意図にない悪意(――id:tasoiさんへ・続)


※超長文注意


――id:tasoiさんへ(社会性と共同性とか) - 地を這う難破船


id:tasoiさん。丁寧なコメント、ありがとうございます。「なんかダメだ、どんどん違う方向に行ってしまう。」とのことですが、全然そんなことはないです。「何度も連レスしてすみません。」以前も記した通り、tasoiさんのコメントは私は全面的に歓迎です。思いつきであれなんであれ、書き込んでいってください。


毎度のことではあるのですけれども、対応が遅れて、否、遅れまくって、申し訳ありません。以下、私が思ったことも含めて、御返事させていただきます。「どんどん違う方向に行ってしまう」かも知れないけれども。

これは、sk-44さんに向けたものではないです。
そう取られてもしょうがないというか、そう取られて自然な書き方になってしまってる。ごめんなさい。


了解しました。tasoiさんが、私の記した内容に不快を覚えているのではないか、とは穿ってしまっていたもので。でも。tasoiさんが突っ込んだブコメを記してくれて、私は嬉しかったし、私もまた、記事において突っ込んで記してよかったです。それと。先に明記しておきますけれども。

だから。腫れ物と思って離れていくのです。自らと先方の、両方の「リスク管理」の観点から、ね。平気で口にしますよ。重度の薬物中毒者やメンヘラとかかわると身が危ないから、とね。冷たいかも知れないが自分は賢明であるからと。それがリアリズムである、と。全然冷たくないし賢明でもないのですけれども。知りもしない人間がしたり顔で。リアルでもなんでもない。


このくだりは、tasoiさんのことを記しているのではありません。「知りもしない人間がしたり顔で」というのは、むろん、tasoiさんのことを指しているのではまったくありません。「個人的なことに起因」しての記述です。誤解を与えて当然の記述であったと思います。tasoiさんに向けたものではないです。「そう取られてもしょうがないというか、そう取られて自然な書き方になってしまってる。」のは私の方も、でした。申し訳ありません。

こういうことは全部、「あなたの主観です。従う義理などありません」で済ませていくこともできるんだよね。
でも自分はそれを、正しいけど醜いと思う。
極めて個人的な美的感覚にしか依拠してない、論理的法的に考えれば非常に脆弱な理屈だけど。それでもそう思う。


善悪、とは私自身は必ずしも言いませんが、正誤と美醜は、相違します。そして。当該の知事発言の件については、私や、あるいは他なる知事発言の批判者は、美醜ならず正誤を問題としていた。すなわち、趣味判断には拠らなかった。趣味判断にも拠るなら、私は、知事の当該発言は間違っているのみならず醜いと、思います。「きわめて個人的な美的感覚にしか依拠して」いませんけれども。ただ。私は「醜い」とは知事発言に対して記さなかった。無意味な煽りにしかならないと思ったし、「醜い」ことは周知の事項と思ってもいました。「きわめて個人的な美的感覚にしか依拠して」いなかったことを、当該発言に対する多くの反応により思い知らされましたが。

>…が、別の人であって、一致することはない、と、ひょっとして、思っているのですか。
>だとしたら、大間違いです。理論的にも現実にも。


そんなふうには思っていません。
と同時に、「夜3時まで盛り場で遊んで男の車に乗り込むのは、ダメだろ」…などのレスに一定の正しさを見いだす者に対しても、同様に、そんな風には思っていません。


むろん。私も、そんなふうには思っていません。「ダメだろ」と思うことと、実際に「ダメ出し」を、公然において口ないし文字列によって行うことは、別である、ということを前提して、のことですけれども。かつ。「ダメだろ」が、善悪あるいは正誤の判断を含まない、ということを前提するなら、です。


セカンドレイプ」という言葉と概念は、マジックワードでも抑圧の言辞でも言論弾圧の道具でもありません。事実上、そうなってしまう実態が所在し、かつそれは構造的な問題に由来する、という事情のためです。

「世間知的に考えて夜3時まで盛り場でうろついたうえに男の車に乗り込むのは愚かである」がいかに正しかろうと、それをわざわざ言うだなんて、絶対向けられる側のこと考えてない。これについては皆一致してるみたいです。


「世間知的に考えて夜3時まで盛り場でうろついたうえに男の車に乗り込むのは愚かである」ということには、私は同意しますし「正しい」と思います。「一般論」として言うなら。かかる「正しさ」を、「愚かである」ことをもって任意の個人に付託させるのでなければ。私には、所謂バリキャリの妹がいますが、カビの生えた言葉で言うなら「身持ちが堅く」、遊びはしてもそうした愚かしさは持ち合わせないようです。パパとママの愛情が足りていたのでしょう。そして。「愚かである」ことそれ自体と、善悪あるいは正誤の判断は、照合し得ませんし、させてはならないことです。照合させてしまうこと、またその帰結。それをして「スティグマ」と言うのだろうと、私は理解しております。


かつて、ナンシー関は、ガッツ石松に対する世間の目線を評して、大意、次のようなことを言いました。ガッツの参院選出馬を嘲笑する者は、バカを侮辱しているのである、と。バカであるから侮辱されてよいという法はない。法とは近代法に限りません。バカである「から」悪いということも、バカである「から」間違っているということも、ありません。「愚かである」ことそれ自体を、公然において難じてよいという話はない。言うまでもなく。「愚かである」から自由意思を人格を時に無視されてよい、という話はなく、「愚かである」ことと、近代的な個人であることは、かかわりない。私的個人的には、また現実の社会生活においては、バカは氏ね、と思ったり口にしたりすることはないでもないですけれども、私も。


あまり、幾度も蒸し返して書くようなことではないし、そうしたくもないのですけれども。tasoiさんに伝える機会なので、最初からそうしていたことですが「当事者のことは無視します」。「被害者は気の毒である」――これについては皆一致してるみたいです、「自業自得」とする人を除けば。そのことと、「世間知的に考えて夜3時まで盛り場でうろついたうえに男の車に乗り込むのは愚かである」ということを、任意の事件の被害者の行動に対して言明することが、一致し得ることか、私の「極めて個人的な美的感覚」においては、理解しかねるところです。


くどい書き方になりますが。「被害者は気の毒である」ことと、「世間知的に考えて夜3時まで盛り場でうろついたうえに男の車に乗り込むのは愚かである」ことは「別の問題」であっても。「被害者は気の毒である」ことと、「世間知的に考えて夜3時まで盛り場でうろついたうえに男の車に乗り込むのは愚かである」ということを、任意の事件の被害者の行動に対して言明することは、「別の問題」ではないのであるから。


tasoiさんは、たぶん、酷な言い方をするなら、認識違いをしておられるのではないかと思うのですけれども。「被害者は気の毒である」ということは、一義には、「感覚」や「気持ち」の問題ではありません。善悪あるいは正誤の判断の問題です。「世間知的に考えて夜3時まで盛り場でうろついたうえに男の車に乗り込むのは愚かである」ということは、善悪あるいは正誤の判断の問題ではありません。「愚かである」という一点をもって、善悪あるいは正誤の判断に干渉/介入することはできない。ことに、任意の事件に際しては。「加害者が悪いことは勿論だしレイプは許されないことであるけれども、夜3時まで盛り場で遊んで男の車に乗り込むのは、ダメだろ」という話では、そもそも、ない。


「感覚」や「気持ち」の問題ではないのです。私は男であるし、性的嗜好において変態であるし、性暴力の被害者となるより加害者となる蓋然のほうが遥かに高いので。たとえば、妹?私は人のことには鈍感なので。イーストウッド的に生きる親父は知りませんが。イーストウッド主義は遺伝した模様ですけれども。

自分がズレていると思うのは、誰かが傷ついたりすることよりも何が正しいかなど下らない(自分にはそう見える。)ことを重視すること、そのものです。


――まぜっかえしているわけでも言葉遊びをしているわけでもないのですが。「誰かが傷ついたりすること」は重視するべきことですか。誰もがその生において何かしら傷ついている以上、かつ、その軽重を量る絶対の計器は存在しない以上、「誰かが傷ついたりすること」こそ下らないかも知れない。「私にはそう見える」。月の周期の不快を理解しないと愚痴る女にオマエは不能者の不快がわかるのか、と返したことはありましたが。まことに「下らない」。「誰かが傷ついたりすること」も「個人の事情と心情」も個々の私的な「気持ち」も相対的である、と言挙げることもまた「下らない」。


ゆえに。「何が正しいか」こそ下らなくはない、とする公共的な判断が社会において要請される。たとえば。前述の不毛なやりとりについては、個人の私的な事情と心情の相対性ならず、別なる「何が正しいか」という公共的な問いが導入され、それを前提として判断に付される。痴話喧嘩に留まらず社会的な問題設定として提起するなら。私的な痴話喧嘩なら、んなこと言ってないで仲直りしたら、と言うしかなかったりする。


そして。現在の社会は「私的な痴話喧嘩」の集積のみによって出来上がっているわけではない。落語の長屋ではない以上、「まあまあ」と仲裁し、双方の言い分を聞き気持ちを斟酌し感情を緩衝したうえ折衷してくれる横丁の御隠居がいればよいというものではないし、かかる言論のみが所在すればよいというものではない。というか。「言論」とはそういうものではない。


現在の社会を前提する公共的な言論とは、必然的に「何が正しいか」という問いへと向かうものであるし、ことに現行のインターネットにおいては、それなくして言葉や問いや呼びかけそのものが成立し難くもある。是非は措きます。以前も記したことですけれども。私自身は、斯様な状況に対して忸怩たる思いが、なくもないです。ただ。


「何が正しいか」という問いとそれをめぐる呼びかけにおいて、個人の事情は、私的な「気持ち」は、そして「誰かが傷ついたりすること」は、社会に共有される契機を得る。結果、この社会において「誰かが傷ついたりすること」があるいは報われ、「傷つく人を増やしたくない、そういう気持ちが」「現れる」かも知れない。もしかしたら。

どういう意見を取るにしろ多分、傷つく人を増やしたくない、そういう気持ちが何より現れるなら、それでいい…。


以前も記したことですけれども、私には、生活保護受給者の友人が幾人もあります。彼らは、役所の仕打ちによって「傷ついたりすること」もあるようで、私は聞きます。むろん、彼らを「傷つけた」役所の担当者には言い分も事情も「気持ち」もあるでしょう。私は友人ですけれども。ゆえに、むろん彼らが嘘を言っているとは思わないけれども。彼らの「気持ち」にのみ準拠して役所の担当者ヒドイ、とネットで書く気にはなれない。「何が正しいか」という公共的な問いと対応させたうえ、現在の社会において問題が所在するならそれを記すでしょう。そのことと、彼らを私的に支援し応援することは、まったく別の問題です。


むろん。現在の社会において問題は所在する。しかし。役所の担当者がヒドイ、とか、ましてその人間性に及んで記す気には、少なくとも私はならない。「役所の担当者」に面会したこともないのだから。彼らにとってはそうであっても、私にとっては「役所の担当者がヒドイ」という問題とは、少なくともそれに尽きる問題とは、思えない。「告発」とはそういうことではない。任意の「気持ち」のみを重視することは、別なる任意の「気持ち」を軽視ないし遺棄することと時に繋がります。光市母子殺害事件弁護団に対する批判において所在した問題のことです。感情の代入とて同じこと。


あえて、このように書きますが。「何が正しいか」よりも「誰かが傷ついたりすること」を重視することこそ、私は「ズレていると思う」し、下らないとさえ思う。誰しもがその生において何かしら傷ついているのだから。また、その軽重を量る絶対の計器は存在しないがゆえに、相対性の陥穽を避け難いから。私は、自分自身とその私的な生についてネガティブなことをよく書きますが、むろん、それは私の露出狂ゆえのことです。私自身は、自己憐憫の強い人間ではまったくない。


昔、小林よしのりが、当時のオウム真理教から抗議を受けて「貴方の描いたことで信者が傷ついている」と言われた際、かく述べたそうな。――傷ついたと言われるのは我慢ならん、こっちは傷つけることを覚悟して胸がえぐられてるのがわからんのか。いや、よしりん自分で突っ込んでるけど、強弁ですよ。まして本人が言うのは。ただ。「傷つけることを覚悟して胸がえぐられてる」人間の「気持ち」というのは確かに在って、そうした「気持ち」の存在を、少なくとも前提はしてほしいと、「誰かが傷ついたりすること」を重視する人に対しては、言いたく思う、私は。件の弁護団の批判者にも。


私自身は、弁護団を批判する理路は「その言行が社会的に不正義である」ということ以外にないと思う。少なくとも。被害者遺族の「気持ち」は別個に問われるべきと思う。換言するなら。被害者遺族が「傷ついたりすること」と「弁護団の言行が社会的に不正義である」ことは、照合しないし、させてはならない。言うまでもなく。被害者遺族と被告弁護団トレードオフの関係にあるのではない。被害者遺族が「傷ついたりすること」は社会的な不正義と照合しない。すなわち。


「何が正しいか」と「誰かが傷ついたりすること」は、「問題のレベル」が違う。善悪あるいは正誤の判断と、「極めて個人的な美的感覚」すなわち趣味判断は、あるいは感情の反応は、「問題のレベル」が違う、ということです。レベルが違う問題の所在を、トレードオフの関係にあると見なすことはできない。


「誰かが傷ついたりすること」を問い言挙げるなら、同一のレベルにおいて、「傷つけることを覚悟して胸がえぐられてる」ことと、かかる「気持ち」もまた、問われ、言挙げされて然るべきです。「何が正しいか」を公然において問うこととは別個に。そして。よしりんほどに男前でも懐広い大人物でもまた厚顔無恥でもなければ、自分では言わないし、言えないものですよ。「こっちは傷つけることを覚悟して胸がえぐられてるのがわからんのか」――とは。つまり、id:terracaoさんのことですけれども。また、件の弁護団のことでもあります(今枝氏は言っていたような気もする。むろん無問題と私は思う。改めて詳述はしないけれども)。

「法律的にはどんな危険地帯をうろつこうがどんな愚かな行為をしようが責任などは無い」がいかに正しかろうと、そんな無責任な正しさが誰かを守ってくれるわけない。そんなもののために殉教する気なんか毛頭無いです。


「気持ち」の話をするなら。「そんなもののために殉教する気なんか毛頭無い」ことは誰しも同じですよ。そもそも、言葉が、とは言わずとも、ネットにおいて示された文字列が「誰かを守ってくれるわけではない」とも言えるかも知れない。そして。繰り返しますけれども。「法律的にはどんな危険地帯をうろつこうがどんな愚かな行為をしようが責任などは無い」とネットにおいて公言することに、今回、意味と理由と必然が所在しなかったか、と問うなら、私は、否、所在した、断固公言されて然るべき状況であった、と判断しています。先の記事においても記したことですが。「私に言わせりゃ「知事の当該発言は正論」こそ「ズレた理屈」です。」と記したのは、そういうことです。

あのニュースでは、妙な煽りを除けば、大きく分けて2つの反応があったと思います。
「夜中3時まで盛り場で遊んで男の車に乗り込むとかどう考えても危険だからやめろ」
「知事がそんなことを言ったら、被害者を傷つける格好の方便に使われるからわざわざ言うな」
前者は身を案じて、
後者は心を案じているんだと思う。
どっちも、顔も知らない他人を心配し案じていて、ありがたいです。
どういう意見を取るにしろ多分、傷つく人を増やしたくない、そういう気持ちが何より現れるなら、それでいい…。


「前者は身を案じて」とのことですが、誰の身を案じて、ということですか。事件は起こってしまっています。今後現れるかも知れない、否、現れるだろう、別なる未来の「被害者」の身を案じて、ということですか。というか。

どっちも、顔も知らない他人を心配し案じていて、ありがたいです。


――記していて気が付いたのですけれども。ひょっとして。

「不快感」や「ムカつき」は覚えません。もっとも、それは当該痛ニュの「一部レス」に目を通しても同様です。顔も知らない他人の身に起こったことには鈍感なのでしょう。なにしろ、自己のみならず他人の真摯な感情すら容易にメタ化し脱構築する、「痛む心」と赤い血を持ち合わせる他人が本気で「言語道断」「論外」と許し難く思うことに対してすら、それは貴方が「気持ち悪い」と思っているだけの主観の問題でしょ、「不快だ、なぜならわたしが不快だと思ったからだ」と言われてもね、と嘯く、「ある種の感性を持」ち合わせる「えげつない」はてな村の住人ですから――私は。tasoiさんがムカついた10数人のブックマーカーと同様に。


上の記述、もしかして、言葉通りの意味で受け取ってしまっていますか。それは――その。弱るな。

前者は身を案じて、
後者は心を案じているんだと思う。
どっちも、顔も知らない他人を心配し案じていて、ありがたいです。
どういう意見を取るにしろ多分、傷つく人を増やしたくない、そういう気持ちが何より現れるなら、それでいい…。


レトリックを用いても仕方がないので。率直に書きますが。「案じる」のは個人的かつ私的な関係性の問題です。公的な言論には限界が所在します。私には。現実の事件に際して、「顔も知らない他人を心配し案じていて、ありがたい」と、ネットの言論に対して判断し得るtasoiさんの感覚が、よくわからない。少なくとも、公に言挙げている時点で、当事者個人に対しては無責任なことですよ。「顔も知らない」し、事件の詳細も知らないのだから、当たり前のことではないですか。私は広島の市内事情すらよく知らない。


「一般論」しか説き得ない人間が、現実の個人の事情に対して「一般論」をしたり顔で説くこと自体、無責任で無配慮で、失礼なことです。「顔も知らない他人を心配し案じてい」ると、本気で思ってそうしているなら、とんでもないことです。少なくとも「愚かなこと」です。私が「知りもしない人間がしたり顔で。リアルでもなんでもない。」と書きつけているのは、そのことです。


当該の事件が、その後、いかなる経緯をたどっているか、報道を確認しておられますか。「顔も知らない他人を心配し案じて」、現実の事件に際して軽々にネットに論評の言葉を発する人間など、原理的には、いない。むろん、私も含めてね。

どういう意見を取るにしろ多分、傷つく人を増やしたくない、そういう気持ちが何より現れるなら、それでいい…。


――この言葉に表される、tasoiさんのスタンスや考え方を、全否定するに等しいことを、私は記していると思う。申し訳なく思う。私は、この言葉に表される、tasoiさんのスタンスや考え方をリスペクトしているし、そのことをはっきりと書けるtasoiさんを、本当に好いているのだけれども。掛け値なしに。

>「なんでわざわざ突き詰めるのか」改めて端的に記します。ことは構造問題であるからです。


違うと思います。
突き詰めない(程度に応じて臨機応変である)からこそ、機能するし、価値があると思います。
紛争中の国への渡航禁止令なども、突き詰めれば「全部の外国には行くな」のメッセージになります。
だからと言って否定はしないです。皆の安全に対して国には凄く、もの凄く責任があるから。
(今回の知事が言ってる事はおかしい、というのはもちろん当然の前提として、です)


「紛争中の国への渡航禁止令」について述べるなら。政府が外務省が禁止令を出すことと、国民が禁止令に従うことと、皆、というか「国民の安全に対して国には凄く、ものすごく責任がある」こと、すなわち(簡略して述べるなら)自国民の保護は政府の責務であることと、社会通念や世間知の存在は、それぞれ別個の問題です。私自身は、社会通念や世間知を肯定し、肝要と考える質ですが、社会通念や世間知に政府が、それも自国民の保護をめぐる事態に際しておもねることを是とはしません。国民が社会通念や世間知に従うべきとも思わないし、また、必ずしもおもねるべきとも思わない。物事には原理原則がある、ということです。


余談めきますが。今回の事件について、関連付けて批判的に記していた方がいたので、踏み込んで記すなら。所謂イラク人質事件の被害者の認識と行動が「愚かである」と見なされたとして、そのことをもって善悪あるいは正誤を、すなわち是非を判断されるべきではない。まして、公にかく示されるべきでは決してない。「被害者は気の毒である」ということについては一致し得るでしょう、「「自業自得」とする人を除けば」。


ここで持ち出すと放言になりますが。バカであるから侮辱されてよいという法はない。法とは近代法に限りません。任意の個人に対する「バカ」という言明が侮辱に該当し得る限り、ガッツ石松に対して「バカ」と公に言明することもまた、侮辱には該当し得る。「バカ」が修辞的な言辞に過ぎない、という合意が当事者間において為されてあるなら、別ですけれども。ヒップホップとその文化にも明るくない私自身は、罵倒は私的な言語と考えるので、あまり公に「バカ」とだけ本気で記すものでもない、とは思う。

突き詰めない(程度に応じて臨機応変である)からこそ、機能するし、価値があると思います。


私も、社会通念や世間知を重視し尊重する人間であるので、そのように思います。「臨機応変」は、私の好きな言葉です、別名「無原則」とも言いますが。すなわち。原理原則を、原理的な思考を、前提したうえで「臨機応変」に対応し得るなら、という条件付です。換言するなら。「突き詰める」ことと「程度に応じて臨機応変である」ことは、立派に両立します。これは、それこそフェミニズム等、所謂イデオロギー的な価値観や活動に対して誤解されがちなことですけれども。人や立場や活動にもよる、としか言えませんが、少なくとも、一概にそう言えるものでは全然ありませんよ。


理念と現実の双方が在って、任意の理念を明示する人や立場や活動が、現実を一概に捨象し、すなわち無下に切り捨て、理念に「殉教」しているとは、少なくとも現在は、到底言えることではありません。そのように考えているなら、それは思い込みに基づく偏見の類です。「そんなもののために殉教する気なんか毛頭無い」ことは、理念を明示する人や立場や活動とて同じことですよ。多くは。


そして。私には、tasoiさんこそ、原理原則を、原理的な思考を、前提することなく、一概に捨象している、すなわち無下に切り捨てている、あるいは無視している、ように窺える。私は、理念と現実の双方が在るとき、公的な言論においても多く現実に準拠するスタンスの人間ですが、原理原則を、原理的な思考を、前提することなく無視し切り捨てて、現実やそれに即した社会通念や世間知にのみ準拠して公に発言する気はまったく無い。無視するべきではないし、大事であると思いますよ、原理原則は、原理的な思考は、それらを前提することは。


原理原則を「ないもの」として「程度に応じて臨機応変である」こと「のみ」を尊重するなら。それは無原則と言わざるを得ないし、無原則な臨機応変は、多く日和見と言われます。むろん、日和見であっても構わないと私は思うし、日和見であることの機能も価値もあると思う。ただ。そうしたスタンスにおいて、自身の直接的な利害のかかわらぬことについて発言し続けることは至難の業と思うし、原理原則と現実との弁証法において、私はものを考えるし発言したくも思う。というか、そうしないことには、言葉にならないし、し得ない。tasoiさんが、前提の異なる他人に対して言葉を記すときに、苦慮しているのは、そのことではないかな、と思う。

レスするたびに、何か重要な真芯からどんどんズレていってる気がして、本当は何もレスしない方がよいような気もします。

他にもなんかいっぱい書きたいことがあるんだけど、上手くまとまんないや…。

なんかダメだ、どんどん違う方向に行ってしまう。

書けば書くほど胡散臭い成分が含まれていく気がする。
もうレスという上っ面ではないもので示さないといけないと思う。


――そのことは、苦しさも含めて、僭越ながら、私はわかるし、それこそ共感するのだけれども。ただ。

党派性に全く重きを置いてないこと、解ってもらえてて、本当にすごく嬉しいです。

そんなん信じるかって思う人も居るかもしれないけど。
なんていうか、
例えば…自分の両親について言うと。
父は(昔なんとなく聞いたおぼろげな記憶に頼る限りでは)共産党支持ですし、母は自民党支持(同上)です。
もうこれだけで十分かもしれないですが(`・ω・´;)、なんというか、もともとそういう党派性だのなんだのを重要視する感覚が解らないのです。


いえ。こちらこそ。そのことはわかります。以前も記したことで、tasoiさんも目を通してくださっているかも知れないけれども、私も政治的には左翼な両親のもとに育ったので。先の記事において記した通り、「社会で共有される言説、「公」的な場を想定した思想と、本人の人格が矛盾することは、むしろ自然で」あって、必ずしも言行不一致とは言い難いこと、「その矛盾は、一人の人間の「私」と個としての「市民」が矛盾するのと同じ」であることを、家族とのかかわりを通して一義に了解したけれども。

なんというか、もともとそういう党派性だのなんだのを重要視する感覚が解らないのです。


迎合して言うのではなく。私もわかりません。「党派性」を重要視することについては。以前、散々書いたことですけれども。それなりに言行一致しているとは思いますが。ただ。と逆接が続くのは。


はっきりと言って。以上、記してきたような、tasoiさんのスタンスでは、それは、左翼と自己規定する人とは決定的に話が合わないだろうし、言葉が通じないだろうし、先方も対応に苦慮するだろうし、批判的にも思うだろうし、相性が悪すぎる、とは思いますよ。つまり。

どうすべきか的な部分がどれだけ違っても、目的が一緒ならいいんじゃないのって思う。
たとえ自分から手段の部分が間違ってるように見えても、気持ちの部分で一緒なら、なんていうか…納得できてしまう。

ただなんていうか、言葉も概念も制度も、ただの手段、ただの道具だから
何のために使うか次第だと思う。


このように考えるtasoiさんとは。左翼と自己規定する人は、tasoiさんの言に対して、それが「本心」であることを知っても、納得し難いだろう、とは私は思う。――tasoiさん、右翼左翼というのは、「党派性だのなんだの」とか、自民党支持不支持のことでは、一義にはないのです。私の認識と言葉で述べるなら、考え方とその伝え方の問題なのです。その点において、tasoiさんは決定的に右翼ですよ。右翼の私が太鼓判を押しますが。むろん。政治的な話ではなく。価値判断的な語彙としてでもなく。端的に分類として。


――詳述すると面倒なことになりそうだな。ごくごく乱暴かつ粗雑に、tasoiさんに伝えるために、分類学として価値判断を措いて記しますが。上記引用において、tasoiさんが述べていることと、「真逆」の考え方と伝え方をするのが、理念的には「左翼」の条件です。端的に記すなら、原理原則を、原理的な思考を、ひいては論理を、それらを前提することを、捨象し無視する左翼というのは、私の理念的な理解においては、ありえない。そして。


一方的に言明するなら。これまでtasoiさんが接触し邂逅し、言葉を伝えんとしてきた、「左翼」と自己規定する人たちは皆、そうした意における歴とした左翼です。党派性の問題ではない。そのような事項を、tasoiさんはおそらくは理解も前提もしないままに、自身の拠って立つ考え方と言葉を懸命に伝えんとしてきた。私は、ずっと見ていたけれども、他人事ながら辛くもあった。


「伝え方」とは、ネットにおいては所謂エクリチュールの問題として問われます。tasoiさんの、こう言っては悪いけれども、理路整然とは遠い、かつ「気持ちの部分」を何より重視する文体は、私の理解においては、右翼のそれですよ。そして、右翼の私は、tasoiさんのそうした、tasoiさんにしか書けない文体のファンであるし、斯様なtasoiさんの「伝え方」が好きでもあるのだけれども。


再度引用させて頂きます。

どうすべきか的な部分がどれだけ違っても、目的が一緒ならいいんじゃないのって思う。
たとえ自分から手段の部分が間違ってるように見えても、気持ちの部分で一緒なら、なんていうか…納得できてしまう。

ただなんていうか、言葉も概念も制度も、ただの手段、ただの道具だから
何のために使うか次第だと思う。


tasoiさんの要諦とも言える、こうした考え方は、私は好きであるし、述べていることも、理解はするのです。「自分から手段の部分が間違ってるように見えても、気持ちの部分で一緒なら、なんていうか…納得できてしまう。」ことは、原理を措くなら、私も同様です。「言葉も概念も制度も、ただの手段、ただの道具だから 何のために使うか次第だと思う。」ということについては――。


制度設計における理念と運用実態、というものがあって。運用実態を一義に重視し、運用実態をこそ肯定し是とする理念も存在します。でも、tasoiさんはそのことを話しているわけではないから。用いたくない言葉を記しますが、tasoiさんが述べておられることは、字面の美しいきれいごとです。tasoiさんが、本当にそのように思い、考えていることは、むろん知っています。ただ――。

そんなん知らん、少なくとも凄いやつは凄いし、魅力的な人は魅力的な人、尊敬する人は尊敬する人、愛する人愛する人


かくしてヒトラーは広範な国民の支持を集めた、とか言わない。私も、当然のようにそう思うよ。tasoiさんの言う通り「どんだけ意見が違おうとも。大上段に話さない人の方が好きではあるけど。」――日頃大上段に書いている私ではあるけれども。「どんだけ意見が違おうとも。」というのはその通りで、私は以前から言っている。


で。ネットの話に限定するけれども、たぶん、私は、tasoiさんと比べて、「人」に対するストライクゾーンが広いのだろうと思う。tasoiさんが否とするだろう、ネットにおける人や発言や行為に対して、私的には許容値はけっこう高いし、趣味判断の域に対しては原則口を出さないし、ストライクゾーンが広い。――なので。私は、terracaoさんのことを、tasoiさんの言葉を拝借するなら、「魅力的な人」とも「尊敬する人」とも、思ってはいるのですよ。ここだけの話(by牧太郎)。「どんだけ意見が違おうとも」。後で改めて書きますけれども。


ただし。私的には許容値の域にあれども公的には、すなわち公共においては、そうではない、という判断をごく個人的に、すなわち俺基準に基づき下すことがあって、そのときは発言する、で、『正論とはなんぞや』という自己記事がまさにそれでした。「「不快感」や「ムカつき」は覚えません。もっとも、それは当該痛ニュの「一部レス」に目を通しても同様です。」――というのは、そういうことです。こうしたことについては、自分の感情とか感覚とか「気持ち」とか、「どうでもいい」し一義に優先するべきではない、と私自身は自分について俺基準として思っている。

ただ、自分の倫理観について、一定人数の人とは大きくズレていて混乱させてしまったかもしれないので、これは書いておきます。



『知能では秀でているけど、身体的な面ではそんなに秀でていない、という人』
が、ブログで何か議論をする人の中には多いと思うんですが、
その中で、誰かを傷つけることを避けるどころか、むしろ好んで言葉の槍をぶつけて嬉々としていじめて遊ぶ人、居ますよね。


そういう人って、もし運動が得意だったとしたら絶対、誰かを傷つける目的でボールを嬉々としてぶつけ、遊んでいるな、…と思うんです。
これも半ば確信です。間違いなくやると思う。
オーバーラップする。


上手く言えないんだけど…そういう感じです。
絶対やらないようにしようと、個人的な感覚のみが根拠だけど、強く思う。


(もしやってしまっていたら、言ってほしい。)


私の知る限り。tasoiさんは「やってしまって」いないですよ。意図の有無を条件とするなら。

『知能では秀でているけど、身体的な面ではそんなに秀でていない、という人』
が、ブログで何か議論をする人の中には多いと思うんですが、


……社会通念、というか、世間知においては、そのようなことになっていますね。実態は知りません。確かに、現在の私は、知能は知らず「身体的な面ではそんなに秀でていない」というか、負荷が祟って骸骨みたいな身体です。むろん私は、ブログやブコメにおいて攻撃的な言辞を駆使している人は全員、リアルにおいてもタフでハードでワイルドでクールでマーヴェラスな、格好の良い紳士淑女だろうと、常々思っております。文章におけるユーモアの才は無いのだからつまらない冗談はやめて、真面目に書きますと、tasoiさん、言わんとしていることはわかるのですけれども、言葉としては、けっこうとてつもないことを言っています。了解したうえでお答えしますと。いいえ、私の認識ではそうは思いません。


tasoiさん。『ネットの適応能力には秀でているけれども、異性とのかかわりが薄く、現実社会の適応能力に欠けた、低所得者層の、ニートや無職や自宅警備員の人』が、2chで何か議論めいたことをする人の中には多いと思うんですが、という、100万回繰り返された紋切型の言辞を、貴方はどのように思われますか。社会通念、というか、世間知においては、そのようなことになっているようです。「私の認識ではそうは思いません」けれども。

その中で、誰かを傷つけることを避けるどころか、むしろ好んで言葉の槍をぶつけて嬉々としていじめて遊ぶ人、居ますよね。


言わんとしていることを忖度して、真面目に答えますと。私の印象においては、居ますよ。「好んで言葉の槍をぶつけて嬉々としていじめて遊ぶ人」とは思わないけれども。tasoiさんとは、想定する名前が異なるとは思いますが。事情なり考えなりがあるのだろう、とは思いますけれども。私は、自分個人の印象と趣味判断のみ前提にして、余計なことは公に言わない主義です。「キモイ」「アレげ」に留まる言及を示しても仕方が無い。「誰かを傷つけることを避ける」気は無いけれども、揉め事は嫌いであるし。軽蔑をわざわざ言明する必要も、普通はないと思う。


断っておくと、私は、私がそのように判断した人のidや言行に言及したことはありません。自分個人の印象と趣味判断のみを根拠に、余計なことは公に言わない主義なので。その点は、tasoiさんとは違う。因循姑息、とも言いますが。そして。厳に断るなら、私は、terracaoさんの言行に対して、そのような印象を抱いたことも、そのように判断したことも無い。

そういう人って、もし運動が得意だったとしたら絶対、誰かを傷つける目的でボールを嬉々としてぶつけ、遊んでいるな、…と思うんです。
これも半ば確信です。間違いなくやると思う。
オーバーラップする。


上手く言えないんだけど…そういう感じです。
絶対やらないようにしようと、個人的な感覚のみが根拠だけど、強く思う。


(もしやってしまっていたら、言ってほしい。)


「オーバーラップする」ことについては、僭越ながら、わかる気がします。連想ですが、私は体育の授業が嫌いであったので。グレて学校自体フケたわけですが。ただ。tasoiさんが言っていることは、「そういう人」は「身体的な面ではそんなに秀でていない」けれども「知能では秀でている」がゆえに、自身のサディズムないし攻撃性/暴力性の発露として「ブログで何か議論」を利用している、という話ですらなくて、「そういう人」はそもそも「性悪」である、という話です。そして。斯様な言明は、こわいことでは、あります。


「絶対やらないようにしようと、個人的な感覚のみが根拠だけど、強く思う。」ことは、皮肉ではまったくなく、素晴らしいことと思います。心掛けることさえ、できることではない。繰り返しますけれども。私の知る限り。tasoiさんは「やってしまって」いないです。意図の有無を条件とするなら。


ただ。私自身の認識においては、現実の個々人とその言行に対して、「そういう人」の存在を借定して、彼らは「性悪」である、と断じたうえ、かかる類の言明を、公にしてしまうことは、なんというのか、こわいことです。tasoiさんに悪意がなく、tasoiさんが悪意すなわち悪しき意図を否とする人であることを承知しているからこそ、いっそう。――「性悪」を「邪悪」に置き換えた方が、より正確かも知れない、とすら思う。


名指ししなければよいということではない。tasoiさんの言明において「誰かが傷ついたりすること」はないと思います。なぜか。tasoiさんの言明に心当たりを有する人物は、tasoiさんが否とする通りに、自身の悪意を自覚し、同時に、自他双方の悪意に対して免疫を有するからです。悪意それ自体とその表出を否とするtasoiさんにおいて、現実の個々人とその言行に対する、任意の対象を借定しての斯様な言明が為されることは……――「無意識の偽善」というのは漱石が問題としたけれども。これは。


tasoiさん。批判ではなく、真面目に思うのですけれども。自身の無意識の悪意を制御せんと意識したほうがよいと思う。tasoiさんは時折、意図にないことだろうけれども、それが剥き出しに露出する。オブラートに包まれることすらなく。――他人のそれに限ることなく、悪意の表出全般を否とするあまりに。私は、tasoiさんが怒っているのだと、憤っているのだと、拳を振り上げているのだと、思っていた。そうではなかった。tasoiさんは、意図せざる、無意識の悪意の露出に対して、コントローラブルたらんと意識したほうがよいと思う。言葉と表現において、悪意が露出してしまっていることを、tasoiさんはわかっている?それは、tasoiさんが掛け値なしに心優しい人であるから、と思うけれども。………………。

例えば、はてなスターだけど…。


ネットで気になる人の1人、Scottさんの場合だと
http://d.hatena.ne.jp/ymScott/20070712/1184211462
http://d.hatena.ne.jp/ymScott/20070712/1184171741
(※まだはてなスターが今の軽くてまとまる仕様になる前の頃のエントリーです※)
「重くてヤバい、ブラクラにもなるからどうにかしてくれ!!」って、悪用を心配して改善してくれって全力で叫んだりしてた。


自分の場合は、
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/strange/20070823%23p3
「wwwww」のように使おう!だったり(ごめんね、ちょっと下心あった…、みんながこういう風にやってくれないかなって。「悪い方に使われる!!」ていうエントリー何度も見てて、せっかくの新機能なのに不憫だな、じゃあみんなが楽しい方向に使えばいいんじゃない?って思ってた)、


http://b.hatena.ne.jp/entry/http://alfalfa.livedoor.biz/archives/51112648.html
ものすごい勢いで「激しく同意!!!!!!1」なときに使ったり。



これが、terracaoさんの場合だと、
http://d.hatena.ne.jp/terracao/20071022/1193080934
…こうだもん、
やっぱ、なんていうか、
そもそもが決定的に違う気がする。合わない。
きらい。
こういうのがイヤだっていうのが、個人的な価値観の押しつけにしか過ぎず、「放っとけ、ウザイ」と言われるなら、
自分は、その押しつけで上等だし、ウザくて結構と思う。
…モヒカン的な人の間では、押しつけてくるやつなんか多分、問答無用で悪なのかな。

私も、id:ymScottさんは「気になる」し、拝読しているし、好きで、リスペクトしていますけれども、同じくらい、terracaoさんも、好きで、リスペクトしているのです。時に「どんだけ意見が違おうとも」。――照れくさいことを書きますが、私自身は、ね。


terracaoさんの当該エントリは、読んで、おぉ、と苦笑しましたが、ネガティブな意ではない。私が、論評のためにブコメを用いないからかも知れないけれども。terracaoさんが「そういう人」ならず「そういうブロガー」であることは、周知のことであって、「そういうブロガー」にネガティブな意が含まれるか否かは、個々人の判断ないし印象次第であろうし、terracaoさん自身も、パフォーマンスの方法とその選択において、斯様な事項は前提されていることでしょう。昔、tasoiさんが用いた言葉を拝借するなら「織り込み済み」ということです。「はてな村」における、ブロガーと閲覧者の双方において。そして。私自身は「そうしたブロガー」という判断に、ネガティブな意は含まない。


つまり。前述の通り「ネットの話に限定するけれども、たぶん、私は、tasoiさんと比べて、「人」に対するストライクゾーンが広いのだろうと思う。tasoiさんが否とするだろう、ネットにおける人や発言や行為に対して、私的には許容値はけっこう高いし、趣味判断の域に対しては原則口を出さないし、ストライクゾーンが広い。」――ということです、きっと。terracaoさんの行為を「許容」する主たる理由は、先の記事において仔細に記した通り。そもそも、悪印象がない。趣味判断としても、否としたことは、私はまずない。完璧に「わかってやっている」ブロガーであるし。

そもそもが決定的に違う気がする。合わない。
きらい。


単純に、呟きなのだろうと思いますけれども。「そもそもが決定的に違う気がする。合わない」――気が付かなかったのですか。露骨なディスコミュニケーションへと至る前に。「そもそもが決定的に違う」「合わない」その通りですよ。少なくとも。tasoiさんの考え方と伝え方をもって接していたら、それはterracaoさんとは「合わない」に決まっているでしょう。「そもそも」を言うなら、tasoiさんは、terracaoさんに対しては、最初から最後まで、とりつくしまのない対応しか示していない。「きらい」なのでしょう。率直、というか、正直ではありますけれども。なら無視すればよい。「ほっとけ」ばよかった。ブコメにネガティブな言及を書きつけてもあまりに詮無い。「きらい」とだけ書きつけられても、名指された側は応対に困るのです、むろん、右翼左翼にかかわらず。仮に私であっても。まして、応対の意が在ったなら。


お互い様にしてオマエモナーとしか言えないことではあるけれども、書いておくと。tasoiさんは、悪気はないのだろうけれども、基本的に、他人のスタンスに合わせようとする意思がない、自分のスタンスにのみ準拠する。かつ、そのことの意識が希薄と私は思う。ゆえに「押し付け」へと至る。「考え方」のみならず「伝え方」の次元においてまで。それは。事実上、相手の「伝え方」すなわち応対を却下しているに等しい。自身から言及し接触しておきながら、です。


私のように、そうしたtasoiさんのスタンスが好きで、尊敬もしている人は、また、相性が合う人は、一定は話もできるし、「思い」もあるいは通じ得るし、「気持ちの部分で一緒なら、なんていうか…納得できてしまう」ことも可能です。でも。そうでない人にとっては。


こういうのがイヤだっていうのが、個人的な価値観の押しつけにしか過ぎず、「放っとけ、ウザイ」と言われるなら、
自分は、その押しつけで上等だし、ウザくて結構と思う。
…モヒカン的な人の間では、押しつけてくるやつなんか多分、問答無用で悪なのかな。


上記については、コメント欄に書き込んでくださったterracaoさんの言を示します。

何度も言っていますが、私の呼びかけが伝わっていないようなので繰り返します。
あなたが信じる、あなたなりの「正しさ/適切さ」を本当に押しつけようという気があるなら、私のコメント欄に来て(あるいは貴ブログからTB経由で)説明して下さい。
今「放っとけ、ウザイ」という感情は一切ありません。なぜなら、応答が一切ないからです。あなたから何も価値観を押しつけられていないからです。ただ「不快だ」と言われただけです。私の定義では、不快の表明を「価値観の押しつけ」とは呼びませんのであしからず。


率直に申し上げて、私はterracaoさんの見解とスタンスに同意です。「こういうのがイヤだっていうのが、個人的な価値観の押しつけにしか過ぎず、「放っとけ、ウザイ」と言われるなら、自分は、その押しつけで上等だし、ウザくて結構と思う。」――私に限らず、押しつけたらいかがですか。かかる感慨を抱かざるを得ません。早々に言葉を交わすことを断念し「こういう断絶は悲しいこと。」と諦めてしまうのではなくて。少なくとも、最初に言及し接触したのはtasoiさんの側です。むろん、私は「押しつけで上等」「ウザくて結構」に全力で同意する人間ですよ。少なくとも、tasoiさんの「押しつけ」なら。


私が言うのもなんですが、また右翼とはそういうものですが、すなわち、私も含めて公の言明がモノローグ化しがちなものですが、tasoiさんは「話の通じない人」判定を下すのが、時に早すぎるとは思う。かつ、その対象を、すなわちtasoiさんにとっての「話の通じない人」を、tasoiさんは、事実上「性悪」と見なし、そのことを言明している。――あまり、褒められたこととは、言えません。tasoiさんは、いわば「一般論として」、かつ、自分自身のスタンスに対する今後の覚書たる言明として、モノローグと同様の感覚において記したのでしょうけれども、その直前に、実例としてのURLを幾つも示して、terracaoさんに言及している以上は。terracaoさんが反応して当然のことです。


付け加えますと、terracaoさんは全然「モヒカン的な人」ではありません。なので。「押しつけてくるやつなんか多分、問答無用で悪」とも考えていないことは、上記引用においても明らかであるとは思います。「本当に押しつけようという気があるなら」そうしてください、と述べています。


繰り返しになりますけれども。tasoiさんが言わんとしていることは、問題と見なしていることが何であるかは、私はわかる。私はymScottさんは好きであるしリスペクトしているし、tasoiさんが問題意識を持ち合わせてネットで活動していることも知っている。あるいは私より、よほど先鋭的かつ活発に。でも。なぜ「――にもかかわらずterracaoさんは」と同意の言とURLが付されるのか。そのうえで「そもそもが決定的に違う気がする。合わない。 きらい。」では、はっきりと言って、terracaoさんは立つ瀬、ではないな、対応する脈絡がない。


tasoiさんにそのつもりはないのだろうけれども、tasoiさんは、単に自分の覚える印象を、ソースとしてのURLを例示して述べたに過ぎないのだろうけれども。ブログのコメ欄という公開の場においてtasoiさんがやっていることは、所謂「印象操作」とほぼ同じことです、かつ、被言及者の対応する余地がない。そして。「tasoiさんにそのつもりはない」こと、それが真正であることが瞭然であることこそ、私はもっとも難儀に思うし、これまでtasoiさんに応対してきた、tasoiさんと考え方と伝え方の異なる人たちが頭を痛めてきたことでもあると思う。


更に申し上げるなら。terracaoさんのコメントの引用を続けます。

上のコメントを見たとき、正直な感想として、「陰でコソコソ愚痴っているな」と思ってしまいました(もちろん、陰口は個人の自由です)。そして、(忘れているかもしれませんが)以前にもあなたは「陰でコソコソ」と私を揶揄しましたよね、しかも私がもっとも許せないやり方で(もちろん、それも個人の自由です)。私は、みなさん(sk-44さんやTezさん、あとマルコ)とは違って、すくなくとも現時点では、あなたのことをとても「汚い」人間だと思っています。「傷つけない」と言っていながら、自分の視野の外では平気で人を傷つける人間だと思っています。そう思われているのが嫌でしたら、どうぞ反論(応答)してください。もちろん、自由ですが。


はっきりと言って、この点についても、私はterracaoさんの見解に同意せざるを得ません。少なくともterracaoさんが「現時点では、あなたのことをとても「汚い」人間だと思っています。「傷つけない」と言っていながら、自分の視野の外では平気で人を傷つける人間だと思っています。」と記し評していることの意味が、私なりによくわかる。そして、私の見解においては、そのことと、tasoiさんが悪意全般を本心から否とする、掛け値なしに心優しい人であることは、一致し両立する。何よりも、そのことが、難儀であるし、気が重いし、辛い。


少なくとも。私もまた、terracaoさんや他に対するネガティブな言及を含んだ「上のコメント」については、「正直な感想として、「陰でコソコソ愚痴っているな」と思ってしまいました(もちろん、陰口は個人の自由です)。」。terracaoさんにおもねっているのでも気を遣っているのでもありません。拝見したときから「困った」とは思ったわけです。そして。私自身の「極めて個人的な美的感覚」において、すなわち趣味判断において、美しくないと、強く言うなら、「醜い」――と、思いはしたのです。


そもそも。terracaoさんや、その他、tasoiさんが、名を挙げずとも「そういう人」と見なしていることを言明した対象の人たちが閲覧する蓋然ある以上、私は応答に困るわけです。そのことで、私は海より深く傷つきました、と冗談を言っても仕方がありませんが。


――tasoiさんは、御存知ではないかも知れませんけれども。言いたいことがあるなら本人に直接言うべき、ということを私は以前より明言しています。他人のブログのコメ欄のみで、他なるブログの管理人を揶揄したり当てこすったりするような行為は以前から嫌いなので(むろん、それも個人の自由です)。もっとも、現在は、直接言われても、ものによっては対応はしかねるのですけれどもね。私は、tasoiさんの、向こう傷を恐れず、考え方と伝え方が異なることを承知で、「本人」に直接言う果敢な姿勢が好きだった。


tasoiさんの、terracaoさんに対する応答ですけれども。

今、これだけのレスは、ただsk-44さんに伝えようと書いたものです。
書くまでは自分の中でまとまってすら居なかった。

そして、あなたが思っていること、もう、そう思われてもいいです。

レスを書いてて、途中、あなたのtwitterメッセージを見ました。
こちらを名指しで「死ね」と、連呼してるのを見ました。
他のブログも見ました。
あなたがこちらのことを(そのブログ主さまは、あくまで丁寧に対応しているのに、それでも)名を無碍に呼び捨てているのを見ました。

スターのこともあります。
自分は、心底、『もういい』と思いました。


私の感想を付するなら。「ただsk-44さんに対して伝えようと書い」てくれたことは、本当に嬉しく思います。長文を、書いた甲斐はあったかも知れない。「書くまでは自分の中でまとまってすら居なかった」ことも、わかります。「わかります」と連呼してばかりだけれども、私も。私はアカウントを持っていないのですが「あなたのtwitterメッセージ」は確認しました。「他のブログ」は、縁あった方でもあるので、コメ欄のやりとりを含めて拝見しています。仔細なコメントは差し控えますが、「こういう断絶は悲しいこと。」とは思います。決定的なすれ違い、と言わざるを得ません。そして。

以前のこそこそ揶揄?っていうのは気になります。
たぶん気付かないうちに何か失礼なことをしたんだろうね、予想が付かない…。傷つけたのなら本当にごめん。


「傷つけたのなら本当にごめん。」という言葉を、tasoiさんが、おためごかしの方便としてではなく、本心より記していることが明らかであることが、私には、他人事でありながら、なによりも、きつい。tasoiさんのこの言葉は、事実上、逆なでです。最大の問題は。本心より記された言葉であるなら、おためごかしの方便でなくなるわけではなく、本心より記された言葉こそが、おためごかしの方便でしかないということがある。そのこと、なのですけれども。善なる意図は善なる結果を招来しない、ということです。悪意は必ずしも悪へと帰結しない、ということです。この更なる超長文記事において、書き続け例示し続けてきたことです。正直や誠実といった野蛮な迷信にかぶれないこと、と記した音楽家がありました。


最後に。

>「傷つけないよう話す。」そのことが、どれほどに困難なことであるか。

個人的なことに起因します。そんな個人的なことを論拠にしたこと、ごめんなさい。
そのうち、こっそり書くかもしれません。
でも書くことそのものが自己陶酔のように思えて…、何もかも遠くなってしまってからじゃないと書けないかもしれないけれど


わかりました。了解です。こちらこそ、挑発的に、強い調子で書き過ぎました。「個人的なことに起因」していたのですね。早とちりのうえ、酷い誤解をして、かつそのことを公言してしまいました。本当に、申し訳ありません。「何もかも遠くなってしまってから」でよいから、いつか、「こっそり書」いたものを読みたく思います。現在の私にとっては、「何もかも遠」い。夢のようにも思う。胡蝶の夢かも知れない。ドラマの絶えた人生です、現在は。否、現時点では。好んでそうしたことですけれども。

書けば書くほど胡散臭い成分が含まれていく気がする。
もうレスという上っ面ではないもので示さないといけないと思う。

意地で貫く。これはもう意地。
そういうむやみなあつさが、自分の中ではまるまる残ってた。


「もうレスという上っ面ではないもので示さないといけないと思う。」全面的に、賛成します。こういうtasoiさんは、私はとても好きです。一方的な思い入れに過ぎませんが。意地で貫いてください。本当に。他の人は知りませんけれども、私は応援します。マジで。


――ニコ動のことはよくわからないのですけれども。


はてなブックマーク - ( ;^ω^)<へいわぼけ: 嫌韓厨がニコニコ動画で韓国人の女の子に罵詈雑言の限りを尽くす

2007年10月25日 tasoi  韓国人ヲタ男子:notkiさんの、歌ってみた動画のこと思い出した。彼はガチ真摯な上、ニコ掲示板で不満受け止めの議論までしてたパワフリャで素敵な奴。 /比率は※欄15の感じだけど、インパクトがキツいのが…(汗


はてなブックマーク - ぐだだだなおしらせ - ニコニコ動画 開発者ブログ(新着情報)

2007年08月08日 tasoi  先日のアレと少し関連して。運営もひろゆきも人間出来てるよね。『たとえどの国のひとであろうとも、一緒にニコニコしたいとやってきたひとは歓迎してあげてください。』 /麻生さんに“閣下”がついてるwwwww


はてなブックマーク - メッセージ

2007年08月11日 tasoi  口調一人称を変えてレスしてたけど、ひろゆき魔理沙みたいな口調になっちゃった…だめぽ(; ・`д・´)  ID:DZ+DPOH2&NEsk3jibでレスしてる。「ヲタクに国境無し」は本気だよ(`・ω・´)b  /ひろゆきキタ━━(゚∀゚)━━


上の一件、「交流掲示板」におけるtasoiさんの「口調一人称を変えて」の匿名レスを、私は当時、ブクマ経由にてID検索のうえ拝見しています。むちゃくちゃ感銘&感動しました。やむなく。流れを無視して。tasoiさんの、当該掲示板における匿名レスを、すべて抽出のうえ引用します。関心ある方は、当該の魚拓を閲覧して、掲示板の流れを、どうか、確認してください。8月のことです。tasoiさん、問題がありましたら、仰ってください。以下引用部の削除含めて対応します。


私が、tasoiさんのことを信じるに足る人と、これほどの超長文を再度綴るに足る人、「ウザい」「押しつけ」であっても、当方の、考えと言葉と「思い」と「気持ち」を、私なりの「伝え方」をもって伝えんとするに足る人、と判断し、その判断が信へと至ったのは、以下の一連のレスを拝見してからのことです。tasoiさんは、言行不一致の人では決してない。


言明した決意の通り、「もうレスという上っ面ではないもので示」してください。陰ながら、になるかも知れないけれども、応援します。意地で貫いてください、これはもう意地で。「むやみなあつさ」が――tasoiさんの中には在りますよ、まるまると。以上の私の長大な文章は、まったくもって「大きな御世話」であるかも知れないとも、私自身が思うから――。

129 名前: no name :2007/08/06(月) 19:23:59 ID:DZ+DPOH2
その動画に結構好意的なコメントしてた者の一人です。(「うp主はJOJOヲタか!」とかww)

あんまりこういう動画に、政府だとか政治だとかヤヤコシイものを持ちこんで欲しくないんだよなあ、と思った。
政治的言論と、それ以外の目的に応じて、きちんと動画ごとに住み分けて欲しいわ。
ところ構わず『嫌韓』をやってると、嫌韓厨呼ばわりされちゃうぞー。

自分だって、韓国に対して言いたいことが無いわけではないけど(反日教育の是非とか、まあお互い色々あるわな〜)、
だけどね、特に政治に何の関係も無さそうな一般人、それもニコニコを好きでいてくれてるであろう、いちユーザーにぶつけるってのは、筋が違うんじゃないかと思ってるよ。

134 名前: no name :2007/08/06(月) 19:36:09 ID:DZ+DPOH2
129の続き。

うp主も、ひどいコメントを直視してしまって少し気が立ってる部分もあるんだろうけど、歴史談議とかはここでは控えめにしてくれると嬉しいよ。
トゲのある口調も、グッとこらえて欲しい。そこはup主だけでなくコメントしてる人にも言えることね。

あとは、最後に少しだけ語る。

歌ってくれて嬉しかった。ありがとうよ。 >>1

「ニコニコに国境は無い」、「ヲタクに国境は無い」、「うp主はJOJOヲタ」、
このあたりのタグを付けてるのは、おいらですwwwwwヽ(´∀`)ノ

142 名前: no name :2007/08/06(月) 20:13:44 ID:DZ+DPOH2
134でこれで最後とか言ったけど、もう少しだけ続けてもいいかい。

>O7OaapBmさん
>/8VRVzEAさん
煽り口調を控えてほしいぜ〜。


>>72
>>>37 俺も愛してますがな!これを最後まで聴ける上に次のも聴いてくれる。
>そういう奇特な人は本当に稀です。だから今の再生数はおかしい!
>どなたか有志の方、どこに晒されたのか教えて欲しいもんだがな…(・ω・)

>そういう奇特な人は本当に稀です。

稀じゃネーヨ!!!wwwww

おいらだけかもしれないけど、おいらにとっては、政治的なことなんかよりもずっと、
ニコニコ動画を好きな外国人が、わざわざ日本語を使って、自分の国の国歌の歌詞というおまけつきで、手作りの動画をうpしてくれている』っていう事の方が、事実として重いし、感情として嬉しいよ。

あ、誤解あるかもしれないから言うけど、
「外国人だから嬉しい」っていうことでは無くて、
『ニコニコが好きで、ニコニコに善意で動画のうpやコメント参加をしてくれること、その全部が嬉しい』って事ね。

おいらはそういう考えで、台湾の人達がうpしてくれた動画の方にも「これは良い!」というコメントをしてましたw
この韓国語版のニコニコ組曲動画にも、そういうコメントをいくつもしてるし、
ラピュタ版も好き、らきすた版も好き、選挙版も好きさ!
ただそれだけなんだよな。

154 名前: no name :2007/08/06(月) 20:47:37 ID:DZ+DPOH2
おいら的に気になった表現が出たのでレスします。
何度もごめんな、ウザかったらスルーしてくれみんな><

>>145
>(韓国が)自国に愛国心を感じる限り日本を嫌うのは当然。

自国に愛国心を感じることと、特定の国を嫌うことは、別物だぜ。
「おいらが自国に向けるのと同じ愛国心を、相手も持ちあわせているんだろうな」と、そう解るからこそ、
相手の愛国心を(反日デモや国旗焼きのような“実害や悪意”にエスカレートしない限りは)互いに大事にするんじゃないのか。
それが『粋』ってもんじゃないか?

ここで政治的なレスをしている人らの言葉を、おいらは否定してるわけではないよ。
ただ別の場所でやる方がいいと言っているだけ。
『ニコニコが好きで、ニコニコに手作り動画をうpしてきてくれた一般のひとの歌動画』に向けて、
どうしても、そんな政治的かつ罵倒的なコメントをしなければならない理由ってのがあるのか?
よく考えたら、そんな理由は無いよな〜と思うぜ。

252 名前: no name :2007/08/07(火) 00:13:59 id:NEsk3jib
ひろゆきキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!

280 名前: no name :2007/08/07(火) 00:23:11 id:NEsk3jib
>>ひろゆき
>見当違いの人を批判してもしょうがないと思うです。

>主張はしたほうがいいと思うですよ。
>主張を伝えたい人にきちんと伝わるように。

。・゚・(ノД`)・゚・。 ひろゆきは ほんに出来ておる喃・・・

327 名前: no name :2007/08/07(火) 00:37:46 id:NEsk3jib
>>304
うんうん
その国歌パートの直前に、

「色んな国の国歌にしようぜ☆」

っていう、うp主のささやかな叫びが入ってるんだよね。
それのあとに、DQ・FFのメロディに乗せて韓国国歌の詞、だよ。
台湾の人達の動画では台湾verで歌ってた。これも同じだよ。

政治的意図なんか本当に無いと思う。

424 名前: no name :2007/08/07(火) 01:10:12 id:NEsk3jib
>>409
あれは、ゲームハード板の、「GK乙www」「妊娠脂肪www」っていう恒例のかけ合いと類似のものだから
比較的無害だし、みんな解っててやってるフシがあるから安心して見てられるけど、

今回のコレはちょっと違うんじゃない?と感じる。

447 名前: no name :2007/08/07(火) 01:20:51 id:NEsk3jib
>>426
エンコリとかでは、『最初から比較的友好的なスタンスのスレ』は荒れない傾向にあると思う。

歴史問題でドンパチ煽り合いをやってる奴らが、別の文化的なスレ(もちろん、ウリジナルとか絡みでは無くね)では、
結構素直に「まあこういうのもイイじゃん」「www」のようなやり取りをしてるわけよ。
だから、こいつら解っててやってるんじゃないか、とね。ゲハ板と同じようにね。

今回の動画の場合は、↑の例と違って、友好的なのが突然急ピッチで荒れたから、ちょっと質が違うなと感じたわけ。

503 名前: no name :2007/08/07(火) 01:42:58 id:NEsk3jib
>>465
リアルに涙ぐんでもうた。・゚・(ノД`)・゚・。

>見る人が少ないから、コメントでの訳文で十分だったんだけど…まさか過去コメなくなるとは…
そういえば過去コメが辿れなくなってる!コメント復活させたかったのに、ログ消えたのか(; ・`д・´)

とりあえず〜、今日はおやすみなさい。