言語ゲームと他者


承前。


はてなブックマーク - 「アドバイス」にはたぶんならないけれど。 - 地を這う難破船

id:Lhankor_Mhy 法令  「被害報告がでれば化学兵器だ」って話ではないよね。結局、「戦争のルールとしてそれはアリ」という国際的な合意を取り付けられる運用・被害であったかということが大事なのであって。


「国際的な合意を取り付けた」と同義としてイスラエルはnot illegalを主張している、という話であり、しかしそれは強弁である、という話です――そもそも。イスラエルが言う「国際的な合意」とは「「被害報告が出れば化学兵器だ」って話ではない」ということ。

id:wiseler  なぜ別の問題にすり替わっているのだろう。/私が話しているのはイスラエルから自衛隊などの別の軍隊に変わっても通用することです。/一般論はありました。私のダイアリのコメント欄で例示しています。特に英系新聞。


「別の問題」とは「イスラエルのガザ侵攻の問題」ということですか。「私が話しているのはイスラエルから自衛隊などの別の軍隊に変わっても通用することです。」――とは「国際的な合意」は白燐弾を「禁止兵器」と指定しない、ということですか。その「国際的な合意」を言っているのがイスラエルであれ、あるいはハマスであれ。「イスラエルが言う「国際的な合意」が強弁であること」が別の問題である、という話なら、wiselerさんの立論と立場はわかります。


英系新聞のことは存じ上げています。wiselerさんは一般論に対して批判をされたのではない。「イスラエルのガザ侵攻の問題」において開示された見解に対して批判したのです――「国際的な合意」は白燐弾を「禁止兵器」と指定しない、と。


私の見解は。「国際的な合意」は白燐弾を「禁止兵器」と指定しないか、イスラエルがガザ侵攻において白燐弾を使用し非戦闘員の被害報告が発生していると報じられている現在において、極めて微妙である、ということです。事態は現在進行形である、ということです。イスラエルの強弁はその現在進行形の事態と密接に関わっている。


これもまた「別の問題」と仰るなら、言い換えましょう。「国際的な合意」は白燐弾を「禁止兵器」と指定しない、とスタティックに言い切りうることが、故意にせよ無自覚にせよ現在の状況を無視した言明であり判断である、ということです。「国際的な合意」が国際法に反映されない限り白燐弾はnot illegalな兵器である、という主張は、定義以前にトートロジカルな言葉遊びに等しい、ということです。「立件されない暴力は犯罪ではない」と同様の。


問題は、暴力が存在するということです。そして暴力の掣肘は法を尊重する者の責務です。暴力を定義しているのでないなら。法的な定義と暴力の定義がイコールであることが、法に支配された世界の泣き所です。そしてイスラエルはそのことを逆手に取っている。


「「国際的な合意」が国際法に反映されない限り白燐弾はnot illegalな兵器である」が「イスラエルから自衛隊などの別の軍隊に変わっても通用する」「私が話している」ことであるなら、そしてそれが現在進行形の状況を捨象して為される主張なら、端的に言語ゲームですね、と私は思います。


「国際的な合意」について国際法の文面に即して主張しているのがイスラエルです。wislerさんは「限定的な形式論」と考えておられるかも知れませんが、イスラエルはその「限定的な形式論」を「国際的な合意」として主張しています。それはミスリード以前にポジショントークです。むろん、イスラエルが、ということです。


だから「限定的な形式論」を「国際的な合意」と強弁するイスラエルを掣肘するための「国際的な合意」が形成されなければならない。それは「「国際的な合意」は国際法の文面に即して主張さるべきものではない」という最低限綱領に基づく。そのときに、最低限綱領に対する指摘なく「「国際的な合意」が国際法に反映されない限り白燐弾はnot illegalな兵器である」と主張するなら――「イスラエル擁護というレッテルを貼ること」にはまったく賛成しませんが――そのように受け取られうるものではあります。


一般論として言っても「国際的な合意」は現在の国際法の文面とイコールではない。「国際的な合意」が「国際法の文面」に反映される、その常なるタイムラグに対して「国際的な合意」と「国際法の文面」をイコールとして主張するなら、イスラエルの代弁に等しいかあるいはそれこそ「平和ボケ」の産物です。


法の形式論は結構ですが、形式論ならイスラエルも主張しているので、そして形式論に即して他者の主張を偽と指摘することは結構ですが、形式論に対して形式論で論駁せよ、という話はありません。みな「国際的な合意」の話をしているのであって法の形式論を話しているのではないし、誰も言語ゲームやっちゃいないんだから。


故意にスタティックに「国際法の文面」に即した「限定的な形式論」を展開するなら、そのこと自体は構いませんが、しかしそれは「一般論」でさえありません。「国際的な合意」とその内実について措いて論じることは構いませんが、「国際法」が「国際的な合意」の記述とその常なる更新である以上、「国際的な合意」とその内実について措いて「国際法違反」を論じるなら、確かにそれはイスラエル擁護の類でもありませんが、言語ゲームの類です。言い換えると、半分は議論のための議論です。

■■■


「普通の人間」を悪魔に仕立てる方法 - 想像力はベッドルームと路上から


私がトロープさんの発言を擁護する筋はないけれど――トロープさんの表現も私にとっては微妙であるしApemanさんも以下略とは思うので――そしてinumashさんの御不快もわかるけれど、inumashさんはミスリードしていると思います。『「普通の人間」を悪魔に仕立てる方法』というのは。当該エントリのコメント欄は拝見しましたが。

でもって、僕は逆にトロープさんの『wiselerはこういう人間だろう/こういう人間であって欲しい』というある種の歪んだ願望の方が気になります。他者の断片的な発言(情報)を繋ぎ合わせ、『○○なら○○のはずだ!』という形で“想像上の他者”と短絡させ対象を非難しようとする上記の言説が妥当なものとは思えません。例の『軍オタの毒』という発言もまた“対象を自分の想像上の型にはめる”という点において同一線上にあるものだと考えます。


そして、これはかつて数々のジェノサイドをより広域に、より攻撃的に拡大させた手法に連なるものであり、またアメリカがアラブに科した、あるいはイスラエルパレスチナ・ゲリラに科した『対象の悪魔化』という手法を可能にした、とても危険な考え方でもあります。


“他者”ってそんなに簡単なものなんでしょうか?“他者”とはもっと複雑で、ここでトロープさんが言うような形で単純化することなんてできない存在だと思いますが。wiselerさんが清廉潔白な完璧人間であったり、あるいは冷酷無比な極悪人間だったりするのであればそれでも良いのでしょうが、そのような人間は稀でしょう。


普通の人間なら誰しもが何らかの欠点を抱えているし、感情的になれば場に不適当な発言をしたり、暴論をかざしたりするものだと思います。それは“特別”ではありませんし、それが何か人間性を欠いた行為であるとも思いません。


上記のコメント欄でトロープさんが行っていることは、程度の差異こそあれ典型的な『悪魔化』のプロセスと呼ぶに相応しいものだと思います。言説そのものではなく、その背景を自分の都合の良いように想像し、肥大化させ、“敵対している勢力への憤り”と結合させた形で対象に貼り付ける。それを民族に向ければジェノサイドの呼び水となるでしょう。


――とinumashさんが指摘するようなことを、趣旨としてトロープさんは言っていません。inumashさんが言っておられることそれ自体には、私は大筋で同意しますが、そういう話ではなく。


国際法違反」をめぐる言語ゲームは結構だがガザでは言語ゲームどころではない。そして、ガザで言語ゲームどころでない事態が発生していることに胸を痛めている人がいる、という話です。「胸を痛める」ことを、あるいは「胸を痛めている」と言明することを要求しているのではない。私は頭はともかく胸は痛めていない。が、『面倒くさい話なので言及したくない派』が結果的にイスラエルの無茶苦茶放題の続行に加担することは知っているし、「国際法違反」をめぐるごらんの有様から改めて了解しました。


当たり前の話ですが、またinumashさんに対して説くことは釈迦に説法だけれど、ガザで行われている無茶苦茶放題に対して胸を痛めている人は日本に幾らもいます――その国際法違反に該当しうるだろう行為の被害に対して、被害者に対して。そのときに「国際法違反」をめぐる法的な形式論を展開することは、敢えてすることでなければならない。言い換えれば、イスラエルの強弁を承知で為されなければならない。


敢えてしていることではない、と主張するなら、「ナイーブ」という言葉は私は嫌いですが、措かれた「敢えて」について私は説明したく思うし、敢えてしていることでないなら「イスラエル白燐弾使用による被害と被害者」に対して無頓着ではないか、と指摘されうることとは思います。――「胸を痛めている人」から。


胸を痛めているから、胸を痛めている人がいるから、そして、傷付けられたり致命的に傷付けられて死んだりしている人がいるから、人は発言するしイスラエルの行為を批判する。私が『面倒くさい話なので言及したくない派』なのは胸を痛めていないからです。しかし人類の恥は人類が決済すべきと私は思う、だから言及する。


公的な行動において、その行動の背景は問われうる、ということです。邪推はイクナイ、ということとそのことは両立します。現在進行形の殺戮と言ってよい国家の行為に対して「国際法違反」をめぐる法的な形式論を展開することを、敢えてしていることでないと主張するなら、それは軍オタの毒が回っている言語ゲームとしての行為でしかない、ということです。


むろん言語ゲームは自由ですが、ところで、自分の発言が誰かを不快にさせることを承知で人は敢えて「不謹慎」なことを公的な場で言うものと私は思います。wiselerさんの当該発言はその部類です。そのことに対する誰かの不快表明に対して、

“他者”ってそんなに簡単なものなんでしょうか?“他者”とはもっと複雑で、ここでトロープさんが言うような形で単純化することなんてできない存在だと思いますが。wiselerさんが清廉潔白な完璧人間であったり、あるいは冷酷無比な極悪人間だったりするのであればそれでも良いのでしょうが、そのような人間は稀でしょう。


普通の人間なら誰しもが何らかの欠点を抱えているし、感情的になれば場に不適当な発言をしたり、暴論をかざしたりするものだと思います。それは“特別”ではありませんし、それが何か人間性を欠いた行為であるとも思いません。


とは、ましてジェノサイドを持ち出すのは、故意の意趣返しでないなら、あるいは問題意識のすれ違いの結果でないなら、それこそ「他者」を尊重していないし、ガザにおける「国際法違反行為」に胸を痛める人の存在を尊重していない。戦争犯罪とは「国際法違反行為」の問題ではありません。交通違反の切符切ってるんじゃないんだから。戦争犯罪を「国際法違反行為」の問題として論じ、そしてそれを敢えてしていることでないと主張することは、正しくシニシズムです。シニシズムで悪いとは私は思いませんが。


80年代に問われた写真週刊誌の問題がありました。消費社会において公私の区別が社会的に判然としなくなることと、著名人の私生活を公衆に販売することは違います。「誰も清廉潔白な完璧人間ではありえないし冷酷無比な極悪人間でもありえない」というテンプレートな綺麗事は、その実消費社会礼賛でしかない。消費社会礼賛は構わないし私も礼賛する。そのテンプレートな主張は消費社会礼賛をしか意味しない、ということ。


「「ブックマーク」というインターフェイスの特性」において「誰も清廉潔白な完璧人間ではありえないし冷酷無比な極悪人間でもありえない」と主張することが何を意味するか。インターネットにおいては、あるいははてなブックマークにおいては、個人の発言の閾が下がる、という話なら同意しますが、個人の発言の閾が下がることと不謹慎な発言に対して憤ることとは関係がありません。憤る「他者」をそのことをもって批判しうることではない、ということです。


「誰だって不謹慎な発言をする」ことと不謹慎な発言を公衆にリリースすることは違います。リリースすべきでない、ということではない。リリースして憤りを表明されたときに「「普通の人間」を悪魔に仕立てる方法」と駁しうることではない、ということ。というか、不謹慎な発言をするとき悪魔呼ばわりを想定して人は不謹慎な発言を公衆にリリースするものではないのか。私は村崎百郎からそのことを教わったけれど。

■■■

ついでに言っておくと、僕が例の軍オタの毒発言を“ひどい”と言ったのは上記のような文脈であり、また(もっともっと基本的な)議論のルールにおいての文脈です。ですから、『おそらくは「軍オタの毒が回る」をひどいと評したinumashさんでも、上のコメントを読めばひどいとおっしゃるはずです。』というコメントに関しては『“ひどい”の意味と文脈が違うので比較されてもコメントしようがない。』とお返ししておきます。


議論において主張の批判と人格非難を区別することと、不謹慎な発言に対して「ひどい」と指摘することは両立します。「踏み絵」を私は認めませんが、「ひどい」の背景をinumashさんは読み違えています。「貴様、人が死んだんだぞ!」も私は好きませんが、人が死んだことに胸を痛める人を刺激する発言を公衆にリリースするなら反応を前提すべきです。


行為に背景が存在するとき、行為と背景を区別して「議論は議論」と処理するスタンスは、現在進行形の戦争犯罪が問われているときに「国際法違反」を法の形式論として論じる行為と、相似を描くように私には思えます。


言語ゲームとは、背景を捨象して行為のみを論じる概念です。しかし。「戦闘行為」「積年の暴力」「イスラエルの国家意思」「周辺国家の意思」「イスラム社会の意思」「国際社会の建前」「ヨーロッパの負う歴史的責」といった背景が「国際法違反」として問われている行為の背景に存在するとき、そのことが――ユーゴスラビア紛争において問われたそれがそうであったように――「戦争犯罪を問うこと」であるとき、法の形式論という言語ゲームを展開するなら、そしてそれが敢えてのことでないなら、「ひどい」云々の以前に、それはまったく限定的な議論であって一般論にさえなりません。


それは現在進行形の暴力やそのことに胸を痛める人の存在と乖離した議論であり、つまり他者観念に欠け、そして行為には背景が存在します。現在進行形の暴力やそのことに胸を痛める人の存在、そしてそのことに対する敢えてする無頓着、という背景が。行為には背景が存在すると、たぶんウィトゲンシュタインは宗教的な枠組以外では考えなかったでしょうが。


背景なくして行為はない。「国際法違反」を言語ゲームとして解する議論の背景に殺戮に対する不謹慎な発言が存在すること。それを「議論は議論」として処理するなら欺瞞を含みます。『面倒くさい話なので言及したくない派』の私はシニシストですが、シニシストは殺戮に憤る人から「ひどい」と言われて致し方ない知的立場と、私は思っています。


要するに、他者の存在を知っていようと他者に敢えて頓着せず不謹慎なことを言っているのでしょう、ということです。そのことは無問題です。ただ、「他者に敢えて頓着しない」行為を選択するなら「他者に敢えて頓着する」人の背景を、その言葉から察するべきですし、その背景に応えるべきです。言語ゲームとして応えるのでなく「背景」に応えること。「応答」とはそのことです。「他者」が簡単でないと知っているなら。主張と人格を区別することと、議論を言語ゲームと解することは、違います。デリダによるなら、他者とは応答すべき存在であるのだから。そして「応答」とは言語ゲームの不可能性に基づく概念だから。