正義でも道徳でもなく/「現在」をこそ撃て


あけましておめでとうございます。本年も当ブログを宜しくお願いします。


年末年始はネット切っていたので、完全に今北産業状態であるが。右曲がりの債務のような気もするので、少し思うところを書く。


南京事件議論まとめ - 萌え理論ブログ


――私は。「個人的に」差別は嫌いで、レイプを結果的にも正当化する類の言説は嫌いで、虐殺も嫌い。であるから。そういう類の事柄には言及もする。しかし。


それは。反差別が性暴力非難が虐殺否定が、道徳的正義であるからでも、ひいては正義漢面したいからでも、まして「皆が言っている」からでもない。幾度も記しているように、「私個人」にとっては、個人的な事情が一義の理由として所在し、あるいはそれに尽きる、かも知れない。ゆえに、これも再三記しているが、私自身は公に他人を「道徳的」「倫理的」に断罪することを、原則として好まない。それもまた「個人的な事情」の一環に過ぎない。


「糾弾」は、いまなお、必要だろう。他人による内心に及ぶ指摘なくして、人は自分の目の中の梁に気が付くことはないかも知れない。目の中の梁を指摘し合うことが、他人の目の中の塵を言挙げることと見分けが付かなくなることを、私は考えてしまうが。間違っていることを間違っていると指摘することは、間違いの理由を指摘することと、必ずしも一致しないが、別であるはずもない。自己批判と自己肯定は、当然のごとく両立するし、自己批判とは自己否定ではない、のだが。換言するなら。他人に対する批判はその他人の否定ではない。


戦争反対が是とされる社会において戦争に反対することくらい、戦争否定が是とされる社会において戦争を否定することくらい、易く安全なことはない、と説き続けた故人があった。山本夏彦であるが、私が幾度も引くのは、夏彦師の言挙げになお戻るのではないか、とも考えるため。


反差別が性暴力非難が虐殺否定が、(少なくとも公然においては)是とされ道徳的正義とされる社会において、それらを「声高に」言挙げることの、安易さ安全さ、正義漢面、そして、そのゆえの他に対する「道徳的」「倫理的」断罪と、箍のない感情的な言辞の表出、そうした「傾向」に対して、辟易している人はいるだろう。


「Rape of Nanking」に限ることなく、慰安婦問題もまた同様であるが、戦時性暴力の議論に、現在において言論的にかかわることは、当該問題に対する、発言者の態度表明を前提とする。レイプは性暴力はけしからん、と皆さん言いますね、でも、けしからんと前置するわりに、実際言っていることは、というのが、現在のネットにおける主たる問題意識。「戦時であれ」「虐殺である限りにおいて」虐殺は許すべからざること、と皆さん言いますね、と。私自身は精神分析の用語を使用することに賛成しないが、使用せざるを得ない事情があることはわかる。


南京事件」について、倫理道徳の問題を措いて、むろん感情も措いて、「理知にのみ拠って」「議論」することは可能か。可能。そのことを端的に示したのが以下の記事。「わかりやすい」とかそういう話では一義にはない。


じゃ、3分で読めるようにまとめましょう - Apeman’s diary


南京事件」について、あるいは戦時性暴力について、ひいては性暴力全般について、倫理道徳の問題を措いて「議論」することの「不可能性」に対する認識が所在する限りにおいて、今回のような提起は示されるだろう。そのこと自体は直接には「歴史修正主義」の問題ではない。かかわりはする。「不可能性に対する認識」が、誤認であることを私は知るが、そう判断しない人も在るらしい。


道徳的正義に対する同意の言明をこっぱずかしいと考え照れくさく感じる人が在る。関する抑制を寛容の証と考える人も在る。マナーの悪い喫煙者の煙に我慢することを寛容と考えてしまう人のことである。スルーしているに過ぎないならまだしも。


人は誰しもいつか死ぬ。「寿命」の前に不意に、畳の上ならざる場所で、悲惨に残酷に死ぬことが容易に在る。平時においてさえ交通事故により年間何人が死ぬか。戦時において蓋然が上昇することは等しく自明である。舞台が中国であれ日本であれ、世界のどこであれ。そして。そのことが何であるのか。地球上から人間が幾らか消えたからと言ってそれが何であるというのか。


かく言ったのは、米国の著名な連続殺人犯であるが、彼は「社会性」の完全に欠落した人間であったがゆえに、そう心底から言うことができた。彼の言に誰しもが納得するなら、9.11の後にあのようなことにはならない。彼もまた、迫りくる死刑執行に際して、彼自身という個体の死に対しては動揺し涙したのであるが。


個体の死は、任意の社会において意味を付される。それが、追悼ということであり、ゆえに、追悼は、多く共同体的である。それを否定することを、私個人は、是としない。いかなる社会に対しても、あるいは共同体に対しても。個体の死に、任意の社会が、そして共同体が、意味を付すること。それは、ホロコーストの後に行われた営みであり、南京の地において行われている営みだろう。


私は国家主義者であるが、というのは皮肉で言っているのでもあるが、少なくとも、個体の死に対して意味を付することが、一義に国家の裁量として在る、という考え方には、反対。なので、その点からは、国立追悼施設の建設にはあまり賛成しない。私は靖国信仰を持たない。ただ。たとえば親子という名の、あるいは一族という名の、または戦友という名の、個人を単位とした任意の持続的なコミュニケーションにおいて、個体の死が意味付けられることは、やむなきこと、とは思う。


そして。右翼とはそういうものではあるが、斯様な個人単位の、個人としての個体の死の意味付けが、容易に「共同幻想」を構想し、実際に形成もすること、にこそ、広義の「私たちの死者」をめぐる、問題がある。言うまでもないことであるが。私は、このことについては、かつてのシャロン政権にも中国共産党にも、小泉参拝にも、関心がない。


南京事件」について、あるいは戦時性暴力について、ひいては性暴力全般について、倫理道徳の問題を措いて「議論」するためにこそ、「情報戦」という観念は召喚されたのであろうか。70年前に、自らと偶々同じ国籍と性別の人間が、異国にて、戦争中に、虐殺やらレイプやらを行ったことが、現在に及ぶものか。回答。追悼の営みの一切を無意味としない限りにおいては、すなわち先ず靖国神社を無意味としない限りにおいては、たかだか70年前のことは、及ぶ。


虐殺やレイプを悪と見なす現在の個人が、70年前の異国における虐殺やレイプを悪と必ずしも明示的に規定しないことは、なぜか。私の見解において「欲望」「人権感覚」の問題ではない。個人における倫理道徳が、現在をしか射程としないことの問題。そのことは、戦前戦後の日本において、倫理道徳の観念が、常なる「現在」としてしか、すなわち政治的/感覚的な符丁としてしか、所在しない、という、山本夏彦が、そして小林秀雄が、指摘した問題をこそ示す。


「現代の感覚/現在の価値観で過去を裁く」云々に私は関心がない。が。「現在の価値観」が「現在の価値観」でしかない、ゆえに「価値観」とは個の感覚ないし政治的闘争の所産でしかない、要は、感覚の問題orイデオロギー問題である、という、つまるところ、「南京事件」とは戦時性暴力とは、個の感覚を措いたとき政治的闘争としての価値対立の問題としてのみ問われうるという、カント的でもヘーゲル的でさえもない「和」な考え方には関心がある。イデオロギーには感覚をもって応じ、感覚にはイデオロギーをもって応じる。かくて議論はうやむやになる。――「事実など存在しない。ただ解釈だけが存在する。」


右曲がり全開にして書いているが。私が思うことは。追悼の問題だろう、ということ。そして。直接的な当事者がなお生きているとき、追悼の課題を抱える相互の異なる共同体が、その構成員が、何を考え、示さんとするなら示すべきか、ということ。私の父方の親族は靖国に在り、私は日本に生を享けた日本国籍所有者であり、私が生れ暮らす東京は、かつて焼け野原でもあった。


死んだ人は死んだ人でしかない、いまはどこにもない。歴史は地球はどこにも居ない死者で満ちている。そして。私たちは、個体の死に対して意味を付することを、いまなおやめようとはしない。おそらくは、人類滅亡のそのときまで。追悼が孕む問題は、近代において政治を措こうとも、疎かにできることではない。換言するなら、中国の政治体制に一義に拠る問題ではない。ましてイデオロギーの問題でも感覚の問題でもない。



いま。こうした案件について、私がネットで広く言いたいことは。古山高麗雄の小説は素晴らしいので、もし「忘れられかけた作家」であったりするならそれはとんでもないことなので、代表的な短編集でよいから読んでください、ということに尽きる。古山氏は、それでもその後半生において多くの著作と言葉を残し、2002年に、死んだ。


追悼の問題とは、「被害者」の問題ではない。然るに。「加害者」の行為なくして「被害者」はない。死者の「位置付け」へと及ぶ政治が追悼の問題として在ること。倒錯の因は、戦後日本の逃れ難い捻れとして在る。