「正義」にはなれなくとも「正義の味方」にはなりえる


http://d.hatena.ne.jp/heartless00/20071122/1195754733


はてなブックマーク - 女子高生コンクリ詰め犯人を叩く資格ないだろ


マジレス。


先ず。一般論としては措き現実の事例の処理について。

当然、通報したり逃がしたりすれば殺す、家族にも被害を与えると脅されていただろう


b:id:ryokusaiさんも指摘しているけれども、詳細について最低限は把握してから言及してください。ことにこの事件について、ネットで述べるなら。

通報しなければまさにAVのような状況でレイプし放題、暴力団員がバッグについているためバレる事もないと考えられる。通報すれば殺されるかもしれない。


「バレる事もないと考えられる」頭がお花畑です。「加担者」の頭はそうであったかも知れませんが。バレるんですよ。暴力団の「組織的な関与」は当該事件について問われていない。


個別事例は措き、一般論としての本題。本が手元にあったので正確に引用する。


黒沢明、宮崎駿、北野武―日本の三人の演出家

黒沢明、宮崎駿、北野武―日本の三人の演出家


渋谷陽一のインタビューに答えた宮崎駿の発言。1989年。この、というか渋谷陽一による宮崎駿インタビューは(北野武インタビューも)、全編が滅法面白い。当該書に収録されたインタビューは、宮崎という人を知るための一級資料ではあろう。

「(前略)『あんたは、どういうことをやろうとしてるのか!? そういうバカな状況で、その中で何をやっても無駄なんや』っていう。ナチスの軍隊の中にいてね、どんなに人間的になろうと努力するったって――そのナチスの軍隊に入らなくてもいいんだったら、さっさと抜けろっていうことが、いくらでもあるわけでしょう!」


――はい。


「僕は東京の状況っていうのはそういう状況だと思うんですよ。さっさと抜けろっていう状況であってね。そこにとどまるなら、自分の愚かさを耐え忍べっていうね!いやあ、そんなことを力説してもしょうがないんだけど(笑)」


――いやいや、非常によくわかりました。


「だから、たとえば現代を切り口にした映画を作れっていう人の発言を聞いてるとね――何かこの東京の中で生きてるとね――たとえば評論家にしても映画の観衆にしても、観に行ったらそれで励まされて『俺は東京で生きていくぞ!』っていうね、そんな映画なんか作れっこないじゃないですか! いや、作りたくもないですよ! うんと嘘を重ねてね、作ることはできるかもしれませんけれども、僕はそんな映画を作りたいとは全然思わないですね!」


――ははははは。


「いやあ、東京っていうのはくだらないとこだと思ってますから(笑)」


――(笑)。もう一遍いまの質問を繰り返しますけれども。じゃあ、宮崎さん自身の中では、宮沢賢治は決して宮崎駿ではないと?


「当たり前じゃないですか!(笑)、そんなもん。あの人は偉い人ですよ、とにかく(笑)。とにかく日常生活そのものがやっぱり偉かった人ですよ。それは大したことですよ。分裂してないですよ! ものすごく悲劇的な分裂をしてるけど。たとえばね、岩手のあそこでセロを弾いてたってこと自体が、実に悲しい分裂ですよ」


――うん。うん。


「ええ。だけど、やっぱりその引き裂かれた部分も含めて、偉大になってる人ですよね。あのー、花巻に家が残ってるでしょう? あそこに‘‘下の畑にいます‘‘ってね、誰かがもちろん復元して書いたんですけど(笑)。あれを見ただけで私なんかはもう、駄目ですね(笑)」(P121〜123)


書き写していても凄まじいテンション。口角泡飛ばしている姿が目に浮かぶ。初対面にもかかわらず、このエネルギッシュな口調を平然と受け止めるばかりか、一見とっちらかった暴論にしか見えない宮崎氏の話の文脈をきっちりと把握して質問を投げかけている渋谷氏もおそるべし。


ここにおいて。宮崎氏が話していることは。現実の日常の構造に埋没してなお、世界の全体性を希求し、理想を模索することの意識における分裂と矛盾。氏にとっての宮沢賢治のような「偉い人」「偉大になってる人」を自身の存在の反証として自身を罰すること。高潔な人が在り、自らはそうではない、と規定し、にもかかわらず高潔たらんと志向することの、自罰にとどまらない意味。


氏にとって、1989年の(そしておそらく現在の)東京とは、現実とは自身の日常生活とは世界とは、人間性を破壊し人間的たらんとすることを前提において不可とせしめる「ナチスの軍隊」であり、「さっさと抜け」ることなくその場所に望んでとどまる限りは、当為として「自身の愚かしさを耐え忍べ」と、すなわち、現在の東京に日常に世界にとどまる限り、ナチスの軍隊の一員であることに変わりなく、ゆえに、斯様な人間性に対する罪を犯している構造の一部として在り機能する限りにおいて、自己の罪と無力を自覚することが一義の要諦であり、自己肯定など求めるべきではない――と。


宮沢賢治」のような「偉い人」が、結果において「偉大になってる人」が在ることをこそ、人称を有した高潔の実在をこそ、自身の罪と汚れを映す鏡として、また自身の言行を導く羅針盤として、人間性の、その意義と価値の、在処として、思え――と。


今年の春先に放送された『プロフェッショナル 仕事の流儀』においてなお、還暦をとうに過ぎた、現代最高の名声を得た映画作家は口にする。自分は理想を持った現実主義者だ、理想なき現実主義者は最低最悪だ、と。


むろん、宮崎駿アレゲなことを言っている。人は、どうしても、自身の私的な実存の問題を社会全体の問題として投影し問うてしまう、ことにこの世代の人は、と、つくづく思う。心も痛い。そのことについては、たとえば、斎藤環による丁寧な批判が在る。以下所収。


フレーム憑き―視ることと症候

フレーム憑き―視ることと症候


宮崎氏の言を一言に約すなら。自身の罪と汚れを引き受けてなお、理想を抱いて現実に立ち向かえ、分裂と矛盾を恐れるな、引き受けよ、ということ。


「罪と汚れ」が、存在に拠るものか言行に拠るものか、私的な実存に拠るものか、社会的な構造問題に拠るものとしているのか、傍から分別し難く、氏自身の意識において同様であろう。そして。自身の負った「罪と汚れ」が、意識に刻まれた根源的な負債が、外的/社会的な構造問題とその解決をこそ志向する。アポリアと知りながら。――ナウシカもののけ姫


彼の世代には彼のように考える者は多く、現在においてそのように考える者はなお在るか。在る。脱線に属するが、かつての「ホワイトバンド」をめぐる諸相に私が覚えた感慨とは、そうしたことであった。社会的な構造問題を個人の倫理意識に、「罪と汚れ」として負わせる、あるいはかかる意識に訴求する、そうした事案について、私の認識はすれっからしである。最近の記事において、そのことを多方向から記し続けている。つもり。


ナチスの軍隊の中にいてね、どんなに人間的になろうと努力するったって――そのナチスの軍隊に入らなくてもいいんだったら、さっさと抜けろっていうことが、いくらでもある」――そのことについて「加担者」は責を受けて然り。「なぜ貴方は自己の意思と選択に基づいてナチスの軍隊に入ったのか」と。


そして。そのことは、宮崎氏も知っていたろうが、比喩としてではなく、現実に、戦後のドイツにおいて問われた問いでもある。「釣り」「ネタ」として書いているのではなく、本当に問題意識を覚えているなら、あまりに有名ではあるし既読であったら申し訳ないけれども、以下の小説に目を通すとよいと思う。問題意識に対する「示唆に富む」。


朗読者 (新潮クレスト・ブックス)

朗読者 (新潮クレスト・ブックス)


「ネタバレ」すべきでないと思うし、また手元に本がないので詳述は避けるけれども、作中において、比喩としてではなく実際に、上記の言辞が人間の選択した行為に対して問われる。数十年前の選択に対して。


「なぜ貴方は自己の意思と選択に基づいてナチスの軍隊に入ったのか」――選択すること自体が間違っていることが「この世には」在り、選択の自由が所在するなら選択するべきではない、選択した限りはそのことについて責を受けて然り。自由意志に基づく選択の前提ある限り「選択するべきではなかった」以外の解は示されない。そして。かかる倫理問題における公的な模範回答は、かつて愚かで無教養であった当事者の意識を、その「困惑」を、捕捉することがない。


むろん。刑事裁判は被告人の意識における「困惑」を解除するために行われるのではない。然りて、法的のみならず、自由意思に基づく任意の選択という判断と行為に対して、被告は倫理的に断罪される。法廷において。


「人道に対する罪」。罰。そして。「人道」なる概念を考えたこともない無教養な人間が示した、過去における愚かな選択は、自由意志に基づいた判断と行為は、倫理的に断罪される。が。彼の彼女の「困惑」と感情を、判事の示す「なぜ貴方は自己の意思と選択に基づいてナチスの軍隊に入ったのか、数十年の以前において、貴方はそうするべきではなかった」という公的な断罪の模範解答は、捕捉しない。むろん。一切は手続である。


倫理意識は自然状態において育まれるものでも、「自動的」に涵養されるものでもない。否、そのことをこそ拒否したのが彼の彼女の与した体制であった。以前に引用した『さよなら妖精』の通り「衣食足りて礼節を知る」。環境的に倫理意識の涵養されなかった人間に対して、倫理問題を問うことの、またそれに基づいて断罪することの、難しさ。


倫理とは人道とは何か、環境的に知ることなく育つ人が多くある。断罪を被ったとき、その人は困惑するだろう。「罪と罰」の意識としてしか理解し得ないことがある。あるいはそれすら。


何の話か。heartless00さんのこととは言いかねるのだけれども。正義感について「優越感ゲーム」を持ち込む発想がそもそもわからない。倫理問題については「優越感ゲーム」が成立しない。他人の倫理意識とその発露に対する批判を前提に、自身の倫理意識を主張することは、あまり褒められたことではない。

犯人叩いて格好付けるのもいいかげんにしろよと言いたい。


数々のイジメ自殺や殺人事件後の目撃者インタビューで「あー、なんか30分くらいずっと助けてーって聞こえてた」とか「あー、あいついじめられてた。」とか平気で答えたり。電車内レイプ事件だって過去に何回もあり目撃者も何人もいたに決まっているのに、誰も助けてやらなかった。なにか自分に迷惑が降りかかりそうなことは見てみぬふり。


そんなヤツはこの女子高生コンクリ詰め事件の犯人と同類の鬼畜野郎だろうが!
なにが「人間のクズ!」だ。ちょっとは自分を振り返ってみろ。お前も鬼畜なんだよ。


もちろんこの犯人は非難されるべきもだ。しかしその場合「人間なら、自らの命を投げ捨ててでも救わなければならない!」「俺なら絶対にそうする!」という重い決意を伴うべきだ。それを易々と「この鬼畜が」と言えるこの想像力のなさ。どうせ別の世界の出来事、自分には関係のないこと、「他人事」と思ってるのだろう。こういう人間に限って今そこにあるいじめも見てみぬふりをするのだろう。


しかし世の中は腐ってないもので、正義を貫く人、自己犠牲を厭わない人が少なからずいる。
私はそのようでありたいと思うし、そのようでありたいと願う人間だけがこの犯人を非難できるのだ。


鬼畜として申し上げますと、みな振り返っているんだよ。自分のことを。その「罪と汚れ」を。矮小と無力と愚かしさを。そして。それを表沙汰にすることこそ愚かしさの極みであるとも思っているから、許すべからざることは許すべからざることと、自己に言い聞かせもする。他に、対外的に、公的に、主張したりもする。


「私は矮小で無力で愚かな鬼畜であるが、ゆえにこそ、許すべからざることは許さない」ということは、倫理とか大仰なことは言わずとも、人のプライドであるとは思う。heartless00さんが示すような「罪と汚れ」が在るとき、それを引き受けることであるとも思うよ。自身の負う「罪と汚れ」を引き受けることこそが、人間のプライドであり、意思と理性と選択と行為の、重さ尊さと思う。


人間の尊きは、世界の構造的な残酷に引き裂かれ、矮小と無力を露呈し、愚かにも分裂と矛盾を招く、それでもなお、人間は、信じるところを求め、世界に対する理想を追って、意思と理性と選択と行為を貫かんとする――「でもやるんだよ!(by根本敬)」。それが、少なくとも『もののけ姫』に至るまでの宮崎駿の問題意識であり主題。


むろん、それを、たとえば押井守のように、安直な人間主義とそれに根差した政治主義、と批判することは易い。ただ。氏が長きに亘り勝手に引き受け続けている問題意識の重さは、確かに在る。マンガのナウシカを手に取れば、判然とわかることと思う。是非と正誤は問わず、重さについては。その重さは、渋谷陽一が真っ先に喝破した通り、ひとえに氏の私的な実存の重さに由来するかも知れないけれども。

しかし世の中は腐ってないもので、正義を貫く人、自己犠牲を厭わない人が少なからずいる。
私はそのようでありたいと思うし、そのようでありたいと願う人間だけがこの犯人を非難できるのだ。


宮崎駿もまた、非なれども似たことを考えてきたし、非なれども似たことを口にし続けてきた、heartless00さんと同様に、氏特有の大変屈折した、暴論めかした表現を用いて。――と言ったら、heartless00さんは気を悪くするだろうか。


最後に。宮崎氏とは「思想的に」徹底して相違する人についての言葉を引く。以下から、竹熊健太郎川内康範評。


篦棒な人々ー戦後サブカルチャー偉人伝 (河出文庫 た 24-1)

篦棒な人々ー戦後サブカルチャー偉人伝 (河出文庫 た 24-1)

ドラマやマンガの世界ではなく、現実に生きて呼吸をする「正義の味方」を僕は初めて見た。


この正義の使徒は、偉大なる矛盾の人でもあった。愛と平和を説き、自らの信念で軍隊をも脱走した川内氏は、同時に喧嘩相手は徹底的に叩きのめす「修羅の人」でもあるのだ。


しかし、これは矛盾なのか? 氏は、自身の生み出した戦後最大のキャラクターである『月光仮面』を、「正義ではない」という。あくまでも「正義の味方」なのだと。人間は、けっして正義にはなれない。それは人間が本質的に矛盾した存在だからである。ゆえに矛盾は恥ずべきものではない。


が、矛盾の自覚なき者は愚かしい。川内氏が「俺は俗徒だ。雑犬なんだよ」と韜晦するとき、そこにはこういう自覚があるのではないだろうか。そう語る氏の眼は、どこまでも優しかった。政治意識皆無の僕のような存在は、川内氏にとって、あるいはよき理解者たりえないかもしれない。だが氏は、そんな僕にもありのままの自分を曝けだす。とことん自分に正直な人なのだ。


現代における「正義の味方」を、ドン・キホーテと見なす人がいるかもしれない。だが、考えても見てほしい。ドン・キホーテは人を嗤わせるのではない。感動させるのだ。(単行本P347〜348)


人間は、存在の原罪ゆえに決して「正義そのもの」にはなり得ない、ゆえにこそ、幾許かでも「正義の味方」たらんと意思する、意識において心掛け、言行において示さんと試みる。自身の「罪と汚れ」を、その在処を、知り引き受けるがゆえに。むろん、それは夜郎自大であり我田引水である。川内氏の言行が時にそうであるように。川内氏の言葉が率直であり氏の意識が真実であろうとも。


ただし。夜郎自大で我田引水であることを知り引き受けてなお「正義の味方」たらんとすることの問題を指摘することは、「ちょっとは自分を振り返ってみろ。お前も鬼畜なんだよ。」と言わずもがなの野暮を言挙げることとはまるで相違する。たとえば、宮崎駿は左翼らしく有体なホンネ主義を唾棄していた。私は自身が鬼畜であることを始終振り返っている。鬼畜に正義を説く「資格がない」か、という問いの解はとうに出している。このように。


鬼畜に鬼畜を叩く「資格がある」か。資格と問うならあるに決まっている。「自己批判を含む」と明記しない限り、切断操作と判断されるのか私は知らない。ブログのトップに明記するか。自国の戦争犯罪を問う者は切断操作を行っているのか。否。私はニコ動のアカウントを持っていないが、当該の特集は見ている。


私たちは「ナチスの軍隊」に、硫黄島に、すなわち現在の世界に、望んでとどまるしかない。逃げ出す術はなく否定する理路もない。七転八倒するしかないのです。ショーン・ペンの初監督作に、次のような台詞がある。


――おまえにはいま為すべきことが在り、おまえをいまこの瞬間に必要とする人が在る。この世は地獄だ。