「カジュアルな正義感」について(有村悠さん御免と言いつつ勝手にパスを放ってみる)


「正義」にはなれなくとも「正義の味方」にはなりえる - 地を這う難破船

A  2007/11/25 07:33  非常に参考になる記事でした。精神疾患のために判断が不能であったことと、環境的に倫理観が涵養されなかったために判断が不能であったこと。この二例の差はどこにあるのか。難しい問題です。
heartless00さんとの議論に関して感じたことですが、sk-44さんは
>みな振り返っているんだよ。自分のことを。その「罪と汚れ」を。矮小と無力と愚かしさを。
とおっしゃっていますが、heartless00さんはその自己批判が出来ていないタイプの倫理観の発露を(おそらくニコ動で)大量に見たためあのような発言に至ったのではないでしょうか。もちろんその発露が自己批判を含んでいるかどうか文面だけからは判断できませんが、発言の乱暴さや叩きの過剰さなどからどうみても叩くこと自体の快楽を得るために気軽に倫理観を発露させているような事例は多く見られます。(ブログ炎上事件など)


Aさん、はじめまして。対応が、遅れに遅れて申し訳ありません。


どのように書くべきか迷っていました。取り急ぎのことを優先してもいました。放置していたつもりはありません。一般論として、端折って書くことにします。ぞんざいに、ということではありません。混線した問題である、ということです。


実のところ。


http://d.hatena.ne.jp/heartless00/20071122/1195754733#c

y_arim  2007/11/23 13:20  >その動画サイトのコメンタも正義感ある人ばかりだと思いますよ
それはどうかな? ああいう場でなされるそのようなコメントって、「凶悪犯」と認定した人に「こんなやつさっさと死刑にしろ!」と思考停止状態で浴びせる罵声と大して変わらないというのが、とりあえずぼくの実感。それは本当に正義感なのか? というのはたいへん疑わしい。「カジュアルなレイシズム」という言葉があって、嫌韓がらみで時折指摘されるのだけれど、それと同じくらいカジュアルな、お手軽な正義感ではなかろうか。
で、heartless00氏が「自分は重い決意を持って正義を為したい」と思うことのどこに、皮肉を言われたり非難されたりする要素があるのだろうか? 無責任な物言いが一律に許されざるものとは言えないまでも、そういうものが可視化される状況、可視化して恥じない人々は十分問題だろう。


はてなブックマーク - 女子高生コンクリ詰め犯人を叩く資格ないだろ

2007年11月23日 b:id:y_arim crime, society, コメントした  「カジュアルな正義感」の話。ぼくの見るところ、光市事件の犯人に何も考えんと「死刑にしろ」と罵声を浴びせるメンタリティと変わらないと思う。あとああいう場での被害者への感情移入と犯人憎悪はどこか違和感が。


http://d.hatena.ne.jp/heartless00/20071124/1195945720


はてなブックマーク - 女子高生コンクリ詰め犯人を叩く資格ないだろ2 - 或るオタクの遠吠え-Over the Rainbow-

2007年11月26日 y_arim blog, net, society  彼からメールが来たので例によってえっらい長文の返信を送った。実のところぼくを含めて賛同・援護者者にも真意はほとんど伝わっていないだろう。「カジュアルな正義感」について改めてエントリ書くべきかなあ。


id:y_arimさんの「カジュアルな正義感」についてのエントリに目を通してから記事を書こう、とも考えていた。ビバ後出しジャンケン


「カジュアルな正義感」とかかわることかわからない、けれども、私の言葉で述べるなら。他への倫理的糾弾の原理的な困難、ということです。その問題提起として受け取りました、heartless00さんの当該記事を。ただ。かかる問題提起の記事において、heartless00さんが、他への倫理的糾弾を行い、かつ、その原理的な困難を示していた。ゆえに、問題の軸について示したく思いました。

「あなたが”私はそのようでありたい”と思ってるくらい,その動画サイトのコメンタも正義感ある人ばかりだと思いますよ」


という指摘は、そのことをこそ指している。「きっと善意の方なのだと思います。」という話ではありません。


「heartless00氏が「自分は重い決意を持って正義を為したい」と思うことのどこに、皮肉を言われたり非難されたりする要素があるのだろうか?」――皮肉を言われたり非難されたりする要素はないと私は思います。「自分は重い決意を持って正義を為したい」と思うことは、またそのことを言明することは、「問題」かと問うなら、まったくの無問題です。「問題」の所在は、そこにはない。

「犯人を擁護している」「自分もクズなのだから犯人を許すべきだと主張しているのだろう」といったご指摘ですが・・これは私の書き方も悪かったのかもしれませんが、誤解です。書いた意図は逆で、社会の人々は犯人と同じクズであってはいけないのではないか、というものです。

私は犯人グループ全員の死刑を望んでいます。犯人擁護しているつもりはありません。


先の記事に記した通り。私は「犯人」をクズとは思わないし、「犯人グループ全員の死刑を望んで」はいないし「犯人は全員死刑にするべき」とも思わない。むろん。「犯人を擁護している」のではない。罪を憎んで人を憎まず、という誤解を被りがちな言葉がある。許すべからざることはあれども、許すべからざる人間はあるか、という問いの謂です。真面目に解かんとすると、難しい。


少しだけ。


http://d.hatena.ne.jp/heartless00/20071125/1195974405

「遺族が望むなら死刑も」。なんという事であろうか。私自身は死刑存続派であるが、「遺族が望むなら」という限定は何を意味しているのだろうか。遺族が望まなかったり遺族がいなかったら死刑になるべき犯人が無期になったりするというのか?


家族持ちを殺したら死刑、でも一人身なら無期?被害者の命の重さにも差があるとでもいうのだろうか?


端折って端的に記しますが、制度において「遺族感情」を一切排してよいなら、私は死刑存置の必要を感じない。国家が人間を殺すことに、原理的に、賛成しない。宮崎哲弥が「コミュニアリアン」であるとは、そのこと。そして、私は現行において相対的に死刑存置論者です。共同体的な応報感情の所在しない場所に存続する死刑とは、何であろうか。それは国家の問題でしかなく、私人対私人の関係において国家が介入し、死刑が行使されることは、国家の専横としか、私は思わない。別所にて既出の言葉を借りるなら、スターリニズムの源泉でしかない。


「命の重さ」に差はない、原理的に。「人殺し」の命でも。「加害者の命の重さ」にも。「死刑になるべき犯人」とは、現行の刑法の前提において、ということであって、倫理や規範の問題ではない。heartless00さんは、倫理や規範の問題と見なしているのではないか。「人命は地球より重い」という、ダッカ事件の際の福田赳夫の言葉は、欺瞞の極みです。

「この私としての批判」と「相対の一部(社会の一員)としての批判」は違うとのご意見だと思います。仰る通りで確かに許されざるもをの非難することは社会の機能として必要であると私も思います。しかしそれだけで本当によいのか、という意図を込めて前回の記事を書きました。悪に対する非難は本来、社会のルールや法律ももちろん含め、しかしそれを越えた、個人の道徳や倫理にもまた基づくべきものではないでしょうか?それが最近個人の道徳や倫理がカットされ、ルールや法律、その場の感情のみにシフトしている気が(動画コメントなどを見ていると特に)しました。


私が言っていることは、そうではないのです。いわば。「許されざるもの」が、ナチスドイツにおいて、あるいはスターリン主義下のソ連において、顕著であったように、その時々の社会や世相に拠って相違し変動し、「許されざるものを非難すること」が「社会の機能として必要である」ことの、是非は措き、危うきが所在するゆえにこそ、「社会の一員」ならず「この私として」の批判の意識を涵養しつね保持したほうがよいのではないか、ということです。それをして倫理と言います。


端折りますが。「相対の一部」でなきがゆえに、他への倫理的糾弾は原理的に困難であり、「社会」を前提に、国家と法が加担したなら、思想弾圧であり、スターリニズムである、ということです。他への倫理的糾弾が公権力において発動しないためにこそ、現在の国家と法がある。端折って換言するなら。「個人の道徳や倫理」と「ルールや法律」は、原理において区別さるべき、ということです。むろん「その場の感情」も。東氏や宮台氏は、状況認識を提示するのみならず、原理的な前提も同時に示しています。

「悪に対する非難は本来、社会のルールや法律ももちろん含め、しかしそれを越えた、個人の道徳や倫理にもまた基づくべきものではないでしょうか?」


普遍的なる「悪」を規定し得ない、それが現在の前提です。ゆえに、悪の規定が共同性に依存する。共同性に依存した悪の規定の延長に、件の「犯人」に対する、苛烈な言辞の表出が所在する。是非は措く。「悪に対する非難」の根拠を、私たちが何処に置くか、ということです。個人において置くことをこそ、倫理と言います。


「悪に対する非難」を規範化するべきか。メタ規範として、そのことが問われている。私の見解は、措きます。現実の事件に触れて示すことでもない。話を更に混線させたくもない。ただ。以前も書いたことであるけれども、たとえば。私たちは「イジメ」を悪と思う。子供への虐待を悪と思う。日本人拉致を悪と思う。アウシュヴィッツでの蛮行を悪と思う。子供への虐待を悪と思うことと、虐待する親をクズと思うことの間には、距離がある。それをして、罪を憎んで人を憎まず、とは換言し得ない。


個人の身体と個々の生に準拠する、pain=痛みの感覚が、私たちのヒューマニズムを、人倫の概念を、その基盤を、共同性に拠らず、また観念としてならず、担保している。原理ならず、現実に。「悪に対する非難」を規範化する「べき」なら。抽象化された倫理観念に拠るか、身体的な痛みの基盤に拠るか。異なる回路が所在する。当該の事件は、一義に、私たちの身体的な痛みに訴求し、ヒューマニティーの基盤を構成する。


さもなくば。テッド・バンディがかつて述べてみせた「一般論」に一切は還元される。「地球上から、人間がひとり消えたからといって、それがいったいなんだというんだ?」。福田赳夫の言葉を裏返したそれに。私たちは、「被害者」でもその近親者でもない。共同体的な応報感情を措いたとき、見知らぬ他人の残酷な死は見知らぬ他人のことでしかない。然りて「他人事」ではない。それは虚偽であり錯誤であるかも知れない、けれども。当該事件の詳細を知ってほしい、と私が記したのは、あの事件が、斯様な私たちの倫理概念の基盤を、結果的にも構成せざるを得ない事件であったから。是非は在る。それとて共同性の相であるかも知れない。


任意の個人の生死の問題は、「普遍的理念」としての、あるいは構造論としての、抽象化を経て、多数の問題関心の俎上に乗る。抽象化の手続を経ずして、身体的な痛みの基盤を介して自らの問題関心とする人におかれては、構造の所在にかかわりなく直接的な感応として問題関心が表出される。「普遍的理念」を時に借りて。「当事者」に限ることなく。ネットにおいて、直截かつ激越な言辞を示す人は、多く、一義に後者に拠る。是非は措く。


悪を規定し得ないことに、問題が所在し、また発散されない感情が所在する、そして、当該事件を私たちはあきらかな悪と思う。私たちがあきらかな悪と思うことと、悪と規定することの間には、距離があり、かかる悪に対する非難を規範化することには、さらなる距離がある。距離に対する意識なきまま、任意の規定された悪に対する非難が規範化され、すなわち道徳となる。


悪に対する非難が道徳であるとき、個人の倫理において悪に対する非難を為すことが、倫理的行為として成立し難い。端的に換言するなら。個人としての非難が構造的にも成立し難くなるがゆえに、道徳の共同性へと個々の非難が結果的に収斂しがち。更に換言するなら。共同性を背景として非難の賭金が飽和し、個人に対する共同体的な断罪において易い。すなわち。y_arimさんの言葉に拠るところの「カジュアルな正義感」の発露が示される状況となる。


個々の非難を否定するものではない。構造としてそうなっている、という話。ゆえに、heartless00さんが、そしてAさんが示す事態が発生する。ゆえに。むろん私とは観点も意見も異なるだろうけれども。ブクマにあった。

2007年11月24日 b:id:buyobuyo 賛同できない  賛同できないが、「女子高生コンクリ詰め殺人事件」の概念をもてあそんでいる人々には違和感を持つ。


こうした見解には同意するところ、です。

追記


――以上、昨日(というか一昨日)エディタに書いて「寝かせて」おいたテキスト。本日(というか昨日)、コメントの投稿が。格好悪いことになった。むろん私が。

heartless00 2007/12/02 17:38


とても参考になりました。実は過去に「風の帰る場所」という渋谷氏による宮崎氏へのインタビューをまとめた本を読んだ事があります。上記のナチス、宮崎賢治への言及やその後の「もし車に大砲が積んであったらあたりそこらに撃ちまくりますよ」との発言もあったと記憶しています。私があのエントリーを書いた動機はAさんが指摘してくれているものとまったく同じです。叩きたいがために叩いている人のなかの1人でも一瞬「あれ?」と自己を振り返ってみてくれれば幸いだと思って書きました。sk_44さんのように自己批判を伴っている方に誤解を与えてしまったようなので次のエントリーで謝罪と説明させていただきました(実は貴ブログも参考にさせていただきました><)。


竹熊氏の本は何冊か読ませていただき、対談をエントリーに書いたりしているのですが、上記の著作すごくひきつけられるものを感じたのでアフィリエイトより購入しました。紹介してくださってありがとうございます。これからもちょくちょくああいった感じのものも書くかもしれません。こちらからトラバ飛ばす事もあると思います。その時はよろしくお願いします。


heartles00さん、あらためて、はじめまして。当該のインタビューは『風の帰る場所』にも収録されています。部分的に、変更されている箇所がありますけれども。最初に掲載されているインタビューです。「自分の日常がどれほどくだらなくて、自分の車に機関砲が付いてたらそこらじゅう撃ちまくりながら走ってるだろうと思っても(大意)」という発言が掲載されています。当該発言は「――思っても。それを放出するために映画は創られるべきではない(大意)」と続きます(現在、自宅を空けているゆえ、確認できない)。


heartless00さんが「あのエントリーを書いた動機」については了解しています。Aさんの御指摘についても。所謂「カジュアルな正義感」の発露は所在します。批判されて然るべきと考えますし、批判が抑圧されるべきでもないと考えます。思うところについては、端折って、ですが、上記に記しました。Aさんへのレスとして。遅ればせながら、になったことについては、お詫び申し上げます。


『箆棒な人々』購入されたこと、竹熊氏のファンとして、嬉しく思います。なお。私自身はアフィリエイト設定はしておりません。amazonが嫌いなわけでもポリシーあってのことでもなく、単にめんどくさがりであるからです。書影をamazonに借りるのは、ブログが文字ばかりなのも殺風景であることと、著者のためにも紹介したく思うためです。トラックバックも、「ああいった感じのもの」も、私は歓迎です。今回の記事においても、批判的なことを記してしまいました。けれども、任意の論点をめぐる「言説」の検討と人格批判が別であることは前提です。今後も宜しくお願いします。