今更ながら、「アキハバラ解放デモ」について


「イデオロギーの敗北」と「趣味の勝利」〜取りあえず、「アキハバラ解放デモ」を全肯定しておこう〜 - 想像力はベッドルームと路上から


「アキハバラ解放デモ」への批判に関する雑感。 - 想像力はベッドルームと路上から


趣旨に、ほぼ全面的に、了解のうえ同意です。現代的な「デモ」のスタイルとその意義についても。私には既知の文脈です。しかし。

1.


今回の一件に対する反撥の要因は、主催者側が「オタク」「アキハバラ」を任意の政治的なスタンスへと接続したことにある、と私は考えています。言い換えるなら、inumashさんの記している政治的/歴史的な文脈に、「オタク」「アキハバラ」という象徴的にして価値的な「概念」を接続することに不快を示す人が在るということで、それは正当で妥当なことと、私は思います。


但し書き。「オタク」に学問的な定義は付されていない。「内部」において定義の合意がなされているわけではないことも、周知の通り*1。社会的単位としての一般的な認知と、個人の内的な自己規定において用いられる象徴的にして価値的な概念との、相関と齟齬というのは、あるいは近接と不一致は、終わりのない課題です。


が、喧々諤々の議論の歴史と幾世代に亘る個人の葛藤の蓄積ある以上、確定的な定義なきことを理由に、当該概念に触れ論じる際に、かかる事項を軽視することを、私はよしとはしない。「貴方」にとって些細な問題でも、些細と思わない当事者は在る。「現代的な「デモ」のスタイルとその意義」と、その政治的/文化的な文脈と実践の歴史が、inumashさんや主催者側にとって些細な問題ではないように。


私は、inumashさんの記している「政治的/歴史的な文脈」の所在のことを知ってもいたし理解も了解もしている、正当性の所在についての認識も。inumashさんは「オタク」という単語と概念をめぐる歴史的な文脈と、かく自己規定する個々人の意識における意味と意義について、理解し了解されていますか。


inumashさんの記していることはグローバルにしてユニバーサルな事象であって、「オタク」をめぐる喧々諤々の議論の歴史と幾世代に亘る個人の葛藤の蓄積は「アカデミック」でない、ローカルな話でしかないかも知れない(実際は、そうとも言えない)、「自意識過剰」として済むことかも知れない。


「現代的な「デモ」のスタイルとその意義」をめぐる歴史的な文脈と、「オタク」をめぐる歴史的な文脈とが、齟齬と衝突を起こしている。非合法団体の関与が疑われたことが、齟齬の顕在化と衝突の契機となった。そして、両者の文脈に、優劣を付するべきではないし、優劣あるとは思わない。私の見解です。好き嫌いの問題、ではないのでしょう。


率直に言って。「批判者側」がinumashさんの示している歴史的な文脈に対して疎く無理解であることと同程度には、inumashさんもまた「批判者側」の準拠する歴史的な文脈に対して、認識と見解が不明瞭です。「批判者側」が文脈の所在を明示しないのは、かかる文脈がローカルでありアカデミックでないことを知っているためです。ひいては文脈自体が一見不可視であるゆえです。が、不可視であることは所在なきことを意味しない。

2.


inumashさんがそのように言っているわけではない、ということを厳に但し書きしておきますが。


あえて乱暴に簡略して類型的に言うなら、「オタク」にはグローバル/ユニバーサルな、あるいは普遍的/歴史的な視野と認識が欠如している、ゆえに、時に「軍事」に通じる人も在る「オタク」には、「オタク」として「政治」「政治行動」に関与しコミットメントすることに対する、忌避と拒否の意識が所在する、結果としてシニシズムが蔓延する、という類の論評が在ります。それは、価値的な判断を措くなら、あるいは事実です。が。

街路で何かを主張(行動)すること自体既に「政治」なのだから、そこに特定のイデオロギーが存在すること自体全く問題じゃない(それが支配的になるなら別だけど)。逆に「路上でコスプレするだけ」でそれが立派な「政治的主張」として扱われるなんて僕なんかは痛快極まりないんだけど。

最後に、何回も同じことを繰り返すけど、「街路」という公共の場所で「個人的な主義主張」を発露させるって行為自体が既に政治性を帯びている。それがどれほど個人的な感情の発露であったとしても、「公共空間」に持ち出された瞬間、その行為、そしてそれを見た人の態度ひとつひとつが「政治的なもの」として扱われる。


「「路上でコスプレするだけ」でそれが立派な「政治的主張」として扱われる」「「街路」という公共の場所で「個人的な主義主張」を発露させるって行為自体が既に政治性を帯びている。それがどれほど個人的な感情の発露であったとしても、「公共空間」に持ち出された瞬間、その行為、そしてそれを見た人の態度ひとつひとつが「政治的なもの」として扱われる。」ことを承知のうえで、あるいはそのゆえにこそ、「政治的態度」として否を明示するスタンスも在るということです。


言い換えるなら。個人的なことは政治的である、からこそ、「個人的な主義主張」において、「政治」「政治行動」を棄却することの政治性を、意識的に標榜してきた人たちが在りました。その中心的な世代は、「政治の季節」の末期を目の当たりにもしてきた、ゆえに、コミケットはあのような場所として、かくも発展し得た。


任意の政治的なスタンスを明示的に標榜すること、を棄却することの実際的な必要と、価値と、必要と価値に対する合意のうえに、現在の「オタク」をめぐる状況はあって、言うまでもなく、現在に及んでそれは批判されてもいる。大塚英志氏らに代表されるその批判には理も妥当性も在る。そして、そうした問題意識を、inumashさんも持っているのであろうと、私は考えていて、ゆえに遅ればせながら記事を記しています。

3.


私自身が思うことは。「オタク」と任意の「政治的なスタンス」を同時に標榜し、かつ公的に行動する以上は、「オタク」に任意の「政治的なスタンス」を付することに対する反撥を、それこそ「オタク」であるなら、予期するべきであるし、任意の「政治的なスタンス」について、主催者側はあくまでリテラルに明示するべきであったし、事後において非合法団体の関与が疑われるなどというのは、目も当てられない。


「デモ」という行動の実践自体に「政治的な」意味も、また意義もあるというのはその通りで同意ですが、それは「祭り」の「趣向」ということとは異なるでしょう。「趣向」と「政治行動」の分別は明示するべきでした。つまり、主催者側が任意の「政治的なスタンス」を標榜しているなら、事前にリテラルに明示するべきであった、ということ。「祭りの趣向」に尽きる、ということでないなら。


地域共同体の祭りは「政治行動」ではありません、が、私はそうした「祭り」は趣向含めて、好き。良くも悪しくも、一時的にも、「政治」が共同体意識や擬似宗教性に包摂されるためです。趣向は祭りの肝であって、地域共同体における、歴史的な祭りの趣向とは、思想的な「政治行動」が絡まないゆえに成立している。この件について、inumashさんの言う「政治」「政治行動」とは、地元選出の与党議員のスピーチと乾杯の音頭と挨拶周りと土建屋の談合としきたりの遵守と利害と縄張りの調整のことではないでしょう。


付記するなら「政治的なスタンス」とは、右の左のということではない。「祭りの趣向」と思って参加した人間が在ったときに、事後において主催者側における明確な「政治的なスタンス」の所在が判明したなら、対して、「デモ」に参加するという行為の実践自体に政治的な意味と意義がある、と述べることは、説明として適当ではない、ということです。端的に言うなら、信義の問題です。むろん、inumashさんが質されることではありませんが。


「オタク」「アキハバラ」「祭り」という「趣向」を前面に押し出して、「任意の政治的なスタンス」に準拠した行動を、面識なき他人に広く呼びかけたうえで実行した以上、当該の「政治的なスタンス」の価値を言挙げたところで、信義の問題は消えない。そして、主催者側の一部の人間が、事後において「信義」の問題、言い換えるなら参加者との信頼関係の問題を軽んじているようにも窺えるから、批判を被っているし、加えて「政治的なスタンス」のゆえの信義の軽視ではないか、と思われもするのです。

4.


むろん、参加者でもなく、「オタク」ではあるけれども秋葉原にはあまり用がない私には「信義の問題」は存在しないしそれを問う気も資格もない。当該の「政治的なスタンス」の価値、については全面的に同意します。が、「オタク」「アキハバラ」を公的かつ明示的に標榜した以上、当該の単語や概念や価値観を標榜する、かつ、主催者側と「政治的なスタンス」を同じくしない人から、質されることは、やむを得ない、というか必然とは、思います。


対して、主催者側の「政治的なスタンス」とその歴史的な文脈をアナウンスしたところで、それに同意しない「オタク」「アキハバラ」を標榜する人が在ることに変わりはないし、そうした人が多く在ることは、それこそ「歴史的な文脈」に照らして当然のことです。


コミケット準備会の在り方と、その示してきた方針、暗黙に共有される、現在進行形の問題意識について、認識に欠けるとは思います、inumashさんが、ということではなく、主催者側が、ということですが。傍から見て拙いし、その拙さは、「政治的なスタンス」に発するとも、私には窺えます。

5.


私は、それが公にされたものである限り、政治性を逃れ得る行為は存在しないと考えます。そのゆえにこそ、政治性の棄却を公に示すことの「政治性」とその価値と実際性を、知ってもいます。


「「個人的な主義主張」において、「政治」「政治行動」を棄却することの政治性を、意識的に標榜」することによって、またそうして公にされた「非・政治的」な行為においてこそ、示される「政治性」というものはあって、その文脈と価値と実際性を、現在の「オタク」もまた、認識し感受し、実践してもいるのです。むろん、全員が、ということではありませんし、多く、リテラルに明示されているわけでもありませんが、文脈の所在については、暗黙に感知されてもいます。


主催者側の文脈の所在について感知するよう、参加者側を含めた「批判者側」に対して示すなら、「批判者側」のそれについても同様です。主催者側と「批判者側」の相互的な意見交換は、こうした活動の要諦ではあるでしょう。「政治的なスタンス」「政治性」のゆえにそれが阻害されるなら、主催者側と同様に「オタク」「アキハバラ」を標榜する、かつ、「政治的なスタンス」「政治性」を同じくしない人が、うんこを投げ付けて当然です。あるいは、好き嫌いの問題、ということなら、私が何を言うこともありません。


「オタク」「アキハバラ」を公的かつ明示的に標榜して「任意の政治的なスタンス」に基づいた大規模な「政治行動」を示すなら、反応は予期されることです。今回の一件を、「オタク」「アキハバラ」という象徴的にして価値的な概念の「簒奪」「政治的搾取」と捉える人に対して、事後において「定義もされていないうえ誰かの独占物ではないのだから「任意の政治的なスタンス」のもとに公に標榜することは自由でしょう」と応じるなら、それは正しいですが、私は不誠実と考えるし、同様に考えた人が実際に反撥を示すこととてまた、「自由」であるし、妥当で正当なことと、私は考えます。


むろん。それもまた「政治的な行為」であり「任意の政治的なスタンスの表明」であることは、「焙り出す」までもなく自明のことです。かつ、価値的な判断において、私の記してきたことを否、とすることも可能ですし、そのこともまた妥当で正当と私は考えます。問題の所在は那辺にありや。そのことについて、私の認識と見解を記したく思いました。なお。本題から外れますが。

あー、ちなみに中核派=非合法団体として捉えるなら、「デモに中核派が関わっているから反対する」人は多いのに「祭りには暴力団が関わっているから反対する」って人がいないのはなんでだろうね?俺は中核派は嫌いだけど、暴力団も嫌いだぞ。


少なくとも「祭り」においては、暴力団は地域共同体における歴史的/人的なリソースとして関与し、良くも悪しくも現実に機能していますが、仮に、任意の「デモ」における非合法団体がそうであったとき、肯定し得る人間は、当該団体の直接的な利害関係者以外にいるものでしょうか。inumashさんの述べる「目的」を前提する限り、「リソース」として現実に機能し得るものかも、わかりかねます。


暴力団が地域共同体において歴史的/人的なリソースとして関与し機能もしていることを全面的に否定することは、言論においてさえ時に困難です、が、仮に、当該団体が任意の「現代的な」政治行動において歴史的/人的なリソースとして関与しているなら、「リソース」として現実に機能し得る、という「非・現代的な」事情も含めて、論外と言明する人が大半ではないでしょうか。なお、暴力団の存在を肯定すると公的に言明する人間は、あまりいないことでしょう。修辞疑問ではないと判断したので、記しました。

6.


最後に。

だからこそ、「デモ」に関して語るとき、「デモを行う側」だけでなく、「それを眺める側」の政治的な態度も同時に問われているということを考えなければならない。
そう、真に問われているのは、それを眺めている「貴方」の行動なんだぜ。


私は、「デモ」に参加するなら、その時間を使ってブログを更新します。政治的な行動にして実践として。むろん、1ブロガーの言論活動によって社会の何かが変わるわけではないことを承知のうえで。1個人が「デモ」に参加する程度の意味と意義と影響はあるでしょう。相対的な判断として、いずれの行動に、個人がより意味と意義があると考えるか、いずれの行動が、個々の趣味嗜好(主義主張でなく)に合致するか、という、選択の問題でしょう。むろん、選択に優劣も上下もない。


私個人は、ブラウザに無機質な文字列として表示される言葉に、より政治的な意味と意義と影響が在ると、経験的にも感じる者です。とはいえ、他なる選択肢と他人の選択に半畳を入れようとは思わない。言い換えるなら、今回の一件の「問題」は、その点には所在しない。そのことを確認するために、これまでまったく言及してこなかったにもかかわらず、記すことにしました。

*1:前提:「オタク」≒「アキハバラ