性犯罪被害の定量的評価について


自己責任云々の前に正しい知識を共有するべき - 狐の王国

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/KoshianX/20081201/1228092446

http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/20081201/p1


ブックマークページ一読して「なんどめだ」と思って最初元記事読まなかったのですが、改めて拝見したところ、見解と思ったし、対して思うところもありました。そして。

b:id:Mossa 厨コメント, 心理, 社会, 男女   怒りが怒りを呼んで、相互理解は遙かに遠くなっていく。


Mossa コメント   これはタブーが生まれる課程じゃないのか。/(・ิω・ิ )b←少し毒気が抜けた気がした。ありがとう。

http://b.hatena.ne.jp/Mossa/20081202?with_favorites=1


というふうには私も思ったし、そしてこの問題が何度でも蒸し返され議論が循環し続けることの理由が少しわかったので、私なりに問題の整理を。以下引用はKoshianXさんの記事から。

根本的には犯罪者が悪いといっても、だからといって犯罪者がうようよしてるようなところにわざわざ飛び込む必要は無いし、正しく用法容量を守ってれば安全なはずの薬を毒薬に変える必要もない。


そういうところで生まれて来たのがいわゆる「常識」ってやつで、「夜中の一人歩きは危険」だとか「男と二人きりにならないようにしとけ」とかそういう類のやつ。

「落ち度」なんて言い方するから悪いんだろうが、性暴力に遭遇しないためのノウハウや常識はもっともっと共有されるべきだと思う。


危険な街、危険な時間帯、危険なシチュエーションというのはあるはずだし、それらはもっと広く研究して「正しい知識」を得るべきだ。従来はなんとなく倫理感や常識という形で共有されて来たものだが、実際迷信化してるものも多いだろう。こういう犯罪防止策を政治問題のように扱ってはいけない。


とにかく危険を避ける力を身に付けることを否定しないで欲しい。必要なのは、正しい装備と計画をもって登山に望むことだ。それで遭難した人が責められることは無いのだから。


「性暴力ないし性犯罪は現在の社会リスクであって、むろんそれは悪であり厳しく処罰さるべきだけれどそれと問題は別として、その現在の社会リスクに対する(このように言ってよいなら)定性的でなく定量的な評価とそれに即した対処のために「危険な街、危険な時間帯、危険なシチュエーション」といった「正しい知識」を私たちは共有するべきである。何よりも、現在の社会リスクとしてある現実の性暴力/性犯罪と理想論としてでなく対峙するために。」


それが私の理解によるところのKoshianXさんの主張の趣旨と思います、そしてそれは見解であり見識と思います。しかし。たとえば、現在の社会リスクとしてある現実の性暴力/性犯罪は薬効の定量的評価に基づく服薬リスクとは違うし、冬期登山の定量的に評価しうる部分としての遭難リスクとも違います。「たとえ話禁止」とは思いません。ただ、たとえ話の理由については、現在の社会リスクとしてある現実の性暴力/性犯罪について定量的に評価しうる部分がある、そうした認識からの例示と読み取れるものです。

今年頭の議論は俺も見掛けた記憶がある。夜中に危ないところを出歩くなんてのはほとんどの場合「避けられる危険」だろう。なぜそれを避けなかったのかと言えば「被害者を責める理由など無い!!」といった反応が返る、という感じだった。


正直それはどーよ、って思うんだよな。別に自己責任だなんて思わないし犯人はがっつり捕まえてぎっちりしめあげとけとか思うんだけど、被害者に非が無いとまでは俺には言えない。


冬期登山なんかだと毎年のように遭難者が出たりしてて、その度に捜索が行われたり自衛隊がヘリ飛ばしたりしてるけど、それと山登りの装備や計画の甘さを指摘する声とは矛盾しないだろう。


極端なのになると「犯罪者がいるのが悪い」とか「男が悪い」とか無茶なこと言い出す人がいたりするんだけども、それも極論が過ぎるよね。もちろん「犯罪者がいない世界」や「悪い男がいない世界」を作ろうとする理想論はけっこうな事なのだが、それと「現状認識」を混同してやしないかと。


「避けられる危険」について、たとえば冬期登山における軽装や無計画のように定量的に評価しうる、との認識が、KoshianXさんにはあるのだろうと思います。だから、そうした「定量的に評価しうる部分」については、登山愛好家にとってそうであるように、知識として正確を期したうえで広く共有されるべきであり、かつてそれは「なんとなく倫理感や常識という形で共有されて来たものだが、実際迷信化してるものも多いだろう。こういう犯罪防止策を政治問題のように扱ってはいけない。」――なぜなら、暴力や犯罪は未然に防がれることが最善なのだから。


そのことについては、繰り返しになりますが私はKoshianXさんの見識と思うし、同意もします。だから。たとえば冬期登山の例示に対するbuyobuyoさんの駁は半分微妙で、というのは「強姦者は悪天候と同じ自然災害」と示すために冬期登山は例示されているわけではないから。私の理解では、KoshianXさんの主張の趣旨はそこにはない。


悪天候と別個に、冬期登山における軽装や無計画のように定量的に評価しうる部分が現実の性暴力/性犯罪にはあって、その「定量的に評価しうる部分」については「正しい知識」として広く共有さるべき――暴力や犯罪が未然に防がれるために。


そして、強姦者の下劣な意思なり悪意なりは、冬期登山における悪天候と同様に、むろん「定量的に評価しうる部分」でなく責任主体としての個人においてコントロールしえない部分であるからして、それは責任主体としての個人の判断/行動に即して問われることではないけれど、しかし「定量的に評価しうる部分」について現実の性暴力/性犯罪から抽出して責任主体としての個人の判断/行動に反映させること、そのための「正しい知識」の周知と共有は、現在の社会リスクとしてある現実の性暴力/性犯罪に私たちが理想論としてでなく対峙するために、そして何より暴力や犯罪が未然に防がれるために、肝要である。


にもかかわらず、現在の社会リスクとしてある現実の性暴力/性犯罪について「定量的に評価しうる部分」を責任主体としての個人とその判断/行動に反映させることを端から放棄し頭から禁じて「運が悪いことの責任はとれません」と、現在の社会リスクとしてある現実の性暴力/性犯罪について「定量的に評価しうる部分」を一切切り捨てるどころか定性的な評価のもと「定量的に評価しようとすること」それ自体を放棄し他に禁じて一切を運の良し悪しに還元する議論と態度は、まったく建設的でない、そして責任主体としての個人の判断/行動を軽視している、つまり少なくとも現実の「未然の防止」には何も役立たない。


そしてそのことを指摘すると「「被害者を責める理由など無い!!」といった反応が返る」。だから「こういう犯罪防止策を政治問題のように扱ってはいけない。」。「避けられる危険」について定量的に評価しそれを「正しい知識」として広く共有することは私たちにとって肝要であり有益である。」


――それが、KoshianXさんの主張の趣旨と私は読みました。むろんbuyobuyoさんのことではないけれど、少なくとも、よく読まないまま枝葉末節に対する脊髄反射で人を叩くべきではない。そして、KoshianXさんの主張に私が異論ないかというと、先に記した通り「現在の社会リスクとしてある現実の性暴力/性犯罪は薬効の定量的評価に基づく服薬リスクとは違うし、冬期登山の定量的に評価しうる部分としての遭難リスクとも違います。」どういうことかというと。

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現在の社会リスクとしてある現実の性暴力/性犯罪について「避けられる危険」を定量的に評価するべく現実の事例から抽出しようとしたとき「被害者を責める理由などない!」と定性的な評価において政治的に封印されることについてKoshianXさんは異議あるのだろうし、むろん「運が悪いことの責任はとれません」というのは政治的な議論です。それで悪いとも私は思いませんけれど、KoshianXさんが異議あることはわかります。ただ。


私の見解は。現在の社会リスクとしてある現実の性暴力/性犯罪について「避けられる危険」を計量しあまつさえ定量的に評価しようとすることそれ自体が「正しい知識」の周知と共有のためだとしても無理だろうということです。政治問題だからではありません。被害者を責めることに繋がるからでもこの場合はありません。


端的に、現実の事例に即する限りそのような一般的抽出は、法的な局面以外では成立し難いからです。「今年頭の議論」で私も書いた通り「被害者の落ち度」が問われるのは司法の場でしかありえないということです。なぜなら、buyobuyoさんが指摘する通り、現在の社会リスクとしてある現実の性暴力/性犯罪は冬期登山における悪天候のような自然災害ではないからです。自然ならざるものを定量的に評価しようとするとき、私たちは政治的であることを避けられません。言い換えるなら、定量的に評価しようとすることそれ自体が政治的です。繰り返しますが、それで悪いとは私は思いません。

常識に反発を覚えるのは勝手だけど、それで被害にあって「自分は悪くない!」っていうのもどうかと思う。ろくな装備も計画も無しに冬山に登って遭難して「自衛隊がもっと早く来ないのが悪い!」って言われてるような違和感がある。


山と違って相手が人間だからどうにかなるとでも思ってるなら、それこそ「現状認識が甘い」と言わざるを得ない。人間なんてそんな完璧な存在でもなんでもない。理性のタガが外れることもあれば、判断を誤ることもあるし、悪い奴ってのはどこにだっている。


自己責任という呪術という記事で引用されてる「性暴力にまつわる神話」というのも、「統計的には屋内にいる人間のほうが死亡率が高い」みたいなこと言われたような感覚をおぼえるものがいくつかある。屋外のほうが死亡率が低いからって信号無視したり大音量のヘッドフォンつけて交差点わたったりしていいわけじゃないだろうと。


こういうものは男女差別の反動として少々強く出すぎてるきらいもあるのだろうとは思うけどね。


性交は合意が原則で、それが成立しないままに為された性交について被害者の「落ち度」を司法が指摘しうるのは、第一に親告罪であり、第二に状況依存的な判断においては社会通念が前提されるためです。加害被害を刑事司法において問う限りは合意不成立の司法における判断が必須であり、判断が状況依存的である限り司法は社会通念を前提せざるをえない。性交における合意の不成立について被害者の「落ち度」を司法が指摘しうるのはそういうことであって、それはKoshianXさんが言われるところの「現状認識」ではありませんし「定量的な評価」ということでもありません。


「現在の社会リスクとしてある現実の性暴力/性犯罪について「避けられる危険」を計量し定量的に評価しようとすること」とは関係がない話、ということです。別に司法は暴力や犯罪を未然に防ぐために被害者の判断/行動を時に社会通念に照らして評価しているわけではない。暴力や犯罪を未然に防ぐために厳罰化や証人出廷の際の配慮等対応を重ねているとは思います。「現実の社会リスクとしてある現実の性暴力/性犯罪」は「「避けられる危険」を計量し定量的に評価すること」によって防ぎうるものではないからです。それが「現状認識」です。


現在の社会リスクとしてある現実の性暴力/性犯罪について「避けられる危険」を計量し定量的に評価することによって防ぎうる、あるいは抑止に繋がりうると考えるのは「人間なんてそんな完璧な存在でもなんでもない。理性のタガが外れることもあれば、判断を誤ることもあるし、悪い奴ってのはどこにだっている。」という前提から導き出される解と思います。


強姦者の判断/行動を冬期登山における悪天候のような自然災害――すなわち責任主体としての個人の判断/行動の埒外にあるコントロールしえないもの――として例示のもと論じておられると思いますが、そしてそのうえで個人が判断/行動においてできることをしたほうがいい、と考えておられると思うのですけれど、しかし、同意不同意は別として、それは有村さんの言われる「運が悪いことの責任はとれません」と表裏の議論です。議論としては。

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「避けられる危険」を計量し定量的に評価することによって現実の性暴力/性犯罪を一定は抑止しうる、という考え方について私が異論なしとしないのは、現実の事例に即して「避けられる危険」を計量することも定量的に評価することも――レイピストを利するとかそうした定性的な議論の以前に――そもそも困難であるのが「現在の社会リスクとしてある現実の性暴力/性犯罪」のその意味だからです。結部を再度引用させていただきます。

「落ち度」なんて言い方するから悪いんだろうが、性暴力に遭遇しないためのノウハウや常識はもっともっと共有されるべきだと思う。


危険な街、危険な時間帯、危険なシチュエーションというのはあるはずだし、それらはもっと広く研究して「正しい知識」を得るべきだ。従来はなんとなく倫理感や常識という形で共有されて来たものだが、実際迷信化してるものも多いだろう。こういう犯罪防止策を政治問題のように扱ってはいけない。


とにかく危険を避ける力を身に付けることを否定しないで欲しい。必要なのは、正しい装備と計画をもって登山に望むことだ。それで遭難した人が責められることは無いのだから。


「「正しい知識」の共有のもと責任主体としての個人が判断/行動においてコントロールしうる部分については定量的に評価すべきであり、その反映において責任主体としての個人は判断/行動すべきである。むろん、その埒外にあるコントロールしえないものとして強姦者の判断/行動が存在する以上、「遭難」すなわち性暴力/性犯罪被害に遭う人はいるし、ゆえに強姦者は厳しく処罰されるべきであり、そのような強姦者の判断/行動について責任主体としての個人はその判断/行動を定量的に評価されるべきではない。」


――それはわかります。強姦者の判断/行動の存在を排除して責任主体としての個人の判断/行動を評価することが「現状認識」を無視した「理想論」の部類かも、あるいは知れないことも。しかし、異論を述べるなら。


第一に、性交合意において責任主体としての個人がその判断/行動を評価されるとき、司法の場において性交合意について強姦者の判断/行動に限定して問われることは少ない。性暴力/性犯罪について個人の判断/行動に照らして「避けられる危険」を計量し定量的に評価することは、つまり定量的に評価しうる部分としえない部分を性交合意の不成立において切り分けることは、そもそも難しく、司法は多くグレーゾーンにおいて問われ時に社会通念に照らして評価します。


繰り返しになりますが司法は「性暴力に遭遇しないためのノウハウや常識」として「落ち度」を指摘しているのではありません。別の問題です。所謂セカンドレイプ言説の問題について司法の場において問われる「落ち度」を持ち出す人のことはよくわからない。誰も刑事弁護士の話はしていないし、その職責を問題としているわけでもない。


第二に、「定量的に評価しうる部分」として例示される「危険な街、危険な時間帯、危険なシチュエーション」というのは、迷信の以前に偏見の別名ではないのですか。それが偏見たりうるから問題なのであって、なるほど「正しい知識」の周知と共有は必要です。むろん、それが偏見たりうることとは別に、西成はあるし闇に包まれ人影ない丑三つ時はあるし、無鉄砲な娘が見込み違いで災難に遭うことはあります、というか因果なもので最近も目にすることになりました。立場上幾らか対処しました。別に恋愛相手のことではありません。仕事絡み。


無鉄砲な娘が相手に対する見込み違いで災難に遭うのを見てバカだなあと思うかというと思いません。私が善人だからではむろんなくて、私の知る限り多く被害者は自分のバカを自分で責めるからです。少なくとも自分のバカをバカとして認識するからです。性犯罪被害について定量性を問うなら、一般論としても個別論としても、まさに定量的にこのようなことは言えます。責任主体としての個人の判断/行動に即した「避けられる危険」の「定量的な評価」こそが加害と被害の因果性を形成し決定します。そしてそのことを加害者と被害者が認識します。

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責任主体としての個人の判断/行動が自由意志の尊重というお題目形式に対する内容としてある現代社会にあって、たとえば振り込め詐欺の被害者もそうですが、バカは言い逃れができません。むろん犯罪被害の責任という概念はありません、が、自由意志の尊重に即して責任主体としての個人の判断/行動において愚行権さえ認める社会にあってバカは本人の責任です。無知も常識知らずも人間知らずも「現状認識の甘さ」も同じく。


そして、強姦者の悪やその処罰と問題は別として、バカゆえに強姦されたことについて自分の責任と考える。そうするよりほかなくなる。こうした問題における「自己責任」とはそのことです。「自分のバカゆえにもたらされた災難」と認識したとき、自分のバカについては逃げ場なく、そのことはもたらされた災難と因果関係を取り結ぶ。


「バカゆえにもたらされた災難」についてバカの内容を定量的に評価することは、そもそもテクニカルに難しい。にもかかわらず定量的な評価のため責任主体としての個人の判断/行動に即してバカを指摘することは「バカゆえに強姦された」という因果関係を信じているということです。つまり「運が悪いことの責任はとれません」と裏表の因果性の操作として等しく、それは政治的行為である、ということです。決して「中立」ではなく。


そして、横行する因果性の操作を正しい因果関係として信じるから、被害者は自分の判断/行動をバカと認識する。無鉄砲と相手に対する見込み違いと災難は別の問題で、つまり行動と判断と強姦被害は別の問題で、別の問題を「ゆえに」と因果性の線で繋ぐのは、故意なら悪質な操作であり、本気なら「現状認識が甘い」と言わざるを得ないどころか他人のバカを指摘できたものではないバカです。


「防犯意識の啓蒙のため」責任主体としての個人の判断/行動を定量的に評価しようとする、評価できると考える、とはそういうことです。付け加えると、常識に準じる「正しい知識」としては、無鉄砲と見込み違いと災難という別の問題を因果性の線で繋ぐのは、故意であれ本気であれ、犯罪者やあるいは性暴力の加害者のあまりにも典型的な常套句であり常套的発想であり常套的抗弁です。彼らの言い分であるということです。そして「避けられる危険」の「定量的な評価」はその言い分を裏打ちします。


バカゆえに強姦された/強姦される、という因果関係の成立を前提して責任主体としての個人の判断/行動に即してバカを「定量的に評価」しうるか、定性的な評価に基づく善悪を別にしても、また司法における「被害者の落ち度」とはそうした概念ではないことを別にしても、テクニカルに、そして現実的に難しいです。


名古屋の所謂「闇サイト殺人事件」について被害者が夜道を歩いていたことを指摘しそのことを責任主体としての個人の判断/行動に反映させるべく定量的に評価しうるか。得られる「正しい知識」は「人間なんてそんな完璧な存在でもなんでもない。理性のタガが外れることもあれば、判断を誤ることもあるし、悪い奴ってのはどこにだっている。」ということでしかなく、そしてそれは「現状認識」に過ぎないことです。別の言い方をすると、犯罪者の都合です。


「避けられる危険」を「定量的に評価」することが犯罪者の都合を肯定することに、無頓着に過ぎると思います。むろん、無頓着であっても試行すべきことかも知れません。けれども私の所感としては、以前も書いたけれど、またbuyobuyoさんも似たことを言っておられるけれど、世の中には言っていいことと言って面白いことと、言って詮無いことがある。犯罪者の都合を肯定することに留まらないからです。


犯罪者の都合の別名でしかない「現状認識」は、それは構わないのですが、主張しておられることは、犯罪被害者の不都合を犯罪者の都合において抑圧しているのと同じことです。わかっておられるならよいのですけれど。「バカの因果」は、信仰の部類と私は思います。「バカだからはてなブックマークで叩かれまくるんだ」とかそうした言い種も含めて。そして信仰の問題と「避けられる危険」の「定量的な評価」を主張する人は思っていない。

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現存の社会リスクへの対処に即して個人の自由意志が圧殺されてはならない。これは原則です。そして、責任主体としての個人の判断/行動における「愚行」を現存の社会リスクに照らして定量的に評価することは、一般則としては妥当ですが、少なくとも性暴力/性犯罪に対しては不適当です。現存の社会リスクとして現実の性暴力/性犯罪があるとき、その現存の社会リスクとは多く犯罪者の都合であり横行する悪意のことであるからです。


性暴力/性犯罪は無銭飲食とも怨恨殺人とも生活苦からの強盗とも違います。悪意の別名として暴力と犯罪があるとき、社会リスクへの定量的な対処として、責任主体としての個人の判断/行動を定量的に評価することは、難しい。というか、「現存」の是非を問わずとも、社会リスクへの定量的な対処は必要であり、ネット言論の外部でそれは為されています。言い換えると、「現存」の是非を措いたうえでの社会リスクへの定量的な対処はネット言論の問題ではありません。個人的に、現状を鑑みるなら。


そして、責任主体としての個人の判断/行動を評価するために「社会リスクへの定量的な対処」を持ち出す言論のことを所謂セカンドレイプ言説と言います。むろん、KoshianXさんの主張がそうであるということではありません。本気で「現存の社会リスクに対して「現存」の是非を措き定量的な対処として、責任主体としての個人の判断/行動を定量的に評価するべき」と考えておられるようなので、長々と記事を書きました。


言論においてはやはり定性的に評価さるべきことです、と。そして「現存」の是非を措き社会リスクと理想論としてでなく対峙することと、責任主体としての個人の判断/行動を定量的に評価することは別であって、両者の因果関係を前提する議論は時に建設的でも有益でもありません、と。


現在の社会リスクとしてある現実の性暴力/性犯罪は冬期登山における悪天候のような自然災害ではない――それは政治以前の問題です。所謂セカンドレイプ言説の問題とは、その悪意ではない。悪意の別名と犯罪者の都合としてある現存の社会リスクを、「現存」の是非と共に悪意の存在と犯罪者の都合さえも措いて、しかし責任主体としての個人の判断/行動に即して、定量的に評価しようとする点にある。あたかも度重なる治験に基づく服薬規定のように。それは、現状を鑑みる限り成立しない試行です。


そこに隠蔽の意図があるとは、KoshianXさんに対しては私はまったく思いません。常識が「避けられる危険」をめぐる「定量的な評価」の集積であることは事実です。知って詮無いことであれ「正しい知識」として私たちは「犯罪者の都合」を知るべきかも知れません。ただ、異論としてはそうなるということです。