Masaoさんへ


はしごたんへ。セックスは、できません。 - 世界のはて


見解は先の記事の通り。

もし今から、セックス無しで会ったとしても、メル友になったとしても、「はしごたんにセックスの期待を持たせるだけで、それに応えられない僕」という図式は続くでしょう。であれば、僕ははしごたんと、これ以上関わるべきではない。僕は、はしごたんとの個人的なやりとりを、ブクマやブログも含め、すべて絶つことに決めました。


思うことが少しあるので、id:Masao_hateさんに対して書く。「大きな御世話」であるけれども。


一般論として、かつ経験則から言えることであるけれども。極言するなら、私的な関係は、公的な責任感とはかかわりない。広義のビジネスではない、極言を重ねるなら、好き嫌いや相性の問題であるから。「ウマが合う」なら機縁であるし、合い続けるなら僥倖。「責任」概念のかかわることではない。情は、善悪や倫理の観念を余裕で飛び越える。ゆえにこそ情は私的な関係は尊く重い。以前に記した通り、それはマフィアの理屈である、けれども、以前の言を裏返すなら、私的な関係においてマフィアの理屈は正しい。少なくとも、批判する論理は所在しない。むろんそれは犯罪の温床でもある。されど。


倫理や善悪や責任の意識に準拠して、私的な関係の模索に向き合うことは、御自由、ではあるけれども、窮屈な考えと私は思う。情とは友情とは責任ではない。金に困ったらいつでも言ってよ、金貸すなんて一番簡単な友情なんだからさ、とかつて寵児であった頃に糸井重里は友人に言っていた。現在私は振る袖がない。


ガキの時分。その場で気の合った相手から抱いてと言われて抱いたことはあった。省みると笑えない話だ。後顧の憂いあり、と判断した場合はスルーした。むろんそれは倫理でも責任感でもなく、情と損得勘定の天秤。私の場合と限るが、欲望は関係ない。俗に言う、据え膳食わぬは、とは責任意識の問題で、私は好いた相手なら、すなわち信義の所在する相手なら据え膳を食った、責任意識は知らない。


倫理や善悪や責任は、「公」を離れたなら他に強制し得ない。Masaoさんが主張していたのも、そのことだろう。事実上「公」の事態となっているし私も加担したし当事者が望んだことでもあるけれども、Masaoさんは当事者のことを考えて、結論したのだと思う。なら。一方的な言い種ではあるけれども。私的な関係の模索である限り、倫理や善悪や責任の意識は犬に食わせたほうがいい。


私的な関係とその模索において、倫理や善悪や責任の意識を犬に食わせることは、正しいと私は思うし、私的にはそうしてきた。私の知ることを述べるなら、危なっかしい側面のある人と付き合う際に、倫理や善悪や責任の意識を、「公」の概念を、一義に重んじてうまくいくかというと、難しい。関係の継続を担保するのは、好き嫌いであり、相性であり、ウマであり、情。つまりは腐れ縁。私的な、すなわち友人としての、付き合いであるゆえに。


私は、私的な関係に際して、倫理や善悪や責任の意識に、「公」の概念に、一義に準拠することが、経験的によくわからない。信義と徳義は違う。私的な関係は多く腐れ縁である。情の是非は問われる、措く。SEXを要求されたから、「個人的なやりとりを、ブクマやブログも含め、すべて絶つ」、その筋道が、私はよくわからない。責任を覚えての自罰ということなのか。個人との私的な関係の模索に際して、自身の責任に一義に準拠するのは、「手を差し伸べる」という意識ゆえのこと。


倫理や責任意識や正義感は実際的には誰も幸福にしないし、誰の腹も満たさないし、誰に温もりを与えてくれるわけでもない。むしろ、多くその人を不幸にする。にもかかわらず人はそれを欲する、やむなく、ということと私は思う。そして。以上は「公」の問題であって、プライベートな関係の問題として一般化し得ない。Masaoさん自身が、混同をされているのではないかと、勝手ながら、思う。他人と付き合うことは、公的なボランティアではないし、「手を差し伸べる」ことでもない。