服飾産業が俺にもっと輝けと囁いている


痛いニュース(ノ∀`) : 女性から見てNGな男性のファッションは「アキバ系を感じさせるファッション」 - ライブドアブログ


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だから。聞くな、そのような悪魔の囁きは。オタクな趣味にカネを使うべし使うべし。ダッフルコートか。大昔に着ていたな。尖った雰囲気が緩和されるので。


今年の冬も。ステンカラーコートを使い回す。同年代の友人達が家族を築いてく♪ではなくて、外見的に覿面にオッサン化して行き、年齢相応に崩れていく。幸せになると人は崩れるものであるか、と、羨ましく思う。私も老けたなと、洗面所にて皺っぽい顔を確認して思う。


女に服装について口出しされるとムカとするのは一般論としてもデフォだろうと思っていた。親しかろうとも。逆もない。服装というか、外見かな。昔、この種の服装相談を受けた覚えがある。俺?と思ったことは措き、好きな人があるでもなし、モテに憧れるでもなく、まして狩られるタマかと思ったら、自己イメージの問題であった。誰しも逃れ難い。


確認するが言うまでもなく私はオシャレではない。ことに現在。年齢相応に崩れる、というのは、元来自身の衣服にこだわりなき男は、自身の人生が外見に構う用のないことを知ると、どうでもよくなる。誂えで人並みなら無問題。「人並み」というのは、同様にどうでもよくなった同年代の男たちの人並みであるが。日本は代官山でも表参道でもない。


男は中身、とか言っているのではなくて、本人はどうでもよくなる、ということ。大概、恋人や妻子あるゆえのことであったりする。この世の女の全員に気に入られたいと考えなければ、あるいは考えることを諦めれば、自分が自分であることは、多くの場合、さして苦痛でもないし、「ありのまま」とやらであることに落ち着くこともできる。


服装相談されたときに答えた。普通で、人並みで、誂えで、いいんじゃね。服装について個人的な美意識がないなら、かつ、カネを使ってきたわけでもないなら、古着趣味とか皆無なら、そして身が清潔なら、トラッドがお勧め。オフのときまでスーツ着ろと言わないけれども、冬場なら、シンプルでベーシックなタートルネックや丸/V衿のセーターに、シンプルでベーシックな、流行物でないジャケットで宜しい。流行に関心ないのに流行物に手を出すとはこれいかに。


というか、オッサンと諦めたならオッサンの服装で無問題。若作りしたところで無駄。美しく換言すると、表向きは紳士の装いに目覚めるべき時期なので、シーンの最前線に立ち続けることは諦めて移行しましょう。もともと、自身については衣服の好みが反動的、というか無趣味なので、服装をもって世間にレジスタンスすることに関心がない。ただ。シルエットは考えたほうがよい、というのは、たとえば私は痩せに過ぎるので、上着は細身でないと不格好に見える。不格好はいけない。


「シーンの最前線」とは「女たちはみんな一直線に俺の虜」な勘違いの謂でしかなかったりする。規格的な服装は社会性を志向するが、社会性とモテは一致しない、優先順位の問題は在る。そして、いいトシこいてモテでもなかろうし、モテは社会性の後を追うだろう、良くも悪しくも、と、偏見として思う。頭の中までオッサン化して焼きが回った、ということだが。


さすればいっぱしの現代系オタに見えるから大丈夫、と言ったら気を悪くされた。数年前のこと。バズワードであったらしい。結局。当人も含めて、服装についてはアドバイスしたところで換えやしないのだから、言挙げるだけ無駄。


自身が同一性として規定する内的な自己イメージの問題は、たとえ不惑を超えようとも結構重い。タートルネックのごとき女の腐った格好はできるか、と言われては。どういう文脈に基づく偏見だ。イタリア人の体格だからそうはならないよ、と答えようかと思ったがやめた。

余談1.


バカの壁』大ベストセラーの頃、養老孟司のドキュメンタリーがNHKにて放送された。TVカメラが養老先生の公私に亘る日常を追う。先生の服装、授業や講演の際の出先における地味な背広あるいは暗色系のオーソドックスなオッサンルックと比して、自宅に居るときのカジュアルな服装がやたらとオシャレで洒脱で色彩鮮やかで、似合っていることに目を引かれた。


外着より部屋着のほうがオシャレで凝っている人など珍しい。と思ったら。養老先生の奥様が、先生が自宅に居るときの部屋着を全面的にコーディネートしているそうな。普段から。奥様、やはり洒脱な人であった。仕事のときは、先生、奥様のコーディネートを受け付けないそうな。ゆえに、現在も、鎌倉の自宅における養老先生は色鮮やかな服を着てオシャレであり、テレビのスタジオでは地味でオーソドックスな暗色であったりする。


養老先生の服装で、先生本人の素の趣味(というか無趣味)か、奥様のコーディネートか、一目でわかる。それほどに違う。前言は翻すべきかも知れない。先生、公的にも奥様のコーディネートを受け入れればよいのに、元がダンディなのだから、と、かつての鼠色の背広姿を目にする度に思ってしまうゆえ。先生御本人は、服装や外見そのものに、まるきり無関心なのだろう。エッセイでも記している。

余談2.


王と呼ばれる評論家がダイエットに成功してオシャレに目覚めた、らしい。拝見する限り、失礼ながら、悪くはない。ただ。典型的な「衣服に元来関心なき人がオシャレに目覚める」のパターン、とも思う。つまり、人任せというか、服に着られているというか、御本人に服装についてのこだわりなきことが瞭然。というのは、端的に着せ替え人形であって、そのことに御本人が抵抗感ない。


むろん構わない。御本人は自己改造と自己変革の新鮮を楽しんでいる。ただ。衣服に元来関心なき人が唐突に「オシャレに目覚める」ことの、陥穽とは言わず、パターンを如実に示しているとは思う。それこそ「身をもって」。成金オシャレならぬ、オシャレ成金、という言葉が脳裏に浮かんだ。むろん、悪いことでも咎められることでもまったくない。


再開を祝して、昔の夜話の録画を見返したところ、かつての氏の容貌に、既に馴染みなき自らに驚いた。人間の、同一性をめぐるパターン認識とは当てにならない。まして自身に対するパターン認識においてをや。