文化的保守について私が知っている二、三の事柄


http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2007042790080734.html

 文部科学相の諮問機関・中央教育審議会山崎正和会長が26日、東京・内幸町の日本記者クラブで記者会見し、倫理教育や道徳教育について「学校制度の中でやるのは無理がある。道徳教育は、いらない」と、授業で教えることに否定的な見解を示した。政府の教育再生会議は「徳育」の教科化を5月にまとめる第2次報告に盛り込むなど、道徳教育の強化を進める方針。山崎氏の発言は、「個人の意見」と断った上でのものだが、学習指導要領見直しの議論に一石を投じそうだ。


 山崎氏は「人の物を盗んではいけないかは教えられても、本当に倫理の根底に届くような事柄は学校制度になじまない」と話した。妊娠中絶や、競争社会で勝者と敗者が出ることなどを例に挙げ「学校で教えられるような簡単な問題ではない」と述べ、安易な道徳強化論にくぎを刺した。その上で、「代わりに順法精神、法律を教えればいい」と話した。


 山崎氏は「歴史教育もやめるべきだ。わが国の歴史はかくかくしかじかであると国家が決めるべきではない」とも指摘。「歴史がどうであったかは永久に研究の対象」と述べ、同じ事柄を正反対に記述した歴史文学2冊を読み比べさせることを提唱した。一方で「中教審会長としては委員の意見に耳を傾け伝達するだけ」として、自身の考えを、学習指導要領見直しを議論している教育課程部会の方向性に反映させる考えはないことを強調した。


山崎正和なら言うだろう、と思った。こういうことでの無用な衝突というか軋轢は避けたいところなので、TB引用と名指しは避けるけれども、巡回先ブログのコメ欄において記事のURLを引いて「たしかこの人は保守系だったと記憶してますが。こうなると(ホンネレベルの詳細はよくわからないのですが)一昔前は右呼ばわりされてたような人が左に見えてくるわけで。(後略)」云々と記している方があった。記した方、たぶん山崎氏の著作は読んでいないものと思われるのだけれども、頼むからせめてwikipediaくらいは参照してくれぇ、とは思った。


山崎正和 - Wikipedia

戯曲と共に文明的な観点からの社会評論を多く著す。成熟した個人主義に基づいた近代社会を提唱しており、企業メセナやボランティアの概念を日本に普及させた当事者の一人である。西宮市在住であり、阪神・淡路大震災に遭遇したが、その際の市民ボランティアを「柔らかい個人主義」の実現と高く評価した。政治思想的には中道・親米的な現実主義の立場に立っているものと思われる。


真正の保守主義というのは西欧の近代主義と普遍思想を一義に前提する。山崎氏は西欧文明と近代社会を前提したうえにて、日本の社会的/文化的土壌を西欧の位相――ことに英米の位相から相対的かつ観照的に照射して示してきた。福田恒存高坂正尭山崎正和、ひいては塩野七生といったラインを、某や某のごとき鎖国的保守、言い換えるなら原理主義的保守と一緒くたにされてはたまったものではない。


たとえば、山崎正和丸谷才一の一連の対談は名高いが、それ1冊でも目を通せばわかることじゃないか。丸谷才一の位置付けとか、非常に困難なわけです。まして岡野弘彦などは。文化的には歴たる意思的反動であるけれども、それが政治的な行動や言説へと移行することはなく、むしろ彼らはその種の政治主義的かつ行動主義的な動向と趨勢に対して常に棹差し批判的であり掣肘的である。


而して、こうしたスタンスは、たとえば西部邁江藤淳らのそれとも相違する。あるいは丸谷氏が敬した吉田健一について鑑みるなら、了解し得ることとは思う。更に言えば、山崎氏が評論家であって、丸谷氏が作家であることの相違とその所以。


あえて端的に言うなら、彼らは英米的な文明論と文化論の人であり、文明論とは常に比較相対を前提して展開される。英米的な近代と普遍を大前提とする彼らはまったくロマン主義的な資質と志向なく、道学者をことに嫌う。道学者気取りの鎖国的/原理主義的保守は彼らの唾棄するところである。


彼らの問い続けた主題とは、日本という「悪い場所」における近代と前近代の、ひいては西欧と非西欧の、普遍と個別の、分岐と境界をめぐる諸相であった。そして。時に左翼知識人以上にリテラルに西欧主義的(=英米志向)であった山崎正和は社会評論家として文明の普遍性を論じ、西欧的な視座からメタフォリカルに「悪い場所」たる日本の固有性を凝視して観照した丸谷才一は作家として文化の個別性について論じ時に反動的に振舞った。


而して、山崎氏はそのあまりにリテラルな西欧主義を、丸谷氏はそのあまりにメタフォリカルな文化至上主義を批判されるに至って長いこともまた、周知の事実である。彼らの達した場所とは、文化的保守主義のコインの表裏であった。


いずれにせよ、彼らは生涯を貫いて英米的にリテラルな西欧普遍の位相から日本の個別を観照し相対化して照射し続けた。括弧付きの「日本」をアプリオリに規定して内在的な位相からむやみに普遍主義を批判する原理主義的な道学者と一緒くたにしてもらってはまったく困るところ。「新近代主義者」小谷野先生が山崎正和に敬意を払うのもまたそのゆえである。


私はかつて愛読したし、多くの批判さるべき点について了解したうえで、現在もなお彼らを尊敬するところに変わりはない。むろん――彼らを含めてイデオロギー全般を嫌悪し括弧に括ることを言明して貫いてきた論者が多く、キャリアの経過と共にそのスタンスと言説において、現状維持的な保守を結果することをも(むろん彼らがそのことを認識していることも)踏まえたうえで。


彼らは保守を主義としない。すなわち保守を文化的保守主義としてのみ定義する。彼らは文化的保守主義者であり、ことに丸谷才一は文化について意思的反動といってよい。政治的には、まったくリテラル英米的である。いや最低限の補足を加えるなら、ここにおいて丸谷才一は極度に両義的であり、丸谷氏の仕事の汲めども尽きぬ面白さと不可解とはそこにある。


上記記事中の、山崎氏の歴史教育をめぐる発言に対する批判については了解するし、私は山崎氏がそのように言う理由と当該発言の背景的な文脈についても承知しているので、超粗雑かつ端的な体にて補足解説を行ってみました。つか関心ある人にとっては言わずもがなに属する事柄とも思うけれども。インフォ。


以下余談。塩野七生山崎正和高坂正尭はかつて若かりし日に『中央公論』寄稿者として先輩後輩の間柄にあり、デビュー以前の塩野氏は先輩2人の談論風発を唖然と眺めて「この男たちはなんと頭のよいのか」と感嘆したという。名は伏せられてあるが、以下にそのエピソードが記されてある。



同書中における「2人のとびきりに頭のよい先輩」が誰のことであるのか、長らく気にかかりながらも仔細は不明であったのだが、最近、以下に掲載のインタビューにて知った。推薦。


文藝春秋5月臨時増刊号 黄金の10年へ


ことに若き日の山崎正和は、あざといくらいに良く切れるケレンある文明論者であった。そのあまりにリテラルかつ時に平板な明晰さと認識/議論のパースペクティブが、批評家としての山崎氏の欠落であり限界でもあったのだけれども。


先般、柄谷行人の若き日の文芸時評集をめくっていたところ、作品を通して山崎正和が痛烈にかつ根本的に批判されていた。内容については言うまでもない。正鵠、と思う。私もまた、山崎氏を文芸評論家とは考えたことのない。


結論はというと。私がいわば左翼知らずであることと同様に、保守知らずであるから「たしか保守系」の山崎氏の上記の発言に困惑するのであって、山崎氏がかく発言する文脈の周知されている保守の側としては、何も驚くところのない。健全なことです。


山崎氏は、英米的なコモンセンスの話をしているだけのことです。コモンセンスは保守の専売特許ですから。コモンセンスを道学と翻訳する原理主義的な曲学阿世が跋扈しているから奇異に映るだけのことでね。つか、頼むから山崎正和の代表作くらい読んでから「たしか保守系」を云々してください。ことに揶揄するなら、です。


石原慎太郎的な保守と山崎正和的な保守との相違くらいは押さえていただきたいところです。枢軸国的な保守と英米的な保守、日本におかれては水と油なのだから。


…………追記。検索かけたら山崎正和も左翼認定されていることが判明。( ;^ω^)


これはもうだめかもわからんね


追記


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