マフィアの論理とナショナリズムの原理(正義の実装)


ナチオンから遠く - A Road to Code from Sign.


アウシュヴィッツナショナリズムとは別の話」であるか否か。一連の議論が滅法興味深かったので、簡単なメモとして記しておくでござるの巻。俺流理解であるけれども。いつもそうじゃねえか、という突っ込みは却下。


私の個人的な問題意識の起点には、マフィアの論理といかに対するか、ということがある。マフィアの論理とは何か。端的には。愛する者としての家族が殺されたなら殺した者に報いを、という発想のこと。私にとって信頼の論理とは、マフィアの論理の別名でもある。信頼を裏切る者には制裁を。むろんそれは社会契約の論理とは決定的に相違する。finalventさんもそのことを示しているし、東浩紀さんが踏まえていないはずもない。マフィアの論理とは「私」セクターであって「公」セクターにおいては社会契約の論理が前提される。


昔。米国において最も愛される映画が『ゴッドファーザー』であることは彼の国の国民意識と相似を描くがゆえのこと、と冗談を記したが、あながち誤ってもいなかったことを9.11以降の展開が証してしまったことは、残念ながら明瞭であった。それをしてナショナリズムと呼びうるか。ナショナリズムは、社会契約に基づく「公」セクターたる国家を単位として「私」セクターとしてのマフィアの論理を発動させる、国家と国民のアポリアであるか。


国家とはマフィアの論理を掣肘するためにある(べきである)、とする国家観がある。私の理解においては萱野稔人氏もまた第一にそう論じていたと記憶する。この点において、東浩紀さんとfinalventさんの認識は一致するか。


国家は起源においてマフィアの論理を胚胎しそれを支柱とするがゆえに、ナショナリズムとして現れる国家は無力化されるべき、とする考え方。国家とは起源においてマフィアの論理に対する掣肘として「作為の契機」において構想されたものであり、そうあるべき、ゆえにナショナリズムがマフィアの論理を包摂するものではない、とする考え方。近代国民国家を前提するなら、後者であるけれども、ポスト近代の前提においては、前者となる。すなわち、前者における国家とは極端に言うならローマとその大義に遡るから。


原理においていずれが正解か。「ナショナリズムの概念や歴史をめぐっての知的背景の差異」がかかわること。かくもハイレベルでなくとも、私もそうした経験は幾度となくある、むろんネットに限ることなく。専門領域に分割された学問においてはそのようなコストは前提的に回避されうるのだろうとは思う。


正義のない戦争に協力するのはやめて、自衛隊員を家族のもとに帰そう - good2nd


違憲性の有無を問うとき、日本国において正義の有無は関係ない。正義ある戦争を合憲とするのが米国であって、日本国は米国ではない。米国においては、そして、かつて多国籍軍を組織した国連においても、戦争に際して正義の有無が問われる。そのとき、問われる正義の閾値とは。


「日本国は米国ではない」が欺瞞であるなら、憲法九条を有するがゆえにあらゆる戦争に対する派兵を否とする、米国とも国連の合意とも相違する、日本国における国家としての正義の閾とは何か。国民はその閾値を何として定めるか。湾岸戦争以来、日本国の直面してきた課題であり、確かに小沢一郎はその課題を課題としてきたのだろう。


つまり。「私たち日本国民の日本国民としての正義とは何か」ということが、イラク戦争に無関係でない日本国の国民に対して戦争と正義を問うなら問われることである。トートロジーめくが、日本国民の日本国民としての正義は憲法に明記されてある。そうでないなら、(ことに武力行使や戦争協力をめぐる事項については)改憲をもって臨むべきであり、それが閾値となる。「日本国民の日本国民としての正義の閾値」は、たとえば米国はじめ先進諸国におけるそれと相違するなら、いかなる場所に存するか。むろん、憲法九条に存する。


「米国はじめ先進諸国におけるそれ」を考えるとき、問題は冒頭へと戻る。たとえば。人命とは正義であるか、あるいは損得であるか。損得において計りえない、すなわち非計量ゆえに正義であって、イラクで何人米兵が死のうと正義が正義であることにはかかわりない。このとき問われることは「正義のために払われる代償」とその正義との計量であり天秤である。が。


「正義のために払われる代償」が国民の血税であり命であるとき、正義と血の天秤は不均衡の閾値を越えたとき破産する。先進民主主義国において、人命とは正義であるから。イラク戦争が間違った戦争であったこと、米国内においても遠からず断定されるだろうことは言うまでもない。では正義の有無は。それは、「米国民の米国民としての正義」に照らして論じればよいことであり、事実喧々囂々に論じられている。


問うべきは、正義と血の天秤を米国民が米国民としての正義とするとき、その不均衡の閾値において正義が不正義に転じること。すなわち、「正義のために払われる代償」としての自国民の血税と人命という正義が、その計量されるべき天秤の対象としてある正義に対して不均衡を示しうること。先進民主主義国において人命とは正義である。そして、その正義は「国民の国民としての正義」のもと「国家」とその限界が介する。「国民」という単位において。



拉致問題の解決のために、ひいては日本国民の安全保障すなわち国益のために、北朝鮮を丸め込まなければならない、そう主張した人もいた。丸め込めたかは知らない、が拉致被害者の一部とその家族は帰国した。残る拉致被害者の帰国のために提案された強硬論に対して国益を持ち出して応じた人たちがいた。まさに『ブラックホーク・ダウン』がそのような映画であったが、人命が正義であるときその多寡や軽重はまったく関係ない。が『ブラックホーク・ダウン』において描かれた人命の正義とは。


拉致問題において、あるいはイラク戦争をめぐる米国内の世論において、顕著であるように、人命という正義において剥き出しにされるものは、常にマフィアの論理であり、それを介した国民国家の原理である。人命という正義は、マフィアの論理すなわち当事者意識と友と敵としての同胞意識が介するとき、そして近代国民国家の原理が介するとき、理念は措き実装においては普遍たりえない。

また、ぼくは不安ベースの社会が引き起こす諸問題を無視しているわけでもない。たとえば排除型権力の拡張などがそれです。実際、性犯罪者へのGPS常時着用などは本当に現実化しそうです(あまりネットでも騒がれてないけど)。しかし、たとえば排除型権力より包摂型権力のほうがいいと言うときに、「ではだれを包摂するのか」が消えない問題として残るのを忘れてはならない(『思想地図』のシンポジウムや鼎談ではその点でぼくと萱野さんが対立しています)。不安ベースの社会は、人間を人間扱いしない、ぼく風の言い方をすれば「動物」扱いする社会です。だからひどい社会といえばひどい社会です。しかし、社会の構成員全体をひとしなみに動物扱いするのであれば、それはそれで人間的な社会とも言えないことはない。最悪なのは、だれが人間でだれが人間でないのか、恣意的に線を引く権力です。大袈裟に言えばアウシュヴィッツの教訓はそこにつきるわけで、だからぼくは、日本に対する愛とかなんとか以前に、ナショナリズムの論理が嫌いなのです。

hirokiazuma.com

 で、私が思想界の常識を知らないだけかもしれないけど、問題は、国家社会主義がなぜアウシュヴィッツに結びつくかということではないでしょうか。つまり、東さんがおっしゃられるナショナリズムからアウシュヴィッツに結びつくという観点は基本が失当されているように私は思います。

 この事はたぶん、国家観に由来するとも思うのですが。

 国家がどのように成立するかというとき、ナチスのように血統的な民族の幻想を起点とする場合と、フランス革命以降の近代国家における友愛の原理によるものとは違いがあります。

 この点は、実際フランスのレジスタンスが愛国的なナショナリズムから起きたことでもごく単純に理解できることだと私は思います。もっとも、フランスの場合はパトリオティズム愛国主義)であって、ナショナリズム国家主義)ではないといった議論も可能かと思いますが、であれば、その差異は、やはり、血統的な民族幻想か友愛の原理の差異になるでしょう。そしてどのどちらもやはり国家を基軸とした運動です。


(中略)


 あと、信頼の件について、「trust」とされるわけですが、そのあたり単純にわかりませんでした。trustは日本語の「信頼」の含みもですが、「委託物」の含みがあり、国家の原理では、本来個人が持つ権限を国家に委託する構図があります。つまり、国家はそれを委託されるがゆえの信頼という構図があり、この問題では、まずそうした国家の義が問われ、そして国家の義とは、市民を社会から保護することにあります。今回の文脈でいえば、社会のなかで信頼が度数的に問われていることで市民に差異が生じる場合、国家はまったくそれを無視して義を執行し、市民を社会から守ることが責務となります。

東浩紀さんへの返信 - finalventの日記


ナショナリズムの原理とはすなわちマフィアの論理であるか。多民族国家米国の対テロ戦争に私は幾らかそれを見る。しかし多民族国家米国は過去において、民族を単位とするマフィアの論理が、たとえばNYにおいて熾烈に跋扈していた。現在も。ゆえに多民族のマフィアの論理を合衆国の星条旗という理念において国家に包摂するべく国家原理としての正義が、日本国よりはるかに強く必要とされ、国民国家としてのナショナリズムもまた強く要請される。


その象徴たるNYが、米国の国家原理を前提しない存在から攻撃を受けたとき、国家を単位とするマフィアの論理がナショナリズムとして発動する。国家に包摂されてなお強固な民族を単位とするマフィアの論理の上澄みに、あの超モダンな高層ビル群は聳え立っている。


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ナショナリズムの原理とはすなわちマフィアの論理であるか、そう問われたとき、むろん原理的に否、と私は答える。ナショナリズムの原理がマフィアの論理であってはならない。しかしながら、ナショナリズムの原理は多くマフィアの論理を包摂し、個別条件としての関数を措き、近代国民国家を前提するか否かとしての起源の如何を問わず、そのように機能しうる条件が存する、端的には人命の計量において。ゆえにこそ、日本の歴史的条件において「作為の契機」が肝要である。私はそう考えるし、たぶん宮台先生もそう考えているのだろう。


人命を正義とする先進民主主義国において、国家は人命という正義を、成員すなわち国民という単位において計量する。むろんそれは国家の限界であり、国家を単位とする正義の限界であり、すなわち国民の正義の限界である。「私たち日本国民の日本国民としての正義」の限界である。国民の正義において国家の限界が規定されるからこそ憲法が存在する。


国民の正義としての国家の限界が規定されず無限界であるなら、すなわち国家を単位として国民の正義が暴走するなら、それはナチスドイツの帰結以外の何物でもない。国民の正義の限界において国家の限界を規定するからこそ、憲法は肝要であり、あるいは九条は肝要なのだろう。かつてナチス・ドイツにおいて、カール・シュミットが論じた政治神学が結果的には最悪の体で達成されたことを教訓として。私自身は、憲法九条改正には相対的に賛成しない。が。


不正義であろうがなかろうが日本国におかれては、自衛隊という存在に対する憲法の規定が存在しないがゆえに米国と軍事的に一蓮托生しかけていることの問題がある。「私たち日本国民の日本国民としての正義」が自衛隊の存在を規定するべく機能していないこと。そのことは原理的にも、また現状を鑑みても、単純に危険と私は考えるけれども。


憲法自衛隊の存在を認めていない云々、ということではない。そうではなく。「日本国民の日本国民としての正義」の限界の外部に自衛隊統治権力としての国家の指揮下に存在しかつそれは現実に文民統制下の「戦力」であるがゆえに「米国民の米国民としての正義」に自衛隊が使役している。そう言いうる状況がある。それってまずいだろう。


ゆえに。これは矢作俊彦も言っていたことであるが、「私たち日本国民の日本国民としての正義」が自衛隊の存在に対して規定的に機能するべく、憲法九条改正さるべき、とは筋論として思う。むろん、改正されていないことが「私たち日本国民の日本国民としての正義」である。「二度と戦争に深く加担しない」という「私たち日本国民の日本国民としての正義」として。


しかし。かかる日本国民の正義としての国家の限界の外部に自衛隊統治権力としての国家の指揮下に存在する。世論という名の空気を読まない政府は無視無視無視するしあまつさえそれを公言するだろう。斯様な公義における原理としての問題に目を切って憲法の外部に存在する自衛隊の現状を追認する限り、世論という名の空気を読まない政府の無視無視無視は選挙の日まで続くだろう。


世論の問題ではなく、原理の問題であり、公儀の問題。形式に信頼が宿るからこそ近代国家は近代国家としてあり、「公」セクターは「公」セクターとしてある。公義とはそういうこと。そのために「作為の契機」が必要とされる。


「二度と戦争に深く加担しない」日本国民の日本国民としての正義はその国家を単位とする限界において国連を介することなくイラク国民の苦衷を救いはしない。その正義は日本国民の人命のために存在し、計量的に機能するものであるから。


人命という先進民主主義国の正義をめぐるナショナリズムの原理として、そのことは問題ない。しかしその正義の外部に自衛隊が存在するから、彼らはイラクに派兵されている。率直に言って、大日本帝国を知る諸外国から見たとき、異常な事態だろう。その長きに亘る異常事態が、空幕長の「そんなの関係ねえ」発言の背景として存在する。「これなんて関東軍?」という突っ込みがどこかにあったが、ま、そういう状況と見る人も外国にはあるだろう。実態の問題ではない、形式的にそう見えてしまう、ということ。


人命の正義は、原理的に普遍たりうるか。普遍たりうるという理念的な前提において国連は活動している。その国連において人道的介入は議論されてきた。が。湾岸戦争の際日本は非難された。御身大事と。


近代国民国家が近代国民国家であることにおいてマフィアの論理を採用しうる、という原理的な議論を私は寡聞にして知らない。繰り返すがマフィアの論理に対する掣肘として近代国民国家は機能するから。成員間の序列において人命さえ計量化するのがマフィアの論理である。対する掣肘としてマフィアの解体を企図する近代国民国家が成立し存在する。そして血族の論理は近代家族として「私」セクターの範疇として処理される。ゆえに仇討は犯罪。


然るに。近代家族が国家の基盤として「私」セクターにおいてなお体制順応的に機能し、成立の過程において近代国民国家がマフィアとその論理を内に包摂することは、マクロにもミクロにも幾らも見られること。現在においてなお、マフィアの論理を包摂した近代家族の似姿としての国民国家は健在である。天皇制を「近代家族」としての皇室を「公」セクターにおいて有する日本もむろん例外でない。


かくて成員間の序列に基づく人命の計量を理念的にも撤廃した近代国民国家は、その「国民の正義」が規定する限界において、成員であるか否かとそれに準ずる序列に基づく人命の計量を余儀なくされる。構造的帰結であるがゆえに、人命の正義は原理的に普遍たりうるとする国際主義ないしインターナショナリズムに立たない限り容易に批判しうることではない。構造的帰結において召喚されるのが、フラタニティ、すなわち同胞愛/友愛と名指される近代的概念である。現在の米国における同胞意識とは理念的にも民族に規定されない。



ナショナリズムは同胞愛/友愛においてマフィアの論理を国家の単位において発動させうる。「作為の契機」に基づく近代国民国家の必然であるがゆえに、形式に信頼を宿す近代国家が原理としての公義のゆえにマフィアの論理を発動させうることの指摘は必要だろう。そして。近代国家の友愛原理がマフィアの論理に疎外された者たちによるマフィアの否定であるにもかかわらず、国民国家は国家の単位においてマフィアの論理を発動させる、友愛原理に基づき、同胞というコーサ・ノストラのために。


国家においてコーサ・ノストラの範疇と民族の範疇を端的かつ徹底的に一致させたとき、「国民の国民としての正義」の国家を単位とする限界なき――すなわち「国民国家」としての憲法的規定なき――独裁国家において、マフィアの論理が発動したとき、アウシュヴィッツへの一里塚が見出される。冥土の旅の一里塚が。

コーサ・ノストラ - Wikipedia