「はてなサヨク」と嫌韓と(「個」ならざる「本質」に準拠した類的「言説」の問題)


メモ:はてなサヨクという言葉が使われる文脈 タイプA - 模型とかキャラ弁とか歴史とか


メモ:はてなサヨクという言葉が使われる文脈 タイプB - 模型とかキャラ弁とか歴史とか


はてなサヨク」今年の初めに生まれた言葉であったかな。需要があると廃れないものであるね。一連の件についても、気に掛かってはいた、また最近、嫌韓絡みがにぎやかなようなので、少し。


問題の所在について指摘することと、属人的な断罪は違う。自身の示した言説に対する「レイシズム」「差別性」の指摘を、属人的な断罪と受け取る人はあるだろう。私は自身のミソジナスな性向を知っているが、「ミソジニー」という言葉と概念を知らない人は、他からかく指摘されたなら面食らうだろう。


個人の性向がネットに表れたとき、対する「属人的な断罪」を、自身の個と実存の否定と判断する人はあるだろう。言説と個は、構造的に二重を描く。二重性が前提されるから「匿名空間」なのであるが、2chと相違し顕名のネットワーカーにおいては、二重性を切断することはかなわない。本人の意識の問題ではなく、構造の問題。構造が意識にフィードバックする。


以前に書いた通り、はてなサヨクはてなウヨクなら、意見は合うか知らんが話は早い。決裂もスルーも早い、とも言う。問題の所在に対する了解とコンセンサスがあるから。以降は土俵と枠組の問題。問題の所在に対して了解がないことをして「無自覚」と言うのであろう。「ナイーブ」とも。言説の問題と個人の問題は、二重性を描く。


二重性についての了解なき相手なら、すなわち言説と個を一致させて考える人なら、かかる指摘を、属人的な断罪と、ひいては誤解に基づいた個人の人格批判と受け取るだろう。おまえが言うな、であるな。私も同じことをやっている。顕名の発言において、言説と個人は切り離せない。


嫌韓はナチとは違う、という見解がある。端的に言うと、間違っている。ナチスドイツの以前から、ヨーロッパにおいてユダヤ人は「嫌われて」いた。隣人は隣人であって○○人ではない。むろん、現実はそうではない。然りて。にもかかわらず隣人を、○○人としてでなく、すなわち類的存在ならず「隣人」として示し把握する、認識とかかわりの在り方を提示したのは、西欧伝来のヒューマニズムであり、それが近代個人主義の基盤としてある。隣人が「異教徒」であったとしても。


原理的な問題であるがゆえに議論が原理として在ることは仕方がない。「差別イクナイ」の絶対的正義と異端審問として映る人が在るのだろう。説明すればよいのに、と思ったので今更ながらこうして書いている。私は「差別意識は顔に出すな」の人。ただ。


そういうことではないのだ。私たちは否が応でも「共生」を迫られる。「共生」を現実に担保する資源とは。知的/思想的/感情的な試行錯誤の、必要に迫られての現在進行形の営為が在る。全壊したなら。無関係と殺し合いは隣り合わせに在る。個人的には禁句であるが「想像力」とは、無関係が全面化する社会における殺し合わないための知恵のこと。関係なくとも、思いを馳せることはできる。


政治の問題ではない、個と他なる個を単位とし舞台ともする。誰もが知るように。「共生」を現実に担保する資源とは、個に宿る原理的な正義と、原理の限界を知る人間的な意思と知恵である。両輪なくして人は寛容を得ず、「共生」は実現しない。


ホワイト・ティース(上) (新潮クレスト・ブックス)

ホワイト・ティース(上) (新潮クレスト・ブックス)

ホワイト・ティース(下) (新潮クレスト・ブックス)

ホワイト・ティース(下) (新潮クレスト・ブックス)



人間を類として他の類と選別すること、それを表沙汰にする類の言説は、取扱が難しい。自身が示す際にも、批判する際にも。人間を類として他の類と選別する言説は、個の個であることを、その価値を、圧殺する。交換可能性について認識することは、自身の個たることとその価値を否定することとは異なる。個たることとその価値を否定して上等なのがファシストである。


ファシストもアリと思うが。上等ではないでしょう?と私はD_Amonさんが言うところの「無自覚なレイシスト」に対して示したく思う。貴方は代え難き自身の個を実存を「レイシスト」「差別主義者」として類的に概括されることを嫌い忌避したのであるから。ゆえに「はてなサヨク」と、批判者を類的に概括してみせるのだから。


実存とは「本質」に対する概念である。「本質」の否定/切断から始まる概念である。「個」もまた然り。貴方は、自身の「個」を「実存」を、尊重している。ゆえに。他から一方的に「レイシスト」「差別主義者」と「本質」を規定されることを否とする。むろん。仮に(と厳に断る)そうであったとして、「レイシスト」であることは「差別主義者」であることは、貴方の「本質」ではない。個の個としての言説は実存に規定される。


日本人が芸者買いと切腹と特攻と夜這いとビンタを愛してやまない程度には、韓国人にも固有の国民性が所在するだろう。かく記して「自分は芸者買いも切腹も特攻も夜這いもビンタも愛していませんが何か」という反応は少数だろう。決まっている。芸者買いした総理も自らを決した大臣も議員もあった。


「象徴的」な事例をもって他所から国民性を真顔で云々すると、そういうことになる。ホロコーストはドイツの国民性、とか、少なくとも日本人が言う筋合ではないし、そういうことではない。「自分は○○も○○も○○も○○も○○も○○も愛していませんが何か(○○には任意の韓国の国民性の象徴を代入)」という韓国人はある。それをして「よい韓国人」「もののわかった韓国人」とするなら、きっと、「はてなサヨク」は「よい日本人」「もののわかった日本人」なのであろう。


自由主義に発するリベラリズムの古典的な理念とは、左翼のインターナショナリズムとは、最良の意味においてそのこと。はてな村がリベラル気風であることは事実だろうが、そのことが、いかなる問題であるのか、はてなウヨクの私は、よくわからない。リベラルの理念とその社会的な成立は稀有だ。韓国社会において、政治的にはその表出が日本から見え難いように。石原都知事が三選したように。はてなという「ニッチ」において気風が吹くことの妥当性をしか私は了解し得ない。


一般論として、私の悪癖で言うなら。近代を先んじた国の民としての、態度があるだろうとは思う。政治の問題ではなく、認識の問題。個の個としての認識とその表明が政治において圧殺されることは容易くもある。ゆえに。いかなる状況におかれても、個としての認識を、すなわち正気を、保つべく精進することが「賢明なる選択」である。彼の国の政治状況を、反面教師とするならして。顔には出さずに。倫理的要請としては私は他に対しては問わない。正気を保つために、私はこうして発言し続けているのだろう。


私たちはみな混血でありそのことを知るがゆえに、民族概念とその意識が近代の過程において高揚しもする。進歩主義におかれては「反動」ということになる。民族意識の政治的な高揚を軽蔑することは、近代を先んじた国の民の前提だろう。そして。言うまでもないことであるが。民族主義を具体例に及んで軽蔑し批判することと「他民族」なる類的存在を軽蔑し批判することは違う。


再三記しているように、私は『痛いニュース(ノ∀`)』を日頃楽しく読んでいる。問われるべくは、自己ならざる他を軽蔑し「批判」し笑うことの快、という「人間の本質」の在り様。そして。


斯様な「人間の本質」に居直ることなく、よりよくあるためにわずかでも進歩しよう、育まれた理性と良心の在処に賭けて、という心掛けが、左翼的な進歩主義と、付随する倫理性であり、それは正しくも稀有と、私も思う。私の理解から端的に言って、「人間の本質」に対する居直りを反知性主義と言う。私は一貫して呉智英贔屓であるが、人間の進歩は、否、進歩に向かう意思は、肝要と、最近つくづく思う。夫子も昨今の状況は望むまい。


浅田彰【田中・浅田の「新・憂国呆談」】

もちろん、私たちは自分たちの顔がいいと言っているのではない。むしろ、私は言わばチビのメガネザルとしてなんとか少しでも進化するように頑張りたいと思っているのであり、そういう立場から反進歩主義を批判しているのだ。私は、それが正論だと確信する。だが、正論を語るのは難しい。偉そうに正論をふりかざすと、それこそ優等生の生徒会長の偽善のように響きかねない。そこで、あえて誤解を招きかねない表現を多用し、時には偽悪的なポーズもとりながら、正論を語るというのが、私たちのとった戦略だった。


私も最近は確信する。人間はサルであることから遠く遠く進歩し続けんと意思するべきであると。サル山のボス争いと殺し合いの中で、常によりよく生きんとするために。そういえば、と私はその人のブログ名を思い出す。他方、人間性の歴史的普遍を前提する社会思想が存在する。


まあこれを言うのもなんだけど - finalventの日記

 これを言うのもなんだけど、日本の場合社会的な知性というのが倫理の踏み絵に会い、そこで微妙に左翼がかるようにできている。逆にいうと、右傾で知性のある人はそれにすねている的ポジションもある。


そういうことなのだろう。


ところで。はてなウヨクって、誰だ。idを片端から脳裏に並べたところで、統一感ねぇ〜という感想しかない。任意の言説に都度異を述べたがる人は居る。私を含めて。任意の言説に都度異を述べる人を類的に概括して無問題なら「はてなウヨク」も成立するだろう。個としての言行と集団行動は違う。「連帯」とは徒党を組むことではない。セクト主義の謂でもない。単にひとりで考え自身のidをもって発言することを、同調的行動と見なされることが不思議であること、「はてなサヨク」も「はてなウヨク」も変わるまい。一切が「はてな」という枕詞に収斂される話であるなら。