id:REVさんに御返事(自身の立場と感情を括弧に入れること)


「人並みの幸福」 - 地を這う難破船


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2007年11月20日 b:id:REV  自分の近親者が刺されても仕方が無いと思えるのなら。


思いますよ。思うことと言うことは別ですが。2001年9月11日にWTCの内部に居た米国民はテロに遭って仕方がない、とは、言わないことと同様に。「仕方がない」という認識の有無とは、別です。かつ。「仕方がない」という言明は是非判断を含まない。そして。自身のことであるから、その認識を公にし得る。罰されたいと思って生きている脛に傷持つ人間がいる、という、それなんというインファナルアフェア、な私の話は措いても。他人のことについて言うはずがない。


「近親者」に対してそのようなことを言うか。言うわけがない。「近親者」はどのように言うか?「子が殺されたらその相手を殺したく思うことは当然」。別に、批判的にも思わない。REVさんは、以前にも、このようなことを記していた。


なんか死刑の話 - REV's blog

死刑を望むなら、自分の近親者が犯罪を犯した*1ときに死刑になることを覚悟すべきだと思うし、被害者の感情で量刑を左右することを望むなら、近親者がうっかり子どもを轢き殺した時に、自分も被害者の感情で量刑されることを覚悟すべきだと思う。


同意。私は相対的には死刑制度の存置論者です。以前に記したことですが、おまえが人を殺したら俺がおまえを殺す、と私は親父に真顔で言われて度々半殺しにされて育った。考えるべきは、親父が自らの手で、ということに拘っていたこと。親子の感情問題を仔細に語る気もないし関心ないだろうから端折りますが、端的に言うなら、親父は「人間の掟」を信じていたけれども、それを法制度とは別なるものとして考えていた。長じて改めて確認したこともないが、私が小学生の時分、政治的に左翼であった親父は死刑制度への反対を度々口にしていた。


すなわち。法制度に「人間の掟」を一致させるべきか、ということ。親父が信じる「人間の掟」でしかありませんが。親父はそのことを望まなかった。法制度に服することを「罰」とも「掟の行使」とも考えなかった。ゆえに自身の手で決裁を下す。罰を与え掟を行使する。身内の恥に対して、親としての責任を果たす。それは左翼ではない。ええ、父親というか人間としては全然。自身の感情と、法制度を支持し肯定することは、別、という以前に、一致すると考えない/考えられない人はあります。普通に。


ところで「子が殺されたら相手を殺したく思うことは当然」と言ったのは母親でしたが、親父のような認識が在るかは知らない。私は、死刑囚になっていたかも知れない人間ではあるが、そのようなことを「近親者」間で今更問い詰めてどうするのでしょう。認識の問題と感情の問題は別個です。


「図々しい」換言するならエゴイスティックな言明とは思います。放言するなら、それが「『母』であること」かも知れませんし私も恩恵を被りはしたので批判的にも思いませんが。ゆえに。「親の居ない子供に恨まれて刺されても」仕方がないなとも思います。以前、所謂カーチャン話が幾らかブクマされもしたので。とはいえ。id:rajendraさんの指摘する通り、斯様な認識を「日々の暮らしの前提とせしめる」ことが「いささか殺伐に過ぎ」ることは知っている。以上が、出発点ではないか。そのように思う。


MASTERキートン』に、マフィアの父親が、マフィアとしての筋を違えた息子に、自らの手で「ケジメを付ける」、でも心持は悲しい。という結末の話が在りました。あるいは。『ロード・トゥ・パーディション』のポール・ニューマンのように、マフィアとしての筋を違えようとも息子は可愛い、自身の庇護の及ばぬ死後、殺されるであろうが、父親である限り、自らの手で始末を付けることはできない、守らねばならない、お前も息子が可愛い父ならわかってくれ、とトム・ハンクスに懇願する話も、在る。


ポール・ニューマンの息子は嫉妬ゆえにトム・ハンクスを息子ごと殺そうとしており、ゆえにトム・ハンクスポール・ニューマンとその息子を殺さんとしている。ポール・ニューマントム・ハンクスは「親子」の間柄にある、否、あった。彼らの実の息子たちを介して殺し合うまでは。


むろん、いずれにせよ勝手な思い込みであり、勘違いであり、マフィアならではの人生の間違いです。各自の相違する勘違いに基づいて、万人の万人に対する殺し合いが為されることを歓迎、とも私は思わない。ゆえに、感情の話ではなく認識の話をするべき、と、ことにこの件については思います。


「日々の暮らし」を前提するとき、現実に殺伐とした事態とせしめないためにこそ、殺伐とした認識が必要と私は思います。殺伐とした認識の持ち主が、殺伐とした事態を望んでいるわけでも肯定しているわけでもない。ゆえに。私自身についての話として、私自身の認識について述べました。


他人のことについて、公に言えることではない。かつ、私が自身について「仕方がないなと思う」ことは、是非判断を含むことなく、因果関係や「責任」の所在を意味しない。刺されてやむなし、とは言わないし思わない。刺されたくないなら、手を打つべきこと、と思いますよ。是非をめぐる問いは、「殺伐に過ぎ」る認識とは別個に為される。仕方がなくもあると私が思う状況と、その是非を問うべく私はこの件について一貫して書いている。


「手を打つ」の内実は。刃物を規制するべきか。「真正の敵意」の存在を問うているのであるから否。事後においては。刺した、という結果について法的に処罰される。そして。「真正の敵意」を涵養しない社会の設計こそが肝要、という模範解答になる。


「真正の敵意」を抱く者を説得することはかなわず、そもそも「猫の首に鈴」であるなら、「真正の敵意」を抱く者の言行のそこかしこに露呈している「至らなさ」を、人間の出来た人たちでフルボッコにすることが、易い対応ではある。ネットという公共空間において言行が「至らない」ことは、本人の私的な事情と一義にはかかわりない。その通り。「至らない」言行もまた言論の自由の範疇にはあるし「至らない」と指摘することもまた言論の自由である。かく為されるべき。


ただ。「真正の敵意」の所在とその存在する状況をこそ問うているにもかかわらず、筋違いな反応を返されても困る。ほのめかしても仕方がないので挙げるけれども。――そもそも。それほどに挑発的な一文であったか。私は素で書いた。他人が素で同意するとはむろん思っていない。

2007年11月19日 b:id:azumy 社会  『私は、性暴力の被害者に自身が刺されても仕方がないなと思う。』仕方ない、の意味がどうしてもあり得る、の意なら納得するが、甘受すべき、の意なら受け入れない。私を刺しに来たら刺し違えるか先にこっちが刺す。


先ず。「甘受すべき」とか全然言っていません。私も含めて、人は自分の文脈でしか読まないものだけれども。「私を刺しに来たら刺し違えるか先にこっちが刺す。」御自由に。刺されたくないと思うならかく対応してください。ただ。


「真正の敵意」上等、という話なら、私としてはネットでは何も言うことがない。御自由に、自身の生活を自身の力で守ってください、宅間は居ますが、という話になる。性根の腐った邪悪な人間は常に世に一定数生まれてくるのでしょう。ところで宅間は人を殺し死刑に処された。法的な話は以上をもって終了。「仕方がない」の反語が「許されない」であるなら。法的に死刑に処され行為当事者が滅形した以上、許されない対象自体が無い。法的には行為当事者個人の問題。


宅間の価値観は歪んでいたし、頭の歪んだ人間には、1+1=2も歪んで見える。宅間が歪めて見た価値的な世界が、1+1=2と同様の真であるなら。価値的な世界には是正の範疇が在る。ゆえに、死刑の存廃自体が問われている。死刑制度については幾度も書いてきた。宅間が価値的な市民社会に牙を向くなら価値的な市民社会も相応に報いる、という話として問われているのでは、ない。死刑廃止論者には、かく問うている人もある、私はそうではない。宅間を市民社会が包摂し得るとも思わない。


宅間の言行をもって価値的な市民社会を是非に及んで問うべきではない。その通り。であるから、宅間の言行とは別個に問われるべきであるし、私は問うてきたつもり。宅間が死刑に処された以上、宅間の言行は「仕方がない」、が、私は是非を「仕方がない」の先に及んで問いたく思う。宅間の性根が腐っていた「だけ」、ということなら、終了。事件は起こるだけであり、犯人は法的な処罰に付される、それだけのこと。むろん。殺された側にもその「近親者」にも落ち度や咎や責はない。誤読する人間が在るので明記しておく。


構造問題とは、誰かに落ち度がある、という話ではない。ゆえに問うことが難しい。誰かの存在それ自体の「責を問うている」かに読み得る余地が記述に在るなら、その点については、否を確認する。


私が、自身の立場と感情を括弧に入れて見解を記すのは。キチガイめいた話にしかならないことを知っているため。愛する者の死を愛するがゆえに欲し、欲してきた意識と言行ゆえに罰されたく思って決裁の日を待っている、とか書いても。


任意の立場や感情や行動原理に他人が同意しない、にもかかわらず表出それ自体への共鳴がありえることと、その是非、という認識に基づいて公に見解を記しているし、諸相を問うてもいる。直截かつ極端に例示するなら、テロリストと話が合わないにもかかわらず、テロリストの行為に共鳴を覚えてしまう、宅間と仲良くなる余地なきにもかかわらず、彼の認識と行動原理に共鳴する余地はある、そのような事態が普通にある、ということの話です。むろん、私自身がそうであるということではまったくない。


私は私自身について、また近親者含めた他なる人についても「仕方がないな」と思いはするけれども、私でない人はそうは思わない。「私でない人」には「近親者」も当然含まれる。誰もがインファナルアフェアでインランドエンパイアな無茶苦茶な世界観を生きてはいない。離人的な人間を基準に社会的な価値を規定するべきでもない。そこから一切は始まるし、市民社会は構想される。価値観や世界観の異なる者同士が殺し合わず、「共生」するためのフィールドとして。能う限り「真正の敵意」を胚胎させないことは「共生」の要諦でしょう。


親密な愛情はエゴであり他に対して「排他的」に機能し得る、というのは前提だろう。是非は措くし、是非以前に「そういうもの」。仕方がないなと私は思う。だから各人が各コミュニティが「親密な愛情」を前提に結束しかつ排他し「真正の敵意」を肯定し殺し合うことも結構。文明人として、市民社会において、いかがなものであるか、私は知らない。「親密な愛情」の前にそのようことはかかわりない、私が文明人を市民社会を高く見積もりすぎている、というなら、同意する。


結論が不良少女と思われても困るので。要点を付するなら。「親密な愛情」とその紐帯の実感の存在を前提に、文明人という概念は市民社会は形成されるべき、理念的なものとしてではなく、という立場と見解には賛成。ただ。「親密な愛情」とその紐帯の実感から徹底的に疎外される人は在って、そのことを自己責任とは決して言いきれない、そして、「親密な愛情」とその紐帯の実感の存在を前提に形成された文明人という概念は市民社会は、斯様な存在を、価値的に救済し得ない。そのことを「多数派の傲慢」として問うことには大きな意味があり、かつ、具体的な論旨と言辞を措くなら妥当でもあると、「崇高な意図」メソッドかも知れないが、私は判断する、ということ。それが。今回の一連の件に対する、私の立場と姿勢。極論を提示し合って挑発合戦をやっているのではまったくない。私的な立場と感情は措く――というか、言わずもがなとは思います。

私は、性犯罪に対する厳罰傾向には原則的に賛成する。ステーキチェーン店の事件についても、裁判官の示した判断を支持する。自重を招来せしめるものは社会性と個人の理性であるが、意識において社会から疎外された人があり、あるいは社会を洟も引っ掛けない者があり、理性の適正な機能において怪しからん人間があることは、論を待たない。損得勘定以外ない、が、性の領域において、損得勘定の物差は狂う。ゆえに、司法の強制力が露骨に前景化したとしてやむなきとは思う。

「スタンスフィールド問題」 - 地を這う難破船