ぶっちゃけどうでもいいと思うのよ私も


TBに反応。


ぶっちゃけ右か左かはどうでもいいのよ - z0racの日記


z0racさん、ども。放言調の筆致が嬉しかったので、私もちと放言します。

無論政治は大事だが、何でもかんでもそれで切り取るのは頂けない。というか、貧しくない?それは。


あの人やあの人やあの人に言ってくれぇい。というのはさておき、貧しいとも思いますよ。というか、それを「貧しい」として示してきたのがたとえば山崎正和であり丸谷才一であったわけです。

(前略)私のイメージでも氏の政治色は薄い。「文化的保守」と云われればなるほどである。


はっきり言うなら。引用したwikipediaの解説にある通り「政治思想的には中道・親米的な現実主義の立場に立っているものと思われる。」のですよ、山崎氏は。つか、政治的には、あえて極端に言うなら「オールド・リベラル」としてもよい。


山崎氏は「政治的には」保守主義者ではなく、近代主義者の立場を取ると自らする――極めてリテラルにモデル的な。ドグマティックにして非現実的な政治的人間を山崎氏は一貫して嫌う――右も左もなく。山崎氏は良き意味での現実主義者、といってよい。だから、あえて露悪的に言うなら政府や企業の「御用学者」的な任もこなす。


ただ。これは当方の事情でもあるのですけれども、ことに先日の9知事選以来「中道」という語句は一種のトラップワードのごとくなっておりまして。「結果において政治的に行動する、意識における非政治的人間」に如何に対し如何にフォローするかということが左右にかかわらず政治的人間にとっての最前の課題と私は都知事選の以前から記していたし都知事選の後に長々と総括してもいるので。単なるトラップ回避ということでもなくて、各方面における議論を鑑みても、思うところはあるのですよ。


私がエントリを起こす契機となった発言をされた方が「たしかこの人は保守系だったと記憶してますが。こうなると(ホンネレベルの詳細はよくわからないのですが)一昔前は右呼ばわりされてたような人が左に見えてくるわけで。(後略)」と、困惑されているように私の目には映ったので――概念としての「保守」についての最低線の情報を、いわば山崎氏を参照項として提示したというのがエントリの趣旨です。つか、教育再生会議を保守と言われても当方としては返答のしようもないわけで。


西欧と西欧社会の抱えてきた課題に直面してそれを前提するところから日本の保守主義というのは始まる。以前、西欧と西欧社会の抱えてきた課題の一切を日本という場において解釈し個人的に「解決」し「克服」して捨象してしまった吉本隆明、という話を書いたことがあって、それは吉本氏の傑出した仕事を反照して証してもいるのだけれども、ゆえに言うまでもなく氏は保守ではない。先の話との絡みで言うなら、吉本氏が批判され続けてきたのはまさにそのゆえなのだけれども。「大衆の原像」。


政治的な近代主義保守主義の区別もないままに保守を云々する人もいるということです。ま、反グローバリゼーション社会主義の区別もないままに左翼を云々しているエロイ人もいるようで、そのへんは相互に突っ込み合っていればよいでしょう。定義論争は時に不毛にして泥沼ということを以前の経験から知っているので、エントリの掲示による一般的なインフォに留めています。


普遍を前提する英米的な近代保守。ロマン主義的にして時には原理主義的な保守(メタ→ベタ)。両者の相違について了解していれば、山崎正和教育再生会議にダメを出すということに何の不可解もない。つか「徳育」とか真顔で言っている人間がアレなんであって。英米的な平明な近代主義の観点に立つなら、そんなもんありえない。


山崎正和は何十年も以前から一貫して同様のことを言っている。高名な社会評論家として政府の施策に間接的にも携わる山崎氏は、近代の原則の貫徹を前提したうえにて、文化的な保守の位相に立つ。近代主義は一義に原理主義を退ける。声高な言挙げを繰り返す政治的な保守が原理主義的な相貌を現すのもむべなるかな。山崎氏は声高を何より嫌う人です。


山崎正和が言っているのは――公的な制度は倫理道徳に干渉するな、国家は学問に干渉するな、ことにイデオロギッシュな位相から歴史学に干渉するべからず。近代の原則を説いているに過ぎない。コモンセンスを担保し得なくなった(宮台的に言うところの)「ヘタレ」が、新たに調達されるリソースとして道学を公的制度に介入させるべく立ち回る。「腐れ儒者」に向けて放たれた、一貫してコモンセンスを前提する山崎正和の掣肘は、当然のことであり、仕事をしている、ということ。


というか。山崎正和が「正史」概念(とそのイデオロギー性)に対して常に相対的であり懐疑的でありメタ的であることは、知られていないのだろうか。スタンスの是非は措いても。丸谷才一との歴史対談とか、全編メタ正史というか、正史(とそのイデオロギッシュかつ政治的な自己言及性)に対する相対化に尽きているわけです。座談の余興でしかあるいはないし、是非はあるけれども。

ところで、「検索かけたら山崎正和も左翼認定されていることが判明。」


工エエェェ(´д`)ェェエエ工


早速「山崎正和」でぐぐったのであるが、それらしいのは香ばしいブログが1件のみ。


あー、ブクマコメントのlakehillさんも含めて、すみません。落としどころと思いまして。でもgoogleの上位10件に「左翼評論家:山崎正和」とあるのはどうなんでしょか。私は最初目を瞬いた。ただ。当該の管理人氏の反応は、了解し得るところではある。


私が記してきたような文脈を全部すっとばして保守と左翼を二項対立的に捉えていたら、当該のブログに引用された山崎氏の発言に対して(朝日新聞に発表されたものでもあったし)あのような反応を示して不可解ではない。「たしか保守系だったと記憶する」人がなぜこのような発言を、と困惑する、保守を揶揄することの多い方もいるわけですから。軽蔑は常に軽蔑をもって返礼されるのですけれどもね。


実際、当該のブログに引用されてある山崎氏の発言は、氏のスタンスを端的に知るためにも一読の価値あると思うけれども、山崎氏の長きに亘る仕事を大筋すらも踏まえることのない人にとっては、それこそ右からも左からも、不可解な御都合主義的日和見としか映ることのないかも知れない。


確かに――山崎氏の、ことに現在のスタンスもまた独特ではあるし、批判さるべき点も多く所在するのですけれども。なお。率直に言って、報じられるところの教育再生会議の発信する一連の言説については、政治的な動向を図る計器としてのリソースとしてしか、私は受け取りようのない。味噌糞の分別を付けるためにも、文字通りの浅学の身ながらインフォしました、ということです。


なお。当該のブログエントリからリンクを辿れるのだけれども、山崎氏が懇談会の座長代理を務めた「国立戦没者追悼施設」構想をめぐる氏の提言に目を通して、私は、やはり山崎正和らしいな、と思った。提言に賛同するかは別として。大変に興味深いところに変わりはない。


ちょっと直接にはリンクを張りたくないので、以下の検索結果のトップに表示されるブログエントリを参照してください。山崎氏の「国立戦没者追悼施設」をめぐる発言がUPされてある。スタンスと見解の相違については措いて、管理人氏に切に感謝します。


山崎正和 国立追悼施設 政教分離 - Google 検索


ようは、山崎正和はリーダブルな叡智の人であるから、氏の抑制とコモンセンスある現実主義とそれを担保する叡智は、誤差(というか時差)あろうと傾聴し参照する価値あるものですよ――右も左も、ということでした。蛇足の補足であったかな。