増田


―→ちゃんとしたい


身に覚えがありすぎる。心配する側でもされる側でも。というか、先般、上記の更に数倍深刻な状況についての相談を私的に対面にて受けた。相手は年配である。状況についてひととおり確認した後、一般論と前置きして、私が言ったこと。


同居人の日常をケア/フォローしつつあえて放置すること。コミュニケーションや会話を無理強いしないこと。わずかでも、相手に任意の事項の強制と受け取られかねない発言は避けること、注意を重ねて。薬は必ず規則的に規定量を服用するよう(このことについては強くでも)幾度も促すこと。


耐え難いなら堪えず別居すること。生活能力ゼロとなった同居人を独りにし難いなら専門家ないし専門機関と相談すること。重症であるなら、他人でしかない一個人の手には到底負えないゆえ、専門医療の24時間体制のケアが必要であるということ――言うは容易い。専門家でもない所詮他人としては、ほかに言えることもない。


総じて、まさに、近くから、あるいは遠くから、生暖かく見守っていくことが何よりも肝要であるということ。そして。鬱病患者は、表面上の言動とは裏腹に、近しい愛する他人の手を自らが煩わせていることに、自らが縁者の負担となっていることに、常に深い自責の念を覚えているものだ、ということ。彼らはおよそ自らの病気ではなく自ら自身を自ら責め、責め苛み続けている。自らの「人格」を。その自責が、時に容態を悪化させ最悪の結果へと至ることの現実に多くある、ということ。


ゆえに。可能であるなら、方法論と経験値を有した、当人と私的な関係性なきプロに一定は委ねることが、相互の生活、否、生存のためにはベターな選択でもある、と。病人が縁者であるとき――当事者は多く抱え込んでしまう。加えて。当人のことを知らず当人に対して感情抱く縁者でないにもかかわらず外野から鬱病患者の「人格」を云々する人間の声に耳を貸すな、とも。


心的疾患をめぐる諸相は、いつだって、病人と始終付き合い向き合わざるを得ない縁者が抱え込み疲弊し消耗して、苦しみ続ける、いま現在も。時に破綻へと至るまで、付き合わざるを得ないのも、疲弊し消耗するのもそして苦しむのも、病人との間に切断し難い感情在るがゆえである。血縁や婚姻のあろうがなかろうが。当事者の深甚な消耗をいたずらに叩くことによって増幅させるべきではないし、当事者を社会から切断してしまうべきではない。


私は個人としては結果的にも思う。鬱病不眠症は若年のうちに徹底的にこじらせておくに限る。以後大抵のことでは内的には動じることのなくなる。あのいつ緩和されるとも知れない苦痛に比べたなら――と感覚と記憶は作動し処理を行う。緩解の後、自らの心をシステマティックに捉えるようになる。万事塞翁が馬。むろん、それは私個人の談に過ぎない。


病人を特権化しているのではむろんないしするべきではない。友人恋人近親者をちらりと見回したとき、病人は私たちの日常において慢性的に在る。普通の顔をした異物として。心的疾患のカジュアル化とは、斎藤環の言い得て妙だった。