声を上げ続けること、声を言葉に換えること

どんなに不幸な人にも、幸福を。

どんなに悲しい人にも喜びを。

どんなに幸福な人にも悲しみを。

                                  『スペインの宇宙食


数日ネットから離れていて巡回先を確認したところ管理人氏がサヨナラ宣言のうえ過去ログ全削除していて腰が抜けたけれども改めて確認したところログ復元されていて嗚呼ヨカッタと胸なでおろして夜半帰宅後再確認したらログ削除どころかはてな退会していて椅子から転げ落ちた件。


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問われた事柄については、つい先の記事を含めて幾度も見解を記している。大筋において付け加えることはない。既に多くの指摘がなされている通り、理路としては無理筋という以外にない。で。そのようなことは承知、というか、前提。『heartbreaking』を拝読していた私にとっては。


はてなブックマーク - ある個人史の終焉 -after game over


私はブクマを論評には用いない。支持表明の意には用いてもよいかなとか考えている。不明を恥じるばかりであるが、私もまた、当該エントリによってブログと管理人氏の存在を知った。以来、楽しく読ませていただいた。今はただ、感謝を申し上げる。いつかどこかで、読者として再会できることを願う。


我ながら心無い言葉とは記して思うが、素敵なエピソードであるし、熱のこもったよい文章であったと思う。筆者氏の人生についてはわからない。嘘を書いているということではまったくない。100ブクマも得たことのない零細ブロガーではあるけれども、反響に対する筆者氏の困惑については、わかる気がする。


当然のこととして、自ら記した自らの人生と現実の自己とその人生はどうあっても相違する、その相違をもっとも感受するのは記した本人以外ない。自意識の問題でしかないとしても。


公に祝福することの当事者に対する負荷という事柄に思い至らないのは顔も知らず実人生に責任もかかわりも持ち得ない赤の他人であるからか、とは、率直に言って、思った。900ブクマ。ま、友人知人の慶事に対してもノーコメントを通す私の口実かも知れない。冠婚より葬祭のほうが好きであるし縁もあるのだから仕方ない。黒い服は死者に祈るときにだけ着るの。


私事に対して徒に価値的な言及を示して然るべきとは思わない。また示してほしいとも思っていない知人が多い。宮崎あおいが結婚した時とて、堪え難きを堪え忍び難きを忍んでいた。宇多田のときは口が滑った。今は反省している


名文かは知らぬが、また事情はわかるが、好みの問題とはいえ、他人の文章にキモイ読めない云々とだけ言ってどうするのだろうとも思う。少なくとも、文章に力を傾けている人であることははっきりとわかる。私が書けないからであろうが、美文は好きだ。付するなら、太宰治では全然ない。方向性においてもパーソナリティないしメンタリティにおいても。


狡い人とは思ったことがない。「俗物」の指す意はわからないでもない。ブロガーとしての私はそのソリューションを採らないが、率直や真摯や誠実の表出は単一でなく正解もない。私は、自身の世界観をもって他人のそれに棹差す趣味をあまり持たない。私の世界観は皮相であろうが、拠って他人のそれを皮相とは見なさない、少なくとも公には。穿ち過ぎですよ、と他人のことに対して思うことはある。私については穿ってくれて構わない。

2007年11月04日 hashigotan 苦労知らずの糞餓鬼  一行も読んでないけど周囲の反応だけ見て一言。 子供産めない女に土下座して謝れ、チンコやマンコに問題抱えて苦しんで生きてる男女に土下座して謝れ。いい気になるな、三日以内に消えろ。世も末だな


私はチンコに問題抱えて生きてる男であるけれども。苦しんでいるかは自分ではわからない。幾度も書いてきたが、私にもしそうした苦があるなら、ことは単純でもない。単純に言うなら。帳尻が合ったと私は思っている。安堵してもいる。改めて詳述しないが、換言するなら、hashigotanとは事情がまったく違う。違うので「勝手に代表を僭称するな」とも思わない。ポンと肩に手を置き「ねえ」と頷きを促されたなら「いや別に」とは言うだろうが、つまり、そもそもそういう話ではないのだ。


いずれにせよ、ではある。先日、高河ゆんの短編マンガを読んでいたら、自分のDNAを残したくないとか、男ってそういうコト言うヤツいる、何考えてんだろう、との台詞があった。今は反省している、今後言わないことにします。マンガ、続く男の台詞。気持ち悪いから、俺の子供なんてロクなもんじゃないから、変態に決まってる。女の見解。うざ、そんなら切っちゃえ。御意、という始末に私は相成った。


とはいえ。自分と人生が違う人が敵という法はなく、自分と人生が違う人の、その人がそのように思う幸をめでたく思わないわけでもない。それが文化の効能であり、言葉のそして文の力であると思うけれども。人生の世界観の違う私を感動させ素敵な心持にさせたのだから。私は、表現を、ひいてはアートを信じる者なので。


問題が、それに尽きることであるなら。付け加える見解はなかった。――遅まきながら記事を記すことにした理由。


自分の人生は自分自身が評価するよりないと、先日目を通した婦人公論にて著名な社会学者が言っていた。個々の人生が各々違うから、現在の日本においてなお冠婚葬祭とそれに準じた儀礼が要請される。結婚と出産の報にはオメデトウと言い、葬式仏教の念仏のもと黒い服を着る。心のうちは知らない。死者に祈っているかもわからない。木で鼻を括ったような原則論でしかないけれども。


私が、性的な自己について記すとき、彼の人のことを思わないか。読まないだろうが蓋然がないということでもない。あるいは、彼の人のように思い感ずる多くの人のことを思わないか。んなわけはない。問題は、ネットに書きつけることに所在する。


引かれること顰蹙されること罵られること無理解を引き受けることは、前提すること、そのうえで、他人に文句を容易には言わせない文を書くこと。心掛けとしては、それに尽きる。私が貫いているか大いに怪しい。けれども、hashigotanは、貫いているだろう。つね感服している。それでも文句を容易に言う人が在ることに、多少なり思うことはある。ブコメのこと。

幸福を手に入れた感動的な気持ちをネットで文章で爆発させる事で、お前は大勢のそれを得られない人々を無気力にさせているんだよ。


幸福を手に入れた人間と大勢のそれを得られない人々が在る。かかる認識と世界観に立ち、二元論のごとく両者を二項対立的に明示したうえ、「大勢のそれを得られない人々」の立場から、「幸福を手に入れた人間」を攻撃する。hashigotanの言行とスタンスを、そのように理解している人が在るよう。


むろん、そうであるなら批判されて然るべきであるし、誤解の余地はあると思う。けれども、私の理解においては、問題はそのようなことではなく、hashigotanは、そうした言行とスタンスを示しているのでは、およそ、ない。


個々の不幸や痛み苦しみ悲しみは個別的であって、表に出すかもまたその人次第、一切を了解した気になるな、ということはまったくの正論であるけれども、管理人氏がいわばアンサーとして記したことは妥当であるけれども、hashigotanについては、そうした話ではない。幸福を手に入れた人間と大勢のそれを得られない人々が在る、という認識と世界観に立っているのでも、ない。少なくとも、hashigotanが問題としているのは、そのようなことではない。


私の認識においては。傷つくとか痛みとか幸不幸とかいう問題では、一義にはない。傷つくとか痛みとか幸不幸の問題なら、個々人の個別性とそれを前提した相対性、かつ公私の分別の意義へと自動的に還元され縮減される。それは。私とて、コイツ挫折や断念や辛酸を知らんのだろかと思う人間とたまにリアルで出くわすが、斯様な発想と考え方こそ傲慢の極みであることを知らないわけでもない。ただ昏々と眠り得ることが最上の幸福と考える私の人生観もまた個別的であることに変わりはない。


――長めの引用を御容赦ください。

世の中の大多数は子供を産む夫婦を、統率の取れた信仰の眼差しで見ている事に愕然としたよ。

もう生きる事に疲れた。旦那が、主人が、夫が、嫁が、家内が、って言い訳めいた言葉がついた時点で私はそんな文章は読む気がしない。もう疲れた。お前らの首には首輪が嵌ってるんじゃないか。表現するなら人生の「連れ」でいいだろ。

子供を産んだ男女は現実世界でも大勢に祝福されているのだから、その幸せをわざわざネットにまで持ち込んで披露する必要はないだろ。

幸福を手に入れた感動的な気持ちをネットで文章で爆発させる事で、お前は大勢のそれを得られない人々を無気力にさせているんだよ。そしてお前の記事をブクマするような人間は、子供の弁当写真を撮って毎日ブログに載せる暇な専業主婦がほとんどだ。

子供が居ない独身者でも、子供を産む代わりに、誰かの支えになり世の中の役に立っているのです。子供を産むだけが社会貢献ではないですし、その生まれた子供が必ずしも世の中にとって良い存在として働くとは限りません。悪い存在として育つ子供を尊重すべきか、それとも子供を作らず世のために今現在、何処かで誰かの支えになっている独身者を尊重すべきか。


あるかないかも解らぬ未来の子供よりも、現在を生きる独身者のほうが遥かに今の貴方の支えになっているとは思いませんか。既婚者がいつも引き合いに出すのは「子供たちが担う未来」です。しかし独身者たちは「現在」の世の中を下支えしています。現在が崩れれば、貴方たちの子供の未来はありません。日本全国で既婚者と独身者の比率がどの程度かは解りませんが、独身者を排除して貴方たちは生きてゆけないでしょうが。

恋愛とか子供作るとかって、障害より一歩外側にある問題だと思うんですよ。

そしてあらゆる問題の外側にある恋愛や結婚などの問題は、すべての内在的な苦しみを解放できる力を持つ「唯一共通の拠りどころ」なんですよ。


さらに恋愛や結婚より外側にある問題が、子供を産む問題です。


(中略)


そして、ある年齢に達したところで、その希望には手が届かない事に気付く男女が現れてきます。彼らの見つめる方角は、同じ「外側の世界」であり、つまり恋愛や結婚、子供を作ることなのです。


たぶん。私の理解においては、本件の要は此処にある。傷つくことや痛みや幸不幸は、要点に由来する。要点とは。「外側にある問題」「外側の世界」のこと。私の一方的な理解であると断るが、此処に示されている「外側」とは何のことであるか、私は知る。私自身は、その方角を見つめることの意義どころか意味もわからないのだけれども。それは私の事情に過ぎない。


近代家族の成立と終焉の話をするつもりもない。私はフェミニストではない。が。近代家族を是と見なすのが近代社会であり現行の日本社会であるとき、遺棄された者の存在があることも、事実である。制度において遺棄されているということである。


国家主義者の私は、公的な制度において遺棄されることはまだしもやむなきとは思う。最大の問題は。公的な制度において遺棄される者が、のみならず、生き方や人生観においてなお遺棄されるということ。あまつさえ暗黙に是非のジャッジメントに付されるということ。遺棄と、是非のジャッジメントにおいて、幸不幸の概念は形成されるということ。かかる構造問題が所在するということ。それをして、日本においては、あるいは「世間様」の問題とも言う。


斯様なジャッジメントを呑むや否やは個人次第。その通り。幸があるから不幸がある。幸を不幸を相対評価として画定するか、絶対評価として画定するか。自己次第ではあるし、分岐点でもある。私自身は、後者ではある。先に引いた、自分の人生は自分自身が評価するよりない、という言は、このことを示す。他人の人生を前提した相対評価に自身の幸不幸を容易に委ねるなということ。言った人は、上野千鶴子である。


ただ。斯様なジャッジメントを呑むや否やは個人次第、と正論を示す人が、「公的な制度において遺棄される者が、のみならず、生き方や人生観においてなお遺棄されるということ。あまつさえ暗黙に是非のジャッジメントに付されるということ。遺棄と、是非のジャッジメントにおいて、幸不幸の概念は形成されるということ。」を、斯様な構造問題が前提において所在することを、了解したうえで、示しているか、かつ、かかる構造において自己の言行と人生が那辺に位置するか、認識したうえで、示しているか――気に掛かる。


上野氏のことではない。上野氏が示す正論は、上野氏のような認識を持ち合わせない人も容易く口にするのが、現在の時世である、ということ。


むろん。世間様の一方的にして僭越な是非判断と、自己の人生の選択をめぐる意識との、背離/相克は、現代の誰しもに付いて回る。『ある個人史の終焉』は、そのことをこそ記したエントリであったと、後なる筆者氏の困惑も含めて、私は認識している。


結婚の条件 (朝日文庫 お 26-3)

結婚の条件 (朝日文庫 お 26-3)


――自己批判せよとかいうことではまったくない。抑圧に加担していることを自覚せよとか宣う趣味もない。ただ。自身の拠って立つ足元を見てほしい、見ているなら示してほしい、とは、少しだけ思うときがある。


歴史的かつ社会的な構造問題が前提として所在することを捨象ないしスルーして、一切は貴方の意識次第認識次第心持次第、ものの考え方と気の持ちようだよ、と言ってのけるなら、それは、かく言ってよいなら内田樹だ。私は内田氏は嫌いでないし、一貫して何を問題としているのかも、たいへん僭越ながら、わかる。ただ、内田氏の問題系においては正しくとも、部分最適ではあっても、全体不適であるとしか、当方の見解としては言いようがなくなることが、ブログを拝読していると、ある。そして、斯様な内田氏のエントリは、多くブクマにてフルボッコに遭う。にもかかわらず。


私の認識と言葉において端的に表すなら。歴史的かつ社会的な構造問題を、個人の倫理として問うことの欺瞞、ということ。


貴方が自ら選択し獲得したほかの誰でもない貴方自身の人生は、枠組において誰かが規定し何かに用意された人生かも知れない、ということ。構造の反映を容易に内面化することは社会的な錯誤と言わざるを得ないこと。私も含めて、誰しもがそうしているように、錯誤を生きることは個々人の自由であるし、拠って個人の倫理が規定されもするが、自身の生きる錯誤を他に対して前提して然るべきとは、原理的にも言えない、ということ。


相対評価の枠組を構成する構造問題の所在を知らず、あるいは知ったうえで、個々人の価値観/世界観/人生観の個別性を前提した絶対評価の枠組に――すなわち個人の倫理に――準拠し問題の一切をそれに還元し構造を倫理問題に付託させて、斯様なジャッジメントを呑むや否やは個人次第、すなわち相対評価の枠組を選択するや否やは、世間様の前提に人生において従うや否やは、個人次第、と公に言ってのけることの、犯罪性とは言わないが罪深きを、了解してほしく思う。


構造問題の所在を忘れないでほしいしスルーしないでほしい、ということ。自身の意図せざる言葉が誰かを傷つけたということではない。構造に準拠して他人を毀損してしまうことこそが、問題。それを個人とその価値観と感情と外傷の問題と見なしてしまうならば。すなわち、倫理問題としてのみ問うなら。「多数派の傲慢」とは、そのことである。


「公的な制度において遺棄される者が、のみならず、生き方や人生観においてなお遺棄されるということ。あまつさえ暗黙に是非のジャッジメントに付されるということ。遺棄と、是非のジャッジメントにおいて、幸不幸の概念は形成されるということ。かかる構造問題が所在するということ。」――換言するなら、公的な制度が個々人の内心へと反映されるということ。ゆえに。斯様な外的な枠組や条件付は貴方個人の幸不幸とは関係ない、好きに生きたらいい、とは容易には言えない。


個々人間の幸不幸が不均衡であることにおいて内的な倫理へと及ぶ限りは、個々人間の幸不幸は個別的であるがゆえに不均衡を一概に画定し得ないと、木で鼻を括ったような原則論を示す以外にない。アポリアである。


私は。個々人間の幸不幸が不均衡であることにおいて内心へと及ぶことをこそ否とする。斯様な倫理的な問いは(映画が話題の)『自虐の詩』原作を貫く主題であり、マンガ全編の結語は、対する否を示す。作家、業田良家が、問いの果てに達した結論であったに相違ない。少なくとも。公的な制度において内心へと容易に及ぶ構造を、その負を、私は否とする。


公的な制度によって規定された社会は、制度を是とし規範とする。社会的な是とされ規範とされた制度が、個々人の価値観/世界観/人生観を、ひいては性意識を、すなわち内心を、そして私的な生活と日常を、否応なく規定し拘束し、疎外し、時には圧迫する。そのことを、暴力と感ずる感受性が在ることを、私は知っているし、本人の自意識の問題と見なすことも一概にはできない。私が外部世界の感受において鈍感であることは客観的かつ身体的な事実である。


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b:id:kurokuragawaさんが指摘する通り、中島義道が生涯を貫いて問題としていること。私は氏の読者であるが、鈍感ゆえに氏の感受性にはついていけない、が、その60年の生における延々たる苦痛のことを、思う。毅然として在る人が、私は好きだ。


NOの声が、悲鳴としてしか現れないことがある。悲鳴に言葉と概念を与えてきたのが、たとえばフェミニズムであった。個人的なことは政治的なこと、とは、そのこと。社会において規定された公的な自己と私的な自己は、むろん、相違する。そしてそれこそ、木で鼻を括ったような原則論の典型であることは、誰もが知っている。『ピアノ・レッスン』という映画を、私は思い出す。純化された構造を、よく提示していた。


hashigotanへと向けられた幾つかのブクマコメントに、流石に思うところがあった。はっきりと書くけれども、僻みとか妬みとか自殺とか、そういう問題ではないよ。一見そのように見えたとしても。頼むから、彼の人の記していることをちゃんと読んでほしい、粗雑なブコメ書きつけて去る前に読み返してほしい。hashigotanは、思うところを感情のまま書きなぐっている類の人ではない。書かれるべきことは、文中に書かれている。論旨そのものが無理筋であったとしても。


私個人は選択しないが、現行の婚姻制度を否とは思わない。そのことと問題は別として。他人の慶事には機会あれば見合う言葉を示すだろう。儀礼として。「適切に判断して」。ことに、子が生まれてくるかも知れないことなら。嫌な世の中であることは周知されている。


知ってか知らずか構造問題の所在を捨象して、あるいは明示せずに、僻みの妬みの自殺のと、幸不幸の存在を前提とした「心/気持ち/感情の問題」へと、すなわち個人の内心の問題へと一切を還元し縮減することは、すなわち、個人のパーソナリティとメンタリティに一切を帰することは、犯罪的とは言わないが、また皮相な私は酷いとも言わないが、間違っている、とは明確に言う。


hashigotanのパーソナリティやメンタリティの問題ではない。少なくとも、一切を帰してよい問題ではない。ゆえに。私は、一方の管理人氏のパーソナリティやメンタリティの問題とも思わない。少なくとも、一切を帰してよいこととは思わない。私は、少し悲しく思っている、楽しく読んでいたブログの双方がこのようなことになったことを。900ブクマを集めた記事に目を通した時点において、顛末を予想しなかったと言うなら、嘘になるとはいえ。


なので。私は。新しい追記に記された、

だから私は「子連れの男女に苦痛を与えられるすべての独身者の気持ち」の代表選手として自信を持って発言したんです。それが「代弁すべくここに存在する」の答えです。


上の言に賛意を示すし、支持する。私自身は「子連れの男女に苦痛を与えられる独身者」ではない。当事者として、声を上げることは、上げ続けることは、自己の存在を主張することは、主張し続けることは、何より肝要なこと。時に誤解に晒され、引かれ顰蹙され悪罵を投げつけられることを前提して、そのうえで、他人に文句を容易には言わせない文を書く。届かなくとも。縁なき人には縁なきままであっても。その点に限ったとしても、彼の人のブログには圧倒的な存在感と価値がある。


そして。一読者としての私にとっては。

2007年11月09日 heimin  はしごたんがバトル仕掛ける人てわりと僕の知り合い率が高いんで毎度複雑なんだけどここでhashigotanをdisってる人たちに言いたいのはなんやかんやでheartbreaking.はおもしろいブログでhashigotanは魅力的なんだよて事ですね。


上記引用をもってFA。id:heiminさん、勝手ながら、有難う。