bye-bye fairy


米澤穂信という小説家を知っているか、と訊いたのはラノベ読みの友人であった。私は所謂ジャンル小説をあまり読まない。音楽をあまり聴かない、ということと同じ意なのであしからず。『ユリイカ』にて特集されていたことしか知らない。中身は読んでいない。対談相手の若手作家が老け込み、かつての美貌が形無しになっていたことしか覚えていない。


時をかける少女』を観たとき、鬱にはならなかったが、ああいうことは共学では普通なのかと友に訊いた。中途で辞めた中高はバンカラな男子校であった。普通ではないそうだが甘酸っぱい思い出はあるものらしい。思い出とて美化されているようではあった。ボーイ・ミーツ・ガールな青春モノを読んだり観たりすることは好きだ、が、投影の余地があるとは知らなかった。


ミステリの人とも知らず、代表作にして、ユーゴスラヴィア紛争を扱った話と聞いて、手に取った。冒頭をめくり、その甘くセンチメンタルな序章に引き込まれて、読んだ。堪能した。


さよなら妖精 (ミステリ・フロンティア)

さよなら妖精 (ミステリ・フロンティア)


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一九九一年四月。雨宿りをするひとりの少女との偶然の出会いが、謎に満ちた日々への扉を開けた。遠い国からはるばるおれたちの街にやって来た少女、マーヤ。彼女と過ごす、謎に満ちた日常。そして彼女が帰国した後、おれたちの最大の謎解きが始まる。覗き込んでくる目、カールがかった黒髪、白い首筋、『哲学的意味がありますか?』、そして紫陽花。謎を解く鍵は記憶のなかに―。忘れ難い余韻をもたらす、出会いと祈りの物語。気鋭の新人が贈る清新な力作。


「遠い国」とは旧ユーゴスラヴィアである。舞台は平和な日本の地方都市、登場するのは、大学受験を控えた高校生たち。

 衣食足りて礼節を知る、という。また、一方では貧すれば鈍する、とも。つまり礼節なるものは、一部の聖人を除けば腹がふくれてから考える副次的なものだということだろう。まことにもっともなことで、目の前のウサギを獲らねば明日のお日様を拝めない男に、槍を持つ手に力を入れる以外のことを要求するのは酷というものだ。


 しかしもちろん、副次的なものはすべて虚構だ、などと考えるわけにはいかない。ポピュラーな格言を引いてきたついでにもう一つ引けば、人はパンのみにて生きるにあらず、というのもある。それぞれ、どうにもいろいろままならない時代に生きてきた人々の遺産だ。ごく単純な話で、素直に納得できる。ごく単純で素直に納得できるからポピュラーと呼ばれる。


 さて翻って我が身となると、これは大きな問題を内包している。なにが問題かといえば、これはもう幸福であること以上の問題はあるまい。生まれ落ちた瞬間から衣食足りている者が礼節を知るためにはより衣食を足らせるか一度全て剥ぎ取るか、どちらにしても不自然で不合理な話ではある。昔読んだ短いSFに、全てが満ち足りた世界が描かれていた。その世界の住人はすることがないので自殺を好んでいた。贅沢病も病気は病気に違いない。


 何か話せとリクエストされたので、ぶらりぶらりとそんな話をした。


第一章の冒頭。聡明であるが、否、聡明のゆえに、無気力な主人公は、友人に述べる。対するに、聡明であるが、否、聡明のゆえに、無感動な女友達は答える。

「話はわかるわ。そうかもしれない。心あたりも、ないわけじゃない。ひとくくりにはできないだろうけど、それでも、ちょっと面白いわね」
「そいつはどうも」
「でもね、認めたくない」
「…………」
「好きじゃないってことよ」


この、聡明で凡な、日本の高校生が抱く疑問に対する、「覗き込んでくる目」と「カールがかった黒髪」と「白い首筋」と『哲学的意味がありますか?』という口癖と、紫陽花の思い出と、人間としての姿形と心を有した解として、遠い異国、ユーゴスラヴィアから訪れた同年代の少女が現れ、やがて去っていく。


1991年、ネットもケータイも普及することなく、地方都市に暮らす高校生にとって、世界がとても狭く、その外の知覚が遥かに難しかった時代。震災も、90年代の、新世紀の、テロも未だ経ることない時代、ユーゴスラヴィアの解体に始まる、冷戦後の夜の果ての、その日没の手前の時代。


夜の果てのはじまりとは、一見かかわりなく、未だそのことも知らず予感すらなく、安穏とした飽食の日常が過ぎてゆく、未だインフラが破綻することもない、日本の片隅の地方都市において、出会いと離別を経た1年の後に、少年は、認識を更新する。冒頭において、自身が示した、模糊とした疑問をめぐる認識を。


生まれ落ちた瞬間から衣食足りてあることの、自身が幸福であることを知ることの、にもかかわらず、否、そのゆえに、世界が限りなく狭いことを自覚することの、「大きな問題」に対する解は、ユーゴスラヴィアというキメラ国家とその死であり、凄惨な内戦であり、彼の地に生き、彼の地に建設されるはずであった祖国に、自己のアイデンティティを規定する、彼の地から来た、同年代の少女である。


私は、旧ユーゴスラヴィアとは、時代背景を含めて、作家が主題を知的に問うために用意したクリティカルな舞台装置と考えていた。というのは、この話、舞台意匠の設定次第によっては、この御時世、とても生臭くなるためである。それは、旧ユーゴは、延々たる内戦も含めて、現在の日本人には遠かろう、物理的にも感情的にも問題意識においても、と。読了後、著者の発言に目を通して、少なくとも作家にとっては、そうではなかったことを知った。


少年は、世界の広きと、にもかかわらず、自らの世界が変わらず限りなく狭いことを、結末において、改めて、認識する。それは、現代を生きる衣食足りた幸福な人間の、社会的な認識の前提であり、出発点だろう。結末において、主人公が立つ場所は、出発点である。誰しもが、その出発点には否応なく立つものと、私は考えていた、が、そうではなかったらしきことに、作家が「ポスト・セカイ系」と呼ばれていることを読了後耳に入れ、気が付いた。私は、作家の他なる著作を、未だ手に取っていない。


出発点、とは。たとえば、異国の少女マーヤが再三に亘り表明するのは、祖国愛を介した理念的な愛国心である。結局瓦解するが、形成期の多民族多宗教国家には、かつ、社会主義国のエリート子弟には、よくあること。後期近代の社会に生きる主人公は、結局、最後まで、そのことを了解していない。


異国の少女の愛国心に感銘したなら、自身の愛国心を省みるのが理路であり筋道だろうと私は思うが、主人公に愛国心という概念自体が結末に至るまでなく、言うまでもなく、1991年において、そのことは主人公に限った珍しいことではない。


さよなら妖精』とは、そのことをこそ描いている作品だ。生臭くなる話が、そのようにならない社会と世界に生きる、衣食足りた幸福な人間の社会観と世界観と、それゆえの懐疑と、逡巡。要点は、彼が自らを、衣食足りた幸福な人間と、殊更に規定していること。


主題を問うための知的な舞台意匠として見事、と思っていたら、作家にとってそうではなかった。1991年において、小林よしのりになりえないことを描いたこの作品は、2004年に発表されている。『戦争論』三部作の後に。話が生臭くなることをこそ退けた作家の知性に喝采を送りたく思ったが、それは私がシニカルに過ぎたらしい。


衣食足りた幸福な現代人にとっては、話が生臭くなること自体がありえない、そのことをめぐる、自己懐疑と逡巡。本作における、この、同世代の作家にとっての主題。形成期のキメラ国家、端的に換言するなら、政情不安な貧しい国の少女マーサは、後期近代を生きる衣食足りた幸福な現代人が、自己懐疑と逡巡の果てに、出発点たる、恵まれた者の責務としての社会的な認識へと至るための、意匠であり、人身御供である。


出発点へと及ぶことなく、中途半端な自己懐疑と逡巡の挙句、彼我の徹底した相違も絶望も知らぬまま、自分を探しに紛争地へと飛んではならない、という教訓まで示されてある。冗談。作家の、というか、作品の認識は、「飛んではならない」のではなく、どうあっても「飛べない」というところにある。主題とかかわる。


作品を離れて述べるなら。誰しもが、主人公が結末において立つ出発点に、否応なく立つものと、私は考えていた。誰もが、マーサという人身御供を、各自知るから。衣食足りた幸福な現代人は、自身の通過儀礼のため、自らにとってのマーサを、各自勝手に用意して、各自勝手に犠牲者とする。主人公にとっては、偶々異国の少女マーサであった。それだけのことに過ぎない。


山田詠美の短編に、人生ってままならないもんだねえ、と口にする娘が出てくるが、人間ってままならないもんだねえ、ということも、出発点たる社会的な認識の条件だろう。そのことは、作家はよく知っているし、主人公もまた、マーサと出会う以前から、自覚することなくとも聡明ゆえに知っていた。初期条件は、既に容易されていた。


作中における主人公の友人はみな、未成年にして既にままならない人間であり、彼らはそのことを、相互的に了解している。関係性のプロトコルは洗練されている。聡明である。むろん、主人公もまた、本人は気が付くことないが、ままならない人間である。洗練された関係性のプロトコルという虚偽は決壊し、友と思っていた人に泣かれ怒鳴られて、彼はようやくそのことに気付く。


人間はままならない。彼はそのことを暗黙に知りながら、そのことの絶望をこそ、結末に至るまで知らなかった。まことに、衣食足りた幸福な人間の特権である。衣食足りた幸福な現代人の聡明は、必然的に無気力と無感動を招く。キメラ国家から、政情不安の貧困国から訪れた聡明なマーサには考えの及ばないそれを。


結末において、主人公は無気力ならざる自己を知り、そのことにこそ打ちひしがれ、その友は、無感動ならざる己をさらけ出す。衣食足りた幸福な現代人。彼らは、たったふたりの、本当の送別会において、はじめて、否、ようやく、率直に、真率になりえた。出発点。衣食足りた幸福な現代人は、感情教育に難く、荒療治も必要であるらしい。真率になることすらかくも難しいとは、幸福であることも難儀なものであると、読む人は省みて思うだろう。


しかし。二枚目意識皆無の主人公が、周囲から二枚目と見なされることによって、実際は二枚目であると示す、という一人称の小説における手法は、生きているのだな、と思った。藤原伊織の小説によく見られた。私は好きだった。また。送別会の描写が故意に長々と記されてあるのに比して、〆の愁嘆場が簡潔であったことは、意外であったし、流石と思った。説教が始まるかと期待していた。理知的な作家だ。


面白かったのは。主人公が、またその友人たちが、聡明で無気力無感動であるなら当然のこととも言えるのだが、自身が衣食足りて幸福であることを、自嘲的に規定してみせこそするが、たとえば罪悪感、のようなもの、を覚えるわけではないところ。結末に至るまで。


彼にとって、彼らにとって、自身が衣食足りて幸福であることは、その意識と自覚は、徹頭徹尾、自分自身の問題でしかない。マーサを、彼女の存在と言葉を、彼女が語るユーゴスラヴィアとその問題を、現実に勃発した紛争を、結末におけるそれを、前にしても。健康なことである。健康なことは厭なことである、ともこの場合は言わない。健全なこと、と言ってもよい。


真面目に換言する。自身が衣食足りて幸福であることが、徹頭徹尾、自分自身の問題でしかなく、その意識と自覚もまた、自分自身の為としてしか資することがないこと。それをこそ、小説全編は主題とする。長編小説一作を通して、問う甲斐ある主題であるし、小説という具体性を有したメディアにおいて、物語や登場人物への感情移入を通して、読まれるべき主題であると思う。


遅ればせながら上遠野浩平を読んだときも、また西尾維新を読んだときも、思ったことであるが、悩めるティーンの時分に読んでいたらどうだったろうかと、『さよなら妖精』についても、読後、感慨を覚えた。「人生」と言わずとも、真摯に問われている主題に、その一片の記述に台詞に、影響を受け、考え方の一部を規定されもしたろうな、と。残念な気持ちがある。やはり、こうした主題について、私は私なりに、すれっからしなのだ。


結末において、主人公が呟いた問いに、彼の側にある人は、応じる。

「それに答えられるのは、宗教家か煽動家ね」


私が在って、彼がないことに、かかる理不尽に不条理に、「理に落ちた」解を示し得るのは、宗教家か煽動家だ。聡明の及ぶところではない。ゆえに。私が在って、彼がないことに、私が衣食足りて幸福であって、彼がそうでないことに、かかる理不尽に不条理に「気をつけろ」。「注意を怠るな」。


煽動家は、常に餌を探している。勝利のために利害のために権力のために、あるいは衣食足りず幸福なきがゆえに、幸不幸の理不尽を不条理を貪る、イデオロギー使徒が、徘徊している。二十世紀において、彼らの機は時に実った。そして何人が殺されたか。彼の地においても。そして、二十一世紀におかれても。


答えを出してはならない。答えを出し解を示して回る煽動家を、警戒せよ。彼の地において彼の人が信じた、一切を糧として腹膨らませてきた、二十世紀の光を。国家と民族という、資本主義という、人類の達成を。全体性へと及ぶ世界観において、世の理不尽は不条理はバランスされる。そして、小さき人の生は飲み込まれる。是非は措く。


煽動家が解を示すことが、問いを真摯に抱き解かんとする人を、問いの模索に生きる人を、賭金とされた小さな生を、かかる問いの一部とする。ゆえに。後期近代の社会を生きる、衣食足りた幸福な者は、社会的な責務として、煽動家を、煽動の言辞を、警戒し軽蔑する。「認めたくない」「好きじゃない」と言葉足らずに言った、その人のように。先ず隗より始めよ。私が在って、彼がないことの、理不尽と不条理を、分際を知ることなく本気で問うなら。そのことに思うなら。胸が軋むなら。


未だ20歳の彼らは、そのことをわかっている。まことに聡明である。そして、その聡明は、誰も救うことがない。聡明な頭は、そのことすらも知り、胸の軋みを、聡明は解除する術がない。聡明は誰も救わないことを真に知るとき、それでもなお胸が軋むとき、聡明は、社会と接続する契機を模索する。彼らは、社会的な認識という、衣食足りた幸福な人間の出発点へと立つ。人身御供の土の上で。

他人のことでさえ何者ともわからないのに、まして自分のことなど。


それを、社会的な認識という。出発点だ。聡明は、他人の何者かを、把持せんとする。間違っている。


私は、勝手に想像の翼を羽ばたかせる。結末から15年、聡明で凡で無力な彼らの、2007年の現在を。むろん、無力に埋没しているだろう。聡明で凡な小才子は、幾らもある。無力に耐える才を涵養することが、社会的な認識の効能である。


しかし。『さよなら妖精』とは、甘くセンチメンタルなタイトルであるな、つまりは『バイバイ、エンジェル』であるか、と思ったら、作家も自サイトにて触れていた。創元推理文庫における英題は、別の意とされている。『ユリイカ』にて笠井潔と対談していた。目を通していない。


私ならタイトルは『サラエヴォより愛をこめて』にするが、と思ったところで、つくづく自らの大時代な脳味噌に呆れた。完全にジジェク以前。文化方面における最近のトピックとキーワードを知らない、冷戦脳の持ち主の、大時代な感性に基づく一方的読解であると、お断りする。