実名と顕名の境(あるいは言論人と言論者の境)


小谷野敦さんに実名を晒された件/および匿名と顕名の擁護 - 荻上式BLOG


所謂「ウェブの議論におけるコンセンサス」を、関知しない、認めない、という立場はあるだろう。「言責」という概念が社会的に問われて然るべき、という立場も。アカデミズムにおいて、また言論人において、その通りである。言論人とは、(御本人の言に拠るところの)「コントラヴァーシャルな議論」を行う社会的な発言者の謂。「ネット社会」は社会ではない。そうなのだろう、文化庁もそういう見解であるよう。「単著」の出版が分水嶺であったのだろう。


「単著」を世に出す、ということは、「子供が遊ぶ砂場」⇒ネットの言論はクズ - finalventの日記 たるはてなに留まることなく、社会的な発言者にして言論人として在る、ということ。にもかかわらず、自身の社会的な所在を発言に際して明示しないことは、言論人として無責任なり、という論理、なのか知らん。


むろん。発言者は「言責」を負うべき。その点においては「顕名」ならぬ「匿名」はけしからん。では。「実名」を開示しない「顕名」に拠る言論の「言責」は社会的に所在しないか。


自己は自己が主体的に規定する、社会的に規定されるのではなく、という発想を否としているのか、とは思った。社会的に規定されている既存の自己を、自己が社会において他律的に規定されることを、その権力性を指摘し、否とし、自己を主体的に自己が規定し直す、既存の社会的権力から「自己」の規定を奪い返す、という価値観を。「社会的に規定されている既存の自己」とは、たとえば性別や所属や経歴や学歴。それはインターネットの理念でもあるのだけれども。


そのような発想を否とし得る立場はある。小谷野先生の「近代主義」とはそういうことだろう。「コントラヴァーシャルな議論」に際しては「実名」を開示しない「顕名」をも否とする立場とは、発言者は「言責」を社会的な自己において負うべき、とする立場のことだろう。


確かに。アカデミシャンは、言論人は、そうであるし、むろん小谷野先生もそうである。そのことは、小谷野先生において、自明の理であり、以降は個としての「覚悟」の問題でしかない、のだろう。言論人としての「覚悟」がない、と。


ところで「荻上チキ」さんは「アカデミシャンとして」当該の「単著」を記したのか、「アカデミシャンとして」ネットにおいて言論活動を行っているのか。違うだろう。私は、御本人の学歴など一切関知していなかった。東大の院を修了していたから何なのかよくわからん。


私は小谷野先生はじめ誠実なアカデミシャンを尊敬している。よくわからん、というのは、一連のトラカレにおける言論活動と東大の院は関係ないでしょう、ということ。「関係ない」からこそ、トラカレの一連の言論活動は生まれ、存続してきたのでしょう、ということ。そのことは、私を含めた一定数のネット住人にとって慶賀すべきことであり、「ネット言論」の「ネット言論」としての、システム的な価値の証明です。


ネットは。言論において学歴も所属も関係ない。昨年の流行言葉で言うと「フラット」な世界とやら。であるからこそ、たとえば高学歴な人が、社会的な立場ある人が、比較的自由に書ける、ということが、わかっていない。低学歴のニートワーキングプアな連中が自由に書けるから素晴らしい、ということに話は限らない。


私のごく近い身内が、某所のキャリアに在る。「実名」と社会的な所属を明かして公開のブログなど書けるはずもない。本人はそんな暇もモチベーションもないのであるが。SNSも完全クローズド。


小谷野先生の世界観と、現行のネットにおける言論/議論の倫理が、噛み合わない、という周知の指摘にしか戻らないのであるけれども。関知せず理解も了解もする意思なく、自身の世界観は貫く、顰蹙「覚悟」で、というのは、「覚悟」した通りの結果になります、としか言えない。


「ネット言論」の徒は、言論者であれども言論人ではない、というのは、その通りだろう。それをして「覚悟」がない、とも言い得るだろう。言論人たることを自ら引き受けようとはしないのであるから。焦点は。言論人ではない人間の言論に価値はないか、意義はないか、ということ。言論人ではない人間の言論のインフラとして在る、現行のウェブ。その価値と意義については論を俟たない。


「ネット言論」の言論としての価値は「ネット社会」においてしか規定されない、かも知れない。言論人ではない人間の言論を、言論人でないことにおいて否定し得るか。否、であるからこそ、小谷野先生は、自身の言論を批判した者の「実名」を、自身が知るに留まらず知らしめようとした。強制的に、言論者ならぬ「言論人」の土俵に上げようとして。言論人ではない人間の言論であろうと、言論は言論。そのことにこそ、納得しかねているのだろうと思う。


近代個人としての「コントラヴァーシャルな議論」は、社会的な所在において「言責」を負うべき。立場であり見識である。対するに、「近代個人」なる概念を、システム的に「脱構築」しもするから、ネットという言論インフラは発展し、価値と意義を持った、ということが在る。価値と意義はシステムに由来する。


対するに個人の「覚悟」を問うことは立場であり見識。であるから。みな「有名ブロガー」の、その気なくとも知ってしまっている「実名」や「社会的な顔」を、本人が自ら明示しない限り公に記したりはしない。立場や見識あるから。匿名掲示板は知らん。


つまりはそれが、「顕名」の抑止力であり、個々人の個人としての、ネットワーカーとしての、倫理性である、ということ。小谷野先生の「道徳」は、ネット社会における個々人の、ネットワーカーとしての「倫理」と、真っ向対立している。そのことが何を意味するか。システムに拠る言論はシステムを倫理の基点とする。まさしく「リテラシー」の問題とは、私は思う。関知しない、のなら仕方がない。


私は、実名を開示するかと言えば、しない。晒されたところで凡なる姓名であるし、また私の履歴はグーグル様はまず拾わない。一貫して裏街道である。とはいえ。未来も現在も失うものもさしてないが、過去は在る。知っている/憶えている人間に思い当たられたくもない。むろん自身にまつわる「情報」については「特定」を避ける工夫は一通りのことをする。ただ。


私にも身内が在る。記した通り、社会的な立場の在る人も居る。進んで迷惑を掛けようとも思わない。近代個人としての言論に肉親は関係ないとはむろん言えない日本社会であり一部ネット社会である。たとえば。私が新聞沙汰として報じられたらその人は席を失うだろう。


私は、小谷野先生と結婚した人のブログを、偶々、最初のダイアリーの開設当初から楽しく読んでいた。私は、あきらかに小谷野先生と結婚したことを理由に、その人の言論が傍から難癖付けられていたことに些か業腹であったけれども、それもまた近代個人としての当人の「覚悟」の問題であると、小谷野先生は率直に言うだろう。一貫しては、いる。


人間は、多く、言論人である前に生活ある個人である。個人として発言することが「言論人」である、と考え得るのは、言論と生活が一致しているがゆえのこと。それをして顕名を「卑怯」とするのは、個人における言論と生活が一致しない社会の存在を、あまりにも見ていないか無視している。小谷野先生の「覚悟」には感服しているけれども。