…………(これなんというチャールストン・ヘストン)


いや俳優ヘストンは嫌いでないけれども。


はてなブックマーク - livedoor ニュース - レイプ事件、「一番ワルい」のは誰だ。


……元記事を一読。うわ、すげえ。事件に言及した個人ブログのコメ欄に投稿された、「被害者の責任」とやらをあげつらう女性差別的なコメントに対して正当な怒りを表明されている方のエントリを先日拝見したが、決定版が来た。ネットのジャーナリスト。はぁ(溜息)。


笑いどころもない、いわゆる自己責任論というのは極まるとこうなるかと思うと、暗澹たる気分にはなる。かくも露骨なマッチョイズムを署名のうえにて展開した公的なテキストを久方振りに目にした。あまつさえ、マッチョイズムを女性に敷衍している時点でマッチョイズムとしても、ない。裏腹のセクシズムについては措く。


スティーヴン・キングの小説の登場人物みたい。頼むからこういう有害電波は地方新聞の投書欄への投稿に留めておいてくれ。米国に生まれ落ちていたらさぞ立派な保安官気取りになっていたことでしょう。


確かに米国社会は「個の自立」を御題目のごとく原則として前提するが、個人の自立に対する、システムにおけるケアとフォローとメンテナンスの補完的に機能している社会でもある。むろん完全はないといえ、個の意識を支え支援する社会システムが敷設され確立されてある。性暴力被害への対策とて先進的に講じている。先進的に講じざるを得ない事情が存在するとはいえ。


ことに性暴力被害に際して「個の自立」を(よりにもよって被害者の)個としての意識にのみ負わせる議論というか発言は、あまりに暴力的であり犯罪的である。それをして、セカンドレイプという。


で、執筆者は小国民世代のよう。世代論ということでは決してないけれども、正直、執筆者がかく考え記すに至った頭の中の理路というか回路については私はある程度捕捉し把握し得るところであるので、いっそう暗澹とする。実際、端的に終了として棄却することなく、私個人は更に考える部分がある。


自分の身は自分で守れ、自分の身を守れるのは自分だけ――か。個人にとっての正論が、無原則に他に敷衍し得るとは限ることのない。自分の身を守れるのは自分だけであるがゆえに自分の身は自分で守れ。かかる端的な事実性(らしきもの)に準拠したトートロジーの結果する定言命法を正論として機能させないためにこそ、道義や公徳心やあるいは倫理性をめぐる議論を、蟷螂の斧でしかなかろうと私達は永らく模索し続けてきたのではないかな。


当該記事についてむろん批判的に言及して、いわゆる「ヨハネスブルグガイドライン」を紹介していた方がいたけれども、拝借して言うなら、日本をヨハネスブルグにしてしまわないということについては、最低限綱領としてであれ、私達は多く合意しているはず。


しかるに、あえて極端にメタフォリカルに言うなら、日本をヨハネスブルグにしないための処方箋こそが、こうした事件を契機として問われ、現行、複数の選択肢が議論の俎上に乗せられている。そして「自分の身を守れるのは自分だけであるがゆえに自分の身は自分で守れ」という選択肢は、公共的な議論の俎上からリジェクトされている。


なぜか。端的な事実性にのみ準拠しての定言命法的な言説というのは、Q.E.D.として自己完結するがゆえに、歴史存在たる人間におかれる持続的な営為としての道義や公徳心や倫理性をめぐる模索を前提において棄却してしまう独我的な議論でしかないから。弱肉強食と言ってしまったら、先がないし後もない。先も後もない場所から発される言葉とてあるが――……本件は違う。


というか、近代社会におかれる社会科学的な議論というのは、あるいは倫理性をめぐる対話というのは、そういうものではないよ。それこそ民度の問題。好きなマンガでありアニメだけれども、『BLACK LAGOON』ではないんだから、さ。以上、釣りにマジレスでした。


―→武士の一分を日本人のモラルと宣う記者様 - 地を這う難破船