奴隷の美徳


http://d.hatena.ne.jp/toled/20071202/1196589952


http://d.hatena.ne.jp/nisemono_san/20071203/1196707881


昔々そのむかし、手癖の悪い友人がいた。私同様プロレタリアートの子弟であったが、盗みをせずには暮らせない、はずもなかった。一度だけ咎めた。彼は真顔で言った。それは法律違反だからか、法律違反は悪いことなのか、と。――違うだろ、と思ったが、違和感を言葉にする論理を、ガキの私は持たなかった。むろん、相手も近代法のことなど関知していない。捕まるような「割に合わない」「愚かな」ことをしなければいい――その発想が愚かであり、めぐりめぐって割に合わないのだ、と、私は当時思ったのだろう。確かにそいつは捕まらなかった。私の知る限りは。


俺が知るときはやめてくれということで話がついた。「俺に迷惑がかかるから」。むろん、私はそのような「お互いのための」理屈を信じてなどいなかったし、迷惑など問題ではなかった。本当に迷惑な奴なら、あるいはその迷惑が手に負えない類なら、付き合わない。今はどこで何をしているのか。


きっとイスラム法は正しいのだろう。さておき。法の話は措き、「割に合う」や否やも措き、盗みはとっつかまると恥ずかしいものである。私はそのことを知って育った。法は措き「割」は措き、かかる羞恥が、一応の衣食住足りた信仰なき人を、盗みに走らせることを自粛せしめている。とはいえ。斯様な羞恥心を「常識」として取り扱うと、人間は思わぬところで不意打ちを食らう、という事情を規模大きく露見させるのが、現在のネット社会、ということだろう。


真面目であることは美徳ではない。その通り。不真面目な者を叩くことが美徳でないことは言うまでもない。「割に合わない」ことの指摘に拠ってしか、「愚かな奴」ということをもってしか、私たちは、他人の行為を咎め得ないのだろう。蔑めないのだろう。嗤えないのだろう。「正しさ」なくした世相において、賢明であることが、現在の唯一の美徳であるのだろう。


就業中にDQNな労働者というものに、私たちは接客業においても時に出くわす。慣れとはおそろしく私たちも平然とスルーする。労働者が就業中にDQNであることは低価格に織込み済みであるのだろう。むろん。雇用契約に「織込み済み」とは書いていない。消費者がクレームする筋合はある。当該の従業員は、もし特定されたなら。


責任感ある従業員は経営者にとって都合がいい。その通りであるけれども、責任感なき従業員を経営者にとって都合が悪いからという理由で擁護する気にもなれない。律儀で生真面目な労働者は搾取されているのだろうが、雇用関係とはミクロの局面においては時に狭義の労働問題ではない。それが問題の軸に在る。ことに芸能界においては。


労働者が就業中にDQNであることが低価格に織込み済みであると考えない労働者があり、彼らは、かつての友人の発想に拠るなら「割に合わない」ことをしている、賢明でない、経営者にとって都合のよい存在である。ゆえに。吉野屋の店員が時にDQNな行動を示すことは、順当な帰結である。――斯様な言は全吉野家従業員に対する侮辱でしかない。この世の人間はすべてかの友人ではない。


私は。社会において規範をめぐる議論はあって然るべきとは考える。プロレタリアートプロレタリアートであるがゆえに、就業中、時にDQN、というのは笑えない。所謂プレカリアートに該当するだろう私もよく知るが、そういう世相ではある。にもかかわらず、現在の日本は労働についてはなおそのようになってはいない。なりきってはいない。それをして「民度」と言うことは間違いであるが、日本には日本なりの美徳が所在することを、私は知らないわけでもない。奴隷の美徳であるかも知れない。


〆に少し雑感。「自己利益」を題目にババ抜きを社会全体でやっている。誰にババを引かせるか。引いた者は「愚か」であり「賢明でない」。引いた者はまた誰かにババを引かせんとするだろう。斯様な罰ゲームを脱するには、「自己利益」は「自己利益」でしかなく、他人の損でも得でもない、ということを示すしかないだろう。「自己利益」が他人とかかわっている、そのかかわりかたについても。


加護亜依の喫煙については以前に書いていた。⇒本日の(sk-44よ)おまえが言うな - 地を這う難破船