完璧な計算で造られた楽園で


承前。


Lhankor_MhyさんとNakanishiBさんへのコメントレス - 地を這う難破船


>id:NakanishiBさん。

>さもないと不必要に党派性の謗りを招きかねない、そういう状況と思います。
>inumashさんの言葉を借りて「「ブックマーク」というインターフェイスの特性」と言うなら、それは現状、独立したページにおけるコメント一覧システム、というインターフェイスにおいて、党派性の謗りを招きかねないことと思います。 

 「それ」というのは、sk-44さんのエントリーにコメントをしたことでしょうか?。


違います。「それ」とは「「ブックマーク」というインターフェイスの特性」のことです。

とりあえず私が批判的な意見を持っているエントリーに批判的なコメントをすることもあることを前提に、ご指摘の「謗り」に無自覚ではないが、しかしそれでも書いているということです。


「それでも書いている」のは承知していますしもちろん無問題です。ただ、inumashさんの――一連の――批判の前提に「党派的行動に対する否」があります。ブックマークコメント等拝見する限り、その問題意識は一定の支持を得ている。それが「謗り」であることに(個々のブックマーカーの意識ではなく)「独立した頁におけるコメント一覧システム」という「「ブックマーク」というインターフェイスの特性」が決定的に関わっている以上、つまりシステムの問題である以上、inumashさんの「党派的行動批判」に対する駁は個人ブログのTBという形式を要請する、さもなくば結果的にinumashさんの批判とそれに対する支持を裏書するに過ぎない、と私は考えるということです。原理的問題です。


要するに、一般論ではありますが、「inumashさんが提示する(左派右派を問わない)党派的行動批判」に対して異を述べるなら、という条件付の話です。党派性の謗りを招くインターフェイスを利用して党派性批判を批判することは、泥縄に嵌る、ということです。そして党派性批判は支持され空気は醸成される。

 そこで確認の質問ですが、ブクマコメントやスターをつけることは普通のコメントよりもさらに高く「党派性の謗り」を受ける可能性があるわけです。私が見たところ、sk-44さんははてなブクマはほとんど使わず、ブクマコメントやスターは一切使っていません。これはこのエントリーで書かれたブログに関する考え方からきていると考えていいのでしょうか?。


第一義には単純に得手不得手の問題です。100字は私には短すぎるし上手いことも特に言えない。スターは一時検討したのですが、結局使わずじまい。別に私は一般論としても「ブクマコメントやスターをつけること」を批判しているわけではない。ただ、現状、インターフェイスにおいて党派性の謗りを招くものであることは疑いえない。そしてinumashさんが示しておられるような党派的行動批判が支持される。一種のマッチポンプではありますが。システムに発するマッチポンプ、ということです。なので。

つまりブログを前提に「個人が個人として意見」するのにはふさわしくなく、責任を負わないままに「党派性」を発揮する、もしくはそのように見られる可能性が高いと。私はだからそれらは使ってはならないというところまで基準を厳しくする必要があるとは思いません、sk-44さんもその基準を他人に適用するつもりはないが自らに対しては持っているということでよろしいでしょうか?。そうであればご意見は了解できます。


「ふさわしくない」とは思いません。原理的問題に対する抵抗として個人ブログとその相互TBは存在する、とは思いますが。「「党派性」を発揮する」とも言っていないし「責任を負わない」とかまったく言っていないし思いませんが。「責任を負う」こととインターフェイスは関係ありません。私も「だからそれらは使ってはならないというところまで基準を厳しくする必要があるとは思いません」。


他人の発言をパラフレーズすることは私もよくやりますが、そのパラフレーズは間違っており「sk-44さんもその基準を他人に適用するつもりはないが自らに対しては持っているということでよろしいでしょうか?」よろしくありません。そして「そうであれば」そうではありません。

■■■


私が「一般論」をNakanishiBさんのコメントに対して述べたくなったのは。NakanishiBさんには言いたいことがあるのだろう、と思うからです。

 私はブログを持っており、ときおりそこからトラックバックしてネット上の個人の主張を批判しています。それは独立して批判に価する問題があり、かつ何らかの形でそれを相手に知らせる意味があると判断したときにのみそうしています(ただこれはあくまでエントリー化してトラバする必要条件です)。上記の批判は特にその必要がないと判断したのでコメントのみにしたわけです(読んでそのまま書いたという側面もありますが)。inumashさんについては別のブログのコメントランでブクマコメントを取り上げて非難してそこでやり取りをしましたが、エントリーについてコメントを書いた時点で付け加えてエントリーで批判する必要をもはや感じていませんでした。


存じ上げています。「何らかの形でそれを相手に知らせる意味があると判断」しなかった、ということはわかりました。それはNakanishiBさんの判断だと思います。ただ私が思うのは。

コメントをお読みになっているのでわかると思いますが。この言葉に括弧をつけるべきだというのが私の主張だからです。テーマにおいてはっきりといくつかの専門用語や専門領域について立脚した議論を行っている以上私には必要なことだと思います。まさにその言葉を使うことで喚起してしまう「いかがわしさ」こそがいわゆる「言語ゲーム」の属性だと思うからです。wiseler 氏のブクマコメントでの反応はこの「いかがわしさ」への無自覚の例になっているのではと思います。


「まさにその言葉を使うことで喚起してしまう「いかがわしさ」こそがいわゆる「言語ゲーム」の属性」よくわかります。私の問題意識でもあります。私が括弧で括らなかったのは「言語ゲーム」と知っているからです。知らない「無自覚な」人もいる、ということですよね。ガザ云々国際法云々に限らず、「言語ゲーム」の陥穽は、ネットにおける議論の不可避の条件とも時に思います。


私は断念を認識して「でもやるんだよ!」とはてなで「生き生きと」「言語ゲーム」やっています。さもないと何も発言できなくなるからです。いや「さもないと何も発言できなくなる」は乱暴な話でありかつ私の事情でもありますが、率直に申し上げて、NakanishiBさんのブログが頻繁に更新されなくなったのはそのことと関係がありませんか。邪推だったら申し訳ありません。


「wiseler 氏のブクマコメントでの反応はこの「いかがわしさ」への無自覚の例になっているのではと思います。」仰ることの意味は私はわかりますが、そしてwiselerさんについては必ずしもそう思わない、というのが私の意見ですが、「いかがわしさ」への自覚なき者がNakanishiBさんのこの記述を読んで何のことかわかると思いますか。「ハイコンテクスチュアル」に過ぎる。


「「いかがわしさ」への無自覚」にNakanishiBさんが問題意識を持っておられることは存じ上げています。私の問題意識でもあるので自分なりに四苦八苦して書いています。その結果が「言語ゲーム」という表現でした。


「括弧をつけるべき」というNakanishiBさんの御指摘は了解しました。その問題意識は御自身で展開されたら如何ですか、と私は思います。「wiseler 氏のブクマコメントでの反応はこの「いかがわしさ」への無自覚の例になっているのではと思います。」wiselerさんに対して伝えたいことがないならそもそもこのようなことを書くべきではない。


「wiseler氏のブクマコメントでの反応」についてNakanishiBさんが仰りたいことは私はわかります。伝えていただかずとも「ブクマコメント」を一読した時点で。私に、あるいはこのブログの閲覧者に伝えようとしたそのことを、wiselerさんに対して直接に伝えようとは考えないのですか。


言語ゲーム」の陥穽(という「いかがわしさ」)を忌避して沈黙することは、あるいは(三島のような呉のような宮台のような)饒舌なアイロニストになることは、あるいは個人的な実感から発して相対主義の結果として保守を選択することは、あまりにテンプレートであり、繰り返されてきた話であり歴史です。私もよく沈黙するし、饒舌なアイロニストにもなるし、相対主義が帰結する保守にも親和的ですが。


言語ゲーム」の陥穽を忌避して饒舌なアイロニストを忌避して相対主義が帰結する保守を忌避して、それでも沈黙を選ばず発言し続ける道は、なるほど困難です。しかし最終的には「言語ゲーム」の不可避ゆえに、断念の上に築かれる言葉と論理の建築物についてはその廃墟を常に意識されなければならない。私はそう思います。NakanishiBさんの言葉で言う「「いかがわしさ」への自覚」とは私の言葉で言う「断念の意識」であるでしょう。


付け加えると、NakanishiBさんに対して言うことではないですが、Lhankor_Mhyさんが関係しておられる話のようなので書くと、Apemanさんに対して私は僭越ながら「正しいがいろいろ自重すべき」と勝手な他人の立場から思うことがあるのですが、しかし他に対する喧嘩腰も本当に腹を立ててのこととわかって納得しました。断念に対する意識なき「言語ゲーム」にあの人が腹を立てることはわかります。自覚された「言語ゲーム」の方がマシ、とは流石に私も思いませんが。

 個々の場面で無自覚になってしまうとしても私もそのような「いかがわしさ」に無自覚ではありません。私のさきのコメントが無自覚であったのではないかと指摘されたのであれば「そのような状況」においてある程度はあたっていると思います。sk-44さんのエントリーに対してしたコメントですしご指摘は了承しました。


「いかがわしさ」の問題であるなら「私のさきのコメントが無自覚であったのではないかと指摘」したわけではまったくありません。本当に、たとえば「悪文」云々のくだりと「言語ゲーム」という表現に対する指摘との繋がりがよくわからなかったのです。私はいつも下手だなぁはしごたんや瀧澤さんが羨ましいなぁと思って文章書いているので、御指摘ごもっとも、とブコメに対して思っただけなのです。以下を拝見して了解しました。

 ただ、いみじくも「ルーズ」さをsk-44さんが「仕様」として認めたようにそれがそう簡単に拭い去れないのも確かだと思います。これは私見ですがsk-44さんの文章がこの一年ほどかなり簡明になってきています。それは言説にどうしても残ってしまう「いかがわしさ」をあえてさけていないということだと思っています(以前は留保がかえってよくない意味で「いかがわしさ」を露にしまうことも多かった)。だとすれば「言語ゲーム」のような言葉は簡明に文章を書くことを選んだときにはなおのこと気をつけなければいけないのではと思います。とはいえ、こちらが受けた指摘についてどのように対応するかと同様に難しいとは思います。


「それは言説にどうしても残ってしまう「いかがわしさ」をあえてさけていない」仰る通りです。「言語ゲーム」の不可避について断念を意識して。むろん、容易に「断念を意識している」という「内心」のアリバイにおいてシニシズムや饒舌なアイロニストへと直結するスタンスですが。「以前は留保がかえってよくない意味で「いかがわしさ」を露にしまうことも多かった」というのもその通りと思います。


誤解かも知れませんが、私とNakanishiBさんの問題意識には通じるところもあると思います。私は「「いかがわしさ」を敢えて避けずに」書くことを選択しました、NakanishiBさんも「いかがわしさ」を忌避することなく書いてくれれば嬉しい、と、そういう話です。むろん、勝手な他人の立場から言うことです。NakanishiBさんが御自身のブログで「いかがわしさ」に対する指摘を続けておられることも存じ上げています。

■■■


>id:Lhankor_Mhyさん。

正直、おっしゃっている事が難しく大変困惑しています。


申し訳ありません。

いずれにせよ、これ以上時間を割いていただくのはご迷惑でしょうから、もし、「○○が言語ゲームである」というための要件について示唆を与えるような良書があればお示し下さい。自習いたします。


私は『新書一冊目を通してから発言しなさい派』ではないので「良書」とかそういうことではないのです。「他者」がいるから言葉がある。言葉から「他者」を切り離すと「言語ゲーム」になる、ということです。そして、たとえばLhankor_Mhyさんの化学兵器禁止条約についての発言が「他者」を前提していないように私には映った、ということです。むろん、法は機能において「他者」を包括します。機能の話をしておられる、と思っていました。それで構いません。


繰り返しますが、それで悪いとはまったく思いません。なぜなら、NakanishiBさんへのレスに記した通り、私も「言語ゲーム」であることに躊躇なく、そして誰しも「言語ゲーム」であることを避け難い、かも知れないからです。少なくとも、自身が経験的に知らないことについては。私は、ガザ地区の住民のことを経験的に知るわけではない。「実感をもって知ること」の問題と考えて、ガザ地区を東京に例えて説明しておられた人もいました。


だから「良書に当たって自習せよ」ということになるか。必ずしもそうではありません。情報とは読み方と私は思いますし、本来リテラシーとはそういうことと思います。ただ、情報を読むとき、文脈間の闘争が存在する、そのことを意識した方がよい、と一般的に思います。


言い換えると、輻輳する文脈に基づく状況に対して単一の文脈から解釈することは「言語ゲーム」たりうることであり、単一の文脈を一切と考えるならシニシズムです。wiselerさんが、Lhankor_Mhyさんが、「単一の文脈を一切と考えている」とは私は思わない。ただ、そう誤解する人があったし、誤解の余地が存在したかも知れない、というのが現在の私の見解です。そして、Lhankor_Mhyさんは「状況」の話をしておられたわけではなかった。それが現在の私の見解です。

 私の考えでは、イスラエルの今回の白燐弾使用は化学兵器禁止条約の遵守について疑義があるので、チャレンジの申請すべきだと思っています。そして、我々がそういった行動を起こすのであれば、幸いにして化学兵器禁止条約の加盟国である日本にチャレンジさせるのが近道です。ですから、「白燐弾はリストに載っていないから化学兵器ではない」という意見はもちろん、「化学兵器である可能性は低いから日本は行動を起こす必要はない」という意見にも同調できません。「化学兵器ではない」という意見ではないなら、チャレンジをしないという事についてどのような価値判断をしているのか(アメリカの不興を買うとか?)大変に疑問です。
 
 さて、私は以上のような意見を、保護法益から切断して語ってみました。エントリを読む限り「保護法益を考慮しないこと」が言語ゲームのトリガーとなっているようですから、上記の意見は言語ゲームなのでしょう。

 あなたは「わかってやっておられることか」と問われた。私は、たとえ言語ゲームであってもケリはきっちりつけたほうがいいと思っています。ガザの住民のこととは切断して、条約に基づきそれが化学兵器であるならイスラエルにはオトシマエをつけさせた方がいいと感じています。しかも、それがガザの住民にとっても良いことだと思っています。切断しているくせに、です。だから、仰る通り、私は分かっていないのでしょう。
 
 私はこういった意見を言うのがめんどくさかったのです。だから、TBもせずにコメント欄に書いています。それは「わかっていないでやっていること」を無意識的に分かっていたのかもしれません。「パレスチナ問題について、何を理解しておられるのか」と問われる事が怖くてならなかったし、今でも怖い。その通り、ご大層な意見を並べながら私は分かっていないのですから。ネットやニュースを見て分かった風な事を言っているのですから。だから、とてもめんどくさいのです。だから、言語ゲームとの指摘に、全てをすっぱり忘れ去りたくなるのです。
  
 sk-44さんの問いの答えになるでしょうか?


なっています。大変真摯な言葉と思います。私が不明でした。書いてくださって、有難うございます。


「私は、たとえ言語ゲームであってもケリはきっちりつけたほうがいいと思っています。」私もそう思います。「切断しているくせに、です。だから、仰る通り、私は分かっていないのでしょう。」反語だったら申し訳ありませんが「私は分かっていない」とは思いません。そのことがわかりました。私は不明でした。

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切断すること、切断してしまうこと、切断せざるを得ないこと、それ自体は悪いことでもなんでもない、あるいは不可避であり、現代において距離さえ離れた「他者」のことを考えることの条件かも知れません。


最近の話題に触れると。村上春樹のかつての名文句「やれやれ」とは、不可避的な切断に対する意識であり、言い換えるなら断念を表す言葉です。「他者」に対する不可避的な切断とそのことに対する意識、「他者」への断念から発する言葉。30年も以前からそのことは問題意識として共有され、たとえば柄谷行人が批判してきたものです。


そして四半世紀、「他者」への断念から発する言葉は端から「他者」をフレームアウトして為される言語ゲームへと変形しました。そのことをよしとしなかったから、村上春樹のこの四半世紀の、ことに90年代以降の作家性の変貌がある。


「他者」への断念から発する言葉が「他者」をフレームアウトして為される言語ゲームへと変形する、この四半世紀に対する抵抗として、「否」として、社会的責任を敢えて負う作家村上春樹の段階的な変貌はある。そのような村上春樹を「やれやれ」の人として現在記述することは、流石に無理と私は思います。

 私はこういった意見を言うのがめんどくさかったのです。だから、TBもせずにコメント欄に書いています。それは「わかっていないでやっていること」を無意識的に分かっていたのかもしれません。「パレスチナ問題について、何を理解しておられるのか」と問われる事が怖くてならなかったし、今でも怖い。その通り、ご大層な意見を並べながら私は分かっていないのですから。ネットやニュースを見て分かった風な事を言っているのですから。だから、とてもめんどくさいのです。だから、言語ゲームとの指摘に、全てをすっぱり忘れ去りたくなるのです。


繰り返しますが、書いてくださってありがとう、と思います。「パレスチナ問題について、何を理解しておられるのか」と私が訊いたのは、Lhankor_Mhyさんにとって「化学兵器禁止条約」以外のフックがこの件について存在するかわかりかねたからです。そしてLhankor_Mhyさんは「軍オタ」でもない。むろんそのこと自体は構わないのです。


ただ、輻輳する文脈に基づく状況に対して「輻輳する文脈」の所在を知らず単一の文脈から解釈しようとするなら、それは「状況」を問わない「テクニカルな議論」としてのみ可能です。しかし「軍オタ」でないLhankor_Mhyさんの「テクニカルな議論」が、スタティックに「化学兵器禁止条約」を論じることが、「他者」への断念から発していることでなかったなら――それは「言語ゲーム」ではありませんしシニシズムでもありません。そのことについて、私は誤解していました。いま、そう思います。

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「だから、言語ゲームとの指摘に、全てをすっぱり忘れ去りたくなるのです。」――「言語ゲーム」であるから全てをすっぱり忘れ去りたくなる、ということが私にはわかりませんでした。私にとって、ネットで何か書くことが被害者の「ケア」にならないことは自明です。しかし、Lhankor_Mhyさんにとってはそうではない、かも知れない。そのことに、上記のコメントを拝見して漸く思い至りました。


村上春樹がそうであったように、「他者」への断念から発する言葉と共に「他者」に対する社会的なコミットメントが起動する、と二段階論として私は思っています。たぶん、このことには、Lhankor_Mhyさんと私との基本的な世界観の相違が関わるのだろうと思います。


私は、村上春樹がそうであるように、「他者」への断念を自明と考える政治的ニヒリストです。「他者」への断念が自明でありあらゆる言葉が「言語ゲーム」でしかないからこそ、私たちは「他者」を志向して社会的にコミットメントする「べき」、と考えます。たぶん、Lhankor_Mhyさんは、ニヒリストではない。有体に言ってしまえば、私は特定の信仰を持ちません。だから時折自分の物の考え方が厭になる。


だから、Lhankor_Mhyさんに対して、私の立場と見解として、「時折厭になる自分の物の考え方」として、私がお伝えしたいことは。


私たちはその言葉が「他者」を欠き「他者」を断念した「言語ゲーム」であることを怖れるべきではない。「他者」をめぐる問いが「他者」に届かないことに対する断念の意識から「他者」を志向するコミットメントが起動する。村上春樹がそうであったように。


社会的行為とは「他者」に対する断念から立ち上がり、「言語ゲーム」の意識と共にアクションとして起動する。たとえば、遠く離れたガザの人たちという「他者」に対して。


「他者」は、直接には届かない。直接には届かない「他者」を包括する概念としての「政治」は、凋落して久しい。しかし、だからこそ私たちは、意識された「言語ゲーム」と共に、断念された「他者」に対する新しいコミットメントを、アクションとして模索する。遠く離れたガザの人たちに対しても。それを、非「政治」的な現代における社会的行為と指す。


ソンタグは、ジャン・ジュネは作家としてまた人間としても偉大だが、そして村上春樹は自身の人間としての偉大ならざることを散々強調してきた人だけれど(付け加えると、偉大ならざる人が書く小説と、村上春樹は自身の文学を再三公的に規定してきた。だから素晴らしい。ソンタグがジュネが素晴らしいように)、00年代の私たちは彼らではなく、きっと都会的で現代的でオシャレでスカしてエロな村上春樹に近いのだから。90年代の私たちが、JLGでなく、JLGのイミテーションとしての、岡崎京子に近かったように。


問題は、言葉が「他者」を包括する「政治」が歴史的必然に即して凋落したとき、「言語ゲーム」の外側で、届きえない「他者」に対する新しいコミットメントとして、社会的なアクションをいかに立ち上げるか、ということです。その存在が歴史的必然を証す世界的作家村上春樹は、90年代以降、その社会的責任の果たし方として、「他者」に対する新しいコミットメントを、模索し試行してきました。その評価は別です。

パレスチナ問題について、何を理解しておられるのか」と問われる事が怖くてならなかったし、今でも怖い。


――私が思うに、わからないことは怖いことではありません。わからないというそのことを知るために、私たちは決して届きえず分かり合えない「他者」をそれでも志向する存在だから。それが、概念としての「政治」の凋落した世界においてなお社会である、ということだから。言葉が「他者」を包括しない世界において「言語ゲーム」を超えて。ねじまき鳥クロニクルとはアンダーグラウンドとはアフターダークとは、そのような作品だった。

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恋する虜―パレスチナへの旅

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