心の金満家はソラリスを求めないか


http://d.hatena.ne.jp/Rir6/20080318/1205768183

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修辞は措き、正論。というか。気が付いたけれども、私は前提を思い違いしていたかも知れない。


社会の規矩に対してちゃぶ台返しする余地すらないからこそ、ウィンプウィンプと規定され物言うことすらかなわなくなる社会的な前提があるからこそ、ムカついたら罵倒しろ、殴れ、傷つけろ、呪詛せよ、ちゃぶ台などひっくり返せ、それが負であろうと感情を赴くがまま発散させよ、金持ち喧嘩せずだの糞食らえ、と、かくも切実に説かれなければならないほどに、追いつめられている人が、世のスーツマンに多くある。現在。


ちゃぶ台はない、というのが私の主観的認識における生来の前提で、ゆえにこそ「社会」概念や社会性に対して関心多々であり、異国で言語を学ぶかのごとく試行錯誤のもと我流で習得してきたので、一連の議論に対してはズレていたか、と。自分が飯食う都合に合わないちゃぶ台を唯々諾々と受け入れてしまうことが、世に奴隷根性と呼ばれるのだろう。


404 Blog Not Found:社会を使って自分を助けろ

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私が「404 Blog Not Found:バイキング式のレストランで給仕を待つ君たちへ」で言ったのは

  • あなたを助けてくれる白馬の王子様はいくら待っても来てくれるとは限らない
  • しかし、「社会」ならあなたの目の前にもある。
  • 「社会」はあなたを救わない。だけどあなたは「社会」を使っていい

ということ。

要は、「社会」と「他人」をごっしゃにしてしまってるんだね。

確かに社会は他人、いや自分自身をも含めた人で出来ている。しかし社会は人じゃない。人は細胞で出来ているけど、細胞は人じゃないのと同じで。

で、「他人に助けてもらう」のと「社会を使う」のとどちらが「自分が助かるか」。

実はどっちだって構わない。しかし社会が発達するにつれ、「社会を使う」の効用が大きくなるというのは確かで、そして社会は確実に発達していて、今この瞬間も発達している。


一貫してそう言っていることはわかる。ただ。小飼弾氏に、ということではなく、議論に一貫して欠けている視点がある。私は一貫してそのことを言っていた。と気が付いた。欠けているから非ということではない。私は気に掛かる、ということ。


社会参加への、あるいは「社会」利用への、社会に対して関与することへの、動機付け、という視点の欠如。「あなたの目の前にある」「社会」に対して、手を伸ばすために、ヒトは訓練を必要とする。人間となるために。生物学的な成長の過程において、社会的によく訓練されたからこそ、ヒトは人間として「社会」にコミットし、いかなるアプローチにせよ、社会を構成する「他人」に関与しようとする。ニーチェが言うところのルサンチマンとして、負の様相が現れても。


社会的な訓練の欠如が、たとえば犯罪という体における、負の社会参加を招く限り、かく言ってよいなら「疫学的見地」において、「社会」関与と「他人」関与への動機付けが施される。多く親密な人間関係において。すなわち愛において。あるいはその適切な欠如において。義体は条件付けを施されずして手を血に染めることはない。


僭越な私見を付け加えると。

自分ひとりの力だけでマッチョになったの?誰の力も借りず?
まだ小さくて弱いあなたに手を貸してくれた本当のマッチョがいなかった?

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小飼弾氏に対して示されたMarco11さんの問いは、そのことを指摘していたのだろう、と私は勝手に思っている。社会とは自明であり、それに対して関与することもまた自明だろうか。参加することも、利用することも、誰かのため何かを創り出し皆に対して料理を振舞うことも、一切は無前提なプログラムであるか。


プログラムは無前提でも無条件でもない。貴方に対してかくプログラムしたのは、前提を与え条件付けを施したのは、社会性という動機を涵養したのは、訓練したのは、誰か。いかなる具体的関係と行為に拠るか。貴方は誰に愛され、いかなる形で愛され、自身ならざる他人が構成する社会に対して、インフラという料理を振舞うことを志向するべく条件付けされたか。動機付けされたか。訓練されたか。


木の股から生まれてきたわけではあるまいに、という言葉は、そのことを指す。それは、あるいはとても残酷な、人間存在の事実である。いうまでもなく、これは批判ではない。


70のトラックバックを読むだけの、めったにないお仕事です。 - Attribute=51

「こいつはポジティブ教だ」って言われるんだろうな(笑)

いやー、さぁ。それ言われるたびに「ポジティブ教じゃない状態ってどんな状態?」って思って、

「ネガティブ教、になるのか? いまいちネガティブ教のイメージがわかないんだよなぁ」と思ったり、

あと、

 ・ポジティブ教=ノリとテンションでレッツゴー

 ・アンチポジティブ教=冷静と沈着の間で知略と戦略練りまくり

みたいなムードがあるけど、別に十分熟考して、そのうえでポジティブな人もいるだろうし、

ちゃんと整理して考えれば大したことないのに、感情だけヒステリックになっちゃってネガティブな人もいるし、

そもそも今回で言えば「勇気出す=何も考えてない=蛮勇」というロジックはちょっと強引じゃないかなぁ、

とか思ってたんだけど、

それこそ、ごちゃごちゃめんどくせぇから、オレ、ポジティブ教でいいやーって思った。あはははは。

いや、実際は結構否定的に物事考える方なので、全然ポジティブじゃないんですけどね。単にこだわりが少ないネアカなんだと思う。


ポジティブ教って中谷彰宏のことと思ってた。中谷先生、嫌いではないけれども、役には立たないなぁ、と以前、片端から読んでみて思った。抽象的な一般論である限りにおいて、景気付け、というか、迷っている人の「背中を押す」ことは期待しうるだろうけれど、という。むろん、景気付けの言説があってもよいし背中を押す言説があってもよい。必要とする人は大勢いると思う。でも私には役に立たない、ということ。


もう少し書くと。中谷氏に限ることなく、抽象的な一般論、とは、多く社会的行為の過度の心理還元であって、しかも、その一方的な心理還元が私には詐術と映って仕方がない。たとえば、中谷氏においては「人間の原像」というものが確としてあり、しかもそれが浅薄というかあまりに鋳型であり、そして、人は鋳型であるからこそ社会生活と社会関係が可能でありその向上もまた可能であると、本気で信じているらしい。恋愛論を量産しうることと面接読本に長けていたことの理由はよくわかる。


guri_2さんの書くエントリがポジティブ教とは全然思わない。社会的行為を過度に心理還元しているとも思わない。


ネガティブ教とは何か? 現在の議論の枠組で言うと、社会的行為を(他に対して一方的に)心理還元すべきでないとする言説的立場のこと。そして。心理に発する社会性や社会関係を肯定することを懐疑する立場のこと。guri_2さんは肯定している、と見なされている。


つまり、心理における自他の切断を前提しその地点から社会を社会関係を改めて規定し心理に拠ることのない社会性を個々人において涵養せんとする立場こそネガティブ教。心理的な社会の全面化とその危険性については散々指摘されている。


議論や言説は、心理の問題ではない、そう考えるネガティブ教があり、一切は心理とそれに即した行動の問題と考えるポジティブ教がある。不毛と知りつつ二項対立的に記すと、そうなる。ゆえにポジティブ教において「わかったような理屈」は「勇気の有無」へと還元され、ネガティブ教においては、心理とそれに即した行動の以前に、自身の心理を無条件に肯定/否定することなく、自身から切断し諸関係において分析し記述せよ、ということになる。


私はguri_2さんをポジティブ教とは思わないけれども。ひとつだけ、ネガティブ教にまつわる語解を説かんと記すなら。「わかったような理屈」ではなくて「わかる/わかろうとするために理屈を酷使している」のですよ、ネガティブ教の諸氏は。それは「要は勇気がない」からではない。自身の浮気な心理に翻弄され欺かれることなく、諸関係において自身が自身であらんとするために、換言するなら、気が狂わないよう、「勇気を振り絞って」いる。


心理とは「自分の気持ち」は、浮気者です。肯定しても否定しても詮無い。死なない限り自由にはなれない。必要なことは、距離を保ち距離を計測し接し方を弁えること。自身の心理が自身を誑かしそれが行動に反映される、そう考える者は、自身の心理に対して他人事になる。他人事とするようになる。自身の心理は信じるに値するか、自身に対して嘘をつかないか。私の経験的かつ個人的な結論は、信じるに値しない。かつてみうらじゅんが言った通り。――I don't believe me.


一般論と厳に断る。金持ち喧嘩せず、と言う。それは必ずしも所得や財産の有無ではない。心の金満家があり、敬意を払われる。私も払う。ゆえにこそ、心の金満家は全力でDisられなければならない。コミュニケーションの切断を企図し公知するために。心の金満家の、包摂としてのコミュニケーションへの志向こそ残酷でエゴイスティックである、ということがある。Webにおいても、現実でも。だからこそ。オマエと共に抱く天はなく、共に見る空は地上のどこにもない、と人はあえて言明する。好き嫌いではなく、社会的行為として。


コミュニケーションとは包摂ではない。喧嘩してこそコミュニケーション、ということでもない。切断という彼我の提示が倫理的行為としてある。そのことを示すために「死ね」と言明されねばならないときがある。私が「死ね」と率直に言われたように。guri_2さんが「死ね」と本気で言われたように。紀元前より受け継がれる、ネガティブ教の教義に基づくなら。


留保の無い憎しみの肯定を! と世界の中心で切実に叫ばなければならないくらいに、現代日本は心の金満家が首を揃えて柳に風であり、自身の憎しみを「呑み続けてしまう」人があふれているか。憎めばいいと思うよ、私はそう言いたいし、憎み憎まれることは人の世の習いと考えてきたが、そのようなことをいま改めて言わなければならないことに、思うところはある。日本は平和だ、ということではないはずであるが。


新興宗教オモイデ教 (角川文庫)

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