Lhankor_MhyさんとNakanishiBさんへのコメントレス


承前。コメントレス。


言語ゲームと他者 - 地を這う難破船


>id:Lhankor_Mhyさん。

ざっくり申し上げますと、化学兵器禁止条約ブラックリスト方式でして、当たり前の話ですがブラックリストに載っていないからといってホワイトではないんですね、グレーなんです。
 

で、そもそも「白燐弾はブラック」と言っている人たちがいて、それに対して「ブラックリストに載っていないからブラックじゃない」という反論があった。このとき、「ブラックリストに載っていないから(グレーなので)ブラックじゃない」という人と「ブラックリストに載っていないから(ホワイトなので)ブラックじゃない」という人とがいて、再反論を行う人にとって区別しづらい状態であったのです。
で、再反論の時に、その対象を一緒くたにして「ブラックリストに載っていないからブラックではないというのはおかしい」としたため、「ブラックリストに載っていないから(グレーなので)ブラックじゃない」という人は「ブラックリストに載っていないからグレー」について反論されたように、つまり「ブラックリストに載っていないけどブラック」という主張に感じたわけです。

 
まとめると、
ブラックリストに載っていないからホワイト」
ブラックリストに載っていないからグレー」
ブラックリストに載っていないけどブラック」
の立場の人たちがいて、グレー派の人たちの中でもホワイト派に批判的な人たちとブラック派に批判的な人たちがいます。
その辺の状況は理解されていますか?


「その辺の状況は理解されていますか?」理解しています。私がわからないのは、Lhankor_Mhyさんがどの立場なのかということです。この場合「ホワイト」「グレー」「ブラック」とは何を指すのですか。Lhankor_Mhyさんにとって何を指すのか、ということです。「国際的な合意」の問題ならホワイトもブラックもありません。Lhankor_Mhyさんの整理に即して言うなら「ブラックリストに載っていないからホワイト」とイスラエルは主張しており、そのことを「国際的な合意」も同様と強弁している、ということです。「ホワイト」「グレー」「ブラック」が「法的に」ということならそれは言語ゲームです、というのが私の先のエントリの趣旨です。「ブラックリストに載っていないからホワイト」というのは単なるトートロジーです。

wiseler  別の問題は合憲がどうとかそこら辺です。/「立件されない暴力」ではなくて、立件されても要件となりえないのです。/言語ゲームと思われるならいいのですが、イスラエル擁護と思われている方がいらっしゃるみたいで。

はてなブックマーク - 言語ゲームと他者 - 地を這う難破船


というブックマークコメントを拝見して、wiselerさんの見解については了解しました。「立件されない暴力」と「立件されても要件となりえない」をwiselerさんは分別されているということです。Lhankor_Mhyさんの整理における「ホワイト」「グレー」「ブラック」とはどちらを指しますか。

  • ブラックリストに載っていないからホワイト」が「立件されても要件となりえない」を主張しており、
  • ブラックリストに載っていないけどブラック」が「立件されない暴力」の話をしているのなら、


グレーゾーンにおける議論のすれ違いはそこに発する、ということでしょう。そして「立件されても要件となりえない」を主張することは「立件されない暴力」のことを顧慮しない、ということではない。にもかかわらず「立件されても要件となりえない」を主張することが同時に「立件されない暴力」のことを顧慮しないことと見なされることに対して、wiselerさんや、あるいはinumashさんの批判と問題提起があった、と私は理解しています。


「立件されない暴力」の話をしているときに「立件されても要件となりえない」を主張するなら、貴方は「立件されない暴力」についてどのように考えておられるか。そう、「立件されない暴力」の話をしている者が問うた、ということでしょう。――で、「「立件されない暴力」の話をしている」と「ブラックリストに載っていないけどブラック」は違います。前者からは、議論の全体を後者のような表現においてパラフレーズする発想が言語ゲームに映る、ということです。


「立件されない暴力」に対する問題意識から発する議論に対して「立件されない暴力」への意識を欠いて展開される議論は端的に言語ゲームです。wiselerさんが「立件されない暴力」への意識を欠いている、ということではない、が、先のエントリで示したようなトロープさんの疑問は、そのようなものとして示されたものです。


私の見解は。暴力が存在するとき、意識の有無は措き「立件されない暴力」という問題意識を故意にせよ切断して展開される「立件されても要件となりえない」は、保護法益という概念を切断して任意の法を論じることで、「立件されない暴力」に対する問題意識から発する議論に対して提示されるそれは、言語ゲームと同様です。

白燐弾化学兵器かどうか」という判断について留保することも、被害者にとって無頓着であるのでしょうか。であるならば、私が被害者に対してできる最大のケアは「白燐弾についてきれいさっぱり忘れる」ことになってしまうのですが。


「ケア」なんて要りません。ネットで何か書いて「ケア」になると思う方がおかしい。私も「ケア」のために書いているわけではない。私が言っているのは、戦争犯罪を論じる際に保護法益という概念を切断して任意の法を論じるなら、保護法益という概念について無頓着と判断されて致し方ない、ということです。故意に保護法益という概念を切断して、つまり「敢えて」していることならまた別です。


Lhankor_Mhyさんにとって「白燐弾化学兵器かどうか」が「ブラックリスト」の問題であることはわかりました。「「白燐弾化学兵器かどうか」という判断について留保することも、被害者にとって無頓着である」ということを誰が言ったのか、私は寡聞にして存じ上げません。繰り返しますが、私が言ったのは「保護法益という概念を切断して任意の法を論じることは保護法益という概念について無頓着と判断されて致し方ない――「立件されない暴力」について現在進行形の問題意識を持ち合わせる立場において」ということです。


別の言い方をしますと。法の目的論的解釈は個別の文脈に依存する、という話を「法解釈は政治的文脈次第である」と読んで駁しておられるように私には窺えます。法には法の文脈がある、という話はそれ自体は妥当です。問題は、法には法の文脈があることとイスラエル国家の無法にはなんら関係がない、ということです。そして、イスラエル国家の無法を措いて法の文脈を主張することがガザ侵攻において為されることは、言語ゲームと形容するより私にはほかありません。


言語ゲームで悪いとは私は思いませんが、わかってやっておられることか、ということです。「その辺の状況は理解されていますか?」とのことですが、私も言葉面としては同様のことをLhankor_Mhyさんに尋ねたくもあります。つまり、パレスチナ問題について、何を理解しておられるのか、と。「イスラエル」は置換可能な任意の変数ではありません。


>id:NakanishiBさん。

どうも、お久しぶりです。エントリーの主張には同意しますが気になったことを一つ書きます。「言語ゲーム」という言葉の使い方は比喩的に過ぎるのではないでしょうか?。もちろん
>行為には背景が存在すると、たぶんウィトゲンシュタインは宗教的な枠組以外では考えなかったでしょうが。
 この辺を強調したくて使われたのだと思います。しかし、最近のsk-44さんの文章を「悪文」だと今になって突然言い出す人とがいるくらいです。「言語ゲーム」をこのエントリーのよう内容で使われるのはごく一般的ですが、他の人の「他者」についての語り方の問題点を批判する内容であり「不謹慎な発言」とそれに対する反応を扱っているのですからやはり適切なことではないと思います。特に最後の結論でデリダを出す以上ますますだと思います。細かいことですが議論のテーマがテーマですのであえて書きました。では失礼しました。


NakanishiBさんの言わんとしているところについていまひとつわかりかねる部分がある、というのが率直なところです。概念使用ならびに固有名の使用がルーズというのは承知です。仕様です、とまでは言いませんが。正直なところ、私のエントリの主張には同意だがしかし至らない点がある、ということはわかりますが、なら御自身でinumashさんのエントリに対する批判エントリを書いてTBしたら宜しいのではないでしょうか、と思います。その際、私のエントリについて言及してここが至らない、と指摘していただけるなら嬉しいことです。つまり、私ならそうする、ということですが。綺麗事として言うのではなく、異論は起こるべきであり、意見は多いほうがいい。


ブログは相互言及システムであるからして、inumashさんのエントリに対して否、と思われるのでしたらその「否」について書けばよい、と私は思うのです。私も読みたいと思います。私はネットにおける個人の個人としての「異論提出」とはエントリを書いてTBを打つことだと思います。さもないと不必要に党派性の謗りを招きかねない、そういう状況と思います。inumashさんの言葉を借りて「「ブックマーク」というインターフェイスの特性」と言うなら、それは現状、独立したページにおけるコメント一覧システム、というインターフェイスにおいて、党派性の謗りを招きかねないことと思います。党派性の有無ではなく、党派性の謗りを招く、ということです。だから私は、現在のネットにおいて個人が個人として意見表明するなら、ブログを持つに越したことはない、と考えています。


御指摘の点については同意しますが、しかし、率直に言って、Lhankor_Mhyさんが示したような整理に対して「言語ゲーム」以上に順当な表現が私には見つかりません。それ以上に適切な表現について御教示願いたいと本気で思います。以下、NakanishiBさんのコメントとは直接に関係ないことですが。


「どのみちイスラエル国家は無法なんだから」とわかりきったことをこの時勢においてわざわざ公言することをシニシズムと言います。「法の文脈に拘泥するべきではない」と付け加えて主張することも。イスラエルは死者数で100:1のスコアをパレスチナとの間に付けました。どんなヤクザの抗争だってこんな無茶はやらない。それに対してヤクザの抗争の理屈で手打ちを説くことを機会主義と言います。法の文脈に拘泥することと任意の法の保護法益概念を前提することは違います。手打ちの政治的文脈を了解することと手打ちを機会主義的に捉えることは違います。イスラエル国家の無法に対して機会主義を主張することはイスラエル国家の無法を了承することと等しい。要するに。


保護法益概念を切り離して法の文脈に拘泥する言語ゲームと「法の文脈に拘泥するべきではない」という主張はシニシズムの表裏ということです。「政治的文脈」を措いて手打ちを機会主義的に捉える言語ゲームには「現実」への断念が付随しなければならない。断念なき言語ゲームは、個人の死という問題をパレスチナ問題について隠蔽するでしょう。個人の死の話をしているのであって、無法に対する機会主義的な手打ちの話をしているのではない。「機会主義的な手打ちの話をしている」者が、断念なき言語ゲームを繰り広げることは、まことに皮肉であり、日本の「平和ボケ」の証左であるでしょう。