ハッピー・クリスマス(戦争は終わらない)


聖夜の渋谷は綺麗で賑やかで、性夜だねとオヤジギャグも飛ばせない。そういえば、と私は思い出す。クリスマス粉砕デモは実施されたのか。10年前の渋谷を、もう私は思い出せない。あのとき連れ立って歩いていた人の顔も、名前も。いま連れ立って歩いている人の顔を名前を、10年後の私は、生きているなら、憶えているだろうか。


人生は祭りだ、ともに生きよう。作中にてそう言った映画作家が在った。一切の終了したヨーロッパの空虚において、知的な近代個人は、混乱した自身の内を彷徨した後、ともに生きんと、傍らの伴侶に呼びかける。エゴイストは救われない。そんなことはわかっているのに。女が嫌いな人間はつまり他人が嫌いな人間で、にもかかわらず、否、そのゆえに、ユングな世界観に寄りかかる。なんだ村上春樹ではないか、と合点する。長らく読み続けてきたわけだ。


相手も忘れる、と考えて、そうでなかったことを、私は幾度か思い知らされた。消えない記憶を与えることは、時間泥棒のごとき勝利だろう。負の記憶であろうと、否、負の記憶であればこそ。人は、忘れられるよりは、恨まれることを欲する。それをして「十字架を背負う」と思い込むことは、マッチポンプの最たるもの。


傍らの天使が、私に尋ねる。私はその人と落ち合う前にBunkamuraにて『やわらかい手』を観ていた。良い映画だ。男は、そのすっくとした背中に歩き方に、自身の至らなさと不徳を見る。中年女であろうとも、未来の中年女であろうとも。マリアンヌ・フェイスフルの現在が美しいことに変わりはない。


翼を奪われ墜落したイカロスは、天使と見るや殺さんと企図する。翼を失ってこそ人間である、そのことを、同族の背に確認するために。「通過儀礼」とやらを人は強いる。致命的に修復不可能なまでに毀損されてこそ人間である。森のくまさんは、親切に過ぎる。


「今年はどんな年だった?」


転々したが。無病息災で拘置されることもなく年が越せるらしい。僥倖だよ。


「ブログライフは?」


更新が停まることはなかった。つつがなく2年目が終わったのではないか。『揉め事』に色々と首を突っ込んだ1年であった。当事者として他人と喧嘩もしたね。何をやっていたんだろうな。個人的な記憶としては。ブログの更新が停まってしまったあの人やあの人やあの人のことを思う。ことにかかわり在った人については。


とまれ無理もない。「言論」や「意見表明」においては費用対効果がもはやアンバランスに過ぎる。仕事や人間関係が忙しく充実してもいれば、かつ「表現」に「パフォーマンス」にこだわりなければ、書くことの気力を調達するに難いだろう。放言できる環境ですらない。それはtwitterに流れるだろう。


反応が全面的に可視となる環境において、そしてコンテクストの十全には機能しない環境において、書くことは難しい。他人の反応を一切気にしない人間はそもそも資質的にブログなど書かんだろう。


はてなこわいです><という言を私は幾人かから直接聞いた。最近の事態において輪をかける。ブログ始めようと思っているのだがどこのサービスが良いか、と人に問われたら、自らが利用するブログサービスは、積極的には推さないかも知れない。私自身は気に入っている。水に合っているとも思っている。


嫌な世の中だねえ、と天使はうら若き歳相応のコートの背に生えた羽をぱたぱたさせて言う。意味がわかっているのか知らん。私の無意味な口癖を真似している。あるいは感ずるところがあるのか知らん。


まったく嫌な世の中であるよ。パルコ前のイルミネーションを眺めて私は応じる。嫌な世の中のそぶりも見せないイヴの繁華街の往来で。




痛いニュース(ノ∀`) : 【生活保護】 「減額されたら娘の習字をあきらめなければいけない」 母子加算減額は憲法違反と母親らが提訴 - ライブドアブログ


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私が、直接に見聞した範囲においても、色々とある。書く気がしないのは、制度設計は全体を鑑みて問い直されるべきと考えるから。ところで全体を鑑みたとき、かつ制度設計の議論を措いたとき、すなわち意識の問題として問うたとき、挙げたく思う話がある。


ある人が言った。自分は働きたく思うにもかかわらず働けないのであるから、働ける人は働ける幸いに感謝し、働けない自分たちのぶんも働くべきである。私であったから、言ったのだろう。その人が「働けない」ことは事実であるが、「働きたく思う」はとうに自他に対する方便である。私も恒産あるなら永井荷風のように生きて死にたいと常々思っている。


私が何も言わなかったのは、『マジョリティの側の度量』を示したからではなく、率直に心中溜息をついたから。生活保護受給者と、非受給者は、かくも対立しているのか。つまり、その人は、斯様な言辞をひねり出し私に対しても提示しなければならないほど、「世間」から冷たい視線を浴びている、と本人自身が考えている。「本人自身が」というのは、親しくない人間とはめったに会わない人であるから。


私も、実家を出て以降は、ずいぶんと貧乏に暮らしもした、というか現在進行形でもあるか。食と酒煙草にさして関心がないことは事実である。というか。酒も煙草も味もわからない年頃に無茶して身体を壊した。ドロドロのコーヒーなくして生きていけないことを除くと、凄惨な食生活ではある。ただ。子供の頃に凄惨な食生活を送ることと、現在、好き好んで凄惨な食生活を送っていることは、違う。子供の頃に貧困を味わうことと、現在が偶々貧乏であることは、違う。決定的に。


私が育った家はまったく裕福ではなかったが、というか父親の失業にはじまる様々な辛苦を舐めたが、両親は不仲なりに離婚することなく公的福祉の世話になることもなく、また料理好きで食にうるさい夫婦であったため、給食含めてまともな食生活を子供の時分の私は送った。習字を習わされもした。現在はまったくの悪筆である。


両親は「教育熱心」の類であり、妹を含めて、子に対する教育投資を惜しむことはなかった。妹においてそれは実った。私において無駄に終わった。と考えもしたが、むろんそうではなかったことを私は知っている。そうではなかったことを知る人にはなったから。


格差社会って何だろう - 内田樹の研究室


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ブクマにおける集中砲火の理由もわからないではない。内田氏は「武士は食わねど高楊枝」の必要を改めて説き、個人において教養の所在が「武士は食わねど高楊枝」を支える、と説く。「武士は食わねど高楊枝」をこそ是とされる社会を志向しては如何、と。


現在の問題とは。「武士は食わねど高楊枝」を支える教養が、若年者において環境的に涵養されないこと。


教養が涵養される環境とは、結局のところ「育ち」の謂である。内田氏の「育ちがよかった」ことは違いない。そして、内田氏が「育った」時代において、事情は階級問題として在り、かかる階級問題は現在において遥かに苛烈である。「戦後民主主義」の理念なかりし時代においては。かかる階級的発想をこそ内田氏が否としようとも。


教養は文化的基盤を背景に成立する。文化的基盤がそのコンテクストが跡形なく切断され破壊されている状況において「武士は食わねど高楊枝」のススメは成立するだろうか。内田氏のように武士たることは、可能だろうか。一定以上の世代を前提してしか成立すまい。教養にまつわる身分思想を内田氏が否としようとも、状況は決定的に身分ありきである。


私の両親は、所得を鑑みるなら「中流」とは到底言い難かったが、かくあることを信じ、かくあらんとし続けた。「戦後民主主義」の理念を信じもして。母親は綺麗好きであり、父親は家事達者であった。そして。長らく一人暮らしの私は整頓せず家事を省みることない、生活の概念なき人間として在るが、「武士は食わねど高楊枝」の人にはなった。友人連中に不審がられ呆れられるくらいには。


私は、かかる私の事情を他に対して前提する意思を持たない。「武士は食わねど高楊枝」を他に勧める気もない。それをこそ傲慢と、あるいは能天気と、言うだろう。前述の、生活保護受給者は、少なくとも私のようには子供時代を送らなかった。まったく。


私の両親が、子に対して教育投資を惜しむことなかった理由は。老後のことを考えて、ではない。自分たちが貧しい思いをして育ったからだ。貧しい思いをして育った親は子に斯様な思いをさせたくないと考えるからだ。そして私のような生活の概念なく伴侶を持つことなど考えもしない人間ができあがることは皮肉でもあるが、両親の教育投資の達成でもある。


達成とは、学力中卒の私においてそのことではない。現在の貧乏をさして苦とも思わず、凄惨な生活を厭とも思わないことを指す。「武士は食わねど高楊枝」の涵養を指す。子供の頃に、貧しさを決定的には実感することがなかったからだ。両親がさせないよう能う限り気を配ったからだ。


人の子の親は、自らは貧しくとも、否、自らが貧しいからこそ子に、ことに幼き頃の子に、貧しい思いを能う限りさせたくないと考える。「DQN」な親でないなら。そして。私には言う義務があると思うから言うが、子供が、親の所得にかかわりなく、また親の人格にかかわりなく、「貧しい思い」をせずに幼き日を過ごすことは、理念において実現されるべき「正義」である。私たちの社会の基盤に属するリソースとして在る。


私は、子供の頃に決定的には貧しい思いをしなかったから、現在が貧乏であろうとそれが続こうと、平然としていられる。人間の高潔がそれにかかわりなきことを知っている。好き好んでやっていることでもある。子供の頃に貧しい思いを味わった人が、現在も貧乏であることとは、意識において事情が違う。そして、子供の頃に貧しい思いを味わうことは、苦痛であり屈辱であり、その苦痛と屈辱を、人は終生忘れることがない。


川口松太郎について宇野信夫が記した文を引いて、山本夏彦は言う。新潮文庫『良心的』所収「人の生きるは何んのため」。

 川口は以後新派の主事にはなるし大映の重役にはなるし、しまいには芸術院会員にまでなったから幸運児だと思われていた。宇野もそう思っていた。宇野が川口と親しんだのは川口の晩年で、その川口があるとき「二度と人間に生れたくないよ」と言ったという。


 川口の言葉に名伏しがたい響きがあったので、宇野は返す言葉がなかったという。川口は子供のときに苦労している。十四のときに縁日で古本を売っている。はたちのときに悟道軒円玉の家に住込んで円玉の講談の後述を筆記して新聞雑誌に売る手伝いをしている。そのとき川口はこの話の「枕」は、高座では要っても活字では要らない、またここは冗長だと削って次第に文章の骨法をおぼえたという。


(中略)


 その川口がかんではきだすように、二度と人間に生れたくないと言ったのである。よくよくのことだろう。貧ゆえに言うに言われぬ辱めをうけたこともあったのだろう。それが何かは宇野は知らない、私も知らない。ただ若いときの苦労は買ってでもせよと言うが、必ずしもそうでない。ことに幼いときの苦労は生涯癒えない傷を残す。宇野は長く親がかりで苦労らしい苦労はしてないと自分で再三書いている。川口の言葉には宇野をして絶句せしめるいたましい響きがあったのである。(p292〜294)


全体を鑑みて、制度設計を問い直さんとするなら、斯様な視点を忘れてほしくないとは、思う。


人情馬鹿物語 (大衆文学館)

人情馬鹿物語 (大衆文学館)




イヴ。渋谷の夜に、『恋空』の主題歌がリフレインされる。私の頭の中には違う曲が鳴っている。ジョン&ヨーコ?――否、素晴らしい曲だけれど。数小節を口ずさみ、傍らの天使に尋ねる。


『チキンライス』って知ってる?


未だ面影の稚い人は首を横に振る。知らんのか。素敵な詞なのに。記したのは松本人志。芸能人長者番付に載り続ける男。


チキンライス 浜田雅功/槇原敬之 - 歌詞タイム

今日はクリスマス
街はにぎやかお祭り騒ぎ


松ちゃんは言う。もう出なくなった歯磨き粉のチューブを切って中に歯ブラシ突っ込むような貧乏を、今の子は知らんでしょう。私は、実家の公団を出た後それを散々やった。そして。松ちゃんが記すチキンライスの思い出は、私の子供の頃の思い出でもある。

豪華なもの頼めば二度とつれてきては
もらえないような気がして


親に気を使っていたあんな気持ち
今の子供に理解できるかな?


むろん知っている。よく憶えているよ。親に気を使っていた気持ちを知っていることは、一人で遊ぶには工夫が要ったことを知っていることと同様に、教養の涵養された証でもあると、我が田に水を引いて言おう。昔、街のイルミネーションなど目に入らず、俯いて雑踏を歩いていた自分を、他人を憎み、帳尻を合わさんとしていた自らのことを、思う。


私は眩しい夜景を見渡す。道行く二人連れを、男たちを女たちを、眺める。私は私なりに、この小さな人間世界を、束の間の幸福が所在する雑踏を、愛している。ろくでもないと知りながら。10年前とは違う。


傍らの人は、10年後には、私のことも忘れ、世界を愛せるようになっているだろうか?   生きているなら、ね。


貴方にとって、大過なき10年であらんことを。いっそう嫌なことになるだろう世の中において、日本の来るべき未来において、貴方に災厄なきことを。サンタクロースも匙を投げる、無理筋な願いであろうが。「通過儀礼」を、人は負うと決まっているか。最初の性関係が幸福であった人間など、いるだろうか。昔のことは忘れるに限る。


私はただ笑って。傍らの人に言う。約束した通り、寿司、食いましょう。寿司も七面鳥もチキンライスも同じだ。七面鳥とは言い難い寿司を侘しく食う。


夜空に呟く。 Happy Xmas. War Is Not Over.