finalventさんへの返信


異論というほどでもないけど、ちょっとコメント - finalventの日記


finalventさんからコメント頂きました。有難うございます。御指摘の点について説明させていただきます。今度こそ簡潔明解に。

(1)「私にとって信頼の論理とは、マフィアの論理の別名でもある」について私がわからないだけかもしれないけど、私の理解では、マフィアは国家または国家間の寄生であって、国家的な義、つまり、市民を社会から守るという機能はできてない。つまり、マフィアは社会の延長であって、公の義が疎外されていない。


おそろしく手前勝手な書き方をしていたことに冒頭読み返して気が付きました。申し訳ありません。私が示した「信頼の論理」とは、東浩紀氏の。

信頼ベースの社会と不安ベースの社会だったら信頼ベースのほうがいいのは自明で、そして日本の現状では信頼を再構築するために愛国教育とか社会奉仕が必要なのだ、という議論があります。


しかし、それって本当でしょうか。人間は境界を決める動物です。信頼ベースの社会も「信頼できる人間」と「信頼できない人間」をまず区別するはずです。つまりは、信頼ベースの社会というのは、基本的に信頼の適用範囲を限定した社会にならざるえません。そしてその境界にこそ、普通はナショナリズムだとかヨーロッパ中心主義だとかが入りこみます(むろん、ポストモダンリベラリズムはその信頼の範囲を無限定に拡張しようと提案していたわけですが——デリダの「歓待の論理」とか——、いまや明らかなようにそれはきわめて文学的で理念的な提案でしかありません、理念は理念で必要なのですがここでの話とは水準がかわってしまいます)。ローティやロールズでさえ、アメリカ中心主義とか一国リベラリズムとか批判されているのは、みなさんご存知のとおり。

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さらに付け加えれば、「信頼」は英語の「trust」で、こちらは微妙にフランシス・フクヤマなんかを意識しています。『人間の終わり』を読めばわかりますが、フクヤマの議論でも信頼と人間の定義(というかヘーゲル的「歴史」の定義)は密接に繋がっています(ところで肝心の宮台さんはルーマン的な意味で「信頼」を使っているはずでそれならむしろナショナリズムには繋がらないと思うのですが——といってもぼくはルーマンは詳しくないのですが——、最近の宮台さんの議論ではそこが短絡されているような気がしていて、そこもぼくのエントリのひとつのコンテクストを形成しています)。あと、信頼という言葉を使っていたかどうか記憶にないですが、信頼の論理が信頼できる人間と信頼できない人間を峻別しないと成立しないことは、ロールズが『万民の法』でリベラルにつきあえる国家とそうでない国家を分けざるをえなかったことにも現れていると思います。

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以上の記述に対応しています。「信頼の論理が信頼できる人間と信頼できない人間を峻別しないと成立しない」ということです。宮台真司氏と東浩紀氏とfinalventさんとで「信頼」の定義というか用法が相違しており、かつそのことが要点と考えたゆえ、先のエントリにおいて、当該部に対するfinalventさんのレスを引用させていただきました。


「信頼ベースの社会」とルーマンに拠って宮台氏は言うけれども、「信頼の論理が信頼できる人間と信頼できない人間を峻別しないと成立しない」限りにおいて、ナショナリズムと繋がりかねないことに対してあまりに無配慮である。ゆえにそのむね指摘する。それが東氏の元記事の趣旨と私は読みました。

信頼ベースの社会と不安ベースの社会だったら信頼ベースのほうがいいのは自明で、そして日本の現状では信頼を再構築するために愛国教育とか社会奉仕が必要なのだ、という議論があります。


というのは事実です。議論しているのは宮台氏とその周辺かも知れませんが。その議論に対してどう考えるか、ということが東氏の改めての問題提起です。


対するに、finalventさんは。

 信頼というのは、個人の価値の、つまり友人とかの選択とか、情報の選択という場合の信頼性というのと、国家=公、の信頼性とは別で、こちらは限定というより、公義のなかに信頼性が自然に含まれているものでないといけない。たとえば、あの裁判官は信頼できないというのは別段公言してもいいけど、裁判制度が信頼できないというのは違う。もしそうならそれを公義に信頼に足るものにしないと。(あと貨幣が信頼できるというも公義のうちかな。)
 で、信頼の社会というのは、実際には、そうした公義だけの問題ではないんだろうか。

問題の背景がよくわかんないけど - finalventの日記


こう論じておられます。どちらが、あるいは誰が、正しいとか間違っているとかいうことでは、むろんありません。「個人の価値の、つまり友人とかの選択とか、情報の選択という場合の信頼性というのと、国家=公、の信頼性とは別」と考えるか、そうでないと考えるか、ということです。宮台氏は「そうでないと考えている」。


その宮台氏が提示する「信頼」観と「日本の現状では信頼を再構築するために愛国教育とか社会奉仕が必要なのだ、という議論」に対して東氏が批判的に論じた。それが発端となったそもそもの記事です。宮台氏は「そうでないと考えている」けれども、東氏は「そうでないと考えている」わけではない。東氏の返答レスが基本的にリファの列記であったことは、単なる「論壇人」の抑圧的な当てこすりでもハッタリでもなく。

(前略)コミュニケーションのコストを低くするためには、他人の主張を批判するときにはあるていど前提を読んでほしいと思います(それこそ信頼社会として?)。

アウシュヴィッツとネイションの繋がりとか、公共性と「人間」の定義だとか、そういう話はべつに俺流理解でやっているのではなくて、少なくともそういう議論がされている場はあるのです。

というわけで「問題の背景」の説明まで。finalventさんの記事は影響力があると思うので、追記させてもらいました。


率直に、そういうことだと思います。東氏の「肩を持っている」のではない。私は、読者として東氏の言論活動をそれなりに長く知っているので、finalventさんの関心領域と文脈に引き寄せて論じるなら、東さんの議論はまったく違った印象を人から持たれるだろうな、とは思った次第です。むろんそれが東氏も認める通りブログというものであって、私もまたやっていることです。先のエントリがそうであったように。


「東さんがおっしゃられるナショナリズムからアウシュヴィッツに結びつくという観点は基本が失当されている」かというと。それは「信頼ベースの社会と不安ベースの社会だったら信頼ベースのほうがいいのは自明で、そして日本の現状では信頼を再構築するために愛国教育とか社会奉仕が必要なのだ、という議論」の、その是非とかかわります。


「個人の価値の、つまり友人とかの選択とか、情報の選択という場合の信頼性というのと、国家=公、の信頼性とは別」と考えるか、そうでないと考えるか。私は、そうでない、ということがありうると考えるのです。梅田望夫氏が指し示すようなGoogleWikipediaの時代において、決定的に「別」となりうる、という認識的な前提に、私は同意します。が。再び引用させていただきます。

「私にとって信頼の論理とは、マフィアの論理の別名でもある」について私がわからないだけかもしれないけど、私の理解では、マフィアは国家または国家間の寄生であって、国家的な義、つまり、市民を社会から守るという機能はできてない。つまり、マフィアは社会の延長であって、公の義が疎外されていない。


私の言葉で申し訳ないのですけれども。マフィアの論理という言葉を持ち出したのは、「信頼ベースの社会と不安ベースの社会だったら信頼ベースのほうがいいのは自明で、そして日本の現状では信頼を再構築するために愛国教育とか社会奉仕が必要なのだ、という議論」を前提してのことです。


マフィアの論理とは、finalventさんの理解とおそらく相違するのですが、「コーサ・ノストラ」を引き合いにしたように、国家の義を介することない血族的な共同体論理のことです。報復に類する共同体の義は近代国家の義と必ずしも一致しません。マフィアの義は近代国家の義と一致しない、にもかかわらず近代国家の義としてマフィアの義が発動しうることの問題と、普遍的正義に対する国家の義の限界、といったことを示したく考え先のエントリを記しました。


御指摘を受けて気が付いたことですけれども。finalventさんは、市民と社会と国家、として考えておられるのですね。私は、先のエントリにおいては、簡単に言うなら、ということですが、マフィアの義を掣肘する国民と国家の義、として考えていました。


しかし、この種の中間集団の解体を企図して国家と個々の国民を直接的な一対の単位とする設計思想的な近代主義こそ国家社会主義に通じる発想である。finalventさんの御指摘を反芻する中で、そのことに考え至りました。「公義」という言葉に対する了解含めて、私はfinalventさんの議論を自身の問題関心を投影するかのごとく曲解して受け取っていたようです。申し訳ありません。


私の国家観が時に国家主義的であることは事実です。「マフィアの義」が機能する社会から市民すなわち個人を守る国家の機能を万全とするべく考えてしまうためです。一国単位であろうと。国家を介してマフィアの義が発動することに対して私は原則的には批判的です。私は、近代国家におかれては社会正義が国家を介して実現されるべきであり、ゆえに国民による社会正義をめぐる合意形成努力としての議論が必要と考えるのですが、省みるにこれは一種のスターリニズムであり、国家社会主義に通じる発想ですね。


「日本の現状では信頼を再構築するために愛国教育とか社会奉仕が必要」という記述に顕著なように、宮台氏や東氏の展開する議論においては「愛国教育」と「社会奉仕」は並置されるべきものです。宮台氏は両者を肯定し、東氏は両者を否定している。おそろしく雑な整理ですが。――私の社会契約に対する理解というか了解が誤っているのかも知れません。むろん、基本的に「愛国教育」と「社会奉仕」は「別の話」です。そして。


アウシュヴィッツナショナリズムとは別の話」であるか否か。


「国家において信頼の論理が信頼できる人間と信頼できない人間を峻別しないと成立しない」とは、たとえば宮台氏の議論においては端的には「話の通じる奴と通じない奴がいる」こと、そうした発想の問題、ということです。宮台氏が提示する信頼の論理は「血統的な民族幻想」に拠るものではない(すなわち友愛原理に基づく)。そのとき「話の通じない奴」を信頼できない人間として国家が借定するなら、国家の義に妥当しない義が国家において発動する。そのことの危険とその蓋然を東氏は指摘している。


『24』の世界の話ではなく。東氏は、ナショナリズムが国家の義の正常な機能ではない、「話の通じない奴」を信頼できない人間として国家が借定する蓋然ある以上、「あえて」であろうがそんなものは要らない、と宮台氏の議論に対して指摘している、はず。国家の義の正常な機能でないからこそ、ナショナリズムは蓋然的にアウシュヴィッツと紐付く(なお萱野氏は、必ずしも「国家の義の正常な機能ではない」とは考えていない、はず)。

(2)アウシュビッツをジェノサイドと捉えるなら(どうもジェノサイドの基本を理解されていない人は多そうだけど)、

国家においてコーサ・ノストラの範疇と民族の範疇を端的かつ徹底的に一致させたとき、「国民の国民としての正義」の国家を単位とする限界なき――すなわち「国民国家」としての憲法的規定なき――独裁国家において、マフィアの論理が発動したとき、アウシュヴィッツへの一里塚が見出される。冥土の旅の一里塚が。


 修辞がよくわからないのだけど、たとえば、ダルフールで行われているジェノサイド(これはもはやどう見ても実態はジェノサイドでしょう)は、その構図に当てはまっていない。むしろ、私たちの現代世界のアキュートな問題に、東さんもかな、過去や日本の体制を基軸としたナショナリズム考察の射程が届いていない。というか、それがアキュートな世界問題なのだということの思想的な意味が了解されていないように思えます。(ある思想的な「問題(ナショナリズムとか)」がまさに日本の知の水準でのみ問われるという、問題化の擬制装置による日本の知的閉鎖性は実際には現代版のナショナリズムの変奏に過ぎないのではないですかとも思う、アキュートな世界像に届かないし。)


修辞については申し訳ありません。最後の一文は完全に余計でした。改めて記します。ナチス国家社会主義であることは東氏も承知です(というのは一応読者なので)。


人種主義が国家社会主義を介して発動したからジェノサイドに至った、そのとき、国家の国家としての限界を国民が規定しえなかったがために、第三帝国の名において行われたナチスの暴虐を国民が掣肘しえなかった。ナチスはその結社としての「義」を第三帝国という「国家社会主義」において発動させた。ナチスの結社としての「義」が普遍的正義に著しく反することは言うまでもない。


第三帝国はドイツのナショナリズムか? むろん否です。その意において「アウシュヴィッツナショナリズムとは別の話」です。


ナチス第三帝国の名において尽くした暴虐の限りを、ナショナリズムの原理に起因すると考えるか、近代ドイツの市民社会に担保されたナショナリズムを切断して成立した人工的な国家社会主義の、その特異な人種主義に起因すると考えるか。東氏とfinalventさんの議論はその点において決定的に分岐している。そう私は受け取りました。


東氏は、ナショナリズムを国家の義に妥当しない国家観念の原理的な問題として捉えていると思います。すなわち大澤真幸氏の議論が極端なまでにそうであるように、理論的に。なお。記してきた通り、また誤解なきよう明記しておきますが、私と東氏は国家に対する捉え方も考え方も全然違う。東氏は、まったく国家主義的な人ではないし、国家を(東氏の考える)国家の義に妥当させるべく方法論として考えている。ナショナリズムの原理は東氏が妥当とする国家の義の範疇にない。


私は、といえば、近代ドイツの市民社会に担保されたナショナリズムを切断して成立した人工的な国家社会主義の、その特異な人種主義に起因すると考えます。そのとき、マフィアの義が国家を単位として召喚されることはなぜか。マフィアの義は、結果的にマフィアに対してのみ利益として機能するにもかかわらず、国家において召喚され国民統合の理念として利用されることがある。「民族自決」として。


しかし。それが血統的な民族幻想であれ、また友愛原理であれ、利用されることにおいて変わりないところがある。むろん、ゆえに批判さるべき、とは必ずしも言えません。国家社会主義において血統的な民族幻想が国民統合の理念として召喚される。しかしその国家とは第三帝国であって、国民とは国家の子らに過ぎない。独裁に基づく専制国家における権力集団としてのナチスの義が第三帝国の名において国民そっちのけで家族的な血族の包摂と他なる者の選別を遂行する。アウシュヴィッツとは、そのことの問題です。


finalventさんが提示された「問題は、国家社会主義がなぜアウシュヴィッツに結びつくかということではないでしょうか。」ということ。端的には。近代の民族観念が専制権力的な国家を介して自決権の果ての民族浄化へと至ることの、ひとつの極限的な問題と私は考えています。


先のエントリ。最後の段落において私が記さんとしたことは、専制権力的な国家においてその中心にある血統的な民族幻想に規定された共同体的な利益集団が、国家を介して自決権に基づき民族浄化のごとき殺戮に及ぶ蓋然に対して、国民はその義において国家の義を規定するべき、ということです。周知の通りナチスは選挙により政権に就きました。


血統的な民族幻想も、また専制権力的な共同体も、国家に対する国民の義において掣肘さるべき。そして。友愛原理に規定された近代国家におかれても、国家を単位とする成員間の公正において非成員との不公正が生じうる、その普遍的正義に反する不公正は国家を単位として考えたとき解きえない、ということです。チベット問題においても周知された、国家主義者のジレンマです。私は、東氏とは相違して、専制権力なき国民国家を原理的に肯定するのです(東氏は、社会契約に対してそもそも懐疑的です)。ナショナリズムもまた。


――そして。


以上、私が開陳してきたような議論がそもそも擬似問題であり為にする議論ではないか、という指摘について了解します。以上記してきたようなことが、正直なところ意味/意義あることともあまり思えません。ただ、エントリに対する御指摘の点については自分なりに説明したく思いました。失礼もあったと思うので。

 ダルフール・ジェノサイドについてば、世界構造的には、米日中が結託(グローバルな経済体制)することで実際には中国の資源ナショナリズムを是認しそれが資源国の利権という軸を生成することによって独裁国家を保護する、その反映としてジェノサイドが生まれてしまう。つまり過去のドイツや日本のような特定国家の内発のナショナリズムではなく、現在は世界構造がそうした独裁国家(的ナショナリズム=利権の要請)を周辺に生み出させ、そしてしかも米日中(EUも)が現実にはそのローカライズし封鎖されたジェノサイドを温存する構造にはまっている、というのがアキュートな問題だと思うのですよ。(ダルフールの人々をジェノサイドに追い込んでいるのは国家を介した形での私たち日本人なのですよ。ただ、問題は、その国家の介在性の意味と、その責の了解として日本人が問われるということになるのだろうと思います。)


ダルフールの人々をジェノサイドに追い込んでいるのは国家を介した形での私たち日本人なのですよ。ただ、国家の介在性の意味と、その責の了解として日本人が問われるということになる」――改めて、考え続けてみます。finalventさんが私に対して直接にそう指摘された、ということではありませんけれども、finalventさんの御指摘を自らに対して検証する過程において、改めて自身の旧弊な国家主義的な国家観を確認しました。その決定的な問題についても。毎度のことですが、簡潔明解と言っておきながら長々とレスしてしまい、申し訳ありません。御教示、有難うございました。