法治主義の外側で


http://www.asahi.com/national/update/0626/TKY200706250400.html


社会保険庁があの始末であったときに、自ら積み立てんと考える者がいて当然であるように、警察が頼りにならないなら自らの持てる手段とリソースを用いて決着を付けようと考える者があることは不可解ではない。正しい手順を踏め、というのはまったく正論であるけれども、それは正しい手順とその帰結に信が置かれているなら、という条件付。被害者が、信を置き得ないと判断したことは、今回の場合は、やむを得ない。


一般論としても、周知の事実であろう。捜査機関は「当て逃げ程度」には積極的に介入しない。結果、(たまたま)人身事故へと至ることのない悪質なドライバーが多く放置され、トラブルに際して「泣き寝入り」せざるを得ないドライバーもまた多く存在することは、公知の事実。加害者(=運転者)は、常習と、私も判断する。警察が仕事をしないときに、私刑に対して批判するなら、それは倫理的な問いとなる。後述。


「正しい手順」とは、法治主義の原則のこと。民間人による私的捜査と私的制裁の権限を近代法治国家は認めていない。一連の事態は横紙破りである。然るに。「法治主義の原則」において、「当て逃げ程度」に対して捜査機関が原則、事実上看過していることは、周知の事実であるが、そのことは「法治主義の原則」と照らしてやむを得ない、とする社会的な合意は暗黙にも形成されているか。


当て逃げは刑法犯である。暗黙にも社会的な合意の形成されていないときに「法治主義の原則」を説いたところで「捜査機関が事実上看過するなら不正義であり、自らは横紙を破る」と考える者に対する掣肘とはなり得ない。ことに当事者に対しては。


私自身の見解を記すなら、「当て逃げ」を捜査機関が原則において事実上看過していることは、リソースの観点からやむを得ないことと考えるけれども、正義かと問うなら不正義とも思う。被害者が理不尽を覚えた際に、横紙破りを選択することを批判する気にはなれない。被害者は当初、「法治主義の原則」に則って対処するべく行動したのであるから。


法治主義とは社会的公正の前提であるけれども、その執行者の判断/対応をして社会的な公正の担保されていないと判断した個人が、自らの断行に基づき行動することは、ありえること、否、あってしかるべきことだろう。


率直に言うなら。他者に危険を及ぼす運転の常習としての悪質なドライバーというのは、有無なく社会的な悪と私は考えているし、寛容を示す意思を持たない。その、記録された犯罪行為に対して捜査機関が原則看過しようとするなら、私はそれを不正義と考えるし、「正しい手順」を、法治主義の原則を越える不正義が存すると、私は考えるし、被害者がそう考えたことを批判する気にはなれない。それは私が「右」であるからかも知れないし、クレイジーな過去のゆえかも知れない。


言い換えるなら、法治主義の原則は正義であるけれども、それに基づく「正しい手順」におかれて、現実的な困難と限界と、ひいては困難と限界が結果する不正義が存する、ということ。現実的な困難と限界とは、多くリソースの配分に帰するけれども、それをして被害者が不正義と考えたことを、突飛とも私は思わない。


そして。端的な事実として、人は持てる手段とリソースあるとき、「法治主義の原則」に対する横紙破りを、まま、やる。「法治主義の原則」が任意の個人の災難に際して資することがなかったとき、なお「法治主義の原則」を守らんとするか。少なくとも当事者におかれては、倫理的な問いとしてしか機能しないだろう。


なお、被害者自身の運転については、以下の玄倉川さんの記事に同意。


路上の自己防衛 - 玄倉川の岸辺


ただ。私は法治主義の原則に最終的には準じる意思のない者であるから、思うのだけれども。任意の行為が法的に正当/妥当とされるとき、言い換えるなら、任意の行為を禁じる法的な根拠の存在しなかったとき、如何に行為するか、あるいは当該の行為に自らが与するか、ということは、倫理として問われる。法でも道徳でもない。


任意の行為について他から難じられた際に、それを禁じる法的根拠は存在しないゆえに法的に正当な行為である、と返答することは、拙い、というか、トートロジーの提示に過ぎない、何も応えてはいない、とは私は思う。任意の行為を個人が実行する/実行したことの、個人の背景を、論難者は問うているのであるから。むろん、返答する義務も義理も筋合もないけれども。


私の行為になんらかの問題が存在しますか、という返答は、「私の行為には問題がない」ということを確認しているに過ぎない。レスポンスにはなっていない。「問題行為」を外形として難じる者に対して外形面の水準においては問題行為に当たらないと返答することは、論難者の問わんとする「問題」とその所在をスルーしていると、返答という行為の外形において論難者から判断されて、やむを得ない。


自らの行為を倫理的に他に難じられる筋合はない、というのはその通りである。であるからこそ、私は思う。法的な根拠の有無は措いて、他から倫理的に難じられ得る余地について、外形的な行為におかれても意識するべきである、と。


制度的に保証されているから行為してよい、ということではない。制度的な保証に依存して行為を繰り返すなら、法は公権力は保証の圏域を縮小し、制度ののりしろは減少するだろう。のりしろの余地をかつて担保してきたものは、任意の社会におけるコモンセンスであった。


多様な人間の集団たる社会における摩擦と危険を緩衝するために共有される、任意の社会における倫理の公約数的な緩やかな規範を、コモンセンスと呼ぶ。そして。法治主義の原則に対する、原則的/前提的な同意とは、近代社会におけるコモンセンスが支えている。コミットメントを担保するのは法ではない、個々人の主体的な意識と意思である。


単なる煽り気味の運転は、法的に規制されているわけではないけれども、顰蹙される。法に関係なく、任意の行為に対する顰蹙を生成する土壌が、コモンセンスであり、その役割である。


任意の行為を外形的に禁じる規則のないとき、状況とケースに拠って、個人が任意の行為を選択するか、あるいは、任意の行為が外形的に禁じられているとき、状況とケースに拠って、個人が任意の行為を選択するか、かかる判断において、倫理が問われる。


倫理とは法も規則も外形も関係ない、任意の一回性の行為とその一回的な判断において、神様に、お天道様に、自己に、事後的にも疚しきを覚えるところのなかったか、ということであるから。むろん、問われるべき場は内心である。


なお。不当解雇に対して自身もそう判断するなら当該の男性は申し立てる権利があるし、当該の企業の対応は批判されてしかるべき。とはいえ、社員を守らんとする中小企業もあれば、守らない中小企業もあることを私はよく知っている。


また。私のような生計自転車操業のフリーの身分からすると、ずいぶんと品行において脇の甘い正規雇用者もいたものだな、とは毎度のことながら、思いはした。私の生計自転車操業は、事実上、好んでやっている、としか言えない、ゆえに危なっかしいこともたまに記している。


私的制裁を肯定するのか、と他から問われるなら、原則否定、としか応えようがない。捜査機関が万能でないこと、万能たれとはたらきかけて多く応えるものではないこと、万能へと至ることはないこと、ゆえに「泣き寝入り」へと至る者が常に在ること、今後も在り続けることを知る以上は。


「泣き寝入り」せんとする者に対して法治主義の原則を説く意思を、私は持たない。私たちは私刑の全廃を常に志向するべきであるが――結局は、個々人における倫理と、その公約数的規範たるコモンセンスをめぐる問いである。


自身に対して少年時代、性的な虐待を加えた加害者の少年を、15年の後に殺害しその家族をも殺傷した25歳の被告が先日、求刑死刑に対して無期懲役の判決を受けた。少年時の被告の被った理不尽を不正義を、捜査機関は、法治主義の原則は、贖い得たであろうか、被告が殺人を犯す以前に。


むろん私刑は報復は動機以前に行為の水準において正義ではない、で、それが何か、と応じる人の在る世について、その世界観について、私は容易に否とのみする気にはなれない。というのは、以前も記したけれども、結局のところ、私もまた、そのような世界観を共有するろくでもない人間のひとりであるから。道端で刺されても仕方のない人間はいると私は考えるし、私自身もまたその列の員である。