小倉氏をめぐる議論についての、現時点の覚え書き


404 Blog Not Found:匿名に関してそろそろまた一言言っとくか


コメント欄から。

 確かに私は弾圧をはねのけているけれども、全体的に「炎上しそうな話題は避ける」雰囲気はすでにあるし、「コメント欄付きのブログは怖い」というコンセンサスはすでに生じてしまっています。(中略)Apemanさんのコメント欄が炎上した例でも、ブログ主自体は普通に反論をしているのに、コメント欄の閉鎖を匿名さんたちが要求するという現象が起きています。(後略)

Posted by 小倉秀夫 at 2007年07月26日 08:35


引用に概ね同意のうえ。一連の議論に対する、自分なりの整理と備忘として。


問題は、「炎上」に在り、際して多く付随する、時に差別的な内容を含んだ、多数の誹謗中傷に在る。かつて、id:Apemanさんが私に示したのは「炎上のポリティックス」たる傾向の所在。先日、引用の通り、Apemanさんのブログエントリのコメ欄が「炎上」した。契機は、2chにスレが立ったこと。最近、「ポリティックス」の介在する「炎上」は、さして見かけなかった。が。


公然において、差別的な言辞を含む、任意の個人に対する誹謗中傷が、多く「匿名の」、明確に不均衡な物量として、個人のブログのコメ欄に付されることを、貴方はどのように考えるのか、と問われたなら、「社会性」あるブロガーなら、けしからんことですね、と応える以外ない。


「社会性」ある「はずの」ブロガーによる「けしからんですね」という口吻が、便宜ないしエクスキューズとしか映らない、少なくとも、かく判断する人が、在る。おそらくは、小倉秀夫氏や、そのスタンスを支持する人は、かく判断している。


かつ。前提として、個人ブログのコメ欄に付された、差別的な言辞を含む、公然における任意の個人に対する「匿名による」誹謗中傷について、物量の点からも、トレーサビリティを期することは、現行においては、難しい。この場合の「匿名」とは、黒木ルールにおけるそれ、あるいは、文字通りのanonymousのこと。

  1. 公然において、差別的な言辞を含む、任意の個人に対する誹謗中傷が、多く「匿名の」、明確に不均衡な物量として、個人のブログのコメ欄に付されること。
  2. 黒木ルールに基づく顕名固定ハンドルによる、任意の個人の見解に対する、公然における、指摘や批判や事実確認や論評や、うんこ投げ、を含む広義のネガティブコメント。


問題は分岐している。私の目には、小倉氏は両者を、意図してか否か、混同して議論を展開しているように映る。


私は、1.については、問題か、と問うなら、同意する。かつ、小倉氏が記すところの「社会全体」も、いずれかく判断するだろう、と考える。思えば、毎日新聞の特集記事『ネット君臨』の際にも記したことだが、「炎上」という単語は、現行においてはローカルにしか認知されていないが、新聞社が俎上に乗せ、結果の副次作用あった以上、今後もかく在り続けるという保証はない。


2.については、私は問題と考えない。現行のはてブがかくあるように、物量の不均衡が示され、時に激越なネガコメが付されるとしても。


第一に、黒木ルールに基づく顕名固定ハンドルと、文字通りのanonymousは明確に区別さるべき、ということ。第二に、トレーサビリティ以前に文責の担保されない、任意の個人に対する、公然における人権侵害的な言及、と、(訴訟云々以前の)文責の所在を担保しての、人権侵害的と判断されざる、広義のネガティブコメント、もまた、明確に区別さるべき、ということ。加えて、小倉氏のスタンスを支持する人にも、2.の行為には躊躇のない人が在るということ。私もまた、躊躇なかろうと無問題、と考える。線引の問題。


「炎上」も「ネットイナゴ」も、先ず2.ではなく1.の問題。2.については、無問題と考える人が、少なくとも、はてなのユーザーには、多数ではないか。何が「人権侵害的な言及」であるか否か、というのは、被言及者の感受/心証/認識/申告に「のみ」よって決定されるものではない。公然においてネガコメを付された当事者が「傷付いた」「暴力と感じた」から「人権侵害的な言及」である、というのは、「モヒカン」のスタンスを採らずとも、原則として、通るものではない。


示された任意の発言や意見や見解を批判することは、発言者の人格を批判することとは異なる、ゆえに、公明正大に批判し、批判し合えばよい、ないし、うんこを投げ合えばよい、というのが原則論。


「オンラインにおける活動に不慣れな人」の意識や感情を前提に、2.についても「問題」と示されたとして、はぁ、としか受け取れない。少なくとも私は。現在、ブログという媒体を通じて活発にオンラインにおける活動を繰り広げている人はみな、摩擦の蓋然を前提としている。社会的な情報発信や言論活動とは、そういうもの。生命や実生活や社会的な立場を、かかる情報発信や言論活動の結果として脅かされることの少ないだけ、現行のオンラインにおける固定ハンドルのそれについては、「安全装置」が機能している。


ひいては。「人権侵害的な言及」ならざる、公然におけるうんこの投げ合いを否とすることに、程度問題の議論と検討を措くなら、現行の「社会全体」においても、合意形成に至ることはなく、また合意は示されていない。現行のネットに、かかる行為とそれに及ぶ意識を、増幅する機能が所在することも、確かではあるが。


別個の事項に対し。1.については、私も含めて、「問題」としない人は、「社会性」あるブロガーにおいては、少ないのではないか。2.については、「社会性」あるからこそ、無問題とするブロガーが、大半ではないか。「人権侵害的な言及」を「名誉毀損に該当する言及」としても、可。


たぶんに。1.と2.を同時に問わねばならない必然が、現行の状況に所在する。言及としての、揶揄や皮肉や嫌味やほのめかしや匂わせやクリリンや伏字や「事実の指摘」は「人権侵害的な言及」には該当しない、が、被言及者が意識/感情に時に負債を刻むことも、被言及者の「名前(=アカウンタビリティ)」の毀損へと至り得ることも、行為に際して前提し得る。それを、前提のうえ故意に実践し、し続ける者が在るなら。「ぶっ転がすぞ」「○ねばいいのに」etc.


よって。ネガティブコメントにおける発言者の「意図」「意識」を忖度せざるを得ない。ネガコメにおける発言者の「意図」「意識」を問う限り、個人の主体的な自律と抑制に依拠した議論を示し得るものではなく(「主体的な(=確信的な)」ネガティブコメンターが在ることは、周知の事項)、結論においては、1.を他律的に抑制するために、2.に他律的な抑制の及ぶことのやむなきと妥当/正当を前提して、発言と発言主体を(社会的に)紐付ける、一律に、という選択を、現行の最適解として提示せざるを得ない。


オンラインにおいて活動する社会的な個々人の、主体的な自律と抑制を前提するに難い現実が在るなら、オンラインにおいても社会的な個人たることの意識と認識を、他律的に涵養するよりほかない、すなわち、近代的な規律訓練(=ディシプリン)が、現行のネットを前提する限り、オンラインにおいても、実社会と同様に、個々の利用者に対して要請される、と。


実現性や技術論を措いても、また周知の社会的な現実を前提せずとも、すなわち人文的な認識と限っても、無理筋というよりほかない。ただ、小倉氏の現状認識と問題意識に、ブレはなく、大筋においては錯誤もない、とは思う。問題提起についても。


むろん。日本における個々の、爆発的に増加したオンラインの活動主体における、合意の形成と、その過程を通じて模索さるべきことを、「地上の法」の水準にのみ依拠して裁断するべきではない。法治主義を尊重することと、現行の、日本における「地上の法」を普遍の定規とすることとは、異なる。


発言と発言主体を(社会的に)紐付ける。一律に。それは、1.に対しては、銀の弾丸として機能するかも知れない。が、そのような、原理的ではあるが、非人文的なソリューションを提示することに対して、多く反撥あることは、理路として然るべきこと。以前に書いたことの、繰り返しでは、ある。