擬制は終焉しない(「フェミニズムとモテの対立」)


http://d.hatena.ne.jp/ymitsuno/20090107/1231331334

これを読んで思い出した。 私も同じような事を思った事がある。 といっても..

男はフェミニストを続けうるか? - キリンが逆立ちしたピアス

http://noraneko.s70.xrea.com/mt/archives/2009/0111231027.php

http://d.hatena.ne.jp/heartless00/20090112/1231751765


真理を衝くことに容赦ない橋本治御大の著作は立ち読みで目を通していたけれど、タイムリーに多くの苛烈な批判を拝見して、ymitsunoさんこと三ツ野陽介さんのエントリの趣旨はそういうことではないのではないか、と思ったので、書いてみる次第。


前半部について反発あることはわかるけれど、後半部の問題提起のための例示と私は読みました。その体験談については「東大女子」だった近親者を知る者としては「人それぞれでしょう」としか言いようがないのだが、付け加えると「東大女子」という色眼鏡こそ本人にとって迷惑千万だったそうだが、「が」というのは。長めに引用させていただきます。

 まあとにかく、僕は「男女平等」という観念だけは強固に持っていたものの、男子校で六年過ごしたので、現実の女性に対して、その理念をいかに実践すればいいのかということに関しては、まったく無防備だった。そんな僕の前に立ちはだかったのが、いわゆる「モテの問題」である。要するに、「男がフェミニストであり続けることは難しい」と僕が考える理由は、ひとことで言って、「男でフェミニストだとモテないから」である。


 この、「非モテ男子は意外とフェミニスト」という等式は、僕が今でも信じている等式の一つで、例えば、「女子大生との合コンの場で、小難しい議論をふっかける東大男子」というものが、よく嘲笑の対象になるが、僕に言わせればそれは、その男が女性を対等な議論の相手として認めているということなのである。


 ここで、最初の橋本治の本の話に戻ると、男は「自分の恋愛の対象にしたいとおもう女」と「どうでもいい女」を区別したうえで、前者を大切に扱い、後者を「どうでもいい」扱いにする、というのが橋本さんの議論だった。ところで、非モテ期の自分を振り返ってみると、どうも僕がモテなかったのは、この二つの区別がきちんとできていなかったからではないか、と思えるのである。


(中略)


 実は女は、「弱い女」を守ってくれる「男らしい男」に恋をするもので、男女平等を素朴に信じている男などモテはしないのではないか?という疑問を、僕もようやくその頃、抱くようになったのである。


(中略)


 ただ、フェミニズムとモテの対立は、女性の場合により深刻であることも、僕は理解しているつもりである。「フェミニストなんかになったらモテない」という理由で、若い世代の女性にフェミニズムが敬遠されているであろうことは、容易に想像がつく。「モテ」が「フェミニズム」より、女性を幸せにすることができるのだとしたら、「モテ」に走る女性たちを僕は非難できないだろう。しかしそのとき、どう頑張っても「非モテ」な女性の問題は、どうなるんだろう?

http://d.hatena.ne.jp/ymitsuno/20090107/1231331334


男女という擬制に対して擬制としてメタレベルを導入するのがフェミニズムの前提であるとき、しかし恋愛は男女という擬制再帰的な選択へと人を導く。それが、私が了解してきた橋本御大の――30年に亘る――議論の要諦で、また、三ツ野さんのエントリの趣旨でもあると思う。そして、直接に恋愛を離れてなお現代の高学歴者は男女という擬制再帰的に選択する。しかし、そのとき男女という擬制再帰的な選択が功利主義に基づくものであるなら、個々の功利的選択のもとリジェクトされた存在とその問題は、いかに手当されるだろう。


それが、結語における「「モテ」が「フェミニズム」より、女性を幸せにすることができるのだとしたら、「モテ」に走る女性たちを僕は非難できないだろう。しかしそのとき、どう頑張っても「非モテ」な女性の問題は、どうなるんだろう?」という問いの意味であり、換言するなら、エントリで三ツ野さんが展開した議論において「フェミニズム」とは「非モテ」と相違する問題系であって、すなわち「モテ」は「フェミニズム」が取扱いうる問題系ではない。むろん、そのことは「フェミニズム」の欠陥なり限界なりを意味しない。が。


男女という擬制再帰的な選択が功利主義に基づいて為されるとき、そのことに対して(三ツ野さんが述べる)「フェミニズム」は無力であり、ゆえに個々の功利的選択それ自体を問題と捉える「非モテ」の議論はこの場合の「フェミニズム」と相違する。繰り返すがそのことは「フェミニズム」の欠陥なり限界なりを意味しない。が。


男女という擬制擬制と知ってなお再帰的に選択する。フェミニズムがその成果として一端を担った、男女という擬制に対するメタレベルの導入が一定程度浸透した現代において、恋愛が擬制再帰的な選択へと人を導くとき、恋愛を「モテ」という功利主義へと還元する観念が人を恋愛に限定されない功利的選択へと導く。そのことに対する批判として「非モテ」の議論はあるので、段階論的認識においては「非モテ」をめぐる議論は(三ツ野さんが述べるところの)「フェミニズム」の歴史的限界に対する弁証法的発展としてあり私は高く評価している、と上から目線全開で言ってみる。


押さえるべきことは、これは橋本御大の30年に亘る議論の要諦でもあるけれど、恋愛が擬制再帰的な選択へと人を導くこと即ち悪ではない。「男女」は社会的な擬制であるが同時に人類の歴史的な文化資産でもある。擬制再帰的選択が現代における文化の再帰的選択であるとき、生殖行動を恋愛という文化的行為たらしめる歴史的資源を動員しないなら人類は「恋愛」という概念を捨てるよりほかない。なお、エロゲも萌えも『電波男』もこの延長なので、三次元と二次元に本質的な区別なく区別するのは優越感ゲームの部類と私は思っている――他者概念の介入余地を除けば。むろん、他者概念の介入余地をめぐって「処女厨」問題は問われている。しかしなんというか丸谷才一的な主張であるな、いや丸谷先生は尊敬しているが。

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20年前、糸井重里の『家族解散』について「家族という擬制再帰的選択」を論じた橋本治は、宮台真司に、『紀子の食卓』の園子温に、『オトナ帝国の逆襲』の原恵一に、あるいは『トウキョウソナタ』の黒沢清に10年先んじていた。「擬制」を「幻想」と言い換えれば岸田秀なので、そして橋本治伊丹十三浅田彰岡田斗司夫と同様、30年前に岸田秀イカレた人々のひとりであるので当然だが。むろん、「擬制」を「幻想」と言い換えるとき、社会的な権力関係に規定された制度としての男女は個々人の観念へと雲散霧消する。つまり社会的な権力関係も雲散霧消する。現実にはまるで雲散霧消していない、というのが前提であり、三ツ野さんのエントリの趣旨とも思う。男女は擬制などではない、と。


30年前でも20年前でも10年前でもない現在の問題は、男女/家族という擬制再帰的選択が内包する功利主義と、その個人に対する暴力と抑圧にある。それは、たとえば、個々の功利的選択の結果においてビリヤードボールのごとく弾き出された存在の疎外として叫ばれる。「非モテ」の議論とはそのことであって、font-daさんが主張しておられることもそういうことと思う。


個々の功利的選択の結果において弾き出されたビリヤードボールは「「非モテ」な女性」のような肉体的存在としてある限りでない。「非モテ」ならざる女性のその功利的選択において弾き出されるビリヤードボールが、彼女自身において、万人において存在する。ただ一般的に、男女の権力関係ある限りにおいて、自身の功利的選択において弾き出される内なるビリヤードボールに、擬制としての男は気が付き難い、ということ。むろん私も例外でない。


男女/家族という擬制再帰的選択が内包する功利主義は、功利主義を規定する男女の権力関係において、裏腹に個々人の存在の疎外を生む。個々人の存在の疎外は万人において発するけれど、しかし功利主義を規定する男女の権力関係に即して、擬制としての女において個々人の存在の疎外を如実に浮かび上がらせる。あたかもホッパーの絵画のように。だから、『ピアノ・レッスン』ではないが「擬制としての女」において疎外された個人の存在の声としてのフェミニズムが、かつてそのことを指摘し告発し、そして現在、「擬制としての男」において疎外された個人の存在の声としての「非モテ」が、そのことを指摘し告発している。


ヘーゲル的に言うなら(いやマルクスか)、フェミニズムと「非モテ」は、弁証法的発展の順序としてある。にもかかわらずなぜイスラエルとシリア並みに不仲なのか、私はフェミニストでも「非モテ」でもないが、そのことについては「上野千鶴子」という決定的なファクターを、ひいては彼女の議論に影響を与えた吉本隆明の大いなる遺産――比喩であってむろん死んではいない――を、指摘するべきだろう。男女/家族という擬制再帰的選択に対する徹底した批判的視座と、国家幻想の対立概念としてある対幻想/家族幻想ひいては個々人の功利的選択。両者を肯定する(二枚舌でなく)二枚腰を、上野千鶴子という論客は確信犯として貫いてきた。

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擬制再帰的選択がベタな先祖返りと見分けがつかなくなる現代において、進歩主義的知識人と野蛮人もまた見分けがつかない。その混乱について私的体験に基づいて述べているのが三ツ野さんのエントリの前半部だと思う。「東大女子」を強調している、というのもそういうこと。


当然のことながら、ベタな先祖返りも野蛮もそのベタな暴力と抑圧も問題であって、デートレイプが問題化する21世紀日本にあっては、フェミニズムはその歴史的役割をまったく終えていないし「歴史的限界」についてもアキレスと亀の如し。そして擬制再帰的選択は「肉便器」言説とその問題をも内包する。功利主義に基づく再帰的な選択が、またそうした言説が、野蛮人の迷信と相違ない外見を纏うことは、確かに頭が痛い。一概に軽蔑して済む問題でもない。


人は、擬制擬制と知ってなお再帰的に選択しているつもりで、かつそれが功利主義に基づく「賢明な」判断であるつもりで、ベタに野蛮へと先祖返りしている。少なくとも行動の外形において見分けがつかない。大雑把に言ってポストモダンということだが、そのひとつの結果が肉便器云々であるなら、なんというか転倒している。つまりまったく「功利主義に基づく賢明な判断」ではない。


転倒を知るからネタとして消費されている。その野蛮が、転倒を知ることの合意においてネタとして消費されることによって、すなわち擬制の畸形的動員について周知されることによって、野蛮を漂白されるか。クローネンバーグの映画ではないが、畸形的動員が擬制再帰的選択のポストモダン的な結果としてあるから、擬制の動員を畸形化させる社会的な権力関係ある限り擬制としての男と女は分かち合えず、フェミニズムと「非モテ」は不倶戴天だろう。社会的な権力関係が他者概念の余地を奪うから擬制の動員において容易に公然と畸形化するということ。


恋愛を「モテ」という功利主義へと還元するから男女という文化的擬制はその再帰的選択において社会的な権力関係に露骨に影響される。男目線でそれを「媚び」という。いずれにせよ男女という文化的擬制をスマートに社会化することは近代日本においては不可能でありポストモダン日本においても不可能であることはほぼあきらかなので、男女という文化的擬制それ自体の解体を明治の御世において志向した人たちがあったことも無理からぬことと思う。そのことを荷風が嘆いたことも。荷風の女性観については言うまでもない。


ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』ではないが、男女という文化的擬制を恋愛において解体することは「恋愛」という人類の概念においては叶わない(むろん脱構築は可能)。それは単なる文化大革命でしかない。そして近代日本において男女という文化的擬制と社会的な権力関係は露骨に一致し、ポストモダン日本において再帰的に選択される擬制功利主義にさらされたとき社会的な権力関係という前時代の遺産と不幸な結婚を遂げる。価値判断を書いておくと、そのこと自体が、やりきれないことと私としても思う。


もっとシンプルに惹かれ合いたいことは、私の事情においても同じこと。むろん、世間体を身に纏い社会的に規定された権力関係に基づく差異を堪能しているのも同じ私だが。だから人は『ピアノ・レッスン』のような関係を夢想するのだろうか、文化的擬制としての、そして社会化された身体としての「女」として要素還元されることなく、個人としての存在を、その魂を模索し合う関係を。ピアノレッスンに始まる関係は発語訓練に終わる。声を聞いてくれる人がいるなら。海底に眠る楽器と共に在る心と共に。

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以前、遙洋子について書いた。名物人間としてネットで知られるずっと以前、その最初の著作から思っていることだけれど「個人的なことは政治的なこと」をエッセイという個人的な文筆において愚直に実践するとこうなるかと私は彼女の文章に目を通すたび些か暗澹とする。遙洋子という人の個人的な感性が好きでその著作を読んできて、しかしいつも彼女は個人的な事柄を大文字の言葉と論理と観念において綴っている。借り物とかそういうことではなく、そこには齟齬がはっきりと窺える。つまり、弾き出されたビリヤードボールが。


ビリヤードボールの個人文筆における処理を遙洋子は誤っていると私はいつも思う。だから彼女のネットにおける文章は常に奇妙なことになる。そしてヲチされる。そのことに上野千鶴子のかつての薫陶が関わっているとは私は思わないが、しかし遙洋子はそうpublishするのだ。「フェミニストになる」とはそういうことであるはずがないのだが。もっとも、印象的な書名なくして私が当時その著作を手に取ったかはわからない。


個人的な文筆において、個人的な事柄は、個人的な言葉で読みたいと、遙氏のpublishされた言葉を目にするたび思う。上野千鶴子が見出しただろう、あるいは啓発しただろう、彼女の「芸能人」ならざる個人としての存在疎外は、その場所から発する遙洋子その人の感性は、女性すべてが共有する、あるいは共有すべき問題意識かも知れないが、一読者としての私が思うにそれは存在を疎外された個人としての遙洋子の稀有なもので、だから私は遙氏の本を読むのだから。他の、遙氏よりよほど切れるフェミニストや論者の著作をさておいても。


個人的なことは政治的である。しかし議論において、ことに文化的擬制と社会的制度に即した個人の存在疎外をめぐる議論において、個人的なことは個人的なことであり、政治的なことは政治的であったほうがよいと思うことがある。多くの増田がそうであるように。言葉には大文字と小文字がある。小文字だから政治的でないということも「権力関係の転覆の試み」たりえないということも、むろんない。橋本治が『桃尻娘』以来実践してきたように。社会的な権力関係に即して構成されてきた男女という擬制について、そしてその文化的位相について、橋本治は現在の『権力の日本人』『院政の日本人』に及んで、考察を続けている。



遅ればせながら本年も宜しくお願い致します。