大学生のススメ
404 Blog Not Found:プライドの高さ=井戸の高さ
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1.
――学歴、か。
私は高卒。事実上は高校中退。学力的には以下略。なので。知的にも、経験的にも、基本的な前提をふまえておらず、また、わかってなかったりする。高校レベルの○○、という慣用句がはてなの一部界隈に所在するが、私にはない概念。
嘘でないが美しく述べるなら。自分なりの欲求や修養や必要や自己陶冶や、あるいは行きがかりから、教室で居眠りする代わりに、遊びと見聞はし、濫読もしてきた。経験は、種類を問うことないなら否が応でも経るものである。ムショ帰りの人間は、その年月について、人生に無駄な経験はないと、個人的に総括し得るのか、と考えたことはある。因果の結果であることに自ら納得し得たなら。
国内ではあったが、昔はよく旅に出た。氏は尊敬しているが、安藤忠雄メソッドというものが世の言い分にはキレイゴトとして存在する。ただ。知的にも経験的にも、ひいては人格的にも、自己の成分が偏向し偏頗であることは、解析に掛けずとも自明のことではある。バランスの取れた教養人や大人など、現在にはありえぬかも知れない、とはいえ。そのことを、今になって多少なり気に病むところが、偏頗な無教養の結果であり因果であるのだろう。前提としての基本的なことが、わかっていないし、いなかった。
クリリンではないのだけれども、グサリと来る言葉がtwitterに在った。
finalvent on Twitter: "高学歴云々より、「この人、きちんとした勉強してないな、頭いいのに」と思うことが最近多い。"
高学歴云々より、「この人、きちんとした勉強してないな、頭いいのに」と思うことが最近多い。
むろん、私が頭いいかは知らない。私が頭いいとは私はまったく思わない。というか、自分で問うこと自体が阿呆。ただ。「きちんとした勉強してないな」と、私は自分についてつくづく思う。アカデミックな訓練に欠けるどころか、体系的な知と理念と価値観の習得がない。はてなにおいて時事的な話題にも言及してブログを書いていると、痛感することはある。
自分としては、了解し得る、ただ、記述において人に伝える適切な言葉と概念が容易に出てこない。整頓された体系的な引き出しが存在しない。公的言語における価値的なコミュニケートのプロトコルも。ゆえに了解も間違っている、ということは当然ある。
他人に伝えんとして言葉を組み立てることを通じて、考えもまた組み立てられ、自己にとって明確に可視化されていく、という意において、ブログを続けることは、卒業論文すら書いたことのない私自身にとって実際的な効能あることでは、ある
劣等感という年齢でもない。適した年齢の頃には、実人生がそれどころではなかった。誰でもそうであろうが、ブログに、自分の組み立てた考えらしきものを記してみて、反応あるなら嬉しかったりもすることと、私的な日常と人生とはまるでかかわりない。大卒であったとして、私は同じ人生へと至っただろう。それは、ヤドカリの甲羅ではないが、好んでやっているということ。
現在、人生が違う人に対しては、多くリアルにおいては割り切ってしまうし、個としての価値的なコミュニケートの機会は少ない――私だけのことだろうか。割り切らないところが、ネットの面白さであり、喧々諤々のはてなの面白さと私は思う。
2.
基本事項なく偏ったまま肝要なことを欠落させて歳を重ねてきた自分に気が付き、愕然ともする。たぶん、気が付いたことに愕然としている。多少なりは知的で品あると思っていた己が、粗野で下劣なチンピラ同然のメンタリティをいまなお持ち合わせていることに。
字の読めるチンピラが刑務所で何冊本を読もうと文学やアートにはまろうと、看守に「先生」の敬称を付する類の礼儀正しい口の利き方を覚えようと、それはムショでやることがないゆえのこと、あるいはムショを過ごしやすくするためのこと、出所すればチンピラでしかないことに変わりはない。
そして、チンピラには未来がない。それは社会が悪いのでも必ずしもなく、そもそも、彼ら/彼女らにそうした概念というか観念が、存在しないから。そして多く、運命は彼らの杜撰な認識に正しく報いてくれる。自分が、飲む打つ買うに生来まったく関心がなく、借金の甲斐性なく、少なくとも成人して以降は、犯罪行為に近寄らないよう強固に意思していることは、僥倖なのだろう。自らの臆病を知り抜き、つね確認していることも。
午後のロードショーにて放映していたので録画して観た。
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思った。私は劇中のキーファー・サザーランドにはなりえずに済んだ、が、最大限によく言って、主役のヴィンセント・ギャロでしかない、と。むろん、私は劇中の彼ほど洒落者でも繊細でも思いやり深くもない。とんがってもいない。
言及キーワードに大きく表示されていることが恥ずかしい限りであるが、倫理問題に拘泥するところが、私にはある。モラルを持ち合わせていたこと、そのことについて暗に自他を問い、計りジャッジし続けてきたことが、私を劇中のキーファーとすることなく、またギャロの運命へと導かなかった最大のファクターだろう。つるむ奴は選べ、そもそもつるむことをするな、という話。幸いにもモラリスティックな人たちであった、両親には感謝したい。梶原一騎の主題が、実は私はよくわかる。
基本事項なく偏ったまま肝要なことを欠落させて歳を経ると、結果、どのようなことになるか?他人とまともな話ができなくなる。プロトコルなきゆえに、心持を前提した価値的なコミュニケートの基礎を理解しない。
メンタリティにおいて感情面において『グッドフェローズ』の連中と変わらないのだ、結局。あれでは普通の人間と普通の会話はできない。言葉より苛立ちと怒りのほうが早く、かつピストルが同時であるなら。あまつさえ、本人はそのことに苛立ち、傷ついてさえいたりする。「――繊細であるなら」。撃ち殺したその後で。何が失敗かと問うなら、すべてが。よって、彼/彼女の、人と世界に対する希求は、定石通りに失敗する。
ギャロ繋がりで述べると。『バッファロー'66』の彼のあのけったいな喋り方は、その反映。自分のルールでしか話せないし行為できないし、人と接することができない。心持や感情を伝えんとすることも、自分のルールに忠実にしか、できない。否、自分のルールに忠実であることによって、ようやく試みることができる。むろん、母のような女でなけりゃ、汲み取ってやることはできない。彼は母がないから母のような女があってほしい、まるで母でない女にずっと惚れていたことも含めて、自分では気が付いていないが。
ギャロがアーティストであるかはよく知らない、が、繊細なチンピラのことをよく知っているし、わかっている。繊細であろうがチンピラはチンピラ。換言するなら、社会性が端からまるでなく、拠って社会的な自我もない。そのことは、誰の責だろう?他に言葉がないので用いているが、このチンピラとはオシャレな意を全然含まない。ゴダールのベルモンドはいない。
『バッファロー'66』の彼の一連の挙動を眺めて思う、彼はバカではなかったのかも知れないが、教育と人間と世界と愛情が、足りず、欠けていたのだな、と。生れ落ちてのめぐり合わせにより。すなわち、社会的な人間として生きるためのインフラのすべてが。取り返しなど付かない。
育英会はカーネギーはフルブライトは、彼に手を差し伸べるべきだったのだろう、きっと。彼に在ったのは、両親の顔をした、社会性なき粗野で無教養な中年男と中年女でしかなかった。念の為、ギャロ本人のことではない。
3.
たぶん、教養とは、社会性と抜き難く接続している。『BLACK LAGOON』の、知られたエピソードを思い出す。ロックに在ってレヴィにないものは、教養という名の社会性。価値観の相違する他人と会話し交渉することの、感情的な事項を含む、プロトコルの一切。近代社会を背景に、ユニバーサルな共通了解として所在する、ことになっている、前提たるルールとしての。
関係を持ち得ず築き得ない、人生の違う縁なき相手を撃ち殺して存在ごと関係をデリートし、ないことにしてしまうくらい容易で安易で辛抱のないことはない。
『気まぐれな狂気』において、ロッド・スタイガー演ずる組織の幹部が、ギャロらチンピラを怒鳴りつける。敬意という文明社会に必須の概念が、てめえらにはない。黒人やプエルトリコには理解できないか。
中国系のレヴィもそうであるが、チンピラには、文明社会の前提としてある敬意という概念が、ない。教養という名の社会性、ロックとレヴィにおけるその有無を決める最大のファクターが、生まれ育ちであることは言うまでもない。ゆえに、レヴィはロックの存在が、その背景が、どうしようもなく癇に障る。おそらくは、劣等感のゆえに。良い意味で、楽しく笑って読むしかない作品であるが、あの辺りの作者の視点は、面白い。類型的であるがゆえに、問題の提示が明快。
4.
私は、楽しく読んでいたけれども、『げんしけん』の前提としてある世界観やコミュニケーションが、まったくわからない。自分にとってリアリティを持ち得ない。木尾士目は『陽炎日記』以来のファンであるが、やはり描かれた世界にリアリティを見出すことはない。友人の漏らした「イタイ」との感想が、私にはわからなかった。『神戸在住』は大好きだけれども以下略。
昔、およそ同年代の大学生の友人に、大学生活とはどのようなものであるかと訊くと、勉強してためになることはない、授業はつまらない、バイトを除けば、ヒマゆえ趣味の同じ友達とだらだらしている、という答えが、「文系の男の子」の場合は判で押したように返ってきた。東京大学ではまるでなく、院を目指した人はひとりもなかったことを付しておく。
そのような生活に大卒資格の獲得以外のいかなる意味があるのかと、ネクタイ締めてハロワを介しいちおうの高卒資格を利用した就活を試みていた更正しかけの私は、阿呆なことに思っていた。
ためにならないと思える勉強を卒業のためと厭でもすることが、つまらない授業を聞き続けまた退屈をやりくりすることが、「大学生」としてのバイト生活を経ることが、ヒマゆえ趣味の同じ友達とだらだらしていることが、人生の時期において、どれほどに大切で、豊かなことであるか、後の社会人としての人生に際して、実際にも、また内的にも資することであると――気が付くのは数年は後のことである。
――遥か昔、親父に苦言されたというのに。大学出の奴には余裕がある、という言を、ひどく苦学して大学を出た男のコンプレックス交じりの言い種と見なしていた。幼かろうとグレるというのは、また斜に見ることは、バカでしかないとつくづく思う。自らを前提に他人を見るべきではない、親であろうと。
5.
気が付いたとき、自らが人として仮死であることにも、また気が付いた。おそらくは、道をはっきりと踏み外した14歳の頃からずっと。零細企業の営業マンを辞めた。それなりに凹んでいたし手持ち無沙汰でもあった。私は、他人との私的な関係の維持にまるでマメでない。忙しければ、ことに。その因果もめぐった。手持ち無沙汰であったのは、心だったのだろう。私的には遠ざかっていたパソコンを点け、ROMに復帰した。ネットの風景は様変わりしていた。
しばらくして、はてなダイアリーのアカウントを取得し、当てもなくとりとめない長文を書き始めた。ブクマのことも村のことも、他なるブロガーのidも知らなかった。それでも、自分がひとりで当てもなくとりとめなく考えていたことを、浮世と一切かかわりなく勝手に綴り自分なりにコドモの積木遊びのよに記述として組み立て可視化させることによって、洒落でなく、自分が仮死でない気が少しだけした。むろんそれは勘違いであったことを、1年は後に知る。
積木遊びゆえ、責任感もなく、目的もなく、ブログに疎く、気取りと見栄だけはあって、めんどくなって更新が絶えもした。ある日、友人に、何か面白いサイトはないかと訊いて、極東ブログ、と返事された。検索した。読み耽った。その人のはてダの存在も知った。読み耽り、読み続けた。徐々に界隈の事情を知った。1年半は前のこと。
主観的には行きがかりから、更新を再開し、ブログに復帰した。そして、色々なことがあり、正負含めた様々な邂逅があって、自身のネットにおける言行の責、というよりオトシマエを認識した結果、積木遊びは卒業し、sk-44としては仮死とも言っていられなくなり、心境とスタンスと見解の変遷あれども、現在に至る。理系文系といえば――1年前か。私のブログが偶々続いているのは、なにゆえのことだろう。所謂揉事を契機に、自身の地を示し得たがゆえか。
現実の私は、変わらず仮死である。人としても、また社会的にも。所謂ニートではないが、適切なカネの稼ぎ方と暮らしと人間関係ではない。ブラックマネーを特集したNHKスペシャルをぼんやりと見ていたところ、そちらの世界の方が、カネにきれいとかそうでないとかあるんですか、と取材者に問うていた。
夏の終わりに、ネットに心底倦んだこともあり、生活を立て直そうとも思ったが、怠惰が勝った。勤め先が零細でなかったことはなく、まともな会社であったためしもない。それでよしとするのが私だ。近代的な経済の観念が、あまりない。
6.
多弁な人間なのだが、最近そうでもなくなった。以前からわかっていたことであるが、遂に耐えられなくなったらしい。自らがオルゴールであることに。蓋を開くとメロディーを奏でる。閉じれば止む。開けば奏でる。閉じれば止む。機械じかけ。何もない。機能に意味を付与するのは、心であり志であり性根であり、ハートであろう。私は、それは。
私には、欠落とは思うが、自己を憐れむという回路がない。おまえは先の処世をどのように考えているのかと友人に真顔で問われて、『ぼくんち』のこういちくんは先のことを考えて生きているわけではないだろう、いままでも、これからも、と答えたが、本心といえまるで答えになっていないことはむろんわかる。そして、私は彼=こういちくんのように家族を欲さない。
私が私の生に意味を付与するとき、生を罰として、負債として捉える。ゆえに自ら死んではならない。借金は返し続けなければならない。――誰に。むろん生という返済の行いは天国を来世をまったく保障しない。錯誤なくして、人は生きない。
リアルの話であると断るが。私は、他人のことが、感情的にも、また心持においても、「ふり」をやめてしまえば、本当にわからないのだと、最近つくづく思い知った。それが、私にとってどうでもよくはない、稀な人であっても。
私の、数少ない直接的な血縁者がすべて死んだとき、こういちくんのようには家族を希求しない私にとって、罰は負債は、私の生の唯一の錯誤となるだろう。些細な借金を抱きしめて、当てなき返済の営為と債務の履行の中にのみ、私は生の実感を得るだろう。それを倫理と、倫理性の現れと、とんでもない勘違いを私はするのだろう。『惑星ソラリス』か、と思う。
なんのことはない、仮死の私の内部においては、私と社会は、一致している、おそろしいことに。ゆえに、個人的な債務の意識という錯誤が、社会的な責務を果たさんとする動機として資する。私に限ったことではないし、インターネットはかかる構造を増幅するのだろう。だから炎上も祭りもある。見ず知らずの虐待に蛮行に人殺しに憤激する。直接の関係なき者が「しゃしゃり出る」。
構造的には一切は正義である。アイロニーとして言っているのではまったくない。私見であるが、結局のところ、社会とは姿形においてそういうものだ。いかに近代が成熟しようとも、否、近代における社会であるがゆえに。是非は措く。
sk-44としての私がはてなの片隅に存続するのは、返済の営為と債務の履行の一環、自身の仮死を認め難いためだろう。一切が、錯誤の極めつけであることは、言うまでもない。むろん、こういちくんは、家族や遺伝子を錯誤とはまったく思っていない。彼の言行を貫くある種の倫理性のようなものは、そこに由来する。勝負は付いているのだ、最初から。個の人生にも、達人と下手があり、才の有無がある。
7.
リンク先の本題に戻る。プライドとは、構造的にも社会的な自我の反映であるからして、社会的な自我の未形成な人間には、ない。ないことを彼/彼女は知るから、自棄な言行を示す。チンピラの誕生。ロックはレヴィに問う。誇りはねえのか、と。
彼や彼女において、社会的な自我が未形成であること、その責をもし問うなら、誰に、何に対して問われるものであるか。むろん、他人を羨むことは問題の解決にはなんら繋がらない。憎むことも。
そのことがわからないからバカなのであるが、誇りなき人がバカでなくなることがあるか。頭の良し悪しとは社会的な規定であり、バカとは社会的な概念であり、社会的な自我の反映として知性は画定される。『レインマン』のレイモンドの数字に対する暗記能力は、知性とは見なされない。――山下清。
『理系の女の子の取扱説明書』、筆者氏のことはわからず、意図については忖度しないが、記事を拝読した私の一方的な印象を記すと――。理系云々の問題ではなく、教育を前提に社会的な自我を涵養され近代の価値観と感情の処理とコミュニケートのプロトコルを備えた知的な個人が、自身の身体と、身体の問題を無視する近代とその社会の欺瞞に懐疑を覚える話、と読んだ。
近代の知的なコミュニケートのプロトコルと価値の体系と感情の処理は、かく言ってよいなら、男の位相を前提に初期的に規定されている。「女は論理的にものを考えられない。もし論理的にものを考える女がいたとしたら、それはすでに女ではない。」と言ったのは三島であったか。むろん、最初に区別しているのは、近代のプロトコルを設定した側。
御本人の意識の問題は御本人で解決というか処理というか折り合い付けていただくしかないとして。思えば、いつかのワトソン発言もまた、その系にある問題でもあった。
なので。「プライド」をめぐる見解は措いて、というか全面的に同意するけれども。小飼弾さんの示す――
これこそ、まだあなたが「女」ではなく「女の子」である証拠。そして「プライド」の高い女の子が惚れるような「男」は、残念ながら「女の子」には見向きもしない。そういった男が惚れるのは、本物のプライドを持った「女」。「女」は時には「女の子」のように甘えてくるが、そんなことでは崩れない本物のプライドを持っているから、それが出来る。女の子は女の子でしかないが、女は女の子として振る舞うこともできる。
このことは、男女を入れ替えても成立するのではないか。
(中略)
まずは「大人」になることではないだろうか。男女という属性について語るのは、その後でかまわない。
見解は。「セクシストな言い回し」というならその通りだろう。前提の設定の問題。弾さんは、問題の段階をショートカットして断定する。ゆえに明快であるし痛快。ショートカットされた段階は、弾さん個人にとっては、改めて問うまでもない決済済の大前提であるのだろう。けれども。そこにこそ拘泥する人も在る。性や年齢やパーソナリティやメンタリティや、あるいは切実な問題意識に拠って。
「このことは、男女を入れ替えても成立するのではないか。」。確かに「「男」は時には「男の子」のように甘えてくるが、そんなことでは崩れない本物のプライドを持っているから、それが出来る。男の子は男の子でしかないが、男は男の子として振る舞うこともできる。」とは言える。書いてて大変にキモイことを除けば。
「大人」とは社会的な自我の謂であり、社会的な自我は前提的/初期的に男の位相に規定されてあるがゆえに、価値の系と感情の処理とコミュニケートのプロトコルにおいて、知的であるがゆえに身体を排斥する。そのことに違和を感ずる知的な、男女平等社会における社会的自我も在る、ということ。たぶんに、そのことが「理系」であることと大きく関係するのだろう。
それは、たとえば弾さんという人にとっては些細な問題であるかも知れない。他人の問題であるかも知れない。他人の人生の問題でしかないというなら、その通り。だから。他人の人生の問題に対して、大上段な正論たる一般論をもって遇しても、社会的な、あるいはブロゴスフィア的な役には立っても、他人の人生には資することがない。むろん、Webにおける他人の意見は省みても人生を省みる義理はないし、必要もない、というのは正論であるし、それを隠さないところが、たとえば弾さんのスタンスであり、魅力でもある。
8.
女の身体を有する知的な近代個人の意識とは、どのようなものだろう、私は時々、そのようなくだらないことを考える。男の私が身体的に枯枝であり、そのことに違和がないからであるが。親しかろうと、流石に訊けるものではない。
「男女という属性」とは、事情のうえでは割り切れない。弾さんには、世界はこのように見えているのだろうな、と、弾さんのエントリの、思いきりのよい記述を引用する際、追体験するかのごとく、勝手に思う。クリアとは、そういうことなのだろう。
括弧の有無以前に、井戸がなく井の中の蛙ですらない者におかれては、プライドは形成されることなく、空の高さと青さを知ることもない、彼/彼女には、端から広大な世界に、高低が所在することすら、わかりえないのだから。記したく思ったので、述懐を含めて書いた。
井の中の蛙は、いつか井戸の外に出て空の広さを知るが、空の青さを知るのはおたまじゃくしでなくなってからでいい。
問題は、井戸の外に出ているのに、まだ尻尾を引きずっている場合と、その逆のまだ手足も生えていないのに外に放り出されるケース。実は後者の方が今ではよほど深刻に思えるのだけど、本entryでは前者に話を絞って話をする。
と弾さんが記す「後者」のケースの、知る話。「実は後者のほうがよほど深刻に思えるのだけど」ということには、全力で同意。以前も書いたことであるけれども、属性話の以前に、先ず大前提として、肝要なのは教育であり、プロトコルである。塩野七生の言う通り、と以前は付したのだったか。
――結局。「はてなはブロゴスフィアは私にとっての学校であり、アカデメイアであった」ということなのかな、きっと。ああ恥ずかしい。
大きな御世話の〆。――大学、経済的に行ける人は行っておいたほうがよいよ。厭々でも、目的も志もなくとも、やってられなくとも。未経験者は語る。
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