歯車と自尊心


404 Blog Not Found:勉強が出来る=何がいい?

http://d.hatena.ne.jp/pollyanna/20081224/p1

404 Blog Not Found:それって勉強じゃないよ

http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20081225/1230194369


言葉の厳密な定義は措くとして、ただ、一般に「私は勉強が好きだ」という言い回しはアイロニーを含意するとは思う。「諸君、私は戦争が好きだ」のように。そして、言い回しが有するアイロニーと一連の議論は別の問題です。言い換えるなら、言葉の定義に限定して議論されるべきではないし、そうあってはならない。


orderを自ら設定することと、他人が設定したorderに従うことは違う。後者を「頭がいい」と呼ぶわけがない、というのが小飼弾さんの最初のエントリの趣旨、というか弾さんが一貫して表明している価値観です。その「弾言」に対して、「勉強」とは「他人が設定したorderに従う」ことに尽きるものではまったくない、と指摘したのがpollyannaさんのエントリで、それはまったくその通りと思う。弾さんが一貫して表明している価値観それ自体には大筋で同意することと同様に。


そのpollyannaさんのエントリに対して、記述に対する指摘のうえ「他人が設定したorder」に左右されていることが貴方が「他人が設定したorder」に対して従順な人間であることの証明だ、と指摘しているのがaurelianoさんのエントリ。私が一読思ったことは、そういうのをダブル・バインドって言うんだよ。


pollyannaさんの論旨に対する反論になっていないことは言うまでもない。「勉強」とは「他人が設定したorderに従う」ことに尽きるものではまったくないどころか「orderを自ら設定する行為」である、と弾さんのエントリの論旨に即して駁したのがpollyannaさんのエントリ。それに対する反論として、言葉の定義の問題として「勉強」とは貴方が述べておられるようなことではない、と指摘することはわかるけれど、付け加えて、

研究は、自分たちだけでも出来る。


勉強は、そうではない。自分たちと価値観が異なる人々に、自分たちの価値を認めさせるのが勉強である以上、そこには他者が必ず存在する。


学習や研究や研鑽を勉強と称するのは、自慰と性交を取り違えるようなものではないのか。

404 Blog Not Found:それって勉強じゃないよ


――と他者性の有無を持ち出すことは、承知で故意に議論をスライドさせているならろくでもないし、わかっていないのなら、つまり相手の主張の論旨を把握していないのなら「頭が悪い」。


「人格批判」とは何かというと「貴方が社会の歯車であるのは根性が歯車であるからだ」というもので、更にそれに「貴方は小学生の頃から歯車としての仕様だったのですね、わかります」が追加される。無茶苦茶と思う。弾さんのクリアな議論は、aurelianoさんの香具師の口上は、楽しく読ませていただいているけれど、クリアゆえに取りこぼす事項があり、香具師の口上で豪快に釣る類でない事柄がある。

勉強ができる子供の多くは、ただ勉強がおもしろいから、楽しめるから、できるようになったのだと思う。


ただ、機械のように言われたことだけをやっていたからでもなく、先生に気に入られたい一心の功名心の塊だからでもない。


でも、どうしてもそういうことにしたがる大人が多いこと、そんな大人に影響を受けた子供が多いことに、多くの「勉強ができる」子供たちは傷ついてきたはずだ。


(中略)


小学生のころの私は、国語も算数も理科も社会も、みんな新しい本のページをめくっていくような気持ちで楽しんでいた。


誉められるのはもちろん嬉しかったが、それ以上に、学べば学ぶほど、新しい世界が広がっていくことが楽しく、嬉しかった。



「勉強ができる」=「要領がよくて小狡いやつ」としか見ない人たちには、私が本や教科書の中に、どれほど豊穣で、愉快で、ときに苦しくて、哀しい世界を見ているか、伝えたくてしかたなかった。



正直に言えば、大学以後の私は、子供のころのような感動や熱意をもって学問に取り組んでいたとは言えない。


恋愛や、アルバイトや、さまざまなことに気が散っていたと思う。それが今の私をつくっていることには違いなく、今さら後悔してもしかたないし、後悔するだけのものではない経験をしたかもしれない。



しかし、私の周りにいた研究者の友人や先輩たちは、子供のような感動と熱意をもち続け、創造することの苦しみと喜びを加え、大人の忍耐力をもって、学問の豊かで美しく、実り多い世界を、自ら築き上げてきた。

http://d.hatena.ne.jp/pollyanna/20081224/p1


「勉強」とは「他人が設定したorderに従う」ことに尽きはしない。「orderを自ら設定する行為」でもある。小学生の三つ子の魂として、大人になってもずっと。そのことに小学生の年齢で気が付くことは非当事者にとっては難しいことだから「他人が設定したorder」に唯々諾々と従う順応主義者を敬遠したりえんがちょしたり白眼視したり吊し上げたりする。


大人になってもまだ気が付かないのですか、「「他人が設定したorder」に唯々諾々と従う順応主義者」は貴方が作り上げた幻想の藁人形です、と主張するpollyannaさんのエントリに対して以下の反応――。

日本には、別に「勉強ができる」ということが蔑みの対象になるような風土などない。それよりも、そんなふうに他人の気持ちを慮れなかったり、被害者意識をこじらせたりすることが蔑みの対象になる風土がある。

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初耳です。「日本に限ったことでない」ならその通りで、だからティーンの時期に進学校の生徒は勉強しないことをこそ互いに競い合う。競い合ってなおテストで高得点を叩き出す、という高度なゲームに競り負けた私は落ちこぼれたけれど。勉強に限らず「できる子=出る杭」の女性が異性から敬遠されることは、小学生から社会人に及んでガチ。東大卒の近親者(♀)は結局大学時代の同級生を初めての恋人にした。学校名会社名で引かれること多く、仕事の外のfirst impressionで尋ねられるとごまかしがち、とは聞いた愚痴。

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orderを自ら設定することと、他人が設定したorderに従うことは違う。「勉強ができる」とは後者のことで「頭がいい」とは前者のこと。こうした発想は小学生に限らず広く普及しており、たとえば山田詠美の――私はとても好きな作品だけれど――『ぼくは勉強ができない』における「勉強ができない」はこの社会的通念に拠っている、というかその強化に一役買っている。


だから、主人公の時田秀美くんは「勉強ができない」けれどorderを自ら設定しうる、またそうすることを考えている「頭がいい」高校生であり、対して半ば敵役として「勉強ができる」「学級委員長」が作品では登場する。イーストウッドの映画に類型的に登場する「書類バカ」(by『ハートブレイク・リッジ』)のような人物として。このとき「勉強ができる」と「頭がいい」は対立概念としてある。むろん、『ぼくは勉強ができない』に収録された番外編『眠れる分度器』がそうであるように、山田詠美は、こうした当初に提示される構図を作中において反転させる優れた作家であるけれど。


私はイーストウッド主義者を自称するくらいにイーストウッドの映画とその世界観、加えて男女のそれに代表される関係性の描写が好きだけれど、そのもっとも陳腐な解釈に即して他人を規定しあまつさえ公然と叩きうるとは考えたことがなかった。つまり、書類バカの自尊心は書類に存在する、と。全然違うよ。書類バカの自尊心が書類に存在しないからこそ、私たちは「他人の気持ちを慮」らないといけない。「書類バカ」の自尊心が書類に存在するわけでは決してない、という至極妥当な一般論をpollyannaさんのエントリは提示している。「書類」とは「他人が設定したorder」の別名。


そのエントリに対して、pollyannaさんが「書類バカ」――他人が設定したorderに朝三暮四する順応主義者――であることを指摘して、斯様に「書類バカ」な貴方の自尊心は書類にしかないのですね、と断じるaurelianoさんの指摘は失礼以前に単純に間違っているし、pollyannaさんのエントリをまったく読めていない。


他人が設定したorderに内心振り回されている貴方は他人が設定したorderに自尊心を委ねてしまっている、という指摘は失礼以前に間違い。pollyannnaさんのエントリの趣旨は「「勉強ができる」人は他人が設定したorderに振り回されているのではない」であって、「書類バカ」とは「学級委員長」とはあなたの想像上の存在にすぎないのではないでしょうか、と指摘し駁している。弾さんやaurelianoさんのような言説に対して。ひいては社会的通念に対して。


現代において、社会的機能として「書類バカ」である人の自尊心が書類に存在するわけではないし、「勉強ができる」人の自尊心が体制順応にあるわけでも社会的に歯車として在る人の自尊心の一切が「歯車であること」にあるわけでもない。orderを自ら設定する行為それ自体が、他者性の不在を理由に、他人が設定したorderに即して、すなわち利害に即した他人の都合において、ジャッジされ評価を左右されるなら、そのこと自体が遣る瀬無い。


――そのことを自身の経験に即して述べるエントリに対して「他人が設定したorderに内心振り回されている貴方は学習や研究や研鑽を積んでいようと「勉強が足りない」し、自尊心を「他人が設定したorder」に預けてしまっている」と指摘するなら――弾さんとaurelianoさんは趣旨として同じことを言っている――話が逆で、要は見当違いであり、他人の文章のその趣旨がまったく読めていないか故意に曲解して読んでいる。つまり「歯車であることに自尊心を持ち合わせている歯車」というテンプレートな藁人形を叩いているに過ぎない。テンプレートな藁人形を叩くために現実の人間をその自尊心に及んで直接叩くことは故意ならろくでもないしわかっていないのなら「頭が悪い」。

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歯車には歯車であること以外の自尊心がある。orderを設定する者にとって都合のよい者がorderを自ら設定していないわけではないし「勉強」という言葉はその行為を含む。設定されるorderとしての「勉強」が、勉強の範疇の一切ではない。だから勉強は面白いし奥深い。そのことが根本的に他者性に欠ける小学生の発想であったとしても、またそのゆえに「他人が設定したorder」に対して従順であろうと、そのことを「書類バカ」「順応主義者」と否定することは単純に間違っている。


他人が設定したorderに合致する社会的機能と、orderを自ら設定する行為において他者性を欠くことが同時に非難され「歯車根性」と人格に及ぶ批判にさらされる二重拘束が小学生の頃から大人になった現在に至るまで続く。「勉強ができる」ことが「他人が設定したorderに従う」社会的機能のことであるなら「勉強」とは順応的な行為に過ぎないか。――否。orderを自ら設定する行為でもある。


pollyannaさんのエントリの趣旨に対して「勉強」という言葉の定義問題が持ち出されることは妥当で、つまり「勉強」概念のアイロニカルな含意とそれが帰結するダブル・バインドに対してpollyannaさんは異議申立しているけれど、むろん、そのことは弾さんが説く定義が正しいことを意味しない。そして、他者性の欠如を持ち出すことはダブル・バインドに対する「勉強ができる」当事者の異議申立に対して妥当性を欠き、まして「他人が設定したorderに内心振り回されている貴方はやはり歯車であり歯車の自尊心しか持ち合わせていない」と論駁するなら無茶苦茶です。つまり、異議申立の内容についてわかっていない。


他人が設定したorderに合致する社会的機能のゆえに「他人が設定したorderに振り回される」「書類バカ」「順応主義者」と偏見において決め付けられてきた「勉強ができる」人は、「勉強」を通してorderを自ら設定すること、すなわち個としての自尊心を持ち合わせること、そして、歯車としての自尊心しか持ち合わせていない人などいないこと。――そのことを、pollyannaさんのエントリは、個人的な経験に即して、主張しているのだから。


「orderを自ら設定し他人の合致を調達すること」すなわち「歯車たりえないこと」が「頭がいい」の条件/証明であるなら、なるほど弾さんは「頭がいい」。そのことを再三自ら主張して証明しないことには人は弾さんが「頭がいい」ことを認めないものか。問題が社会的機能ひいてはその合致条項としての学歴の有無であるなら、知能テストの結果でも公表すれば宜しい。数値次第だけれど、誰もが「納得」する数字なら、公然と他人を腐したうえでの再三の証明の必要なくなると思う。万人が合意しうる「頭がいい」などそういうものでしかない、ということ。だから人は特定の他人をダシにすることによって、すなわち個別の上から目線によって、有体に言うなら誰かをバカにすることによって「証明」したがるのだろうか。そのことこそ、pollyannaさんが第一に批判していたこと。やはり弾さんは読めていない。読んでいないのかも知れない。

勉強ができる、できないにやたらと拘る人に問いたい。


子供のころは「子供らしさ」という基準で、大人になったら「頭のよさ」という基準で、他人の人格に優劣をつけなければ気が済まないのですか、と。


あなたたちは、なんとかして他人を見くびり、見下すことしか考えていないのですか、と。

http://d.hatena.ne.jp/pollyanna/20081224/p1


「私は勉強が好きだ」という言明がアイロニーたりえなくなることを、pollyannaさんは望んでいるし願っている。私はそう理解しました。pollyannaさんが説明する「勉強」については、その通りと私も思う。そのことを言葉の定義の問題に押し戻してしまうことは、つまりアイロニーに対する無自覚を批判することは、端的に的外れであり、また、そのアイロニーが結果する「勉強ができる」人へのダブル・バインド再帰的に肯定するある種の暴力であって、弾さん御自身の都合でしかないと思う。それこそ利害の問題としての。

ぼくは勉強ができない (新潮文庫)

ぼくは勉強ができない (新潮文庫)