しかしこうしたわかりやすい意見は、わたしの作家としての意見でしょうか。それとも良識のある人物として、わたしはこうした意見を語り、作家としてのわたしの地位を利用して、同じことを主張している人々の声に、わたしの声を重ねようとしているのでしょうか。ある作家が行使できる影響力は、純粋に外在的なもので、有名人のもつ一つの側面にすぎません。

わたしはこれを名誉の問題として語っているのです。文学の名誉の問題として。個人の声に発言させるプロジェクトとして。本格的な作家や、文学の創造的な書き手は、たんにマスメディアとは「違う」意見を述べるだけでは不十分です。トークショーのだらだらとした通俗的な見解とは対立した意見が必要なのです。


文学とは、二五〇〇年の長きにわたって行われてきた偉大な営みであり、文学には叡智がそなわっているのだとすれば(わたしはそのことを信じていますし、そこにこそ文学の重要性があると考える者ですが)、文学はわたしたちのプライベートな運命や共同体としての多数性と矛盾を示すことによって、こうした偉大な営みとなるのです。文学は、わたしたちがもっとも大切に考える価値の間にも、対立があること、そして時には解きがたい解決があることを思い出させてくれます(これが悲劇の意味するところです)。文学はわたしたちに「なにか別のこと」を思い出させてくれるのです。


文学の叡智とは、たんなる意見をもつこととは正反対のことです。ヘンリー・ジェームズは「なにかについて、これが最後の言葉だというようなものはない」と言ったことがあります。尋ねられて意見を述べるということは、それが適切な意見だとしても、小説家や詩人がやっている最善の仕事、省察を深め、複雑さを感受するという仕事を安っぽいものにしてしまいます。


わたしたちに意見を述べさせるのは、有名人や政治家たちに任せておきましょう。作家であることと、公的な意見を述べる声であることの両方を遂行することに意味があるとすれは、作家は自分の意見や判断を作り上げることは重大な責任を伴うものだということを肝に銘ずるべきでしょう。


意見については別の問題があります。意見はみずから運動する結果をもたらすということです。作家はわたしたちを揺るがし、自由に立ち上がらせるべきなのです。共感と新しい関心を大きな〈街路〉を開くべきなのです。わたしたちが現在とは違った人間に、もっともまし人間になる可能性があるかもしれないことを思い出させるべきなのです。

わたしはイエルサレム賞を受賞したことに感謝しています。わたしはこの賞を、文学の営みに真剣に取り組んでいるすべての人々の名誉のために受け取ります。単独者としての声と、真理の複数性で作り上げられた文学の創造のために苦闘しているイスラエルパレスチナのすべての作家と読者を称えて、この賞を受け取ります。わたしは傷つき、怯えているコミュニティの平和と和解の名において、この賞を受け取ります。


現在時点での議論について、このソンタグの見解に付け加えるべき言葉を私は持たない。ソンタグは、文学の価値と、デモクラシーの価値を、同時に説いている。その相違についても説いている。このソンタグの言葉について「エルサレム賞授賞式で言ったこと」に流石と思うかその内容に流石と思うか。むろん両方であって、その「両方」がデモクラシーと文学の相互に自律した価値、ということ。そしてそれはソンタグにおいてそうであったように、決定的に相容れないものを孕むと同時に、相互補完的でもある。


あらゆる文学賞が「踏み絵」たりうることはわかりきったことで、そして蓮實重彦内田樹に応えて言ったように、バルト以降「文学」はノーベル文学賞の問題でもエルサレム賞の問題でもあるはずがない。サイードは違う意見だったしそれもわかるし見識と思う。


ソンタグと相違して「文学」の自律的価値に特段の関心ないなら「一人一票」のデモクラシーにおいて村上春樹という一個人の判断と行動について当人以外が事前に慮る必要ない、と私は思う。著述家村上春樹に関心あるなら「慮る」その理由もわかる。そうでなく一個人の判断と行動の問題なら「静かに見守る」ことが一個人の判断と行動に対する敬意の表し方、と私は思う。「そういう話」なら――だが。むろん授賞式の以前に公的に判断と行動を問うことはあってよいしそれは「自由な社会」の意味と意義でもある。


デモクラシーに同意する者たちにとって対立の要所は、私たちが責務を負うデモクラシーの内容において「自由な社会」を公的に判断と行動を問うこととして捉えるか、あるいは個人の内なる良心に配慮することとして捉えるか、そのスタンスの相違にある。


言い換えるなら、「自由な社会」の内容を「公的に判断と行動を問うこと」と第一義に考える者は、イスラエルの問題について一個人としての村上春樹に対しても措く能わず、だろうし、「自由な社会」の内容を「個人の内なる良心に配慮すること」と第一義に考える者は、イスラエルの問題について先んじて一個人の判断と行動を公的に問うことを否、と見なすだろう。


デモクラシーに対する同意のうえで、私たちが責務を負うデモクラシーを構成する内容に対するスタンスの相違が、対立の要所にあると私は思う。「自由」を外的な行動において捉えるか内的な良心において捉えるか、典型的な「左」と「右」の対立とも思う。少なくとも「政治の個人に対する越権」でも「政治主義者と個人主義者の対立」でもない。そして、一義的には文学の問題でもない。

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第一義に「村上春樹」という固有名詞がトリガーとなった議論だった。「社会」を欠き経済と政治に支配された世界においてもっともグローバルに読まれる現役作家として「村上春樹」という固有名詞は巨大である。御本人がその巨大についてかつて「やれやれ」と述べ、そして現在その「社会」的責任を引き受けるべく試行していることは指摘した。


文学とは固有名詞の問題ではなく、またデモクラシーとしての政治も固有名詞の問題ではない。にもかかわらず「村上春樹」という(固有名でなく)固有名詞はかくも頓着され粘着される。固有名詞の巨大化が、経済と政治に世界が支配されることの意味だから。その「経済」が80年代的な記号消費の別名であり、その「政治」がデモクラシーでなくポピュリズムであることは言うまでもない。


商業的に勝利した村上春樹は別だが、デモクラシーなくして、文学はその公共圏における居場所を保ちえない。そして人は文学を表現を必要とするし、文学が表現行為が本質的に禁忌であれそれを公共圏において守るためデモクラシーは要請される。文学を文学として、表現行為を表現行為として、経済と政治に支配された世界において、限定的にせよ貫徹するために。


ソンタグは、そのことを言行をもって示すために、エルサレムに向かった。砲弾飛び交うサラエヴォで文学を守らんとしてベケットを上演したように、砲弾飛び交うエルサレムで文学の自律的価値を守らんとするために。国家が暴虐の限りを尽くす中で「文学の営みに真剣に取り組んでいるすべての人々の名誉のために」「単独者としての声と、真理の複数性で作り上げられた文学の創造のために苦闘しているイスラエルパレスチナのすべての作家と読者を称えて」。そして「傷つき、怯えているコミュニティの平和と和解の名において」。それが、政治と文学の、デモクラシーと表現の、相互に自律してしかし補完的な、価値ということ。つまり、自由な社会の必要条件。


百家争鳴なくして、文学も表現も、そして一個人の声も内なる良心も、守られることはない。デモクラシーなくして、文学という毒の存在を許す公共圏は成立しない。村上春樹において、文学という毒はグローバルな経済に即して存在を許されている。だから、村上文学は公共圏を要請しない文学でもある。それは、文学の例外である。そのことが「村上春樹の凄さ」に繋がる。が。


その例外であることに慣れている読者が、デモクラシーに伴う百家争鳴を、村上春樹エルサレム賞受賞について嫌厭しているのかも知れない。むろんそれは構わない、しかしそれは、趣味嗜好の問題であって、むろん趣味嗜好の問題であることはまったく構わないが、決して文学を守ることではないし、一個人の良心を守ることでもない。


本来、デモクラシーという百家争鳴なくして、公共圏は構成も規定もされず、そして文学という毒は存在を許される場所を公的に持たない。グローバルな経済がそれを許したから、村上春樹の文学は新しいし、凄い。それはまったく外的条件の問題であって、一個人の良心の問題では一義的にはない。


そしてデモクラシーという百家争鳴なくとも、公共圏が構成も規定もされずとも、個人の良心は存在しうるしそのことに配慮することは可能である。しかしその個人の良心は、秘められたものとしてあり、秘められたものとしてしか存在を許されず、つまり公共圏を欠くとき良心はコミュニケーションを通してしか顕れることがない。


村上春樹の前提は、30年前既にそこにあった。それは彼の明察であり「凄さ」だった。そして30年を経て、百家争鳴伴わない方がおかしい「村上春樹エルサレム賞受賞」は、個人の良心の問題へと還元される。難しいのは、それもまた見識と私が考えること。


「飢えた子の前で文学は可能か」と問うた哲学者に、かつて経済と政治が支配する世界における表現行為のグローバルな可能性を信じた音楽誌編集長は答えた。自殺を考えている人間の前で山盛りの饅頭は可能か、と。名を渋谷陽一と言う。


イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告

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