武士の一分を日本人のモラルと宣う記者様


車内レイプしらんぷり 「沈黙」40人乗客の卑劣 : J-CASTニュース

特急電車内で女性が強姦された。当時、その車両には40人もの乗客がいたが、だれも犯行をとめようとしなかった。あまつさえ、誰ひとり車掌や外部に通報することもしなかった。信じられない卑劣さ。日本人のモラルは地に堕ちたのではないか。


電車内で女性を酔っ払いから救うことに端を発する恋愛ストーリー「電車男」が大ブームになったが、今回の事件では、どこにも「電車男」はいなかった。


「日本人のモラルは地に堕ちたのではないか。」――ねぇ。そういう言い方をするなら、それが日本人のモラルというものでしょうが。事実と現実に目を向けなさい。他は他、名も知らぬ相手なら、我関せず。つうかさ、こういう事件に絡めてモラルを説くってなんですか。信じられない卑劣さ?


他は他、名も知らぬ相手なら、我関せず――現行の社会を前提しての個人の生における最適化という観点から見るなら、ベターな選択です。モラルとやらを問わないなら、ね。


特急全般ならともかく、当該のサンダーバード車内については報道されている限りのほかに詳しいことはわからない、誰かが言っていたけれども、事後的に何かを述べるならまず仔細なディティールありき。原則論をもって断罪する人間の神経がわからん。個人に属するべき類の倫理が原理原則化することは、倫理からはもっとも遠い。行動規範として問うなら道義であり公徳心である。執筆子はそれを問うたつもりであろうが。


衆道徳/公徳心としてのモラルとその欠如、それはかつて『アンダーグラウンド』においてインタビューを受けた地下鉄の駅助役氏が村上春樹に正面から問いかけた問いであり、対するに村上春樹は同書巻末において「モラール」として地下鉄職員の「士気」を掲げた。


駅助役氏が作家に投げかけた問いの延長に、今もこの社会はあり、この社会は今後もその問いの中に在り続けるだろう。私もまた、独り問い続けている。


そして。当然のことながら、即席のナイト精神もどきの称揚と啓蒙が問いの解であるはずがない。公徳心をめぐる複雑な問いに対して電車男を引き合いに出す紋切型以下の憂国の輩に「日本人のモラル」について大上段から言挙げていただく筋合はない。


ひとつだけ言っておくと。公徳心を課題として問うというのは個々人の構えと気概と心掛けに問題を縮減させて回収して世を憂いてみせることではないんだよ。村上春樹に限らずまともな頭を持った人間は独り問い続けているんだ、あの惨劇の日からずっと(――当時、私の通う高校は日比谷線を最寄りとした)。「日本人のモラル」などと軽々しく口にしないためにな。


クォーティションに括られた「日本人」がその変容が決定的に問われた事件だったよ。「私達」の公徳心について、「日本人」を前提として問いを立てることの不可能に直面した一件だった。むろん日本人が平和ボケしていたに過ぎないことではあったが、平和ボケの尊さを今となっては私は切実に思う。村上春樹は、かかる問題意識を同書において改めて問い直した。むろん、村上春樹を含めて、誰も解など安易に示せようはずもない。まともに頭を使う人間なら。



話変わるが。たとえば、週末の終電間際の繁華街行普通列車内とか、普通に荒涼としているし、緩慢にではあるが普通にある種の暴力的な緊張の漂ってはいる。そーゆーのは普通だと私は思っていた。治安悪化とかいう話でない。東京育ちの私の知る範囲では、昔からそういうもんでしょ、と。で、そういう環境を日々サヴァイヴする都市住民が「我関せず」になることの理不尽であるかというと、否としか言えない。――私の知る東京について言うなら。


私は荒事や鉄火場はとうに全然現役ではない。滅茶苦茶な日々の後に身体を壊して入院して薬を断ち、20を幾つも越える頃にはガンジーのような身体になっていた。現在では女より腕が細い。腕っぷしどころか体力自体が全然ない。鋭角な鈍器にて頭を割られたり刃物を(男からも女からもw――女は料理包丁だった)向けられるような事態に巻き込まれることも、はや5年以上ない。――思い出したが、親父も割ったな、私の頭。ガスコンロの蓋で。大昔の話。


ただ刃物というのは向けられていると慣れる。というか、薬のせいでもあったろうが、麻痺する。もっとも、私の場合は本気で刺しに来た相手の結果的にいなかったこと、また、血が汚れ頭のいかれたガキというのは本当に自暴自棄で自損的で刹那的でそのくせ面子にばかり執着するものなので、恐怖とか二の次であったということがある。


恋人はもう何年もない、つうかそういう対幻想的な関係性を個人的な事情から遠ざけている、親より先に死ぬ気はない。いずれにせよ、語彙に表したなら「孤独」の2文字であろうと生活ある限り尋常な人は無茶をすることのなくなる。今なら刃物向けられたらびびるであろうし、そもそも、そうした事態に能う限り直面することのないようにしている。自棄で面子大事な刹那を生きている既知外相手ならすぐ謝る。気の毒とも思うし、かつての我のようにも思う。つか、かつての我を知るのでほんとにこわくもある。リスクヘッジ


私に言えることは、というか常識の類と思うのだが、真正の既知外と暴力のプロには堅気の素人は肉体的な喧嘩を売るな、何があろうと。――腕っぷしにボクシング世界ランク級の実力のあろうとも。


法の側に立つ尋常な生活者は、確信的な無法には絶対にかつ圧倒的に弱い。平時を生きる人と常是有事の人との意識における差異と乖離。人が社会化されるというのはそういうことであり、確信的に社会の外に生きる者の強みとはその点にあり、社会化された人にとっての平時の尊きとその毀損の怖ろしきということでもある。


平時の尊きを知る人ほど有事に弱いし「動けない」。常在戦場を社会の内において生きる人間は、ゆえに当人の意思するなら、傍若無人に振舞い得るし、平時の尊きを知る生活者に対して「付け込む」こともまた容易い。意思するなら可能であるというリーチを彼らは担保し得る。


――詳しくは触れないけれども、そのことは、たとえば戦後すぐの頃から今なお根において変わるところのない。社会の裏をシャドーとして生きる者の意識/感覚とは、かかる存在の担保するリーチとは――根において変容することのないそうした事項の忘れられることもまた、平和と繁栄のもたらした痴呆と弛緩の一端であるのかも知れない。緊張の差とも言える。


もっとも。身近に言うなら、意識において常是有事を生きる友人は(ひとまず堅気になったが)緊張の人であり、一方、私はむしろ麻痺の人である。いずれも不幸であることに変わりのない。平時という弛緩を平和という痴呆を嘲り揶揄する者は有事において復讐されよ。


私は今なお、こう言ってよいなら、マージナル・マンである。事実上も、意識においても。死ぬまでシャドーは付いて回るのだろう。淡くなり濃くなることはあろうとも。日々の生活のため社会機構の一端に接続して暮らす私であるが、今もってなお私には、社会機構というものが実在なき影絵の舞台装置にしか見えたことのない。現実として映ったことのない。私の現実とは個人的/生物的な眠りとその永遠へと繋がる連続にしかない。


そのような私が政治的なスタンスにおいて「保守」を任じるというのは笑わせるが、以前も書いたけれども、おそらくはそのゆえにである。さもなければ、私の意識をいかなる類の現実と繋ぎとめることの可能であるのか、我ながら心もとない。個人の事情でした。


結論するなら、堅気に有事に際して的確に「動け」って、無茶言うな、と。あまつさえそれを「卑劣」認定のうえ「日本人のモラル」について御高見ですか、どういう了見だ、つかおまえ何様だ、と。


私が冒頭において記したことは皮肉でも逆説でもない。堅気の「モラル」とは、一義に自己の生活という平時を守り、守り抜くことにある。そして。現行の社会を基盤において構成する堅気は尊い。恣意としての「えこひいき」であれ社会は堅気に真っ先に報いるべきである。今なお決して堅気とは言い難い暮らしを送るマージナル・マンの私が、そう思う。堅気とは、法とそれに規定された社会を構成し維持し適正に運用することに意思的にコミットする者の謂である。


あまりに当然のことだが、現代の給料生活者は騎士でも武士でもない。藤沢周平ではないが、どこまで行けども武士は有事を前提する生活なき存在である。というか、有事を前提する生活なき存在の平時における生活という相克を幾度も描いた作家が藤沢周平であった。少なくとも、山田洋次の凝視した藤沢周平であった。「武士の一分」ということ。


廃刀令、期を同じくして敷かれた徴兵制と警察機構、その歴史的な意味と帰結を、了解して言っているわけですか上記の執筆子は。貴公の言っていることは、全米ライフル協会の公式見解と相似している。そして日本は近代化に際して廃刀しました。


ゆえに、公然と刀を所持し抜き身を見せつけ時に振り回す存在をこそ、所詮無力な言論をもってであれ戒めるべきであって、廃刀した近代社会に準ずる堅気たる生活者に責めを負わせてどうする。電車男を引き合いに出して「卑劣」とするのは結構なことであるが「立ち向かえ」「自らが止めろ」とか言いたいのであれば、ふざけんな、とうんこを投げつけておく。


「自分ならどうするか/どうしたか」ということの言明を棚上げして、それこそ見ず知らずの他人の「モラル」を云々することの卑劣というか最低を、良識ある私は知るところなので、結局のところ手前味噌な思考実験でしかないが、書いてはおく(倫理とは一義に自己において問われる。前提において自己を捨象ないしクォーティションに括って問われる倫理は、ない)。


とうに廃刀し身体も綻び破れ錆びついた私が、仮に報じられてあるような状況の現場に居合わせたなら。公徳心の欠如した人でなしの私は基本は我関せずであるけれども。とはいえこの状況は目に余ると思う。被害者は21歳。端的に言って可哀相だ。


相手の体格にもよるとはいえ、刃物持っていようがいまいが(持ち合わせている蓋然は高い。その意味でも、経験と知見なき者は一目瞭然の危険人物に喧嘩を売るべきではない。唐突なグサリは本当にこわい。それをやるのが、かつての私を含めた、既知外の既知外たる所以であり、ガキのガキたる所以。私が結果的に他人を刺すにも他人に刺されるにも至ることのなかったのは、それこそ日本あるいは東京が諸外国のストリートの状況と比して相対的には平和であったからに過ぎない)、直接に肉体的に衝突したらサシなら2秒で負ける。


車掌に報告した後(ケースバイケース、というか人にもよるが、プロフェッショナルな対応を示し得ないとはまず言えない)、周囲に凄んでみせている男に正面から怒鳴りつけて注意を逸らすくらいしかできないのではないかな。うまくいったとして、被害者を他の車両に逃がすくらいしか。でもそれは、身を挺するということと同義である。


私は昔から、スイッチオンとして有事体制にシフトする体質ではない。耳もいささか遠いので、反応がどこかしら壊れている。目的のために、無用に冷静に対応することしかできない。麻痺しているというのはそういうことで、麻痺しっ放してもいるのだ。男が目に見えて暴れ始めたら、流石に他の乗客は、ことに男衆は動く。相手が単身でバックなきゴロツキであること明白なら――という条件付であるけれども。


そのくらいしか、私としては後付の岡目八目では言えない。書いているうちに、我が身を来歴含めて色々と省みてしまった。


――本当は。


はてなブックマーク - 乗客責めても何もいい方向に向かわないと思うが? - NC-15


上記の元エントリにおけるmuffdivingさんの見解に全面的に同意!とすれば、あるいは私の意は尽きる(「そこまでぶっ壊れてるか、相当腕に自信があるか、自分の命を紙屑と同じぐらいに考えないとキチガイを止めることはできないんだよ。」――本件をめぐる心掛かりのあった事項について明確に指摘したうえに言い切ってくださって、勝手ながら切に御礼を申し上げます、有難うございます)。私の書いていることは屋上屋かも知れない。


ただ、こういったことは複数の立場、ことに肉体的な暴力一般に対する意見ある側のそれから見解を示しておくべきと考えたゆえ、遅ればせながら私もエントリを掲示します。J-CASTの執筆子にうんこを投げておく意味も込めて。つか暴力云々以前に、単純に知的に不見識だよ、記者様。


最後に。内藤朝雄さんの、素晴らしい良い記事についても、全面的に同意!の意を込めてTBを送らせていただきます(上記に直リンしないのは、一般論としての記述とはいえ、muffdivingさんの繊細な記事に対して失礼とも言える内容が、私のエントリに記されてあることを知っているためです)。


http://d.hatena.ne.jp/suuuuhi/20070422