止まらない笑いと沈む船の相関?


幼児性愛が許せない - 地を這う難破船

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で、改めて散々既出の議論について蛇足を記しますと、小川紳介のドキュメンタリーとか尾瀬あきらの作品とか現在ではあまり省みられていないかと思ったことは措き。国家システムの指向すべき範疇の如何ということ。むろん立派で便利な空港が落成することは国民皆の利益になる。そのために特定国民に「泣いてもらう」発想のことを国家主義と言うし、そのことで特定国民の「笑いが止まらない」ことは統制型の国家においてよくあること。後者を成田空港建設における「反対住民」や「日教組」と名指しする発想は、広義の反共思想の成れの果てと思うしそのこと自体は構わないのだが、私の発想においては普通は後者は小泉政権において「抵抗勢力」と呼ばれていた諸氏と思う。


広義の反共思想が「抵抗勢力」指名とその排除の潮流へと拡大され、「抵抗勢力」の止まらない笑いにおいて「泣かされている特定国民」の利害に抽象的に訴求したのが小泉政権5年間において醸成された方程式であり、それは所謂「ネトウヨ」的言説の醸成と関係なきものではない。それが一般には「戦後体制下のタブー」として借定され、その実、端的に反経世会であったことも。そして左右談合の結実としての「戦後教育」が戦後体制下のタブーを規定してきた、という認識が広義の反共思想の成れの果てとして日教組排除を国務大臣に言明させるということか。赤狩りと言ったらマッカーシーに悪いだろうな。


抵抗勢力」の止まらない笑いにおいて「泣かされている特定国民」の利害に抽象的に訴求することはまだしも、それがたとえば成田空港建設における「反対住民」や「日教組」として名指しされることの意味が、私にはよくわからない。左右談合の結実を指弾する広義の反共思想が所謂「特定アジア」とその日本における政治活動を「抵抗勢力」として「戦後体制下のタブー」たる「既得権」を位置付け借定することは了解しうるとして、それが「止まらない笑い」と「泣かされている特定国民」をただちに導出するかは、抽象されたアレゴリーとしてではなく事実命題としては必ずしも言えない。


「止まらない笑い」の目に見える顔としてたとえば中国共産党の高官が、「泣かされている特定国民」の目に見える顔としてたとえば拉致被害者とその家族が、メディアにおいて存在したことは言うまでもないし、そのときそれは必ずしも間違った認識ではない。ただ「抵抗勢力」とその「既得権」を追討する旗幟と称する立場におかれては、「止まらない笑い」の目に見える顔としてたとえばウォール街のハゲタカな面々が、「泣かされている特定国民」の目に見える顔としてたとえばプレカリアートネットカフェ難民が、メディアにおいて存在したこともまた、こと小泉政権以後において論を俟たない。


――要するに、このように議論する限りは抽象されたアレゴリーにおける神学をめぐる闘争でしかない。経済の議論とはアレゴリーの応酬ではない。私はアレゴリカルに論じる質なので経済論議は不得手だ。そして大衆社会における政治とは抽象されたアレゴリーの闘争としてあることは変わらない。今なお、構図を抽象された世界は1枚の泰西名画であると。

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繰り返すと、立派で便利な空港が落成することは国民皆の利益になる。そのために特定国民に「泣いてもらう」発想のことを国家主義と言う。あまりこういうことは言いたくないのだけれど、「マジで」「中国がうらやましい」のなら、移住して国籍取得されたらいかがでしょうか、というふうにしか言えない。以前に北京五輪に関してtakerunbaさんが記しておられた通り、中国はそういう考え方をする国なので。そして日本は中国ではないので。以前も記した通り、あの国は公共という概念に些か事欠く。我が国がひとのことを言えるかは知らない。


そして、特定国民の「笑いが止まらない」こともまた公共概念の簒奪であることに違いないが、日教組がまた成田空港建設における「反対住民」がそうであったという意見に私は賛成できない。なお「笑いが止まらない」特定国民を階層に即した社会的属性において論じることと民族概念において論じることは違う。近代化の複雑な問題といえ、前者についてもあまり褒められたことと私は思わないが。少なくとも、日本社会が良くも悪しくも今なお同質性強く排他的であることは、私も実感してきたこと。


労働組合において「社会主義なんて知ったこっちゃないから、今期だけ給料上げてよ」というのが通用しないように、図書館利用者において「生存権なんて知ったこっちゃないから、公共圏の侵害をなんとかしてよ」というのもまた通用しない。結局は、あらゆる人間の抑圧からの解放を指向する思想に一切は存する。むろん、方法解は相違する。方法解の相違について論じるが有益と思う。私は理念的に改良主義を採る。


「だから」立派で便利な空港が落成されなくてよいの、一般利用者が利用できなくなってよいの、それは皆がニッコリできることなの、という指摘は正しい。それは空港に図書館に限定されたことでない、言うまでもなく、日本社会のあらゆる局面において出口無くなっていること。ただそれは社会の問題としてある。私有財産の強制力に基づく接収が可能なのは国家で、そして戦後日本が是とする国家システムにおいては皆がニッコリするために誰かに泣いてもらうことを認めない。それは市民社会が認めさせていないということ。だからシステムが回らない、という現場の悲鳴は方々で聞くが、そして日本という客船はエンジンシステムの停止において船上パーティーもそこそこに沈んでいくのだろう。むろん最初に溺れるのは機関部の人間で。

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で、国交相にそんな見識なかったろう。俺の仕事が滞るのは国民が公共意識に欠けるからだ、という論理ではあったかも知れない。国務大臣において「国民主権なんて知ったこっちゃないから、国策を遂行させてよ」というのは通用しない。選挙が近いせいか、そして私が言えることでもないのだが、最近界隈がずいぶん殺伐している。岸信介よ再びということか、にもかかわらず国家など措けという雰囲気についてはよくわからない。


私が時々思うのは、公務員というのは身内の金を派手に横領しても肉体的に制裁されないのだなということで、それが法の支配ということで、結構なことではないでしょうか。私有財産の強制力に基づく接収が可能なのは国家で、戦後復興史とそれに伴う疑獄史を紐解くまでもなくそんなのは広義の国家主義なくして回らない。現在のシステムとはそういうことで、それが回らないという話を国務大臣が法の支配を措いて説くのは。立派で便利な空港が落成されることが正解であることは自明らしい。自明の綱引きか。


マルサの女2』において三國連太郎演じる大銀行の着脱可能な実働隊たる鬼沢鉄平が曰く、地上げのコツは愛情と脅し。公共とは口先でしか言わない。時はバブルであったが資本家とその手先が公共を信じるはずもない、伊丹十三の世界観におかれては。国家なら本気で言っているとは、必ずしも限らない、岸信介にしたところで。そのことを私たちは先の敗戦で骨身に染みて知ったのだった。特に結論はない。特定国民という概念は昔も今も権力者の愛玩物である、ということくらいかな。改めて言うまでもないと思うけれど。


構図を抽象するのはともかくリテラルアレゴリーとしての1枚の泰西名画として世界を解することは私たちの複雑に錯綜した近代社会にとってマイナスではないかと、強いて言うなら選挙の声を聞いて思う。特定観念において整除されないことこそ近代社会の価値なのだから。むろん、個々人が問題意識や批判精神を持ち合わせることはそれとまったく別である。私は東洋的な一幅を好む。しかし大概富岡鉄斎になる。それが近代ということ。

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