「暢気」な社会とヘイトスピーチ


既に旧聞に属するかも知れないけれど、ヘイトスピーチ規制論について話題になっていたので、少し書いてみる。一連の東氏の議論と、たぶんド真ん中で関係ある話なので。


革命的非モテ同盟跡地


カントは偉大であるけれど、歴史存在としての人類社会において言論や表現はアプリオリに自由ではない。だから、ヴォルテールの原則は重要なのであって、300年前、カントに30年先んじて生まれたヴォルテールは言論や表現がアプリオリに自由であるとは微塵も考えていなかった。

私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命を賭けて守る。


ヘイトスピーチの問題とは、アプリオリに自由な行為としての言論や表現と、歴史的かつ原理的にもアプリオリではありえない言論/表現の自由を担保する私たちの――かつての村上春樹の言葉を借りるなら――「開かれたサーキット」の両立可能性を問う、市民社会ある限りその臨界として指し示される課題です。


アプリオリに自由な行為としての言論や表現がクローズドサーキットを公的領域において流通させるとき、アプリオリでは決してありえない「開かれたサーキット」を私たちはいかにして維持するか。それは「開かれたサーキット」を維持するコミットのために調達される「動機付け」として問われる課題でもある。


宮台真司は「開かれたサーキット」の維持は「人間」的存在としてのエリートに委ねるほかなく、同時に「開かれたサーキット」の維持に対する「動機付け」すなわち市民的な存在としての「人間」たるべく人を訓練することは肝要、と主張している。東浩紀は「開かれたサーキット」は「動機付け」ひいては「承認」云々と全人格的存在としての「人間=市民」に過度な負担を強いることなくシステムとしてのアーキテクチャが担保する、既に私たちは社会的要請として「人間」であることを人に強いることはできない、市民的合意は機能しておらず今後も不可能である、と宮台氏に対する駁論としても主張している。宮台・東両氏の言う「エリート」とはそういうことであって、市民的合意にコミットする者のこと。「開かれたサーキット」のことを、リベラルな社会と言う。


リベラルな社会がアプリオリに自由な行為としての言論や表現を存在証明とし、私的領域に即したクローズドサーキットを包摂するとき、しかしそのクローズドサーキットがリベラルな社会を獅子身中の蟲のごとく無力化する場合において、リベラルな社会はそのことに対してどう対応すべきか。ヘイトスピーチの問題とは、端的に社会的資源に対する毀損たりうることで、リベラルな社会がそのことに対して対応を要請されることは当然のこと。「要請される」とは「先進諸国から」ということではなく、原理的な必然として。そしてむろん、そのことはアプリオリに自由な行為としての言論や表現を否定するものではないし、そうあってはならない。アプリオリに自由な行為としての言論や表現を、人類社会の選択肢のひとつとしてのリベラルな社会は弁証法的に存在証明とするから。

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20世紀のヨーロッパにおいてファシズムやナチズムは、また長い歴史ある反ユダヤ主義とは、社会的資源としてのヴォルテール原則を毀損し近代市民社会とそれを規定する市民的合意を否定する思潮としてあった。それが思潮にとどまらなかったことは言うまでもない。現在もあるか。ない、というのがホロコースト否定論者の主張で、曰く、市民的合意にコミットする私は近代市民社会における言論/表現の自由に則って、ガス室の存在は疑わしいと思う。――それ自体はリテラルには矛盾でない。


この問題についてデリダは――はてなダイアリーで該当箇所を引用して参照しておられた方があったと記憶するけれど――大意、近代市民社会における言論/表現の自由に則って主張することと別に、学問的能力に欠ける学者とその言論が学的かつ社会的にリジェクトされることは致し方ない、と述べた。


ガス室の存在は疑わしいと思う」と「ユダヤ人は嘘つきだ」はリテラルには違う。リテラルな違いしか見ない人もいる。ポストモダン・リヴィジョニズムの弊ではあった。前者が学的手続に即してリジェクトされることと言論弾圧は違う。学的手続に即してリジェクトされた議論が公的領域において留保されることと言論弾圧も違うし、それは権威主義とも違う。ところで現代日本社会はそうではない――良くも悪しくも。だから宮台氏や東氏のような両極端の議論になる。「留保」とは、個々人の良識に即した判断の領域に置かれるということ。


日本で「ガス室の存在は疑わしいと思う」と主張して掲載誌を廃刊に追いやった筆者はそのときまったく反ユダヤ主義者ではなかった。まさしくポストモダン・リヴィジョニズムをその弊含めて地で行っていた。ホロコーストをめぐるヨーロッパの事情と日本の事情は違う。私は今でも廃刊は論外と思っているが、しかし当該の主張について公的領域での論駁を当時の日本社会は要請したかと問うとき、「留保」も糞もなくその「危険牌」は言論/表現の自由に則って通ったろうと思う。


そして結局、日本における「ユダヤタブー」という認識は、広範に共有された。五島勉の全著作の影響をはるかに超えて。公的領域において、ただ自由主義の原則にのみ依拠して「危険牌」を通すことは、リベラルな社会それ自体を危うくする。言論/表現の自由を大切に思うなら、またracismを憎むなら。

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西欧に根付いた歴史的な反ユダヤ主義は私たちが想像しうるものではない。手塚治虫の『アドルフに告ぐ』を引くまでもなく、日本においてはそうではない。そのことは言い換えるなら、市民的合意の必然に、すなわち友愛という概念に、私たちはヨーロッパ社会の人々のようには駆り立てられていない、ということでもある。本日、今上の誕生日であったが、暢気な共同体的社会には是も非もある。民族問題に対する認識の暢気は、原爆投下を普遍化してアメリカとの同盟を冷戦構造崩壊してなお自明とする姿勢は、是非いずれだろう。私自身は反米ではない。


根底にねじれがあるということ。歴史的な民族問題の総決算としてホロコーストを経験したヨーロッパにおいて、市民的合意は外傷に強迫されるものとしてあり、それは現実に共存の必然として要請されていた。そしてトラウマは20世紀末のユーゴ紛争において回帰した。最近、日本外国特派員協会での会見において民族問題に言及した宮崎駿は、92年の『紅の豚』の制作に当たってユーゴ紛争に言及して大意、こう言った。――あれだけ血で血を洗う殺し合いを繰り返してきて彼らは未だ懲りていない。人類の民族問題の克服について私は絶望せざるを得ない。


宮崎氏が「彼ら」を外部化してはいないことはその後制作された『もののけ姫』を観るまでもない。人類の民族問題の克服に対する絶望から、かつてのコミュニズムの理想が(むろんまったく理想主義者でなかったスターリンはその逆を徹底してやった。プーチンはその尻拭いをしている)、そして現在の市民的合意が、すなわち友愛の公義が、きわめて現実的に、要請されている。それを外傷に駆動されたオブセッションフロイト的に言うことは容易いが、私が思うにそのような外部化こそ暢気な共同体的社会に暮らす者が夢見る花畑ではないか。


通州事件南京事件を原爆投下を経てなお、現在の私たちは民族問題に対してあまりに政治的に無垢、否、カマトトに過ぎるのではないか。戦後に限定してなお右翼左翼保守リベラルのコンテクストを私たちは忘れて久しいのではないか、と書くと保守論壇を批判する宮台真司の口振りのようで嫌なのだが、つまり、日本語圏のインターネットにおけるヘイトスピーチの流通はそのことから考えないと仕方ないとは私は思う。修辞的に述べるなら、施された免疫を、私たちは幾らか忘れているらしい、良くも悪しくも。


私たちは民族問題を背景とする市民的合意に対する強迫を西欧のようには抱えていない。宮崎駿のような、あるいはデリダのような、西欧に対して批判的な西欧的知識人のようにも。外傷さえ忘れている、否、外傷は忘れていないのだが、他民族共存の必然については忘れている。虐殺否定論やユダヤ陰謀論や文字通りのヘイトスピーチに対する公的領域における「寛容」は、そのことを背景とする。それは市民的合意を前提する限りありえないことだが、むろん市民的合意はずっと脱臼しており、私はそのこと自体に対する是非を一概には言えない。


十字軍以来宗教改革以来市民革命以来西欧のように殺し合いの強迫に駆り立てられてこそ抑止装置としての友愛と市民社会が成立するならそれが成立し難い暢気な共同体的社会日本は悪くないのではないか、と今上の誕生日を迎えて私は思う。日本の近代化に際して殺し合いの歴史なかったわけではない。しかし欧米諸国のそれと比較しうるものではない。ゆえに日本社会は暢気で、東亜解放の理念を半ば信じて、そして半島でまずい植民地統治をやり、大陸に進出したとき下手と野蛮を重ねて挙句南京事件に至る。「暢気」の結果として。そして暢気は現代の国民性としてある。それがまずいと言いきれないのが私のスタンス。


かつて浅田彰福田和也椹木野衣の議論に対して駁したこと。近代日本が「悪い場所」であるなら「良い場所」とはどこか。フランスか、アメリカか。到底そうは言えないのではないか。はたしてそのような理想の普遍空間はありうるか――。つまり場所の問題ではないし、場所に転嫁さるべき質の議論でもなく、理想の普遍空間からの逆算を経て是非を問われることでもない。ゼイディー・スミスの『ホワイト・ティース』でも読めばいいのに、と私は暢気をけしからんと見なす態度に対して思う。それは英国の作家らしからぬ暢気な楽観性に貫かれた小説であるが、タイトルの意味に気付くことはできる。――入手困難らしいけれど。


あちらにおいてPCが強力なのは、殺戮の歴史的経緯と背景あるからで、日本社会の暢気とは「暢気」の結果として大量死を認識することに対する留保に由来することで、それをフロイト的に「否認」と指摘することはできる。加藤典洋に対して高橋哲哉がそう指摘したように。山本夏彦が言ったけれど、日本人は恨みを忘れる、しかし世界の多くの人々はそうではない。福田恒存丸山眞男と同じく近代主義者の山本夏彦は日本人の「暢気」を皮肉っているし、その「暢気」ゆえの加害行為のことも知っている。

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公共空間の言論は開かれていて云々という東氏の議論に対して私が思うことは、その「開かれている公共空間の言論」は東氏も御存知の暢気な社会においては成立しない話で、アーキテクチャが暢気を工学的にシャッフルするという議論には賛成できないし、工学的にシャッフルされたに過ぎない暢気はニコニコ動画のごとく幾らでも回帰するし、むろん比喩だが、いずれ恨みを忘れない他者に復讐されるだろう。


民族問題を背景とする市民的合意に対する強迫を他民族共存の必然と共に欠くとき、民族普遍とされている学的手続の任意の社会における位置付けさえその必然と共に欠いてしまうなら、というかそれこそが暢気の必然だけれど、それはまずい。外国に責められるからではない。私たちの問題として、歴史は容易に民族的動員の道具たりうるから。中国共産党政権が利用してきたように。


民族的動員こそリベラルな社会という「開かれたサーキット」を反故にするファクターであることは過去を鑑みるにあきらかであって、市民的合意こそ民族的動員に対するリベラルな社会における最大の安全装置たりうる。市民的合意を欠いたリベラルな社会は民族的動員に対して無力であり、そして民族的動員はリベラルな社会という「開かれたサーキット」それ自体を無力化するし、またそのために為される。


民族的動員による社会的資源の毀損から目を切って、リベラルな社会それ自体を世界の選択に則って、またアーキテクチャによる工学的編成に即して、原理的に肯定することがポストモダニズムであるならそれはポストモダニズムがまずいのではないか、少なくともそれはデリダの理論であったか、ということが、東氏に対して示されてきた批判の要諦。私は、少なくともそれは日本社会の民族問題に対する暢気を前提とする議論と思う。日本社会はとうに暢気ではない、という見解が広くあって、また暢気それ自体に対する批判が一貫してあり、共に見識と思うけれど、私の見解はそれを採らない。


民主制に即した政治が必ずしも「開かれたサーキット」の問題でなく私的領域に即して存する無数のクローズドサーキットを公的領域に即して束ねたのち調停する営為であるとき、第一義に「開かれたサーキット」を維持するために「あえて」する「人間」たちのコミットによる市民的合意が要請される。「開かれたサーキット」が現実政治と無縁にアーキテクチャに即して最適化されて存在する、と理想の普遍空間を提示するなら、それはたぶんSFである。

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ヴォルテール原則とは「開かれたサーキット」を維持するため「あえて」コミットする「人間」の市民的合意の別名である。「動物化」と「あえて」は表裏としてある。このポストモダンな社会において、誰も好き好んで人間やっているわけではない。渋々と仕方なく人間やって投票にも行って、市民の振りしてネットで公共とはなんぞやと論じている。「専門家」に任せておけばよいことを。それもひとえに、市民的合意において民族的動員をリジェクトするため。


人間存在を共同体的投企として、すなわちハイデガー的に捉える考え方は絶えない。ハイデガーは偉い、けれども、否、だからこそ、民族的動員に対する安全装置は市民的合意以外にない。理想の普遍空間を前提したアーキテクチャによる工学的編成ではない。それはバランサーたりうるかも知れないが、安全装置たりえない。


ヴォルテール原則を自分の都合に利用することはやめていただきたい、とは、ヘイトスピーチのスピーカーに対しては思う――城内実前議員のような。民族的動員は、ヴォルテール原則のために要請される市民的合意を脱臼させる。「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命を賭けて守る。」命を賭ける気がない人に限ってヴォルテール原則を口にする。私の、私たちの、意見を主張する権利を奪われた、と。歴史存在としての人類社会において言論/表現の自由アプリオリではない。アプリオリならムハンマド風刺漫画問題も起こらなかったろう。9.11の直後に養老先生が記した文章の一節。

 私は数十年、原理主義と戦ってきたつもりだが、たいていの人はそれがわからない。なにを「正しい」と思うにせよ、それはたかだか千五百グラムのあんたの脳が思うことじゃないか。私がそれをいう真意は反原理主義なのである。原理主義なら日本にもいくらでもある。多くの人は私ほど原理主義に敏感ではない。筑波大の五十嵐助教授がおそらくイラン人に殺された事件も、まったく風化してしまった。私の教室にいたイラン人留学生に尋ねたら、「あの人は殺されて当然です」という返事が返ってきた。不法滞在でこの学生が捕まったとき、私に「助けてくれ」と手紙をよこしたが、私は助けに行かなかった。(『テロ以降を生きるための私たちのニューテキスト』(角川書店)p65)


歴史存在としての人類社会の選択肢のひとつにおいては、言論/表現は自由でない。なら人権も自明でない。「だからこそ」という問題で、だからこそ市民的合意は要請される。そしてそのために私たちは渋々と仕方なく無理して近代が定義した存在としての「人間=市民」をやっている。市民的合意のためのやむなき務めとして。言論/表現の自由というヴォルテール原則のために基本的人権のために、私たちの社会において。


児童ポルノ」規制問題も含めて言うなら、以下。歴史存在としての人類社会において言論/表現の自由とはアプリオリな原理でも自然の摂理でもない。社会の構成員の選択の結果として更新され続けるもので、選択のためには私たちはそのとき限定的にも市民的存在たる「人間」を務めなければならない。務めを果たす必要がある。


自由主義の原則がそのことを理由として通す危険牌は、リベラルな社会にあっては公的領域の原理に照らして、ない。リベラルでない社会にあってはそうではない。公共空間の言論は開かれている、とは自由主義の原則で、その原則は言論/表現の自由とはなんら関係がない。市民的合意を欠いた「言論/表現の自由」は無力で、よって暴力装置を所有する国家の裁量次第となる。左翼が軍靴の足音で大衆を煽りうる時代ではとっくにない。危険牌を公的領域において切って通すとは、ラシュディとその文学が見舞われた災難とは、そういうことではない。


だから私もそうしてきたように、市民的合意の日章旗を――仏人なら三色旗だろうし米人なら星条旗だろう――背負って「自由に」発言するしかない。「愛国心」という概念とはそういうことと私は思っている。小児性愛表象の一律法規制など、とんでもないことと私は思っているし、ヘイトスピーチの法規制など、日本にあってはとんでもないことと思っている。だから、ヘイトスピーチのスピーカーに対して、軽蔑することなく公的にマジレスする必要があると私は思っている。

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言論/表現の自由は念仏でも御題目でもなく、また憲法含めて法とは建前でしかない。公的領域において危険牌を切って通す作業の結果としてある言論/表現の自由は、相互不干渉において維持される限り痩せ細り、軽蔑の応酬は既に火に油でしかなく、絶えざるマジレスにおいて維持される。


他人の意見や言論を認める最大のパフォーマンスは、マジレスすることで、だからマジレスしない、という考え方もある。ヨーロッパにおいてそれは根強く、だから軽蔑のカードが切られる。暢気な日本社会にあってそれは金持ち喧嘩せずでしかない無力な態度に過ぎず、私は日本語圏のインターネットにおいてその考え方に反対なので、そしてヘイトスピーチの法規制にも反対なので、少なくとも「公共空間の言論」たるインターネットにおいてそれが開かれていることを証すためにもマジレスしたいと、方向性として思う。


「公共空間の言論」において、それが開かれているがゆえのこととして、ヘイトスピーチに対してマジレスすることの不可能と不成立を説き、そしてヘイトスピーチの法規制に反対するなら、その人にヴォルテールを持ち出す筋合はない。というか、方向性がわからない。むろん東氏はヴォルテールを持ち出してはいない。ヴォルテール原則なくとも、また命を賭ける必要もなく、世界の選択は「公共空間の言論」の工学的な再編成へと開かれているというスタンスであって、そのとき人為的な操作が介入することをこそ東氏は問題視している。見識とは思う。が。


歴史存在としての人類社会において「開かれている」とは、まったくアプリオリでなく選択的である。人類社会の歴史という弁証法がキャンセルされ「開かれている」ことを端的な事実と見なし、主体の選択をアーキテクチャが工学的にシャッフルして無力化するのがポストモダニズムであるなら、ヘイトスピーチも民族的動員も問題たりえないのがポストモダニズムの理論的立場であるだろう。


それはある面においてその通りで正しくもあり、デリダが聞いたら卒倒するとかまったく思わないけれど、ならヘイトスピーチや民族的動員の前景化について論じたとき上記のような観点からは暢気としか映らないとしてやむをえず、そしてその批判が粗雑な議論であるか、私としては留保するよりほかない。ところでそれは、ポストモダニズムである以前にグローバリズムのことではないか。グローバリズムは、その矛盾として人類社会における民族問題を激化させた。そしてポストモダニズムは、そのことに対しては端的に無力である。むろんそのことは、ポストモダニズムのその価値を貶めるものではまったくないけれど、牛刀を以って鶏を裂くものでもない。食材と用途に合った刃物を用いましょう、とそういう話かな、結局は。


私のカラオケでの十八番たるJAYWALKの名曲から借りるなら、こうなる。  ♪「市民として生きることの意味をあきらめずに 語り合うこと、努めることを 誓うつもりさ」  ♪「私にはスタートだったの。あなたにはゴールでも」  リベラルな社会も「公共空間の言論」も「開かれたサーキット」も、未だそのような状況にある。動物化するポストモダン社会は、貴方にはゴールでも、私にはスタートだった。誰かにとって、スタートだった。  ♪「まだ愛してたから…」  JAYWALK、また今度歌おう。泣きながら。冬だけど。と思ったら。


何も言えなくて・・・冬

何も言えなくて・・・冬


「市民的合意にコミットする私は近代市民社会における言論/表現の自由に則って、南京大虐殺はなかったと思う。」――その主張に接するとき、私たちは「かのように」の作法においてペンディングしていた市民的合意について再考を迫られる。市民的合意が機能も成立もせず不要なら、それは言論/表現は自由なので南京大虐殺はなかったと私的信念を公的領域において流通させたところで問題ない。その自由とは、誰が命を賭ける必要もないアプリオリな自由とは、悪党の最後の砦たりうるかも知れないけれど。