「俺以前の男」たち。
⇒ちょいと不謹慎だが、こういう話しは男同士で男視線で話すと笑い話なんだ..
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- 作者: 橋本治
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
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17年前の著作から引く。当時、セクシャル・ハラスメント論争というものがございまして、対する御大のコメント。御大の文章生理が著作全体にドライブ掛かって炸裂しているゆえ、こうして長々と抜き出して引用しても、文脈的に判り難いとは思う。御容赦。――『セクハラしない男っているのか? あるいは、さまよえる欲望の論理』引用頁はマドラ出版刊の大冊の単行本(90年刊)。「入手困難」に類する本だろう。転んで頭をCDプレイヤーにぶつけたので著作権法のことは忘れた。
男は、性的なトランス状態に入ると、普段の自分を忘れる。いかようにでも嘘をつく――やさしくなる。私はそれ以前、電車の中や映画館の暗がりの中で私の股間を撫で回す男がなぜみんなニッコリ笑うのか、不思議でならなかったのだが、ようやくその答を見つけ出したような気がした。見ず知らずの男の股間を撫で回しといて、「やあこんにちわ」もなかろうにとは思うんだが、「そうか、男は性的になると、一切のゆきがかりを忘れてしまうのか」と、私は遂にその答を見つけたと思った。
性的になったってかまわないけど、その矛先のおさめ方とか収拾のつけ方に関しては礼儀というものもあるだろうにと、私なんかは思うのだけれども、どうして普通の男というのは、ああも自分自身が性的であることに対しての自覚を持たないでいられるのか?(p195)
女にとって、性的な行為は「恋愛」の中に含まれ、男にとって性的な行為は恋愛のロマンチシズムと縁を切ったところから始まる。だから男は、女に「恋愛のルール違反」をなじられるのであろう。「別に私は、あなたなんかと恋愛関係にあるなんて思ったことありませんからねッ! 関係ない人間にそんな口のきき方しないで!」と。
ところが男にはそれが分からない。なぜならば、大人の男の性行動は思春期の「恋愛」に代表されるような「ウブなロマンチシズム」と縁を切ったところから始められるのだから、男の性行動は「恋愛」なんかと縁がないのである。「恋愛に陥る」ということは、大人の男にとって、「いやんなっちゃうぐらいまだ子供」であることを自覚させられることで、よっぽど特殊に禁欲的な男じゃない限り、男は自分の性行動にブレーキなんかかけない。かけないでいい場所とかけなければならない場所と、分かれるんだったら分かれているというのが、遊びを知ってる男の節度なのである。
日本は酒飲みに関していたって寛大な国なんだそうだが、「そっちが寛大なら、もちろん性行動の方だって寛大であってよかろう」というのが、日本の大人の男の性感覚である。
だって、酔ってることにかわりはなくて、それがなかったら「ストレスで死んじゃう」のが、「性行動に関する言葉」を持ち合わせない男の感覚なのである。
もちろん、男のセクシャル・ハラスメント性は、その領域に関しての言葉を持ち合わせないことにある。言葉がない――その件に関して「しつけがない」と言うべきであろうか――だからこそ次のような逆転だって起こる。(p196)
男は、「女という動物」を野放しにすることによって、その動物を手に入れることをこそ「欲望の充足」とした結果によって。「自分の欲望」を自分で把握することが出来なくなってしまったのである。だから、男は「ほしい」の一言を言わない。言わないですり寄るか、いきなりのしかかるかのどちらかである。
なぜ男は「ほしい」と言わないのか? それは“「女」という動物が「ほしい」という言葉を発するものである”という前提を提供し、“その動物を手に入れれば「ほしい」という言葉も手に入る”という、まことにややこしいプロセスを持つ「男の文化」というものを作ってしまい、一生懸命、女に「ほしい」を教え込んだからである。女という九官鳥に「ほしい」という言葉を与えすぎて、男の手元には「ほしい」という言葉がなくなってしまった。
だから今男は考え込んでいる。「ほしい」という言葉を手に入れるために、自分は「女」になるべきか? と。
男にとって、どうやら「官能」なるものは、女の属性であるものらしいのだ。
なんという愚かな。「ほしい」に男女の差などあるものか。
すり寄ってすり寄って、そしてそこで最早言わなくてもいいような「ほしい」でさえ言うのか言わないのかよく分からなくなっている男は、どうして「すり寄ってもいいですか?」と言う「礼儀」が存在することすら知らないのであろうか? 謎である。
「しつけがない」ということが、どうして「想像力をはたらかせなくていい」というところに行くのであろうか?
二十年前のお茶の水の更に前、私が十九の年だった。新宿のある映画館で、後に聞けば「そういう男達のたまり場」だったという所なのだが、私はそこで痴漢に遭った。一人ではない三人か四人一緒にだ。
浪人時代、私の行っていた予備校は新宿にあって、午後の授業が退屈なときはその映画館で弁当食いながら映画を見ていた私は、実のところそこがそういう所だとは、それまでちっとも知らなかった。
(中略)
はっきり言って私は、自分が「男の愛情を必要とする人間」だということを重々承知していた。それがなければ生きて行けない。でも、これは一体「愛情」だろうか? ここには「言葉」なんか一つもないぞ。だから、女がそういう痴漢に遭うとか集団暴行されるとかっていうときに感じる恐怖は、とってもよく分かる。「あんたと私の間に、なんの関係もないじゃない、なのになんでそんなことするのッ!」である。
しかし、その「関係ない」ことの間に「性欲」があるのが「男」なのだということを、私はそれまでまったく知らなかった。そうでなければ、その場所が公然と「そういうところ」になるはずがない。「すべての男がそれをいやがるわけではない」という合意がありさえすれば、そこから男は、黙って「その道」に入っていける。「そんな気もなかったのに、そうされる内にそうなってしまった」などという話は、「その世界」にやたらと転がっている。
女の中に「強姦願望」があるという“伝説”は、多分男が作ったものだろう。というより、男の中にこそ「強姦願望」がある――だから当然、「女の中にもあるはず」ということになるのだ。世の中にそれがあれば、女は「そういうものだ」と思って学習する。その結果、女の中にもそれはあって、「女の中にそれがあるはず」ということになれば、「それは女の属性」になって、男の中からその願望は消える。しかし強姦に関しての合意は、実は男の中にしかないのだ。
男は、ただ取っ組み合いのようにして、身体関係を表現したいだけなのだ。別の言葉を使えば、男には「レスリング」と「性交渉」の間の区別がない。親密な取っ組み合いこそが男の中に眠っている「愛情表現」なのであればこそ、言葉がなくなることこそが「愛情」なのである。
だからいきなり「言葉」がない。それ(性行動)は「愛情」の周辺にあるものだから、それとなったら、いきなり一挙に言葉がない。わずかな「言葉」なんてものは、しょせん「わずかな抵抗」で、そんなものの前に足踏みをしていたら男がすたる――それが男の論理である。なにしろ、言葉のない「そこ」は、ほとんど「愛情」と重なるような近辺領域なのであるから。
「いやよいやよもいいの内」とは、まさにこうした男の内実を如実に表したものであろう。しかし私はただ「いや!」なのである。「恋愛」のかわりに「強姦」を望む女なんかいない。私がその薄くらがりの中にいた男達(引用者注――十九歳の橋本少年を上映中の映画館内にて痴漢した男達のこと)にとって「男」であったのか「女」であったのかは知らないが、しかし「やっちまえば絶対に“いい”って言うさ」という前提に勝手に乗っけられた私は、「強姦なんていや!」と言う「女」であることを望む。
「ただの“いや!”ははっきり“いや!”」なのだ。なんでこんな簡単なことが分からないんだろう? などと言ってもしょうがない。なにそろ、そこは「言葉がない」領域なのであるから。
ともかく私は、その映画館に一角に追いつめられた私は、怖くて怖くてしょうがない。恐ろしさのあまり、声も出せない。「自分の求めていた行為は、こんなものではないはずだ」と、ただそれだけしか分からない。おまけにそこには、「声を出せば、お前だって“同類”だっていうことがばれてしまうんだぜ」という、暗黙の恫喝だって加わる。
「男がいやだっていうんなら、お前は一生男とは寝ないんだな? 女は男と寝るもんで、でもお前はその女じゃないのか? 女は男と寝るんだぜ、お前は、自分から進んで女だってことを否定するのかよ? お前が否定するのは勝手だが、しかしそう言うお前のことを、一体だれが信用するんだ? だってお前は、どう見たって女じゃないか、女が“私は女じゃない”って言ったって、そんなことだれも信用しないぜ」――暗黙の恫喝とは、このようなものである。こうした詐術の中で、「強姦の合意」というものは成り立つのである。
そんなバカな。
私はそんなこと、死んでもいやだ。なぜならば、そんなトリックを受け入れるということは、せっかく性的であることを獲得した「自分」というものを殺すことだからだ。
男は「女」というものを性的存在だと勝手に信じて、自分の中には「そういうもの」がないと信じているが、そんなことは嘘だ。それを手に入れることが出来ないから、男は女というものを求めて「性的な飢餓状態」に陥るだけで、男が性的に女を求めるということは、自分の中の失われた、あるいはまだ手に入れていない“性的な自分”を求めているからだ。だからこそ男は、自分が「強姦される」ことさえも受け入れられるのだ。
でも私にそんな気はない。性的な空白があればこそ「強姦」という侵入も可能だろうが、私にはそんな空白がないのだ。私の中には、ちゃんと「性的な自分」は存在するのだ。だからこそ、そのことの社会的な合意を求めて、私は「男の愛情」というものを望んでいたのだ。なんでこんな簡単なことが分からないのだろう?
答えはただ一つ。
男はまだそこまで成熟していなかった。そして、「男」というものを成り立たせる制度は、まだそんな「個人的な合意」を必要とするほど、衰弱していたりはしなかった。男の封建時代は、まだ男の近代の到来を望んでなんかいなかった。
だからこそ、その男の封建制度の中を勝手に生きる、「個人」というものを知らない「個人的な男」は、「倒錯者」というカテゴリーに入れられる。「倒錯者」というカテゴリーを自分から進んで受け入れた人間は、人間なんかじゃない。それは、人間と似たような格好をした、ただの「化物」だ。
男達の腕に追い回されて身動き出来ない私は、ほとんど恐怖と絶望の中で、発狂しそうだった。もう少しそれが続いていれば、多分私は異常になっていただろう。でもそのとき、場内に明かりがついて、人の動きが起こった。映画が終わったのだ。
席が空いて、やっとそこに逃げ場があるのが見える。私は崩れるようにして、人のすき間から発見した手近な空席に座り込んだ。全身がガタガタになって、もう立っていることが出来なかった。列の端に座りこんだ私の前を、空席を求める人が通って行く。「やっと現実が始まった、ああ、やっとまた元のような“現実”が始まった、これでもうあの恐ろしい悪夢から逃げられた……」と、そう思った途端、私の前を通って私の隣に腰を降ろした初老の男が声をかけた。「今、何時ですか……?」
「ああ、今ですか……」そう言って腕時計を覗こうとした私の腿に、その初老の男の手が伸びて来る。
悪夢だ。
私は声も立てずに、その場所を飛び出した。(p197〜201)
「なんでああも当たり前なんだろう?」――恐怖の正体はこれ一つである。
(中略)
あの時代にあんなことをする人間がどう言われるかということを、少しでも考えたことはないんだろうか? 薄くらがりの外では「いかがわしい変態」でしかないからこそ、あの薄くらがりに逃げ込んだはずなのに。しかしだからと言って、その薄くらがりに「理性の目」がやって来ないというわけではないはずなのに、どうしてそれを恐れないんだろう?
「いかがわしい行為」を取り締まられることだけを恐れて、どうして、自分を愛するかもしれない者の目を恐れないんだろう?
あんなことされたら、絶対に愛せない。(p201)
問題は、どう考えたって、「俺以前の男」と「俺という男」以外に立てられない。それ以外に、立てようがない。これは「正常」と「異常」とかっていう“横の区分”ではなく、「それ以前」と「それ以後」という“前後の区分”でしかない。そしてその区分は、「ここで線を引く!」という一声以外に成り立たせようがない。
だから私は線を引く。
「俺は俺以前の男なんて男として認めないよ」
だから私は「男」が嫌いなのである。
たとえ“私以後”であったとしたって、そういう「男」が嫌いなのである。
「そういう男」とはもちろん、女に「暗黙の恫喝」を平気で強制出来る男である。そのことに気がつけない男である。
俺、「女」だっても全然いいよ。だって、「女」であることを認めたら、その一点で「俺以後の男」ということが可能になる。「セクシャル・ハラスメントの時代」に一番強いのは、そういう「俺以後の男」だもの。(p202)
17年前である。付け加えることもないような。男の性(と書いてサガと読む)(笑)。ちんこが脳を支配(笑)。
以下、B面としての余計な蛇足を。
先月、民放の深夜枠で、DVを特集したドキュメンタリーが放送された。偶々見た。番組は、むろん被害女性と支援者を取材するのだが、中で、「加害男性」、すなわち、配偶者や同居人に対して言葉と腕力の暴力を繰り返して、挙句相手に逃げられた人たちが、番組スタッフのアンケートに答えたメールの、その内容が紹介されていた。TVの前で、私はあるあると頷く。彼らは一様に、困惑している。同居人が、仮にも配偶者が、自身との生活と人生を否とするほど嫌がっているとは思いもしなかったのだ。なぜなら。
それは、彼らにとっての、ごく当たり前の、プライベートな、コミュニケーションの在り方であり親密さの表現であり、スキンシップであったのであるから。愛情ゆえにしたこと、というのは、嘘ではないから。「家庭」というプライベートな密室における、野卑な言葉遣いは、粗野な振舞いは、彼らの愛情の表れであり、「心を許した」証であり、相手が、それをかくも嫌がっていたとは、想定しなかった。そして彼らは「納得」する。それが女というものであり、女はそういうもので、男女間には、コミュニケーションと親密さの表現に関する温度差が所在する。男のスキンシップを女は理解しない。スレ違いがある。
ひとりは、番組スタッフ宛のメールに記す。大意。野卑な言葉遣いや、粗野な振舞い(とは言わず指示語を用いる)、そうしたことがスキンシップであり親密さの表現であることに、女性は慣れていないし、理解しようともしないのですよね。筆にすることないがかく続く。ことに性的なことについては、スレ違いが甚だしいです。そして溜息をつくのだろう、やれやれ、と。私は皮肉を言っているのではない。彼らは本当に困惑しているのだ。
以前にも紹介した映画であるが。マーティン・スコセッシの『ケープ・フィアー』冒頭、少女強姦により長期服役したロバート・デ・ニーロ演じるマックス・ケイディは、出所して、仇たる弁護士に問う。「女になったことはあるか?」。屈強な男たちにケツを掘られてひいひいと泣きわめくことを言う。彼は女の気持ちを了解する。以後。いっそう男であることを志向する。ろくでもない話。
男は傷付ける性である、と私によく言っていた友人が居て、私は、はぁ、と思っていたのであるが。露骨な増田記事とそのブクマに倣って言うなら。ちんこの暴力性、を彼は指していたのだろう。ちんこが脳を支配しているとき、その暴力性を、他を傷付けないために、私はいかに陶冶するか、という後期フーコー的な倫理の課題が、ある年代の知的で自己批判的な男には在るのだろう。
よく知らないのに再三言及するのもなんであるが。男における、というより、その言葉が生まれたときの「非モテ」とは、かかる知的男性の、自身の男性性に対する、批判と反省に由来するものであったと思う。「非モテ」という言葉を発案したその人のブログを、私はかつて自身の理解力の限界と格闘しながらよく読んでいて、その人がホモソーシャルを、再三批判していたことは、よく覚えている。
俺が悪いのではなくて俺の脳を支配するちんこが悪い、という言い種は、一部方面にて流通する、ゆえに男は存在において恥ずかしくも罪深い、という付録を付けて。男にとっては大変に了解しやすき、心地よい自己肯定の世界観。ダメな俺の自己肯定くらい心地よいものはない。自身の故としてなき、男のサガにして業としてのダメであるならなおのこと。
悪さ至らなさを頭掻き掻き懺悔してみせるパフォーマンスがあって。対するにがっはっはー、な小世界はあるなぁ。それをしてホモソーシャルとも、ちんこ共同体とも呼ぶが。共同体の御約束ゆえにネットに書くと炎上するわけだが。言い種、偽科学以前の問題であること、橋本御大の言の通り。
懺悔が共同体的なパフォーマンスになること、まことに日本的ではある。西欧的に言うと。人は各々が心に個別の懺悔室を持っており、それが倫理の個の源泉としてある。内なる神なき人は、懺悔を酒の席にて行い、友人知人にひいてはちんこ共同体に赦しと許容を求める。それが「世間」「常識」「空気」ひいては日本的なる「男社会」の源泉だろう。酒の席にて為され、赦しと許容を求める対象は、小世界の頷きの同胞に限られるのだから。
もっとも。それを言うなら、私のブログ言論もまた、公然における懺悔のパフォーマンスかも知れない。赦しも許容も求めるはずがないが。私は、ちんこ共同体には、一貫して関心がなかった。咎めもしなかったが、連中がスーパーフリーなことをやっていようと。厭な話を耳に入れようと。狢であること自らも同じとも、考えていたのだろう。あいつらは寝覚めは悪くないのかとは、後年に至るまで思い返しもしたが。
「自分の性行動にブレーキ」を掛けることを自身の倫理綱領とする、90年当時の橋本御大の言葉によるところの「よっぽど特殊に禁欲的な男」は在る。はてなにおいてはよく見える。端的に言って。男が男であることに居直り開き直っている野放図な人間とその言行の広範な所在が、結果的にもまともな知的青年を自己批判と反省へと向かわせ、自身の性に対する倫理性を、原罪意識と共に負わせる。
ブコメにあったが。
2007年12月18日 b:id:oya03 gender, sexuality いつも思うがこういうメンタリティが抑圧するのは女性に限ることではないと思うでよ。
そういうことなのだろうと、私も思う。
真面目に書くのだけれども。ちんこと脳の宿痾は所在する。○○○と脳の宿痾が所在するように。性的存在と人間存在の宿痾ということ。ただ。男は宿痾を容易に短絡し捨象する、下手すれば宿痾の認識がない。ゆえに「ちんこが脳を支配」「俺が悪いのではなくて俺の脳を支配するちんこが悪い」という超論理がまかり通り、それで了解してしまいもする。「傷付ける性」としての暴力性の発動も了承される。個別の暴力が一般解として「論証」のうえ処理される。つまり。ちんこと「恥ずかしながら/罪深くも」ちんこの付いている存在の故、として諒。
宿痾を突き詰めることがフーコー的な倫理性であるのだが、男は恥ずかしくも罪深き存在である、と悟達して責任意識だけ背負い、突き詰める気がないのであるから仕方がない。自己と他に対する方便であるし「宿痾」とも思っていないのであるが。
なぜか。人間存在とは「男」の謂であるから。「男」をスタンダード(=規格/標準)とするから。ゆえに。「ズレ」「不一致」程度にしか思っていない「宿痾」を、自らの短絡解にて解いて、「自然な在り方」として一致させて諒。問題が発生したとして、反省は後ですればよい。「我は恥ずかしくも罪深き存在なり」と。なんなれば酒の席にて、頷きの同胞の許しと許容を求めて。以後繰り返し。ホモソーシャリティと名指される、ちんこ共同体の恥と罪のロンダリングは世代を越えてエンドレス。
私は思う。斯様な最悪の輪廻に巻き込まれてどうすると。馬鹿な男の行いと自己肯定を、素敵な男が意識の負債として背負ってどうする、と。橋本御大のごとく切り捨てれば宜しい。「俺は俺以前の男なんて男として認めないよ」と。90年の発言である。あれから17年。増田に在る通り。「俺以前の男」は撲滅どころか再生産され続けてもいる。前記記事に記した通り、人間は進歩を意思するべきと最近つくづく思う。性的存在と人間存在の宿痾なく、ちんこが脳を支配しているなら、オナニー覚えたてのサルと一緒だ。
あまつさえ、ちんこは共同体の男の絆をこそ支配している。ちんこに支えられた絆は固い。孤独な栄光の味が苦いように、分かち合われた恥と罪の味は甘く切ない。ゆえに。赤信号は皆で渡る。渡りたがらぬ者を渡らせる。疚しさは与え合う。御自由に、の類であるが、御大の言の通り、ちんこ共同体はその疚しさを女にまで分け与えるから、質が悪い。
言葉にするとお笑いであるが大真面目に書くと。女が女として女らしく楽しみ馬鹿にもなり生きて行くことの何が問題かと、「スイーツ(笑)」がネット流行語に選ばれたそうであるが思う。「「男」というものを成り立たせる制度」が衰弱してなお、男は「男」たらんと、すなわち人間の規格/標準たらんと、言説的に七転八倒しているらしい。「男らしい男」たる私は「スイーツ(笑)」の世界観はよくわからんが、「男」を人間のスタンダードとする是非判断を示すべきでないことは知っている。