名もなき孤児たちの葬儀


ところで本題については - 地を這う難破船


期待していただいて申し訳ない。面白いことを言えそうにもない。ただ。少し書いてみる。


レーベンスボルン - Wikipedia


SSの人口増加のための機関「レーベンスボルン」(生命の泉協会)


あまりにも有名な小説。


死の泉 (ハヤカワ文庫JA)

死の泉 (ハヤカワ文庫JA)

 ここは、ナチスによって設立された<レーベンスボルン>に所属する施設である。


<生命の泉(レーベンスボルン)>は、未婚のままみごもった女たちに、安心して子供を生ませる目的で作られた組織だ。SS最高指導者ハインリヒ・ヒムラー長官の発案による。


 産まれた赤ん坊は、母親が育てられないときは、付属の施設で養われ、やがて、養子を望むSSの家庭にひきとられていく。ドイツ国内各地のほかに、ポーランドやフランス東部など、ドイツの保護領、帝国委員管区、軍政地域にも、数多いレーベンスボルンがもうけられている。


 総統は、国家の子供を欲している。際限なく。貞節という観念は、国家によって、美徳の座から引きずり下ろされた。副総統ルドルフ・ヘスは、「女性の第一の義務は、健康な純血の子供を国家に提供することである」と結婚制度にとらわれず出産することを公に勧めている。


 四人から六人の子供を持った母親には、青銅十字章。七人から八人なら銀十字章。九人以上になれば金十字章。


 わたしが働いていたミュンヘンの本屋のおかみさんは、青銅十字章を、“子供は母親を貴族にさせる”と銘記された青いバンドで、いつも誇らしげに胸にさげていた。“うさぎ勲章”と、店にくる学生たちのなかには、からかうものもいて、そのたびに、おかみさんは、「ゲシュタポにいいつけてやるからね」と、本気で腹をたてた。


 ぽろぽろと、糞のように子供を産むうさぎ。助成金だの手当てだの、いろんな特権が、うさぎのように多産な母親に与えられる。その上、ポーランドだのチェコだのロシアだのから強制移住させられた女たちが、家政婦としてドイツの母親に“配給”される。家事労働にわずらわされず多産に励めという政府の配慮だ。


 わたしの働く本屋には配給はなかったが、そのかわり、わたしは店員としての仕事のほかに、子供たちの世話や家事もひきうけさせられていた。


 子供ばかり産まされるなんてごめんだわ、とわたしは学生たちといっしょにくすくす笑った。わたしは、べつに反政府主義者ではなかった。政策に皮肉な言葉を投げる学生たちに、気安く同調していたに過ぎない。(単行本p18〜19)

だれにも頼れず、一人で子供を産み、一人で育てなくてはならないとわかったとき、わたしは、郷里ベルヒテスガーデンに帰ることを、まず、考えはした。しかし、郷里には、いまはもう身寄りはだれもいない。そして、ベルヒテスガーデンの住民は、ほかの南バイエルンの村々と同じように、みなカトリック教徒だ。将来の兵士の数を確保するために、既成の道徳は無視し、ひたすら子を産めと、ヒムラーはじめナチス高官がどれほど奨励しようと、私生児の出産は、ベルヒテスガーデンのカトリック教徒には、忌まわしい不道徳な行為だ。寛容なあしらいは、期待できなかった。産まれてくる子供も私も、責められ、後ろ指をさされ、過ごすことになる。見ず知らずの他人ばかりならまだいいけれど、みな昔なじみだ。干渉やらお節介やら譴責やら、そのわずらわしさは想像がつく。


 レーベンスボルンの産院に入れば、専門の医師がいる。未婚だからといって罪人あつかいされることはない。


(中略)


 レーベンスボルンに入る女は、不道徳で性的にだらしない、と世間はみなしている。わたしは迷い抜いた。愛しあい、みごもったのは、淫乱でも不道徳でもないわ。(単行本p20)


悪い冗談の話と思われるだろうか。実は私はそう思っていない。現代の日本が、上記引用とどれほど相違するか、と、ときおり考える。むろん、人種主義は現代の日本において徹底的に排されている。結構なことと思う。モンゴロイドが人種主義に与することの意味が、私にはわからない。名誉白人のつもりでもあるまい。ところで国家社会主義ドイツ労働者党は、最大の特色たる人種主義を措くと、まことに国家社会主義である。


私には、少子化とは、国策の問題としか映らない。国家主義者としては、国策として大いに検討されて然るべきと考える。制度的な負担の議論に私はさして関心がない、精確に言うなら、日本国と国民の存続のため実施される方策には、吟味のうえ同意する立場。婚姻制度を否定する気もない。極論するなら。「産めよ増やせよ」が国策である限りにおいて、国策の指針には同意する、ということ。


レーベンスボルン計画の、実態は措き、理念に対してすら、現在の私たちの多くは、悪い冗談と思うことだろう。その人種主義が悪い冗談であったことの背景を、現在の日本に敷衍して考えること。換言するなら。「国家の子供」という概念の孕む問題について考えること。


ナチスイデオロギーが、カトリック的な世界観と相容れないことは公知の事実である。端折って端的に言うなら。キリスト教的な歴史を前提として規定された西欧の「人間性」概念に対する、根本的な否を突きつけ、徹底的に実践したことが、ナチスの、そのイデオロギーの孕む、現在に亘る根源的な問題。人種主義も包摂される。


「国家の子供」という概念は、近代国民国家において創出された概念であり、イデオロギーである。ゆえに、かつて「産めよ増やせよ」が国策として叫ばれ、かかるイデオロギーは現在に及び、「少子高齢化」が日本国の存亡を問う議論として公に俎上に乗せられる。事実、日本国の存亡にかかわる問題である、が、それは、現在において国民皆兵化の議論として問われない代わり、社会保障の制度的な議論として問われる。


国家主義者の私は、国民皆兵化と、その不成立をパラフレーズした議論として、現在進行形の社会保障制度問題について考える。


[書評]健康の天才たち(山崎光夫): 極東ブログ


正直。制度とそれを支える「国民の意識」の基盤において完全にオワタ\(^o^)/と思っている。問うべきはオワタ\(^o^)/の後の日本国が、物騒な御時世に存続のため国家としていかに仕切り直すか、ということ、と私は思っている。


そして。なぜその課題が個人のライフスタイルとその是非の話に横滑りしているのかわからない。ブロゴスフィアに限ることなく。かつての森喜朗の発言。

2003年、「子どもを一人も産まなかった女性が自由を謳歌して、老後は税金で面倒を見ろというのは本当はおかしい」という発言を残した。

森喜朗 - Wikipedia


原理的に。社会保障制度は個人のライフスタイルに対して価値的には干渉しないし、してはならない。少子高齢化は国策の問題。日本国という単位において経済成長期のようなフォーディズムを前提した社会保障制度を維持構築すること自体が、もう無理と私は思う。小泉純一郎が戦犯ですよ、森さん。そして。坂の上の雲が見えなくなったことは、小泉さんの責任でもない。


坂の上の雲三丁目の夕日が見えた経済成長期まで、フォーディズムを前提した近代国家における社会保障制度が、「国民の結束」が、機能したろう。価値的にも。多くが傾いてなお、日本国と国民の存続は、課題として問われる。日本国と国民の存続は、国民である限り「コミットしなければならない」課題であり、現行の社会保障制度が「国民である限り誰もが関与しなければならない課題」の変奏として問われる。ゆえに、地獄を見に行くことが瞭然な年金問題の解法はない。


私は「留保の無い生の肯定を」に関心がない。カトリック的な価値観において、産まれてきた子供は「国家の子供」であるはずもなく、そもそも「国家の子供」であろうがなかろうが、産まれてきたことそれ自体を是とされるべき存在である。近代国家は宗教より新しく小さい。「国家の子供」という観念は、その極限を指し示したナチスイデオロギーは、産まれてくることそれ自体が非である子供の所在を、公的に規定し政策的に実行した。


子供は、等しく、産まれてきたことそれ自体を是とされるべき存在であり、国民国家の鋳型に嵌めるべきではない。たとえば、そのような立場はありえる。というか、普通にある。教育が福祉が、ゆりかごと墓場が、ひいては個の生死が、国家の裁量とされたのは、近代のことであり、近代国家は宗教より新しく小さく、個人と共同体の私的な営為とその連続性より新しく小さい。


そして。「国民」は「国家」に対して、子供が生まれてきたことそれ自体を是とせよと、要求する。「国家」の応答が、個人のライフスタイルに対する価値的な干渉である。現在に及んで。


私は、少子化対策と銘打つ議論が、問題を個人のライフスタイルの問題として問うことがわからない。世界の選択を一国の政府が押し戻すことはできない。国策の問題として問うなら、任意の解に賛同するにやぶさかでない。「日本国民」の概念が既得権としてあることに対する認識の転換以外に、現行の日本国において、国民意識を涵養し、仕切りなおす術はない。


前提において。来るべき国難に備えて、国民意識の涵養が、現行の日本国に必要であるなら。ということ。


国民国家は戦後のフォーディズムは、任意のライフスタイルを価値的な規範として、強制せずとも大々的に布教する。かつての岡田斗氏なら「洗脳」と言うだろう。婚姻制度は制度でしかないとは、現在の社会において平然と言えるようになった台詞である。


敗戦後論』をめぐってかつて問われたことでもあるが。日本国において、「国民」観念が、共同性を担保に集合的な同一性として規定され涵養されている。ゆえにこそ。「国民」観念が、たとえば「靖国」を介して、集合的な同一を個に対して要求してくる。戦争においてそうであった。戦後50年を経て同様である。一切は「靖国」を通じて反復される。


9.11の直後に、養老孟司が、毎日新聞に掲載された、日本を取材する日本問題の専門家と称する米国人の記事に切れていた。「ところで私が卒倒しそうになった記事がある。」――記事に曰く。日本は、反テロへの一体感が足りない、街では夏祭りをやっている。


養老氏は言う。口紅を差し、パーマをかけたら非国民、かく言われた時代が在った。そのことを覚えている人間は「まだ生きている」。そんなこともわからないで、日本専門家を名乗るな。夏祭りの何が問題か、この国は、一体感なんてないほうがよいに決まっている――


少子高齢化の対策は、現行の社会保障制度の維持存続とバーターにあるがゆえに。


断言を用いる。日本国民は、多く、戸籍制度に依存した、既得権としての日本国民しか、日本国民として迎え入れない。戸籍制度の前提なくして、日本国民の同一性は、維持されないか。日本国は共同体であるか。とうにそうではない。集合的な同一性を担保する存在は、既に多く傾いている。それをこそ落日と言い、日は昇らない。靖国も、君主制も。


臣民の眠る場所を見舞い得ない君主。近代国民国家の悲劇の一切を私はその状況に見る。そして。君主と臣民は、近代国民国家において、近代家族の相似を描く。昭和天皇は、その捩れを、よく知り、体現し、一身をもって生きた人であった。


時代は変わる。オワタ\(^o^)/のだ、さっぱりと。「国民」と「国家」の関係をめぐる、古き良き観念のダンスは。ダンスは相手なくして踊れない。


天皇靖国に、日本国は既に価値的に規定されていない。然るに。君主の存在と戦没者の慰霊に規定される近代国家は、日本に限らず多く在る。日本国民統合の象徴であると、憲法第1条に明記されてある。が――。


「国民」を欲さず「国家の子供」を徒に欲することは、国家主義者として言うなら、倒錯した発想と考えざるを得ない。「国民」ならず「国家の子供」を、はっきりと換言してしまえば、社会保障制度等を支える国力の「頭数」を、リスクなく「国家の子供」として「のみ」欲するからこそ、戸籍に「のみ」基づく日本国籍所有者が「国民」の大半を構成する。


「国家の子供」を欲することは「国民」の頭数を用意することとイコールではない。端的には、制度を支えるため「国民」の頭数を用意することが課題であるとき、ソリューションが「国家の子供」しかないことに、私は違和を覚える。そして。


「国家の子供」という時代でなく、個人のライフスタイルに対する価値的な規範の提示が困難な世相であり、かつ、ナチスドイツのように「国家の子供」という概念を堂々表沙汰にし得ない以上、「国家の子供」というソリューションは、無理筋としか、私には思えない。原理以前に、現実的に。


日本国は人種主義を肯定しない。然るに発想は時に「ナチ」である。「日本国民」であることが、戸籍制度に依存して、事実上あること。ナチスイデオロギーは、国民と種を一致させ、種の運命を国家の運命として捉えた。純血こそが種を保持すると。


「日本国民」とは、種の謂であろうか。否。問題は、「日本国民」という共同性の幻想の所在にある。世界の選択の結果、喪われつつある、あるいは喪われた、観念であるにもかかわらず。むろん。観念は個人を単位に生存している。種のように。


国策の問題と、価値の問題は、レイヤーを一致させると、最悪の権力でしかない。国家主義者であるからこそ、国策の問題と価値の問題は切り離して考えるべき、と私は思う。


――下記映画鼎談における、『ミリオンダラー・ベイビー』について述べた、青山真治中原昌也の言葉を引く。


シネマの記憶喪失

シネマの記憶喪失

青山  老トレーナーと女ボクサー、主役二人の交流が軸になって話が進むんだけど、僕がこの映画を見て強く思ったのは、人類はすべて一期一会で、すべて孤児であるということ。であるがゆえに出会いというものに意味があるんだということ。それに尽きる。


中原  そこがムチャクチャ感動を呼ぶな。自分もそういう意識が強いから。(P35)


映画。クリント・イーストウッドの最後の言葉。ヒラリー・スワンクの表情。そして。中原昌也の最新の小説集のタイトルは。


名もなき孤児たちの墓

名もなき孤児たちの墓


私は。山本夏彦に倣って、あるいはその言に従いシオランに倣って、祖国とは言葉であり、国語であると、思っている。自己が自己であることの証は、自己を育み規定した祖国に返す恩は、「国民」であることを離れたとき、無形でしかなかろう。実存は喪われてなお残像を描くと、いかなる実存に対しても私は思う。人は名前を得て世に現れる。祖国の言葉に拠る名を。


洗面所にて鏡を覗けば疲れた男の顔が確かに在る。いずれ鏡を覗く用もなくなる。記憶は在って、私の現在を規定している。死んでからのことは死んでから考えることにする。それこそがヒトラーの思想であったが。