本場ならざるナポリタン


師走なので放置(ネット自体)していました。すいません。


2007-12-09


はてなブックマーク - 昨日の絵は1500万円 - 映画評論家町山智浩アメリカ日記


http://d.hatena.ne.jp/todesking/20071209/1197194897


はてなブックマーク - 退廃退廃芸術を世界かを世界から追放するのだ - Discommunicative


http://d.hatena.ne.jp/gerling/20071209/1197232512


今頃知った、のだけれども。これ、そういう話ではないと思うのだけれども。以下、色々とすっとばした、大変に雑な議論であると断る。毎度のことながら。


彼の人が批判を受けるのは。異なる文化間の障壁ならびに格差の所在を利用した文化的「搾取」を、事実上、文脈的にも、金銭的にも行っているがため。未開土人の宗教土偶を、宗教的な要素を一切捨象して美的に「洗練」させ、西欧的なモダニズムないしポストモダンの文脈に載せて紹介し、西欧社会において受容されている、西欧的な教育と言葉を身に付けた、現地出身のインテリ。「媒介者」であることをもって擁護し得ることではない。


「オタク」における擁護の理路とは。文化間の障壁ならびに格差の所在を前提し、西欧的なハイアートに対する、日本的なサブカルチャーに拠った価値転倒としての批判を実践していること。然りて。かかる価値転倒としての批判の実践とその成功は、彼の人の、「西欧的なハイアート」の世界における、社会的かつ経済的な成功と対にある。成功の対は、是非において、紙一重にあり、評価に際して、紙一重にあり、また彼の人の意識において、紙一重にある。以前に東浩紀が指摘した。


hirokiazuma.com


町山氏が指摘していることは、かかる文化的「搾取」の、文脈的かつ金銭的な実態についてだろう。対するに、何に価値を見出し、どのような値段を付け、カネを払うもその人の自由、価値観は個々人のもの、と指摘したところで、その通りであるけれども、示された問題に対しては、ずれている。


gerlingさんの言うように「趣味の問題で片付けちゃいけないこともある」。というのは、趣味の問題へと還元してしまうなら、それは問題の所在に対するしらばっくれであるから。問題の所在は周知されており、かつ、日本国内においても私のような文無しオタクの村上支持者は少なくない、はず。ゆえに。町山氏の指摘に対して今更感を私は覚えたけれども、対するに原始的な論駁が示されたことには驚いた、のでこうして書いている。


「価値」の問題でもその個別的な相対性の問題でもない。日本の文無しオタクから見たとき、現行の現代美術市場には問題が所在し、町山氏はそのことを改めて目の当たりにしたがゆえに指摘した。言うまでもなく。日本の、あるいは日本出身の、文無しオタクには、カネは出さずとも突っ込みを入れる筋合はある。未開土人として。NYの現代美術市場の問題とするなら、「不誠実」な媒介者が、その「不誠実性」について指摘されることは、やむなきことではあるだろう。「媒介者」がかく任じる限り「異なる文化間の障壁ならびに格差の所在を利用した文化的『搾取』」の所在に対して意識的かつ誠実たれ。


むろん。彼の人は、自身に対する批判の一切を引き受けている。


「異なる文化間の障壁ならびに格差の所在を利用した文化的『搾取』」は、幾らも見出される。私たちが食する「イタリア料理」の幾らかは、誇り高きイタリア人にとっては噴飯物であるかも知れない。寿司ポリスの話はどうなったか知らない。そのくせ。ミシュランガイドに狂騒もする。つまり。グローバルな世界において、文化はグローバルではない。なりえない。


ゆえに。文化庁が寿ぐ「クール・ジャパン」とやらであり「国際競争力としてのコンテンツビジネス」なのだ。そして。国やあるいは外食産業の都合から、グローバルならざる文化がコンテンツと化しビジネスと化し国際競争力と化している現状について、本場のパスタを江戸前の寿司を愛する立場から、どうよ?と再三問うているのが、たとえば町山氏であり、中原昌也であったりする。マックは素晴らしいが、パスタは寿司はマックではない。文化を境としたとき問題が所在する。その点については『嫌オタク流』における中原氏の批判はまことに正しい。そんなこたぁわかっているよ、というのが、たとえば私の感想であり「オタク」の感想ではあるが。


話転じて。ホームレス云々については。端的には、美術品は人命に優先するか、という問いだろう。美術品は人命に優先するや、という不条理な問いが成立するのは、金銭が介在するため。金銭によって、美術品が贖われ、人命(あるいは「健康で文化的な最低限度の生活」)が贖われる。留保の無い生の云々という話ではない。ところで金持ちは「有効な」カネの使い道を、つね考えている。「寒空の下で物乞いしてるホームレス」に2000万円渡しても、酒飲んでギャンブルして空費してしまうかも知れない。偏見で言うが、アメリカのNYの金持ちはそう考えるだろう。シンディ・シャーマンは、掛け値なしのアーティストである。信用なき対象に投資する人間はNYでは金持ちにはならない。


留保の無い生の云々という概念が、日本よりよほど所在しない国である。人命に、あるいは、個人の「健康で文化的な最低限度の生活」に、優先する美術品が存すること。かかる天秤の問いが金銭を介して成立すること。そのこと自体は、歴史的にも、深遠な問題である。私の命は、生活は、『ゲルニカ』に優先するか?ゴッホのその輝かしい作品に優先するか?――ピカソ本人に訊いたなら、ゴッホその人に尋ねたなら、どのように答えただろう。あるいは岡本太郎なら。


むろん、彼らの回答はわかる。はっきりしている。括弧を外したアートを信じる町山氏が、あるいは、アーティストたる中原氏が、問うているのは、そのことなのだ。本場ならざるナポリタンは安価に腹を満たしもする。一切はカネである。