マジョリティの側の度量(書き落としたこと)


もう触れないつもりだった。ただ。幾らか、思うところを。


以前に、紹介した言葉であるのだけれども、筒井康隆断筆事件の際に、浅田彰が言ったことがある。大意、と厳に断る。


――マジョリティの側におかれては、マイノリティの側に対する度量をこそ求めたい。マイノリティは、マイノリティの側にあるがゆえに、言行に際して攻撃的になりもする。そのことは、やむを得ないことでもある。対するに、マジョリティの側がヒステリックになる。「これは許されないことです。」。マジョリティの側にあるがゆえの、度量を求めたい。――私の補足を付すると。現実的な力関係の所在が、背景にあることを、了解していただきたく、ということ。


のりたまと煙突

のりたまと煙突


毎度のごとく手元にない。ひとりものの写真家は、自身の家族、否、一族について記した本の後書において、大意、次のようなことを記す。念の為、著者がそうであるということではない。


――友人から、結婚の知らせが、出産の知らせが、届く。他意はないことを知っている。自身の幸せを語る人は、語るに際して、それなくして苦しんでいる人の存在を、少なくとも、忘れないでほしい。子供を生みたくても生めない人はいる。そのことを知っていてほしいし、忘れずにいてほしい。


むろん。筋合はない。だから、デリカシーの問題。デリカシーの配慮のと私が言っても、おまえが言うなの極みではあるが。


『ある個人史の終焉』を記した人に、責も咎も落ち度もないことは、改めて確認しておく。私は、悪印象をまったく持たない。一読者として、閉鎖したことを悲しく思う。そのことに、id:hashigotanの責も咎も落ち度もないことも、また、改めて確認しておく。因果関係が所在することと、hashigotanの言の無茶を指摘することと、ブログの閉鎖は、別個の問題。少なくとも、別個に問われるべき事柄。


『ある個人史の終焉』を記した人のデリカシーを問うているのではない。故意性の有無の話をしている。すなわち、他意の在処について問うている。確信犯は、宜しくない。ではhashigotanのデリカシーは、という話になるのだろう。であるから。マジョリティの側におかれては、度量をこそ求めたい。希望します、という話。度量と寛容は異なる。度量を求めたく願います。


このようなことを、当初、記したくなかったのは。マジョリティ/マイノリティといった話を、私があまりしたくないこと。『ある個人史の終焉』を記した人に、責も咎も落ち度もないことが自明であること。かつ。読者として断言するが、デリカシーに配慮に欠ける人では、まったくなかったこと。「意図せざる」ことの自明であった以上、「多数派の傲慢」を、その人に対して問う意思は、私にはなかったし、妥当なこととも思えなかった。


ただ。確信犯については別。所謂「喧嘩を売る」に等しいことをしている。道理をめぐる、反論の余地なき原則論を、正論という。そして、それは前提です。原則論に準拠するなら、終了する話が幾らでもある。その先の話を、しようとしている人が、幾人もある。「擁護している側」の謂だろう。


vivisection


はてなブックマーク - セックスより完全なもの


http://b.hatena.ne.jp/entry/http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/AyanoIchijo/20071115/p1


個人の生き方の問題を公論とするなら、無理が所在するに決まっている。ゆえに。個人の生き方の問題を公論の領域に持ち出すな、道理とするな、という話へと至る。定石。そして。道理でないことは、当人はわかっている。道理と誤解する人があることは問題であるから、批判は為されて然るべき。切実な感情を覚えることは、道理ではない。


個人の生き方の問題は、一義には、個人の生き方の問題でしかない。当然のこと。ゆえに正論。配慮は道理の問題ではない。示されて然るべき人ではないと判断する人があることも、当然とは思う。ただ。「喧嘩を売っている」のだろうけれども、自身の生き方をこれ見よがしに突きつける必要もないではないか。


個人の生き方の問題を公論の領域に持ち出すことは、道理とすることは、無茶である。かかる言行に及ぶ内的背景は歪んでいるかも知れない。事実上、「君の根性は曲がっている」ということを上記記事は言っているけれども、正論のうえに説教が乗ると、最強です。意図の問題ではない。つまり。単に「喧嘩を売っている」のでなく、この件については、正論を示すことがすなわち説教として機能し得ることを、また覿面であることを、御承知でしょう、ということ。


個人の生き方の話をすることは結構、自分自身の生き方の話をすることも結構、ただ、相手の生き方に公然と介入するのはいかがなものか。hashigotanは、結婚するなとか、不妊治療するなとか、妊娠出産するなとか、SEXするなとか、中田氏するなとか、言っていない。そのことをネットに書くことと、それを公に祝福することについては言っている。むろん、論旨は無茶である。とはいえ。問題が別であることに変わりはない。


ネットに書くこと、公に祝福することの話をしているのであって、あるいは、ネットに限らず公然において「見せつける」こと、公然において是とされること自体を問うているのであって、個人の生き方の話は、また実人生の話も、見知らぬ他人のそれについては、hashigotanは、さしてしていない。区別すべきこと。であるから。個人の生き方の問題とすることはまだしも、また自身の生き方の話を、当てつけとしてであれ示すことはまだしも、hashigotanの個人の生き方を云々するべきではない。


「ある個人史の終焉」からの一連の、私の言及のリスト - finalventの日記


――「人」の問題と見なすなら、上記の事項は区別されるべきではなくなる。確かに、論旨は無茶だ。「だから」言説としては終了する話か。理屈ではそう。道理としても。でも。私はそうは思わない。個人の生き方の問題が公論の領域に及ぶことを、私は肯定したく思うし、それが、たとえば所謂非モテ論議の活発なはてなの美点でないかと思う。少なくとも。hashigotan本人がそのことを望んでいるのなら。

具体的に言えば、「hashigotanさんがPTSDで、よって、メディカルなケアを受ければいい」というのは、たぶん、hashigotanさんの言説を読んでいるのではなく、そうした類型に対する人への態度、距離感のようなものを表明しているのだろう。hashigtotanさんがどういう人生決定をするかは本人と直接的な関係者の問題で、私には関係ない。


全面的に同意します。なお。現在は御無沙汰であるけれども。「メディカルなケア」10年選手の私が一言記すと、先生は人に拠るし相性がある。私は、数人目にして信頼できる担当医と出会い、以来御世話にもなっている。薬中のときは迷惑をかけた。私は幸運であったらしい、と、医師やクリニックを換え続ける人の話を聞いて思う。先方にとっては仕事であったろうが、先生は、私の人生の恩人ベストスリーに入る。


「「hashigotanさんがPTSDで、よって、メディカルなケアを受ければいい」というのは、たぶん、hashigotanさんの言説を読んでいるのではなく、そうした類型に対する人への態度、距離感のようなものを表明しているのだろう。」――つまり。「そうした人のそうした言説」への応対、という話になっているのだろうな、と私は思う。確かに、繰り返すが論旨は無茶である。けれども。


はてなブックマーク - ekken?


http://d.hatena.ne.jp/hrkt0115311/20071115/1195138783

id:hashigotan さんだから特別扱いするのか? あらゆる具合悪い人の独自の論理も許容し共存するのか?


「擁護する人たち」に該当するであろうから答えますが、ケースバイケースでしょう、当然。ケースバイケースの判断は個々人の裁量に付される。私は、原則論を確認することは当然として、原則論を確認して終了、とする立場を、それこそ原則的に採らない。原則論を確認して終了するなら、論旨が無茶な独自の論理を省みる要など全面的にない。ゆえに。最終的に「個人の生き方の問題」として問われてしまうのだろう――この件が。


原則論を確認して前提を示すことは当然。でも。そのうえで、「その先」の話をするべきと、しなければならないと、思ったなら、私はするし、これまでもしてきた。スタンスの問題。この件について同様に思った人が、他にもあったのだろう、「人たち」ということは。


hashigotanさんだから特別扱いするのか、ということについては、まず前提を確認するけれども、hashigotanはキチガイではありません。ゆえに、話が、言葉が、通じる、と判断しています。判断する人はあります。hrkt0115311さんがそうであるように、id:ekkenさんがそうであるように。少なくとも、彼の人の一連のブコメを確認する限り、私もまた、そのように判断します。


この場合のキチガイとは、広義のメンヘラの話ではありません、よね。私は、いちおう自分の知ることなので、拘るのだけれども、PTSDイコール電波では全然ありません。加えるなら、hashigotanが電波なことを書いているとも全然思わない。件の、goo運営に差し止められた記事についても。


私は。その手の話を、友人から直接幾度も聞きます。たとえば。ごくごく微量に。


絶縁状態の自分の母親と同年代の女性が駄目で、街で目にするだけでネガティブな感情に襲われる。老婦人がすべからく駄目。姿を見ただけで。些か寂れた場所に暮らす人ですが、むろん、街を歩くだけで大儀です。彼女は、友人の家に招かれた際、出迎えた友人の母親をいきなり顔面ぶんなぐって、警察沙汰にこそならなかったものの修羅場の末、友人宅を出入り禁止となりました。初対面で、顔を見た瞬間に、反射的に、だそうです。不特定者に対する「殺したい」話は、しじゅう、直接聞きます。付き合いも長いので、言うべきことは面と向かって言いますが。念の為に記しておくと、統合失調症ではありません。メンヘラに深入りすることは危険、と公言する人に、私があまり論駁しない理由のひとつです。


応対する余地のまったくない独自の言葉や論理は存在する。hashigotanの言行を、そのように見なす人もあるだろう、私は見なさない、ということ。論旨に無茶はあろうが、理路において無理であろうが、脈絡は了解し得る、常に、ということ。論旨の無茶については指摘されて然るべきであるし、これまでも指摘されてきた、そして今後は、いっそう指摘され続けるだろう。原則論を確認して終了、とする立場を、私自身は採らない。


――書き残しておきたく思ったこと。