「人並みの幸福」


http://d.hatena.ne.jp/Mr_Rancelot/20071117/p1


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id:hashigotanの主張が、社会化されていない、ということと、私は考える。そして。そのことを殊更に示して、どうなるのだろうとも、この件については、思う。本人も知り抜いている。――id:Mr_Rancelotさんのことではむろんない。


「人並みの幸福」という言葉に対する指摘が散見される。ジョン・メリックに「人並みの幸福」はありえるか、そのことを本人の責として示しえるか、という問いとして問われるべき事柄では、この件はない、ということか。


私憤を公憤とする、あるいは手続としての、主張の経路は所在する。彼の人は、そのことを意に介していない。個人的な経験に準拠した主張が、社会化されることなく、ゆえに公論として問われない。


私が、ジョン・メリックについて、思うことは。彼に「人並みの幸福」がありえないことは、この社会に対して、何を意味するか。ジョン・メリックが「人並みの幸福」を望んだとして得られない社会に、所在する、根源的な問題とは何か。自己批判を含めて思う。


著名な解剖学者が言った。比喩として拝借する、と断る。標準化を志向する近代の社会は、奇形を前提において排除する。前近代における如何については措く。身体的な外傷により自身を深く損なうことを、私たちは恐れる。そのことを知っての犯罪が在る。欠損者は、標準化の列外にあるから。


前提において。「ポストモダン」な現代は「人並みの幸福」を指し示し得る社会ではない。私の実感も同様。14歳の時分から。


問題は、「人並み」という概念に在り、ジョン・メリックが、概念の所在を前提に、かかる概念から現実に遺棄されてきたことに在る。ジョン・メリックが、本人の責ならず、存在し、し続けるにもかかわらず。「人並み」という概念と、かかる概念に囚われることが、ジョン・メリック個人に対して、問われるべきか。


ジョン・メリックが、「人並み」を望み、かかる概念から遺棄された自己に拘泥し、彼の目にかかる概念に肯定されていると映った者を公に呪詛したとき。「人並み」を前提する「幸福」自体が幻想であり、社会通念に過ぎず、社会通念としての耐用年数すら既に切れている、斯様な他人の決定した通念を内面化し、準拠した偏見半ばする主張を公に示すべきではない、と説くべきか。理屈は正しい、が、社会においてかかる通念から遺棄されてきたジョン・メリックに対して先ず示すなら、順序が逆だろう。「人並み」は社会的な通念であったのだから。


社会が、「人並み」という通念を前提に、ジョン・メリックを遺棄してきた事実をこそ、一義に問うべきであるし、遺棄されてきたがゆえに、かかる通念と通念に基づいた幸福に誰より固執し拘泥する者に対して、それは幻想です、貴方が夢見るものは幻想でしかありません、とだけ示すことは、少なくとも残酷なことではある。詳しくは知らないけれども、それは、所謂「非モテ」をめぐる議論の要諦ではなかったか。


むろん。人は自らが抱えるカビの生えた社会通念が幻想であったことをいずれ知り、自由で孤独な当てのない世界へと、自身の足のみにて踏み出し、歩いてゆかねばならないのだろう――いつかは。『魂のジュリエッタ』の印象深いラストシーンのように。


ジュリエッタが自由になり得たように、誰しもが自由になり得るか。生まれながらの運不運が、かかわるだろう。自由とは幸福同様に意識の問題でもあるが、心持次第、と容易く言えるものではない。それこそ。「何十年も生きてきたまともな大人が臆面もなく言えるようなことではない。」


とうにそのような時代でないにもかかわらず、「人並みの幸福」という、カビの生えた社会的な規矩に囚われ、得られぬがゆえに、斯様な通念に対して、自意識において固執し拘泥し幻想と知らず夢見るからこそ、個としての「幸福」すら得られず社会的にも遺棄されるのだ――という、挑発的な言辞を示していた旬の社会学者があった。


「人並みの幸福」という社会通念が幻想である、という個人的な実感に、知的な後ろ盾を得たかのように思い、爛れていた成人以前の私は嬉しくもあった。10年近く前のこと。そして現在。


社会が、ジョン・メリックを「人並み」の規矩に適さないと、決定していた過去が在った。ジョン・メリックがその姿を公然に晒したとき、起こる反応は映画の通りである。人は、見たくないものを好んで見たがらない。見なければよい、と言えることではまったくない。


むろん19世紀ならざる現在において、人は顔には出さない。「生まれついた理不尽に怒り、生まれついた特権に妬む、世界への呪詛」は、そのあまりに直接的な表出は、多く本人のいびつな主観の問題とされ、錯誤と見なされる。


――社会が、ジョン・メリックを、すなわち、自身を身体的な外傷により深く損なった者を、「人並み」の規矩に適さない列外と、公然において見なしていたのは、それほど過去のことではない。ハンセン病政策に対して、国が控訴を断念し責任を認め謝罪したのは、小泉政権のことである。


幸福のことはわからない。ただ、「人並みの人生」を送り得ないことの不幸は、構造的にも在る。主観の問題に過ぎず、意識の問題でしかない、とは言えない。「人並み」という概念を最初に設定し、その具体性を規定し、定量的な社会通念とせしめたのは誰か。あるいは何であるか。「そもそも」――幸福と不幸は、非対称である。


私個人は「人並み」を人生の前提としないが、「人並みの人生」を、得られぬがゆえに意識の前提とする人の不幸は、前提に立つこと自体が物理的にかなわない人の悲しみは、僭越ながら、わかる気がする。「人並み」とは、およそ社会的な概念である。


私は、性暴力の被害者に自身が刺されても仕方がないなと思う。自身の存在それ自体が、あるいは自身の言行が、構造的に誰かの真正の敵意を掻き立てることは、当然ではないか。「社会的に妥当な行為」であるなら真正の敵意にすら看過される、と考えているなら、了解し難いし、社会の構造的な不公正を認識しておられないとも思う。――だからこそ。法とその執行機関があり、法は公正でなければならない。にもかかわらず、については、今は敷衍しない。