8月6日の朝日新聞の社説について


http://www.asahi.com/paper/editorial20070806.html ⇒魚拓


痛いニュース(ノ∀`) : 【社説】 「日本はアジアを侵略し米に戦争しかけた。“原爆しょうがない発言”は罪深いが、一方的に非難できるのか」…朝日新聞 - ライブドアブログ


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痛いニュース(ノ∀`)』の抽出レスにも、指摘として見当たらなかったので。

1.


原爆投下の「正当性」を示す際に持ち出される議論というのがある。ひとつは。「あれで戦争が終わったんだ」とする、いわゆる、原爆投下は戦争の早期終結に必要であった、とする議論。先の「久間発言」も、類する。久間章生氏の当該発言において示された認識に対する、ファクトの水準における指摘については、既に示されている。むろん、久間氏の発言は、原爆投下の「正当性」を示すために、為されたものではない。


私は、原爆投下の「正当性」は、理路として所在しないと思っている。久間氏が示した認識は結果論である。「結果」としての自由で民主的な社会に私たちは暮らしているけれども、結果をもって原爆投下の「正当性」は示し得るものではない。結果に、20万人を超す死者が在る。日本国の戦後の自由と平和と繁栄をもって、死者は贖われるものではない。


政治がいまなお政であるなら、戦後の自由と平和と繁栄と、死者を、調停するべく図るべきであり、図り続けるべきだろう。便宜としての空車であれ。調停において齟齬が存してもいたから、日本国の戦後の自由と平和と繁栄の、その欺瞞が、前景化する。


むろん。政治が調停に失敗したとして、私的な個人のレベルにおいて、またその関係性において、示される営為はあり、結果、個人において締結される私的な調停は在る。そのかたちは様々である。一端を、私も以前、記したことがある。個人において締結された私的な調停を、公的に示すことの是非が、問われることがある。去年一昨年に比するなら、静かな15日になるだろう。久間氏の発言も、そうしたものであった。

2.


原爆投下の「正当性」を示す際に持ち出される、もうひとつの議論がある。

 だが、果たして日本の国民は、久間氏の発言を一方的に非難ばかりできるのだろうか。そんな自問もしてみたい。


 日本はかつてアジアの国々を侵略し、米国に無謀な戦争を仕掛けた。しかも、無数の人命を犠牲にして、負け戦をずるずると引き延ばした。その揚げ句に落とされた原爆なのだ。


朝日新聞が、その提示する言論において、ナショナルな国家概念に規定され、時に国家主義的ですらあることは、皮肉でなく言うが戦前から一貫してのことであるゆえ、対するに国家幻想とその解体を言挙げても詮ない。批判にはならない。国民国家を前提すること自体は、一義には問題ではない。が。


「アジアの国々を侵略し、米国に無謀な戦争を仕掛けた。しかも、無数の人命を犠牲にして、負け戦をずるずると引き延ばした。」大日本帝国に原爆は投下され、その「臣民」は、大日本帝国の誤った政策のゆえに、あるいはそれを支持したがゆえに、原爆の投下によって殺戮された。「民間人」が。そういう話か。


引用において示されている主語としての「日本」とは、何によって構成されているものを指しているのか。主語として、端的に「日本は」と記しているけれども。原爆の熱線と放射能によって殺された戦争指導者はいない。大日本帝国主権在民の国家ではなかった。


国民国家を前提する朝日新聞にとっては、国家の政策の責とは、すなわち国民の責なのであろう。主権在民の成立している国家であるなら、そうかも知れない。ただし。そうでない国家においては。「先制攻撃」されたことの責は、イラクの国民に等しく所在するのか。「かつてアジアの国々を侵略し、米国に無謀な戦争を仕掛けた」「その挙句に」国土に原爆を投下されたのは大日本帝国であるが、実際に原爆が落ちたのは広島と長崎である。


国民国家を前提して示される認識の、その瑕疵。国家の責と国民の責が一致する。ひいては、国家の罪と国民の罪が。国家の政策に対する国民の支持が、正統な手続を経て示される、という、主権在民の、成立しない国家に対して、詐術のごとき問いを「自問」として示すこと。


「日本は」、と示せば、大日本帝国に、ひいては戦争責任をめぐる問題に、立ち入らずに済む。朝日新聞の社説について、この種のおよそ恣意的なスキップを指摘していたらきりがないことは、周知のことでは、ある。


任意の国家が、他国の国民に対して、正当性なき非道な行為を示したとき、当該国の国民は、他国から正当性なき非道な行為を示されて致し方なし、という考え方は、少なくとも、主権在民の成立していない国家に対するものとしては、間違っている。


朝日新聞が、自問として、であれ、国家と国民をリテラルに一致させてその責を問うていることは、改めて、了解した。それをして国家幻想といい、国家主義ともいうのであるが。そのこと自体の是非は措くが、また当該の社説が以下のように言っているわけではないことは明記しておくが。大日本帝国の政策的な誤りと、他国における非道をもって、広島・長崎に対する原爆投下を相対化する議論は、端的に間違っていることを、指摘し確認しておく。


よって。

431 名前:名無しさん@八周年[] 投稿日:2007/08/06(月) 11:48:54 id:qbQ2jQYeO


でも日本はアジアに酷いことしたんだろ
一種の罰じゃないか。日本が喧嘩を仕掛けたんだから
文句は言えない


そういうことではない。

151 名前:名無しさん@八周年[] 投稿日:2007/08/06(月) 11:22:20 id:ti9vorZi0


>>95
現実に中国や韓国では原爆投下を絶賛している
それだけアジアの国々では原爆投下のおかげでアジアが開放されたという
事実が根付いているんだよ
それなのに、長崎や広島が被害者顔して原爆投下批判を表立ってやったらどうなる?
日本は全く反省していないとなる
長崎や広島の連中は全く反省が足りない
お前たちがやるべきことは、あくまでもアメリカや他の核を持とうとしている
国々に対して核兵器を放棄しろと訴えることであり
過去の原爆投下に対して非難をすることじゃない


「長崎や広島の連中は反省が足りない」というのは、完全に間違っている。「過去の原爆投下に対して非難をすること」は「アメリカや他の核を持とうとしている国々に対して核兵器を放棄しろと訴えること」と、一致する。国家概念とイデオロギーを排するなら。むろん、困難な条件である。



過去記事⇒問題の所在――久間発言 - 地を這う難破船