「選挙権を行使する」こととライフハックと小泉純一郎と


最初に。長文に辟易する方は、結部の小泉純一郎のくだりだけでも、読んでいただけると幸甚です。公知の話かも、知れないけれども。


三度の飯より開票特番の好きな私が来ました。自らも賭金支払わないことには公営博打も楽しめない。然るに、日曜の夜は睡眠不足がたたり、投票所から帰ると早々におねむしてしまったのでした。残念。


2007-07-29


はてなブックマーク - 2007-07-29


ふだん楽しく読ませていただいているkokoroshaさんのことを私は敬しているゆえ、反論や異論の提示というより。当該の記事を拝見して改めて考えたことを、機会なので記します。sk-44としての私は、参院選については全スルーしました。


「投票に行かない」ことを半ば公言している著名な「知識人」というのがいる。福田和也岡田斗司夫大塚英志。大塚氏に関しては、その「理由」についての記述ないし発言を、確認し得なかったため、詳しい事情についてはわかりかねる。福田氏と岡田氏は、ざっくばらんな体ではあるが、理由を明記している。民主主義がキライだから、「民主主義否定論者」であるから。


両氏が民主主義に対する否へと至った文脈と理路については、両氏においてむろん相違するが、ひとつの立場とは、思う。また、福田氏が、そして岡田氏が、見識なくそのようなことを言っているわけではないことも、すなわち両氏の思想的な立場の基底と接続してかかる言明が示されていることも、周知のことだろう。


吝嗇な私は、投票に行かないことを公言する人に対して、むろん、説教する気にも怒る気にもならないけれども、民主主義ないし民主制について、如何様に考えているのか、とは訊きたくなる。見識や知識や関心あって、言っていることなら構わない。ただ。kokoroshaさんのことではない、と断るけれども、そうした事柄について考えた形跡もないままに言明されたところで、そうですね、飢えた子の前で文学は可能か、と口真似で言われた気分にはなる。


投票に行かないことも文学を解さないことも、構わない、ただ、見識も知識も関心も考えもないまま、私の前で口に出すなら、当方とて言うことがないでもない。誰も、この間の選挙、投票した?などと訊ねてはいないのだから。むろん、選挙権の放棄も、文学の否定も、主張であり、見識です。ただし、具体的に展開されたそれが、主張や見識の体を成している限り、は。具体的に展開することないなら、耳に入れたとして、犯罪告白ではあるまいし、義務ではないので御自由に、で済む話。

こう言うと、きまって「せっかくの選挙権を粗末にするとは何事だ!…一票の積み重ねが日本を動かすのです!」と怒る人がいるのですが、それは問題のすり替えかと思います。そもそも、そう言う人は、自分の支持政党以外に投票されたら自分の投票分がチャラになって困るはずなのですが、「民主党に投票しよう」と言わず、「選挙に行こう」と、回りくどい言い方をする。もっと素直になればいいじゃないかという気もします。


率直に言って、その発想はなかったわ、というのが感想です。先の都知事選において、私は石原慎太郎に投票しましたが、自分以外の選挙民に浅野史郎に投票されたら「自分の投票分がチャラになって困る」などとは考えたこともなかった。むろん、仮に、事前の予測において接戦であったとしても、です。というか。自らの支持政党ないし候補者が選挙の結果、勝利することと、投票率を気に掛けることとは、まったく別の話です。民主制下における正統性、ひいては民主主義の正統性の話。


投票率が限りなく100%に近く、かつ全投票の100%近くが任意の政党を支持している、という民主主義「的」選挙も世界には散見されますが、当然、正統な民主主義的選挙の結果と認められるものではありません。「もっと素直に」なると、民主主義を寿ぐ多くの日本国民は、旧バース党の偉いさんと同様の思考回路しか持ち合わせていない、ということですか。なら、「もっと素直に」なって言明するべきです、日本国民の民度には信を置いていません、と。


民主主義/民主制下の選挙の結果において自身の支持政党ないし候補者の勝利を願うことと、民主主義/民主制とその正統性を保持することに合意し有形無形に関与することとは、異なる水準にある話、ということです。「あえて」そのように書いている、と判断していますけれども。

なぜ、「主義主張は人それぞれだけど、とにかくみんな投票に行こうぜ!」と言うのか。


修辞疑問ではなく。本気で言っていますか。私は「とにかくみんな投票に行こうぜ!」とは言わないしその甲斐性もありませんが、呼びかけるなら、その前提に「主義主張は人それぞれだけど」と付することは、当然の話です。というより、「主義主張は人それぞれ『だからこそ』」、皆が投票に行かなければならない、否、行けなければならない、のです。


昔、裕福でない者は投票に行けず、女は投票に行けませんでした。裕福でない者には裕福でない者の、女には女の、「主義主張」があり、それは、社会において、あるいは「公」において、問われ諮られねばならない「主義主張」であった。「皆が投票に行けなければならない」という原理原則は、民主制において「国民の不断の努力によって」それを保持し、制度的に改善を企図し続ける、とする「憲法」を持たない国家においては、採用されません。


そして。そのような国家において「主義主張は人それぞれ」が、控えめに言っても、公然において、全面的に許容されることは、例に少ない。私がわからないのは。「民主主義/民主制を軽視する」立場と「言論/表現の自由を重視する」立場は、世界的な実情を鑑みるなら、およそ一致し得ない、にもかかわらず、ということ。福田氏や岡田氏は、「民主主義/民主制を軽視している」のではない。

それが民意だというのであれば、自分の給料が激安になっても平気なのでしょうか。わたしは民意にかなっていようがなかろうが幸せになりたいし、自分ではない誰かの「票の積み重ね」の話には関心はありません。もっと単純な話で、主観的立場に立って「わたしが一票を投じるか投じないかによって、わたしにとっての世の中が、感知しえる程度に変化するのか?」という点に関心があります。「大事な選挙権を使わないなんて!」という気持ちよりも「大事な時間を投票に費やすなんて!」と思います。


「大事な時間をブログの長文に費やすなんて!」と私は友人知人の幾人かには思われ、かつ指摘されています。友達甲斐のない奴等です。「大事な時間をデモに費やすなんて!」とも思いませんし仮に思ったとして絶対に口には出しません。むろん「大事な選挙権を使わないなんて!」と他人に対して口に出さないことが前提です。


「民意」というのは多数決の結果のことではありません。「自分ではない誰かの「票の積み重ね」の話には関心はありません。」と公言してしまうとき、「なら、貴方ひとりの幸せや人生や生活の話には関心はありません。」という返礼の公言が可能です。ことに「民意」を騙る「勝利」した「多数派」の側から、ないし、それを騙る、主に偉いさんだったりする誰かの側から。むろん、彼らは公言なんかしません、黙って事を進めるでしょう。政権の主が、安倍晋三程度に、お人好しでも愚直でも、非情や狡猾や老獪に欠ける人物でもない場合は。


「主観的立場」はむろん肝要です、その言明も。ただし。「主観的立場」であるがゆえに、それは支持されることを前提するべきではない。「主観的立場」において、私は「自分ではない誰かの「女としてのあれやこれや」の話には関心はありません。」、と公言して支持を得られるとは思わない。正しいことを言っているとは考えないためです。


言い換えるなら、他人との対話を前提した言明ではないからです。「他人」の半分は女であるし、「自分ではない誰か」の約半分は、投票に行った人です。それを意識において切り捨て、かつ、そのことを公言し得るなら、「社会」などという価値的なインフラは、要りません。否、公言し得るために、「社会」という価値的なインフラは、要請され、不完全ながらも敷設されている。かつ、その改良/改善を企図する個々人が、在る。主体的/自発的な。

とか書くと、「選挙権を行使しなければ、世の中は一部の人の思い通りになってしまうけど、それでもいいの?」という半ギレの疑問文が飛んできそうですが、それもやはり問題のすり替えで、わたしが貴重な時間を費やして選挙権を行使しても、やっぱり世の中は一部の人の思い通りになっているのだから、それなら最初から行使しなければよいのではないか、と思うのです。少なくとも誰に投票するかについて考えた累積時間と投票時間で、1回の選挙で考えると数時間程度は費やすことになろうかと思うのですが(もし、一瞬で決めてしまうのであれば、その態度決定の方法が妥当なのか、間違って自分にとって不利な態度決定をしてしまうくらいなら、放棄する方がましなのではないか、という考え方も可能だと思います)、まだ、その時間で、仕事をするとか、本を読むとか、音楽を聴くとかした方が、自分にとっての世界は、より大きく変わるのではないかと思います。また、「参政権は絶対に行使しない」と頭から決め込むことで、政治について考える時間が必要なくなって、有意義な時間を過ごせることになります。「政治について言及するときはあくまでも芸能人の噂話と同じレベルで」と考えると、必要以上に熱くなって気まずくなることもないですし―


投票所に足を運ぶ人が、運ばない人の「わたしが貴重な時間を費やして選挙権を行使しても、やっぱり世の中は一部の人の思い通りになっているのだから、それなら最初から行使しなければよいのではないか、と思う」や「少なくとも誰に投票するかについて考えた累積時間と投票時間で、1回の選挙で考えると数時間程度は費やすことになろうかと思うのですが(中略)、まだ、その時間で、仕事をするとか、本を読むとか、音楽を聴くとかした方が、自分にとっての世界は、より大きく変わるのではないかと思います。」といった類の「指摘」ないし見解の「公言」に対して、「不快」を覚えないでもないのは、そのようなことは「前提」として承知のうえで、みな投票所に足を運んでいるためです。


「御膳立てされた段取でしかない」選挙制度において「私の一票では何も変わらない」という周知の事実を前提して、「その時間で、仕事をするとか、本を読むとか、音楽を聴くとかした方が、自分にとっての世界は、より大きく変わるのではないかと思い」ながらも、「累積時間と投票時間で」「数時間程度は費や」して、投票所まで一票を行使しに足を運んでいる。かかる主体的/自発的な選択としての行為に対して、周知の事項と認識を、あまつさえ選挙直後に、改めて説かれたところで。それも、自らが投票しないことの理由として。


わからないのは。指摘、というか言挙げされていることを、意識において前提しないままに、みな投票に行っている、と、認識されているのですか、ということ。考えるべきは、「御膳立てされた選挙制度」の「たかが一票」を、自分個人の世界を変容させるかも知れない「有意義な時間」を割いてまで、投票に行く人が、有権者の半数も在るのは、なぜか、ということです。ことに、私を含めた、特定の支持政党を持たない、大都市部の有権者においては。


「たかが一票」という認識の一致において、直接的な生活に関わる利害の(相対的には)少なき大都市住民に、投票に行く人と行かない人の分岐が現れるのは、なぜか。私も含め、「主観的立場」を措いて、考察するべき事柄です。むろん、見識も知識も関心も考えもないままに、選挙権を行使する人は在るでしょう、同様にそれを放棄する人も、そうでなく放棄する人も、在るように。


私が記しておきたいことは、選挙権の行使者が「たかが一票」と考えないわけでも「御膳立てされた制度」と考えないわけでも「貴重な生活の時間を奪われる」と考えないわけでもない、ということです。なら。かかる認識のうえ、なお投票行動を示す有権者は、よほどの政治好きで勝負事好きで祭好きであるのか。あるいは、国家にマスゴミに民主主義の空疎な正義に洗脳されているのか。呉智英がかつて示した指摘は、現在においては前提です。勝負事好きと祭好きについては、私はその通りですが、答えるなら別です。都知事選の際にも書いたことですが。


「たかが一票」すら私たちが持ち得なかった時代が、いつの頃まで続いていたか。「たかが一票」を勝ち取り、守り抜くために「不断の努力」を示してきた者たちがあった。その結果として、現在の日本は、民主主義国家として、政治体制の正統を承認され、先進国首脳会議の席に加わり、国際社会の一定の信頼を得ている。むろん、現行憲法含めて米国の関与は大きい。


かつ。いかなるコミュニティにも混じり得ない「個人主義者」として言わせていただくなら。個々の、相違し時に衝突する「主観的立場」とは、「公」を介して問われ諮られ調整されるべきであり、ための価値的なインフラとしてもまた「社会」は在り、民主主義/民主制下において「社会」は「価値的なインフラ」として機能し得る。


私自身の「主観的立場」は、不特定多数に対して問う限りは「公」を介して問うべきであって、むろん、その方法は多様であり、言論/表現の自由の行使として、ブログを更新することも、そのひとつであるけれども、同様に、選挙権の行使としての投票行動も、また然り。

ということで、今日は、部屋の掃除をして幾分スッキリしました。「自分の行動によって自分の周りの状況が変わる」という点では、投票するよりも部屋の掃除をした方が、日本は美しくなるように思います。主観的にはそうかもしれないですが、客観的にはそうでないかもしれません。しかし、そもそも個人が生きるにあたって、なぜ「客観的にどうか」ということが、こんなにも重視されるのか、承服しかねます。「個」のあり方については、今後、このブログで取り上げていこうかと思いますが、まったく共感を得られないと思うので、ほどほどにしておきますが…


私的生活に怠惰な私の部屋が壮絶なことになっているのは長らくのことですが、ゴミ屋敷にする道楽も女を招く甲斐性もないので、私事です。ところで私の部屋が悪臭を放ち虫が大量に湧き、隣人が苦情を言ったら私がDQNであった場合、かつ私が大家と結託していた場合、隣人もまたDQNでない限りは「公」を介して「問題」として解決を期するよりほかありません。


個人が幸せに生きること、ないし、幸せに生きようとすることは、必ず、他なる個人の幸せと、ないし、幸せに生きようとすることと、相違し、接触し、衝突します。物理的にも、言い換えるなら社会制度的/経済的にも、また、価値的にも。「個人」をその集合たるコミュニティと置換しても同様。


俺と、俺の愛する大事な奴らが笑っていられればいい、というのは妥当な判断と処世であるけれども、また、その笑顔のために泣く誰かと誰かの愛する奴らがいることは、世の摂理でもあるがゆえに必ずしも個人やコミュニティの責に帰し得ることではないけれども、では、かかる摂理(=構造問題)自体を放置することは良かと問うなら、秩序を維持し直接的な殺し合いを避けるためにも、否、とするよりほかない。むろん、「間接的な殺し合い」は、原理的に回避し得ず、今日も続く。


「社会」とは、少なくとも自由主義体制下の「社会」とは、かかる必至の事態に対する、制度的/経済的、ひいては価値的な、詮議と諮問と調停のインフラとして在る。「公」あるいは「客観的にどうか」ということは、また、それを介して議論と検討が示されるべき、という原則とは、個々人間の、ないし、個々人の利害/価値に準拠した集合たるコミュニティ間の、利害と価値の、詮議と諮問と調停ないし調整に際して、任意の「主観的立場」に準拠して行うことを排する、ということ。それをして、社会的公正、という。


個々人の個別の利害と価値観を尊重し、かつ、「公」「社会的公正」の枠組において、その摩擦と衝突を調整せんと期すること。私は、個々人の個別利益の相互的な主張こそ肝要と考える。かつ、個々人の相互に主張する個別利益間の摩擦と衝突を、社会的公正に諮って調整することの、ひとつの大きな手段が、民主制下の選挙制度である、と思う。


少なくとも、「権力者」たる安倍政権は、ひいては自民党中枢は、今回打撃を受けた。「たかが一票」の総数としての結果において。政権与党の意図する結果を示さなかった。有権者が民主制下の権利を行使した結果である。クソ暑い季節の、不安定な空の下、貴重な時間を割いて、投票行動に及んだ結果として。


ゆえに。「主観的立場」と、そこから導かれる個別利益は、「政治について考える」ことと、原理的にも乖離するものではない。むろん、自己の個別利益に照らして、民主制の廃止を主張することも、現在の日本においては「自由」であり、かつ無問題であって、かかる主張を展開する候補者がない以上、投票行動を峻拒することも、また、正当な選択である。いや、そういえばそんな候補者もいたような。

小泉純一郎の言


いつのことだったか、首相に就任する以前のこと、としか憶えていない。衆院であったと記憶するが、総選挙が行われた。夜の開票特番。自民党は善戦ないし健闘の結果であった、はず。ただ、(その時点において判明していた)投票率は比較的低調であった。


早くに当選を果たした小泉純一郎が、民放各局の中継インタビューを受けていた。小泉氏は、自民党が支持されているという結果だ、と、カメラの向こうのキャスターを見据えて、疲れているはずが精気ある表情で言う。スタジオのキャスターが、しかし小泉さん、投票率については低調と出ていますが、これはやはり自民党に対する有権者の――と言いかけたのをさえぎって、小泉氏は言い切った、きっぱりと。大意、と厳に断る。


――投票に行かなかった、選挙権を行使しなかった人の意思を斟酌する必要はない。権利を行使しなかったのであるから。考える必要はない。


断言に戸惑ったキャスターが、しかし――と言いかけてまた、小泉氏は同様のことを、強く、しかし当然のことのように言い切る。


――その人たちは選挙権を行使しなかったのでしょう、投票しなかった人の意思をなぜ汲む必要があるのですか。意思表明の意があるなら白票であれ投票するでしょう。それをしなかったわけでしょう、その人たちは。


本当に、こうした調子で、淡々と、オブラートに包むことなく言ったのだ。変わらない表情。キャスターは、言葉を失っていた。


当選直後の放言かと思ったが、その後小泉氏は別の局の開票特番にも次々と出演して、同様のことを言い切り続けていた、きっぱりと、かつ淡々と。当時、小泉氏は「変人」でしかなく要職にもなく、しかし「変人」としては知られ、また開票特番の中継インタビューにおいて口が滑る当選議員は、当時は少なくなかったゆえか、後に「失言」として取り上げられたという記憶もない。


あるいは。小泉氏の言い放ったことはまったくの「正論」であって、投票率の低調をもって「棄権者」の意を示さんとしたキャスターこそボケているのかも知れない。断言する小泉氏の、自身の公言する主張に一点も曇りなし、という口調と表情と風情が、当時、強く印象に残ったゆえ、そのシーンだけは克明に覚えている。


現在。半ば伝説の人となった小泉純一郎という政治家の、自らの政権において示したパーソナリティーと政治信条を鑑みるに、あのとき小泉氏が断言していたことは、自民党や自らを利するための方便でもポジショントークでもなく(当時、氏が首相に就任するとは誰も予想しなかった)、氏の本心であり確信であり信念であり、思想信条でもあった、ということを、了解する。そして、氏は自らの政治信条と信念を、リテラルに実行し続け、歴史に名を刻んだ、功罪まみえて。


然るに。私は、選挙権を行使することに積極的であることに、躊躇がなくなった。理由のひとつは、小泉純一郎に言われっ放しでよいのか、ということ。選挙権を行使しなかった人間は、国民の「意思」の頭数に数えないと、小泉氏は言い切り、また確信している。そして、民主制を絶対至上とリテラルに信じる政治家の確信は、大筋において圧倒的に支持され、郵政選挙の伝説へと至った。


「変人」たる私は、そんな小泉という人が、個人的には嫌いでない、が、であるからこそ、言われっ放しは癪に障る。煽られた、釣られた、という話かも知れない。以上。そんな私の、選挙権の行使に関する雑感。