お化けの森とブギーマン


私は「萌え絵(パンツが見えているようなもの)」を見て、傷つく生身の女..

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://anond.hatelabo.jp/20080318031119


ブクマ見て少し驚いた。かつて「マジョリティの側の度量」と言って顰蹙買った私は、懲りずに「男の側の度量」と言いたくなる。むろん、法規制を許容することが度量ではない。そのことをふまえて増田氏は記していると思ったけれども。


http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080318/p1

表現の自由」を掲げる論者たちが、このようなものに対してどう考えるかです。ぼくはべつにいいと思います。ホコ天ちょっと占拠するくらいで、誰にも迷惑かけてないし。ところが、これに対して「やりすぎ」と言う人がいます。また、「こういう人がいるから規制しろという議論が出るんだ」と非難する人*1もいます。偉大なるゾーニング主義者は、「表現の自由」を守るために「行き過ぎ」を禁止せよといいます。ロリコンに怯える少女のために二次元を規制するのは「表現の自由」に対して「行き過ぎ」だが、ロリコンに可視化される「行き過ぎ」たロリコンは隔離すべきだといいます。


でも、「行き過ぎ」のラインはどこにあるのでしょう?

私の意見は「御勝手に」です。そもそも私は街中で自らの恋人と手を繋ぐことにも、求められれば応じてきたが内心辟易していたひとでなしなので、趣味ではないが、遭遇しても足を止めはしない、というだけのこと。双方合意なら御勝手。また、それこそ常識として、「非常識」なことしている人間が付き合うに値しない人間であるわけではまったくない。「非常識」が顰蹙されることは世の習いであるが、「非常識」が法規制される近代社会があって然るべきではない。


私が秋葉原に対してそれほど思い入れを持たない、ということはある。「下北沢」を守ろうとした人々に対して、下北沢の限定的な歴史的条件とその限界について示したのは東浩紀でしたが、そして私は下北沢には縁あったにもかかわらず東氏の見解に賛成ですが、「貴方の思い入れに過ぎない」とは必ずしも思わない。

ロリコン」と「表現の自由」をめぐる諸問題にも同様のことが言えます。行為を切り離したところに「表現の自由」が引かれるとしましょう。しかし、我々は「表現の自由」で守られた「行き過ぎたロリコン」と「そうでないロリコン」の間にも線を引きます*2。この線は同じものでしょうか。違うものでしょうか。禁止はされていないけれど、「表現の自由」では守れないもの。これらを我々は一体何と呼べばいいのでしょう?


少なくとも今の世の中では「表現の自由」とは非常に限定されたところにあると言わざるをえません。いろいろな部分を制限された残りかすを、リベラリズムが「表現の自由」として守っているのです。そしてぼくはやはりゾーニングという行為は、ルールに書かれていないルールによってなされている行為だと思うのです。書かれているルールとはつまり「表現の自由」を擁する、堂々たる我々のリベラルな社会規範ですが。もちろんゾーニングをリベラルな社会規範の点から論じることは出来ます。ただそれはテクニカルです。プリンスホテル日教組を排除した件について、我々はプリンスホテルコンプライアンスの点から非難はできます。おおいにやるべきだと思います。でもそれはテクニカルです。プリンスホテルの本心は日教組氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ねであって、その本質に関する議論はなされなくてよかったのでしょうか。いやプリンスホテルごとき放っておいてもいいかもしれませんが、児童ポルノについては?

倫理の話が重要であるというのはそこです。繰り返しますが法律論による反対はおおいにやるべきだと思います。倫理の話と法律の話を区別するべきという意見もありますが、向こうははじめから区別していないわけです。だから反対する我々もそれが必要なのです。


確かに、その議論は重要です。線を引きうるか、と問うなら、原理的に引きえない、としか私は答えようがない。ただ、所謂「不良少女」な議論は詮無い。そして。いかに線を引きうるか、と改めて問うなら、歴史的な文脈と社会通念に拠る、としか言えない。その「社会通念」に自身の判断を丸投げする発想が問題であり、現実に「規制派」を利しているがゆえにヤバイ。その指摘と懸念は正しい。ただ。「表現の自由」において反動は許容するべきでない、それは譲りえない一線。


性的社会におけるリスクマネジメントの問題と、性的社会に潜在しときに顕在しメディアを通じて全面化する、攻撃と暴力と蔑視と個人の毀損と存在の搾取とその非対称、という問題は、個別に存在し、個別に議論されるべきです。ゾーニングが問題の回避に過ぎない、というのは、後者の問題に対してであって、性的社会におけるリスクマネジメントとしてはひとつの最適解、と歴史的経緯を鑑みても言わざるをえない。「書かれているルール」としての「「表現の自由」を擁する、堂々たる我々のリベラルな社会規範」に一義的には合致し、しかしリベラリズムの理念に合致しなかろうとも。


エロゲのことは不案内であるけれども。所謂エロ本業界は、これまでずっと、圧倒的な非対称関係にある当局(=お上)との高度な文脈と空気の読み合いに基づいて、ゾーニングという方法論の自発的な選択も含めて合法的なビジネスを展開してきた。かつて反権力を志向する世代が多く流れ込み活躍した業界であるがゆえに、狡猾に「お上」の文脈と空気を読み立ち回りながらも、所謂サイレントマジョリティの支持を背景に、「表現の自由」のもと「現実的」かつ合法的に戦い、主張もし、暗黙の世間に浸透させてきた過程が(すべてではないにせよ)あり、そうしてきた人があった。「馴れ合っていた」ということではない。「ルールに書かれていないルール」の問題とは、この場合そういうこと。それが「リベラリズムの理念」と合致するか知らない。「ルールに書かれていない」以上は。「ルールに書かれていない」とは、そういうこと。


さる業界の人々 (ちくま文庫)

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一方。たとえば。性行為描写に対する自身の価値判断において、自分は和姦しか描かない、と言った著名な「エロ漫画家」を知っている。鬼畜好きの友人に言ったら笑っていたが、その笑いに対してこそ、その人はマジで怒るだろう。確かに。その笑いは蔑視に基づく嘲笑と紙一重だ。「当事者」の倫理的な問題意識と、その議論に対する。そして。


そうした職業差別的な偏見から、文脈も空気の読み合いもそれに基づいた現実的かつ「合法的」な闘争とその戦果も「そんなの関係ねぇ!」とぶっちぎって、いやそもそも大枠の事情すら知らず――むろんhokusyuさんらのことではないが――率直に言って浅薄なリベラリズムの観点から「児童ポルノ」という問題系を提示されたところで、多くの「現場」の「表現者」たちは、困惑以前に業腹というのは、それは当然のこと。


性的社会とポルノメディアと猥褻と公序良俗と「表現の自由」の問題は、あくまでその筋においてやるべきであって、国際的に問われている児童ポルノの問題とその系を、以上の問題系とごっちゃにして論じるべきではないし、それはとんでもない筋違いです。むろん法的にも、そして倫理的にも。


歴史的な文脈と前提ある「ルールに書かれていないルール」の暗黙の運用とその蓄積それ自体に対してリベラリズムの観点から裁断すべきとは、プリンスホテルは知らず、児童ポルノ問題とは相違するポルノグラフィの問題について、私は考えない。日本国憲法に「書かれているルール」としての「表現の自由」は、至高の理念でなく最低限綱領であって、ゆえにこそ「各論」ではなく、児童ポルノをめぐる問題系についてリベラリズムの観点から法的/倫理的に論じることと、両立しうる。


冒頭の増田に言及した、NOV1975さんの記事。


目に入って傷つくのは普通のことだけど - novtan別館

これも前に書いたけど、人間って理由がつけられないことについて恐怖を覚えることが多いわけだ。昔の人は妖怪の仕業にしたりたたりのせいにして説明をつけていたし、妖怪がいなくなった今、科学的な説明が試みられているし、とにかく、意味不明というのは怖い。あと、暴力も怖い。暴力の伝説も時に鬼になったり神隠しになったり。そういった怖いものに蓋をすればするほど、閉じ込めている妖怪たちが邪悪な度合いを増すように思えてしまうのは、閉じ込めている罪悪感のなせる業なのかもしれない。


直視できないならそれでも構わないけれども、お化けの森を破壊しておいて復讐を恐れるようではどうしようもない。


同意と同時に、私が思ったことは。ただ、ブギーマンは現実にいるし、ブギーマンに喰われる子どもは現実にいる。そのことはお化けの森の存在と関係がないか。関係がある、と、想像力の飛躍においてしてしまうなら、まさに『IT』というかまるっきりスティーヴン・キングの作品世界における世界観であるし、しかしキングの小説が世界的に読み継がれるように、そのあまりにキリスト教的な感覚はきわめて強く社会の底流を構成してもいるのだろう。現代日本においても。想像力の飛躍を要請するある種の「ファンタジー」の受容基盤として。ある種の、というのは、「恐怖」をともなう、ということだ。私もキングの小説は愛してやまない。が。


IT〈上〉

IT〈上〉


つまり。民俗学の問題ではないのだろう。お化けの森にブギーマンが潜んでいると考える人間の世界観においては。私が懸念し危惧するのは、魔女が実在すると信じ社会に害為すと考える者たちによる魔女狩りだ。hokusyuさんが示したパフォーマンスを行った沢本あすか氏は批判されるべきか。その「非常識」についてでなく、自身のパフォーマンスが喚起した不特定多数の欲望について。公衆の面前においてカメコの欲望を喚起し破廉恥な撮影行為を「誘発」せしめたとして。んなわきゃない。


お化けの森にブギーマンは潜んでいないか? 統計を要する議論であることは違いない。経験的な私見を述べるなら、潜んでいるに決まっている。性犯罪やる者が和姦と言い難いポルノグラフィまみれであることは、そうでないことと同程度には、よくあること。「だから」ブギーマン退治のためにお化けの森を焼き払えー、という話になるかというとならないし、犯罪予防としても無理筋にして無策。


人々の「恐怖心」に基づく焼き討ちはブギーマン退治にもならない単なる魔女狩りでしかない。「恐怖心」や「悪意」へと及ぶ、人の想像力に対する手当ては、想像力をもって、あるいは現実のコミュニケーションにおいて為す以外にない。リベラリズムの理念においても、現実的な処方としても。言論に対しては言論をもって対抗するほかないように、表象に対しては表象をもって対抗するほかない。YouTubeを一方的に切断する国に住まない私たちは。


人の想像力はその飛躍において常に負へと傾く、ゆえにこそ理性を前提する、それが「暗黒の中世」を経たルネサンス以来の、リベラルの、否、近代の理念ではなかったか。『寄生獣』ではないが、ブギーマンは私たちの中に普通の顔をして紛れ込んでいる。そして子どもをさらって喰う。


お化けの森が存在することが、森の中にブギーマンの一切が潜んでいるかのごとき錯覚と誤認を引き起こすなら、いっぺん焼き討ちしてみたら、と思う。被害は減らないだろうし、筋違いの「表現の自由」が割を食い、人は焼き討ちという解決の方法論を覚えるだろう。もっとも安易で野蛮で無益な方法論を。


ブギーマンが存在することとお化けの森が存在することは別個に論じるべきだ。お化けの森に言い知れない恐怖を覚え想像する人があるなら、かつて人類がそうしてきたように、文明と理性の光を照らす以外にない。すなわちあえて啓蒙的な議論を展開する以外にない。事が恐怖心の問題であるなら。かつ、性的社会におけるリスクマネジメントとしてのゾーニングを是としないなら。


しかし。性的社会に潜在しときに顕在しメディアを通じて全面化する、攻撃と暴力と蔑視と個人の毀損と存在の搾取とその非対称、という問題なら。

私は「萌え絵(パンツが見えているようなもの)」を見て、傷つく生身の女性の一人なんだけど(別に2次元に限らず3次元でも同様)、どうして傷つくのかよく考えてみると、そういった商品を消費する層は自分自身はそういう立場で消費されることはない安全圏から、非対称な形で楽しみを享受しているからで、女性という性に生まれついた以上そうやって性的に搾取されるしかないのだという事実をこれでもかと突きつけられるのがつらいのかなと思う。


(中略)


白人が作った、白人が楽しむための有色人種差別虐待コンテンツを見て有色人種が感じる不快感、とでも表現すれば、この感覚を男性にも想像してもらうことができるのだろうか。


感覚で規制されるんじゃたまらん、という意見は分かるし、そういう規制の仕方は非常に危険だと思うけれど、そもそもそういうおぞましさを感じさせていることと、その理由について自覚的にはなってくれればと思う。

私は「萌え絵(パンツが見えているようなもの)」を見て、傷つく生身の女..


「自覚的」ですよ。私以外の人間については知らないけれども。つまり増田氏に同意するけれども。卑近な話をすると、他人を外見でジャッジするなら自らもまた外見において他人からジャッジされて当然、と面食いの私は考えていたが、そう考えていない男は多くて時折驚く。ブギーマンは退治すべき。ではブギーマンの欲望が安全圏において広く共有されることは退治されて然るべきか。


柳が幽霊に見えるのは、かつ柳を幽霊と見間違えて脅えるのは、貴方の心理的投影であって、すなわち貴方の心と成育の問題です、貴方の側の事情です、というのが近代の性観念の解であって、フロイト先生が顰蹙買うのもむべなるかな。然るにそれはいまなお解であると私は考えていて、ポルノグラフィとその流通の問題は、柳が幽霊に見えることとは別個に論じるべきと思う。が。


流通するポルノグラフィにおいて、攻撃と暴力と蔑視と個人の毀損と存在の搾取とその非対称が存在することは決まっている。それは柳ではなくて歴とした幽霊。しかしその幽霊に脅えるのは、やはり個人/個々人の心理的投影の問題、と言わざるをえない。量的多寡と社会的な文脈において、幽霊にまみれたメディア環境とそれを容認する社会それ自体が問題であるとするなら、私はこう答える以外にない。


自由な社会において幽霊は規制しえない。「表現の自由」の問題ではない。規制しようがないのだ。負の想像力という幽霊は、メディア環境の有無にかかわらず、私たち人間を常に脅かし心を支配し続けている。だからこそ、理性と知と愛が、啓蒙の光が、必要なのだ。文明の飽和したかのごとき現在においてなお。反動にバックラッシュに意味はなく益もない。メディア環境の有無に尽きるならゾーニングが解。


私たちは、私たちの社会において、無数の負の想像力という幽霊と共存していく以外にない。必要なのは、焼き討ちという方法論ではなく、お化けの森と共存する方法論だ。児童ポルノ法とは、ブギーマンを退治するための法律であって、お化けの森を焼き討ちするための法律ではない。手を打つべきことの矛先をごっちゃにしないでいただきたい。ごっちゃにして得するのは誰か。当局にこれ以上の好き放題をやらせたいか。


幽霊に脅え自身の想像力が生み出した幻影を現実のブギーマンと錯覚して「恐怖のあまり」土蔵から持ち出した猟銃をお化けの森に向けてぶっ放し挙句火を放ったりしないために、人は啓蒙の松明をかざして森に分け入り、理と知において悪魔と向き合わねばならない。悪魔は森になく我が目の中にある。我が目の悪魔を他人の瞳の奥に見て、私たちは悪魔退治に精を出すのだろう。非倫理的な安全圏において。悪魔を生み出したのは、私たち人間の都合であり、負の想像力という幽霊を「萌え絵(パンツが見えているようなもの)」のごとく人の似姿としてそこらじゅうに増殖させたのも、私たち人間の都合だ。幽霊の中に我が目の悪魔を投影するのも。「御勝手」を許さないのも。

わが目の悪魔 (角川文庫 赤 541-3)

わが目の悪魔 (角川文庫 赤 541-3)