「おれは江戸っ子だから電車なんて認めない」


via終風先生童貞の勇気のなさよ


増田氏が目を通してくれるかわからない。けれども。胸打たれたので、少し書いてみる。


たぶん。混乱していると思うのだけれども。人肌と愛と社会的な承認の、いずれを自分は切実に希求しているか、考えるとよいと思う。「人肌」ってのは、肉欲と言い換えてもよいし、「愛」というのは、私的な親密な関係性。異性との、と言ってもいい。「社会的承認」とは、他人が標準的な価値観を介して自身を認めるか否かということ。


いや。全部ってことかも知れない。ただ。その「全部」は、別個の問題ではあるよ。換言するなら、一方をもって他方を贖えるようなものでもない。風俗を勧めている人が在るのも、そのゆえのことと思う。北方先生の持論は、肝要。たしかに、勘違いしている人は多い。「持てる者」の顔をしている人たちの中にも。


はてなブックマーク - 【2ch】ニュー速クオリティ:Hの最中にしてもらえると愛情を感じること


最初、スレタイ「愛情を」を飛ばして、『Hの最中にしてもらえると感じること』と思って読んでいた。人肌と愛と社会的承認の、いずれを欲しているか、と他人の欲求不満表明に対して思うのは私の常であるけれども、価値的に三位一体を形成していたら、それは得られない人にとっては抑圧であり暴力だろう、と思う。自身の実存/存在の否定を結果するのであるから。


かつて、安部英について、彼は名利をもって愛を埋め合わせようとした、愛と名利の見境がつかなかった、と評したのは中野翠だった。名利が愛でないことはむろん、愛されていることは名利ではないのだけれども、区別しない人もあるのだろう。愛されている人にも、そうでない人にも。


社会通念において、かくも三位一体が自明の前提であるなら、それは非モテや喪をめぐる議論が活発に先鋭化もするだろう。ネガティブな感情も蔓延するだろう。私は、スイーツ(笑)と聞いても、『西洋骨董洋菓子店』読むたびスイーツ食いたくなると甘党ゆえに思うだけ。ただ、もし、上述のごとき三位一体価値観とその肯定が、世に言われる「スイーツ(笑)」の真髄であるなら、それは糞である。


人肌と愛と社会的承認が、すなわち――肉欲と、私的な親密な関係性と、標準的な価値観を介する自己の規定が――三位一体としてあるうえ、かかる三位一体価値観に準拠して他人を公にジャッジして恥じない人間は、端的に愚かであると私は思う。

改めて考えると俺は誰にも好きだといったことがないのだ。それにも理由があるのかな。しかし俺は人に愛していると言う勇気がないし、その中に入っていける自信もない。殺し合いのようだもの。でもさ、よーく見るとその中にはルックスも内面も俺以下のやつなんていっぱいいるんだよね。俺、恋の仕方知らないもの。矛盾するけど、恋はしたいんだ。いや、恋が!したいんだ。エロ動画見て、自慰してれば満足なんて思ったことないよ。こういう思考回路なのも童貞だからなんだ。いつか光が差し込むと信じてる。でもなにもしないのは、勇気がないからなのかな。俺はいつから自信をなくしたのかな。これは理解されるのかな。俺は恋を知らないから、女を見ると「こいつとセックスやりたい」しか思えないんだ。それは本当は恋がしたいんだ。射精の気持ちよさを理解した俺は、セックスにあこがれている。それは童貞で、恋を知らないから、そう思うんだ。じゃあ俺がしたいのはなんだ?


そうではないんだよ。恋に恋することと、誰かに惚れてしまうことは違う。誰かに惚れてしまったら、その人をわけもわからず切実に求めてしまうなら。それは天命。思い込むこともたまには大事。天命に打たれることを、あるいは恋すると言うかも知れない。私はそう考える。


天命を生きえない人たちは、あるいは恋人たちは、在る。恋とは天命であり、ゆえに人に人生を投げさせ緩慢な自殺へと至らしめる。自傷の挙句の人生オワタ\(^o^)/へと。そして、私の人生もその方面は結構終わった。自傷は緩慢な自殺は快感なのである。天命に打たれて私は選ばれなかったらしい。そう。数年前。20代の半ばのことだった。


パーマネント野ばら

パーマネント野ばら


男は、天命の卒塔婆を胸に抱いて30を迎える頃には死体となって生きる、と思っていた。『パーマネント野ばら』を読み、浅慮であったと知った。男ばかりではない。私もよく、幻影と思い出話に花を咲かせている。「みっちゃん、わたし くるってる?」 。


ところでこの世にはゾンビが多い。もう終わっていることに気が付かせることも、おまえはすでに死んでいる、と幕を引き引導渡すことも、死人の役目であるかとも思う。

俺は気づけば、愛の螺旋からあぶれていた。竜巻のようにめまぐるしく回転している愛の螺旋を俺は遠くから見ている。そこではいろんな男がいろんな女と、出会っては別れ出会っては別れを繰り返している。俺はそれに背を向けた。入る勇気がないのかもしれない。


そのような螺旋はたぶんない。増田氏の目にそう映っているだけ、と思う。人はみな、結構だらだらと生きている。天命に打たれない限り。そして、天命に打たれることなど人生によくて2度しかなく、打たれたと勘違いしている者が、またゾンビが、「竜巻のようにめまぐるしく回転している」ように見えるだけのこと。


天命に打たれることが幸であるとも全然言えない。残る人生は拘束される、あたかも呪のように。天命とは失敗する定めにあって、ゆえに人はそれを事後において天命と捏造して記憶の列に並べる。幻影と会話する。大概の天命は、ナウシカ巨神兵のように最初から腐って溶ける。幾らかの王蟲以外、何も焼き払うことのないまま。


竜巻の内側において螺旋は如何様に映るか。「数寄者同士がよくやるね」以外の感慨はない、むろん自身も含めて。とはいえ。傍から冷ややかな横目でチラ見されるのも複雑。いや過去の話。


昔、晩年の三島由紀夫寺山修司が対談した。引用のため改めて読み返した。滅法面白い。面白い時代が在り、人たちが在ったのだなと、勝手に思う。


尚武のこころ―三島由紀夫対談集 (1970年)

尚武のこころ―三島由紀夫対談集 (1970年)

三島  ぼくは旧弊な古典主義者だろうが、ロジカルな構造をもたない言葉なんて全然信じない。


寺山  そうなると、犬がアリストテレスの書物の上に座ったりすると、耐えられないでしょうね。(笑い) ぼくはブリジッド・バルドーがカントの『純粋理性批判』なんかも持っているのを見たらエロティックだと思う。


三島  わからないわけじゃないけどね。わからないフリをしてるんだよ。わかったらおしまいだと思うから。


寺山  三島さんは、「おれは江戸っ子だから電車なんて認めないんだ」といって、電車に正面衝突して轢かれながら「電車はない!」と言って死んでった人のエピソードを知ってますか?


三島  それは昔からいるよ。たとえば神風連が電線の下を扇子で頭かくして通った。エレキの下を通ると伴天連の魔法にかかるという話があるだろう。あれは観念だと思う。白扇で頭を被わなきゃ、とても生きていけないのだよ。それがぼくの言葉なんだ。あなた方は伴天連のエレキでも何でもみんな使おうと言う精神だろ?


寺山  そうですね。スクラップ回収業ですか。(笑い)(p197〜198)


結論は。「今こそ」三島由紀夫の姿勢に学べ。私は。スイーツ(笑)と軽蔑してみせる理屈と発想はわかる。所謂(∩゚д゚)アーアーきこえなーい、かも知れないけれども。「白扇で頭を被わなきゃ、とても生きていけない」人が在り、世相が在ることを、了解しないわけでもない。


「持たざる者」による否と軽蔑の言明は時に美徳である。傍から悲しく映ろうとも。


「「おれは江戸っ子だから電車なんて認めないんだ」といって、電車に正面衝突して轢かれながら「電車はない!」と言って死んでった人」は、昔から在る。屍の後に続けばよい。『ラスト サムライ』の心意気に私は惹かれる。武士道(笑)かも知れない。が。闘う君の唄を闘わない奴等が笑うだろう。


――結部に、書き加えられていた。

勇気が出ないのは自信がないからだけど、保守的すぎるってのもある。自分でも本当につまらないと思う。変えたいから俺は変わるよ。風俗とかじゃなくてね。


頑張ってくれい。幸運を祈る。